28 ◆◆◆

 バンが燃え始めてしまった。発火の原因になるようなものは車内になかったはずだが、理由を詮索しても仕方がない。銃撃も激しくなり、おまけに火まで出たとなれば、運転手らの生死を確認できる可能性は極めて低くなった。大きめのボストンバッグを左肩に提げ、もう一つのボストンバッグを右手に持ち、軍帽を目深に被った護送対象。彼を引き連れてバンの陰を飛び出した途端、バンはますます激しく燃え上がった。弾薬の装填と見られるわずかな射撃数の低下を感じ取っての行動だったが、夜明け前の薄闇で敵もこちらの位置を完全には捕捉していないらしく、無事に離れることができた。
 片側二車線の高架橋の左車線を走っていたバンが襲撃されたのは、対向車線からだった。横腹からの射撃を受け続け、タイヤがパンクしたバンは、運転手の力量によって平衡を保ち続けた。最後に対向車線側へ天井を向けて横転したときには、敵の射撃からのバリケードになった。おかげで、横転の直前、咄嗟に護送対象の腕を掴んで飛び降りたサラと、護送対象、それにその後に続いた櫻井だけ、生き残ることができた。
 護送は、ほとんどの味方にも秘匿で行われた。祖父は、血縁者である自分にすら護送対象の立場や名前を隠しているが、情報の漏洩という万が一の事態も頭をよぎった。だが、中央分離帯を挟んでの攻撃は、敵も護送情報を掴んで備えていたわけではないことを、教えてくれた。わざわざ遠くからの不正確な射撃を行った理由で考えられるのは一つ。巡回中にとりあえず撃った、それだけだ。ならばまだ、戦いようはある。
 膝くらいまでの高さのコンクリートで造られた中央分離帯に少しでも体が隠れるよう、腰を屈めて走りながら、サラは櫻井からハンカチを受け取り、半分に折ってから額にあて、後頭部で固結びにした。少し、血が流れ落ちてくる速度が緩やかになった。この傷は、走行中の車から護送対象を抱えて飛び降りた際、どこかでしたたかに頭を打ちつけ、出来た。血が出ているから、内部への損傷はそれほどではない……はずだ。怖いのは内出血、という素人医学的な考え方で、心許ない気はするが。
 敵の銃弾がこちらを追い立て始めた。僅かでも緊張を緩めたら最後だ。敵の乗ってきた四駆車輌はまだ走れる状態で残っている。敵が冷静になれば、すぐにでも、気付くはず。
 そしてそれほど間を置かずに、エンジンの駆動音が聞こえた。
「サラ、どうしますか」
「走るしかないです。救援要請は出したんですから」
「死ぬときは一緒、ですか。そういうのもなかなか風情がありますね」
「くだらないことを言ってないで走ってください」
 この事件の解決に専念するため、卒業年次で高校を中退した。そんな自分が生き残ったところで、確かな未来が保証されているわけではないが……死にたくは、ない。
「失礼ながら……。闇雲に走っても追いつかれるだけでは。車を迎撃したほうが、良いと思います」
 護送対象が、初めて口を開いた。どこか自信なさげだが、よく通る声だ。
「止まれば撃たれます」
「敵は十キロで走らせるだけでも我々と同等です。どちらがより腕にかかる振動が少なく射撃の精度が高いかは、直感的に考えても分かるはず」
「それは、そうですけど……」
 護送対象が、最後の手段とばかりに、立ち止まってしまった。放り出していくわけにもいかない。
「仕方ない。櫻井さん、敵は私たちの姿を捕捉できていません。小銃の銃把をコンクリートの上で固定してください。合図をしたら同時に撃ちます」
 すぐに車が、追いついてきた。
「撃って!」
 かけ声と同時に、車のライトのやや上に向けて銃弾の嵐を叩き込んだ。しかし大きな四駆は走っていると言うよりは、惰性で進み続けているように見えた。
「乗組員がいません!」
 櫻井が怒鳴った。サラは、今いる場所がなだらかな斜面に入っていることに気付いた。敵は、サイドブレーキを外しただけだ。四駆の陰から、三人の男がそれぞれの方向から姿を現した。サラは考えるともなしに、中央分離帯の陰に身を伏せた。銃弾が跳ねる音が、間近で弾けた。
 男たちが駆け寄る気配がする。上から撃たれたら終わりだ、だが銃を構え直している暇はない――。
「34557!」
 誰かが、ドイツ語で数字を叫んだ。サラは、誰が発した言葉か考えないまま、右肩の上部に銃口を載せ、小銃を抱きかかえるようにして、引き金に親指を引っかけた。同時に、至近で鳴らしてしまった小銃の射撃音が聞いたこともないような轟音と化して右耳を貫き、すぐに機能を停止させた。射撃の反動で銃口がずれ、自分の首や頭を撃ったりしないように、暴れる小銃を必死に制御する。生暖かいものがうなじの辺りにかかったところで、親指を銃から離した。
 すぐに後ろを振り返ると、体のあちこちを破砕された男がこちらに倒れ込んでくるところだった。避けることもできずに無様に受け止める。自警団の制服の隙間から、胸元や背中へ、多量の血が流れ込んでくる。今自分の心臓が目いっぱいの力で全身に運んでいる量と、どちらが多いだろう。
「全員、死にましたね」
 暗闇に目が慣れてきているので、護送対象の男が、真横に立っているのはわかった。彼が、被っていた軍帽を取り去っていることも。
「サラ、こいつ、この男っ……!」
 奥にいる櫻井が、気色ばんだ声を上げた。気色ばんでいるからそれなりの音量なのだろうが、音が小さく、遠い。そしてたった今、かろうじて生きながらえたサラには、櫻井の言い回しに疑問を持つ余裕はなかった。単純な疑問が、頭を支配する。
「どうして、全員無事なんでしょうか? 敵も三人残っていたのに」
 サラは、どうにか死体を中央分離帯の向こうに押し返し、訊いた。
「数字です」
「ごめんなさい、もう一度お願いします。いまそっち側の……右耳が聞こえなくて」
 左耳を、護送対象へ向ける。
「数字です。各地に散らばるROT殲滅部隊が、味方を判断しかねた場合に使います。アナログですが、合い言葉みたいなものです。二十分ごとに変わるので、今のは少し、自信がなかったんですけど。合っていたみたいで、敵が一瞬動きを止めて、そちらの護衛の方が、二人とも、倒してくれました」
「なぜそれを貴方が……」
「私が提案した方法だからです」
「サラ、下がって! フレート・グレーナー! こいつ、フレート・グレーナーですよ!」
 サラはその、軍帽を取った二十代後半の男の顔を改めて観察し、すぐに小銃に手を伸ばした。
「落ち着いてください、私は、もう、敵ではありません」
 護送対象――フレート・グレーナー。メルヒオル・グレーナーの五男で、末子。ROTを、民間人、自警団、排他、同化問わず、殺し続けている敵実行部隊の隊長。産まれた病院から日本に留学していた時期まで、経歴を暗唱できるほどに憎悪を刻みつけた名前。
「なん、で、何で、あんたがっ!」
「私はロルフ・ルジツカ会長の要請を受け、ROTを救う情報をお持ちしました」
「誰が、お前の話なんか、信じる!」
 小銃の銃口をフレートへ向け、引き金に、指をかける。フレートは一歩、後ずさった。
「早まらないでください。このバッグには全てが詰まっています。メルヒオルの肉声命令、奴の指紋がついた命令書、自治区抹消計画の細部に至るデータ……。書類以外には万全のセキュリティを施し、私しか開けることができないようになっています。これだけ奪っても無駄です。もし強引に最先端の技術で解析しようとしても、解析が終わる頃にはROTの五割が死滅している可能性もあります」
「そんなの、どうやって証明……」
「敵が来てます」
 小銃の引き金に指を掛けたまま、目だけで、フレートの指差した方を見遣った。まだ太陽は出ておらず、陰影しか見えなかったが、ここは敵の支配が及んでいる地域で、見える人影は全て敵だと思え、と言われていた。無理をしてでも通り抜けなければならない、唯一の難関だった。
 右耳の分だけ、足音に気付くのが遅れた。櫻井が素早く反応し、小銃を放ち始めていた。遮蔽物がない戦闘に、突入しそうだった。それならば、人数の多いほう、恐らく敵が有利だ。サラは、先程の戦闘でライトを粉々に粉砕した四駆が、ゆるやかに下り続けている様子を視界の左端に捉えた。
「四駆に!」
 サラが叫ぶと同時に、射撃を続ける櫻井が中央分離帯を飛び越えた。サラも、フレートも、続く。しかし乗り込もうとした四駆は、敵の集中砲火を浴び、簡単に走行不能の様相になった。せめて四駆の陰に入ろうとすると、足元を叩いた銃弾がそれを遮った。サラは舌打ちして再び中央分離帯を跨ぎ、元の位置に戻った。櫻井のカバーしきれない範囲へ射撃を始める。
「平行射撃が可能になる場所まで来させては駄目です。敵は七人いるので確実に殺されます」
 当然の事を少しも焦りのない様子で、しかも敵の部隊長に告げられ、頭に血が昇っていくのを感じた。しかし、それでも、ヴェルナーに怒りをぶつけた時のように、自分の意識が制御できない、というほどではない。あの時の昂りは相当なものだったんだと、こんな場面で再認識した。
 斜面があり、見通しが良いので今のところはこちらが有利なはずだが、敵は、こちらの死角を縫うように、するりするりと、前進してくる。不気味なほど、静かに、確実に。
「弾倉交換」
「了解」
 櫻井が弾倉の再装填を始めた。途端に、櫻井の射界にいた敵が一息に距離を詰めた。そちらに射撃を集中させ後退させると、今度はサラの射界に居た敵が前進した。銃弾が空を切る音が間近になった。そこで、サラの弾倉も空になった。
「十メートル後退。弾倉交換」
「了解」
 下がりながら、バックパックに手を伸ばす。敵が近づいてくる。するする、するする。敵は、七人。こちらは、戦闘可能が二人。櫻井の弾倉交換が終わり、射撃が再開されるが、敵はまた少し近づいてきた。バックパックから弾倉を取り出す。空になった弾倉を外す。この場における唯一の遮蔽物、四駆が目に入る。どちらかというと、今は敵側に近い。焦りが、震えとなって指先に伝わる。早く射撃を再開しなければ。しかし焦れば焦るほど、指先の震えは増した。そしてサラが交換用の弾倉を取り落とすと、敵は一斉に走り出した。
「サラ、早く!」
 弾倉がようやく手につき、交換が終了した。射撃。一人に当たる。しかし一人だけだ。残りは全員、四駆の陰に到達した。
「後退!」
「間に合わない」
 サラの言葉に対し、櫻井が呟いた。四駆の陰から六つの銃口が、伸びた。すぐに体を落とした。一斉に銃火が閃いた。またもや、中央分離帯に命を救われた。
 いつでも反撃できるよう引き金に指は掛かっているが、射撃が激しく、身じろぎすらできない。今度の敵は、勝負を急がなかった。ここは敵の支配下にある。応援が来るまでサラたちをここに縛り付けておけば、銃弾以外一切の損害なく、確実に殺害できるからだ。更に七人が増え、十四人にでもなったら、もう、終わり。そうなる前に動きたいが、弾幕がそれを阻む。
 今頃敵は、負傷した兵士を四駆の陰に引っ張り込み、治療を施しているだろう。目だけを動かして、車道を見遣る。すると、櫻井が目に入った。櫻井は、初め、匍匐しているように見えた。しかし、櫻井は、匍匐ではなく、仰臥していた。
「櫻井さん!」
 どうせ敵に位置は捕捉されている。叫んだ。
「櫻井さん! 生きてますか! 返事を!」
 自分が弾倉の装填に手間取ったのが、四駆に陣取られた原因。情けない声になったのが、自分でも分かった。
「あー……。生きてます、なんとか。右肩撃たれて、少し、気が遠くなってました」
 間延びした声が聞こえ、サラは体から力が抜けそうになった。しかし六つの銃口がこちらを向いていることに、変わりはない。こちらを中央分離帯へ縛り付けるための射撃が収まったのを感じ、銃の先を少し出そうとしただけで、牽制の弾が飛んできた。迂回してサラか櫻井の射界に入れば、一人くらいは道連れにしてやるのに。敵は、安全地帯に閉じこもってしまった。飛び出しても無駄死に、敵の増援の到着を待っていても無駄死に。どうすることも……。
 ……だが、そう、例え死んだとしても。それが、無駄死にでなければいい。自分が生き残ることが前提だから、打開できないのだ。要は、フレートを逃がせばいいだけの話。それならばすぐに浮かぶ。
 高架橋は、バンが転倒し、バリケードになっていた位置で確認した時には、飛び降りるには少し高かったが、今この斜面に差し掛かった場所では、さほど高くはないはず。バンが通ってきた距離で頭の中に想像図を描くと、最高でも地上二階くらいの高さになった。それなら、打ちどころがよほど悪くなければ、大丈夫だ。自分が突発的な行動を起こして銃撃の砲火を浴びて、その隙に他の二人が高架橋から飛び降りる。それならば、逃げられる。
 サラは、軽く笑んだ。運転手に加え、自分と櫻井以外の二人の護衛を車内に置き去りにしておいて、自分がまだ生きようとしていたことが、なんだか可笑しかった。
「フレート。部下に、日本語を解釈できる者は何人いる?」
「いません。私だけです」
「では、櫻井さんも、聞いてください。私のバックパックに、手榴弾が一つ、入っています。念のため貰っておいたものです。それを私の合図で投げつけるので、爆発と同時に中央分離帯から離れ、高架橋から飛び降りてください。もうこれしか、打開する方法が思い付きません」
「了解」
「分かりました」
 二人分の返事が、聞こえた。サラは小銃をぎゅっと抱き締めた。
 祖父に服従を強いられた幽閉の日々を頭に思い浮かべよう。あれが思い浮かべば、きっと、死への踏ん切りがつく。生への諦めがつく。
 そう考え、最悪な一日を思い返そうとしていると、なぜだか、言いようのない、烈しい感情が胸の中に渦巻いた。
 その感情に対して弁解するように、心中で呟く。……これは違う。自殺なんかじゃない。二人を生かして、一人が死ぬ。それだけだ。
 感傷を振り払おうとしたすぐ後に浮かんだのは、昔、ヴェルナーと会話した場面だった。

 いつものように来ない両親の代わりに、ヴェルナーが、中学校の体育祭を見に来てくれた時のことだ。そのとき自分は三年生で、個人種目では、リレーや徒競争などに出ていた。出た四種目すべてで一位を取った。アンカーを任されたリレーでは、最下位から五人を抜いて優勝した。クラスも、全学年十八クラスの中で一位を取り、総合優勝を果たした。しかし何の感慨もなかった。表彰式の後、クラスごとに用意され休憩場所を兼ねる椅子置き場、その時には誰ひとり座っていなかった椅子置き場で、ぼうっとみんなの喜ぶ様子を眺めていた。輪の中に、居場所はなかった。
 そこでヴェルナーが声を掛けてきた。保護者でもない人間が勝手にうろついていい場所ではなかったが、注意はしなかった。朝からずっと見ていてくれ、昼休憩では、弁当を用意して、一緒に食べてくれた。そんな人に、細かい注意をしたくはなかった。
『嬉しくなさそうだな』
 ヴェルナーは、サラから右へひとつ離れた椅子に、座った。夕暮れ時だった。ヴェルナーの横顔の先では、沈みかけた太陽が、最後の足掻きで地平を灼熱色に照らしていた。
『そうかな』
『ああ。仏頂面してる。けど、サラ、やっぱりすごいよ。体のバネが女とは思えない。高校行ったら、何か、部活入れば?』
『興味、ない』
『どうして』
『興味ない。何にも。何をしてても面白くない。どうでもいい。絵里は私を見捨てて、嫌なことは私に全部押し付けて、出て行った。おじいさんは、いつも私を、物扱いする。お父さんは、おじいさんのご機嫌伺いに忙しい。お母さんは、そんなお父さんに嫌気がさして、出て行った。でも、そんなことも、どうでもいいの』
『俺と話してるのも、どうでもいい、か?』
 ヴェルナーが、椅子から立ち上がった。
『帰ろう。リースで少し、休んでけよ。最近、新メニュー、追加したんだ。サラの好きな、チーズケーキ』
『え、でも、まだ、片付け……』
『いいから』
 手首を掴んで強引に引っ張られ、教員がいるテントまで連れて行かれた。
『保護者の代理で来た、ヴェルナー・リースです。サラが熱を出したみたいなので、連れて帰ります。後片付けに参加できず、申し訳ありません』
 ヴェルナーにとっては縁もゆかりもない、サラの担任教師に、彼は、頭を下げた。
『あ、これは、どうも。いやいや、今日はルジツカがいなかったら勝ててなかったですから。片付けと言っても、すぐに終わるものなので、ご安心を。熱が出たのなら、休ませてあげてください』
『そうですか、ご迷惑をおかけします』
 ヴェルナーはもう一度頭を下げ、そのまま、歩き出した。手を引かれるまま、サラも、担任に軽く会釈をした。
 しばらく黙って歩き、駐車場が見えてきた所だった。ヴェルナーが突然、立ち止まった。手首を解放してくれるのかと思ったが、そうではなかった。
『……チーズケーキ、好きだよな?』
 不安げに、こちらを見下ろす赤い眼は、今でも、覚えている。そこで自分は軽く笑い、手首を掴んだままのヴェルナーの手を振り払って、直接、手を繋いだ。
 本当は、チーズケーキが好きだなんて言ったことは一度もない。乳製品を使った食べ物全般が、苦手だった。
 でもその時の自分は、簡単に嘘をつけた。
『大好き』
 駐車場に停めてある車まで、ほんの少しの距離、手を繋いだだけの、思い出。

 それなのになぜか、涙が出てきた。悲しいからではない。
 怖い。死ぬのが、怖い。
 ……だが、自分は、護送対象を、屋敷まで死なせずに送り届けるよう、命令された、祖父の所有物だ。
 選択の余地はない。ここで死に絶え、護送対象を守る。それが天分だ。


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