29 ◆

 土地勘のない人間には警戒が難しい道を通り、無傷でサラたちの近くまで辿りつくことが出来た。バンは、高架橋と通常幹線道路の、幹線道路側に停車させている。高架橋の壁が遮蔽物となって敵からは見えない。バンの外では、森が暗視ゴーグルを使って敵の位置を確認していて、絵里がその隣で何事か話しかけている。安島はバンの上で狙撃すると言って、外に出た。ルームミラーに映るコルネリエは、ヴェルナーの後ろの席で、絵里に教えられた通り、拳銃の照準を合わせる練習をしている。ヴェルナーは運転席でハンドルにもたれ、薄闇でぼんやりとした輪郭の絵里の横顔を眺めていた。
 ふと絵里が、こちらに視線を合わせた。一瞬、何か悪いことをしたような心持ちになったが、絵里は気にした様子もなく助手席側の窓を叩いた。窓を開けると、絵里が携帯電話を渡してきた。
「サラに、電話して。今から救援に向かうけど、私たちと同じ車線の三人の方があんたらでいいのか、って。あと、合ってるなら、敵のいる方面に一斉に撃つから、それと同時に高架橋から飛び降りろ、が安島の命令」
 絵里が掛ければいいと思ったが、特に断る理由もない。いつも非通知で掛けてくるサラの電話番号が、絵里の携帯電話には入っていたので、そのまま借りた。
「あ、サラ。じいさんの命令で、救援しにきて、今、着いた。森と安島が暗視ゴーグルで何人かの光源を捉えてるらしい。三人固まってる方が、サラたちで合ってるか?」
「うん……合ってる」
「なんか、声、変だな。大丈夫?」
「平気。いま、どこにいるの?」
「敵の後ろのほう。まだ遠いけど。サラのいる場所、斜面になってるだろ? そこを下ったところの、幹線道路側にいる。敵のいる方面に一斉に撃つから、それと同時に高架橋から飛び降りろ、っていうのが、安島の命令らしい」
「分かった」
「じゃあ、飛び降りた先で回収するから。頑張れよ」
「あ、ヴェルナー……」
「ん?」
「ありがとう」
 電話が切れた。サラの声が、変にかすれていた。なぜだか、少し、泣いていたようにも感じられる声音……。
「どうだった?」
 絵里に訊かれ、その疑問は霧散した。携帯電話を返しながら、三人のほうで合っていることを告げた。
「ヴェルナー、エンジンかけて、アクセルに足乗せとけ。コルネリエ、両側のドアを開けといて」
 絵里は助手席の扉を開けた。ヴェルナーも言われた通り、キーを回し、アクセルペダルに足を乗せた。コルネリエも、両側のスライドドアをそれぞれ開け放しにした。
「始める。俺が撃ったら森とアニも一斉に撃て。とにかく反撃の余裕を与えず、敵兵士を張り付けるだけでいい。俺は危険な動きを取った連中だけ狙う」
 そのすぐ後で、射撃音が聞こえた。ヴェルナーは何の実感もないまま、銃撃戦に突入した外の様子を伺う。間髪置かず、絵里と森が引き上げてきた。
「出せ」
 加速の時点で絵里が助手席、森が後部座席に飛び乗り、安島がバンの上から足と狙撃銃を先に車内に戻し、それから体全体を入り込ませた。安島と森は代わるがわるに立ち、後ろの荷物置き場に体を寄せた。バンのため、荷物置き場は人二人が乗っても余裕がある。ヴェルナーはバンの速度装置が百三十キロを示したところでアクセルから足を離し、ブレーキを優しく踏み込みつつ、緩やかに減速させた。
「いた!」
 安島が怒鳴り、バックドアを開け、射撃体制を取る。ヴェルナーはすぐにブレーキを踏み込んだ。スライドドアを開け放した後部座席に、サラと、知らない男二人が入ってくるのを認めた。
 三人乗りで精一杯のスペースに無理に体を押し込んだうちの誰かが、スライドドアを閉め、それを合図に、ヴェルナーは車を再度加速させた。
 コルネリエの見舞いに行く際によく通った道で、方向感覚は掴めている。時折敵の車を見つける絵里や安島の指示を聞いて入り込んだ路地から路地へ、高速道路でも許されない速度で突っ切る。
「速度計、無茶苦茶だよ、お前……。事故るなよ?」
 森から暗視ゴーグルを借りているらしい絵里が、隣で、ひとり言ちた。八人分の体重を利用し、ブレーキをかけずに、対向車線へ大きくはみ出してカーブを曲がった。
 幹線道路に戻り、もうすぐ危険地帯は抜ける、という所まで来ても、走っている車両はほとんど見あたらない。これが時間帯によるもので、虐殺と関連性がないことを祈った。
「自警団支配地域、到達」
 絵里の声に、ヴェルナーは速度を緩めた。
 子供をあやすように、髪がぐしゃぐしゃと撫で回された。助手席を見遣ると、暗視ゴーグルを外した絵里が澄ました顔で正面を見ていた。今のは明らかに絵里の手だ。この間会った時、子供のように頭を撫でられたことを、根に持っていたのかもしれない。
 敵の支配地域では信号を完全に無視してきたが、あと十分ほどで着くのに事故を起こしては馬鹿らしいので、信号でしっかり停まった。ヴェルナーはそこで、サラたちが乗ってきてから初めて、周りに気を配る余裕ができた。少しだけ首を曲げて後部座席を振り仰いだ。スーツ姿の男が乗り込んだのは後部座席の右側。もう一人の軍帽男が後部座席左、真ん中に座ったのがサラ。赤黒く染まったハンカチが、バンダナのような形でサラの額を覆っている。彼女の着ている自警団の制服も、返り血で汚れていた。森や安島の汚れよりもかなり酷い。サラは背もたれに寄りかかり、小銃を抱えたまま、嗚咽を伴わない静かな涙を流していた。どこか一点を見つめている。その目線の先を追うと、フロントガラスの向こうだった。微かに朝焼けが起きていた。
 ……理由は、あとで、訊こう。ちょうど、信号が青に変わった。
「で、あんたが何で護送対象なわけ」
 窓ガラスの外を油断なく警戒している絵里が、いつもの、相手を小馬鹿にしたような抑揚をつけて、言った。護送対象、と呼ばれたのは見たところ欧米系の青年だが、面識があるのだろうか。
「それについては後から詳しく話しますが……。簡単に言うと、目が覚めたんですよ。ROTの死体の山を見た瞬間にね。遅すぎると思われるかもしれませんが」
「はっ……。よく言う。さんざん殺し尽くしたくせに。そんな感傷的な理由で寝返るタマかよ」
「私は資金、装備確保、政財界への根回しなど、実務担当でした。殺しや強姦、屍姦は門外漢。たまたま、兄弟の中で日本に留学していた奇特な人間が私だけでしたので、白羽の矢が立った、それだけです」
「中心人物には変わりねぇよ。あんた、知ってる? ROT自治区は日本の法律が適応されんだよ。司法取引が存在しない上に、まだ死刑制度が残ってる。生存権を無視した奇特な法律が、ね」
「はは。奇特と言ったのが気に障ったなら謝ります。ただ、司法はともかく、取引が存在しないというのは語弊があるんじゃないでしょうか。例えば、ダッカでの日航機ハイジャックや……」
「何十年前の話だよ。それにあれは人質がいたからだ」
「私の情報も人命に代え難い価値を秘めているとは思っていますよ。しっかりと不起訴のための保険も作ってありますしね」
「……ま、あんたが死刑になろうがなるまいがどうでもいいけど。その情報が無効化した時点で殺すから。バッグ、大事に持っとけよ」
「言われずとも」
 信号のない十字路に差し掛かったところで、左右を確認しながら左折した。ここからはロルフ邸に向かう私道だ。私道に入って少し直進させると、気を抜きかけたところで、音がした。何の音だろうと見回すと、フロントガラスの上部に丸い穴が開いていた。
「伏せて!」
 サラが全員に向けて言った。もう朝焼けの時間帯で、暗視ゴーグルがなくても、肉眼で人の姿を捉えることはできた。遠くに人影を認めたヴェルナーも、アクセルを踏んだまま、ハンドルの陰に隠れた。同時にフロントガラスが、銃弾によって入ったヒビで真っ白になった。
「あれ。フロントガラスって、粉々になるんじゃねぇんだな」
 森が暢気に呟いた。
「どうする!」
 ヴェルナーは誰に言うともなしに言う。銃撃の中を突っ切る自信などないから、足はブレーキにかかり、手はバックギアを入れることに備えて動いていた。そこで、ギアにかかった自分の手の上に、誰かの手が乗せられた。
「大丈夫」
 サラだ。
「ヴェルナー、落ち着いて。敵は少数だった。蛇行しつつ前進。轢き殺すくらいのつもりで突っ切れば平気」
 頷くともなく頷き、アクセルペダルを踏み込んだ。その間に、助手席の絵里が、小銃を打撃道具として使って、視界を阻害するフロントガラスを破壊した。冷たい風が直に吹きつけてくるようになった。
「応射!」
 サラの小さな手が、離れた。サラの言葉に続いて、小銃の切っ先をフロントガラスのあった部分から突き出した絵里は、むやみやたらに連射し始めた。窓が破砕される音がした後部座席でも同じことが起こっているのか、銃声が、車内に響く音の大勢を占めた。これ程の音量だとは、想像もしていなかった。耳がどうにかなりそうだ。耳を塞ぎたい衝動を堪え、銃弾がタイヤに当たりませんようにと祈りながら、ハンドルを右へ切り左へ切り、進み続ける。
「その調子! クラクション部分よりも頭を低く!」
 射撃音の中では、生半可な怒声では到底、聞こえない。サラがヴェルナーの耳元近くで怒鳴った。未だフロントガラスを貫通する銃撃も続く中、体を伸ばしたであろうサラを気遣う余裕はない。
「衝撃に備えて!」
 また、怒声。この中で一番若いはずのサラがイニシアチブを取っていることに少々の驚きを覚えながら、ハンドルにへばりついた。後方からの衝撃とともに、車内が大きく揺れた。助手席と運転席のエアバックが作動した。エアバックとシートベルトが吸収しきれない打撃を受け、脳が揺れる。ハンドルを取られ、蛇行が酷くなったのを感じた。横転しないようにハンドルへ全体重を乗せ、引っ張られる力に抗って押し留める。
 かろうじて横転を避けることには成功したが、今度はヴェルナーの膝の上に堅い骨のような感触があった。不審に思って視線を下げると、それは、今の衝撃で前の座席へ飛ばされたらしい、サラの背中だった。背中をヴェルナーの膝の上に乗せ、だらりと首を垂れ下げたサラが、白い喉元をこちらへ見せている。右手で車体の安定を取りつつ、左手をサラの首に差し入れた。腕を使って頭を抱え上げたサラの瞼は閉じられ、額からは多量の血が流れ始めていた。
 揺さぶらずに、サラの名前を何度も呼んだが、反応がない。
「絵里! サラが頭打ったらしい! 血がかなり出てる! 意識もない!」
 シートベルトを装着していなかった絵里も、サラの声で装着が間に合ったようで、すぐに体勢を立て直していた。絵里はシートベルトを外すと何も言わずにサラの体を引っ張り寄せ、自らの体に重ねてから、そこを退いた。そして足元の狭いスペースに自らは収まり、左手で体を支えつつ、右手でサラの髪を掻きあげ、患部を探した。ヴェルナーはそこで目を切った。ロルフ邸の門が、助手席の窓から見えたからだ。ヴェルナーは急ブレーキをかけつつハンドルを左へ回した。バンは、開いた門のぎりぎりのところをかすめて邸内に進入した。
 これでサラを治療できると思った矢先、邸内にも敵の姿。こちらに銃口を向けている。銃撃。運転に違和感。
「タイヤがやられた!」
「行けるとこまで行け! ここで止まると蜂の巣だ」
 誰かが叫んだ。一旦止んだ車内からの銃撃が再開された。
 ヴェルナーは右足でアクセルをできるだけ強く踏んだが、上手く加速されず、中庭の半分も行かないうちに、見る見るうちに速度を落としていった。今ほど、この広大な敷地が恨めしいと思ったことはない。
「加速ができない!」
 ヴェルナーが叫ぶと、車内の銃声がまた消えた。
「さっき敵の車がぶつかってきたせいで、バックドアが開かなくなってる。有効な支援はできない、悪運に賭けろ!」
 安島の怒鳴り声に反応し、絵里が一番先に飛び降りた。速度計では、もう二十キロぐらいしか出ていない。ヴェルナーは、シートベルトを外しつつ、ブレーキを踏んだ。続いてスーツの男、森、安島、コルネリエ。護送対象は最後に降りた。
 ヴェルナーは、足元に置いた拳銃は取らず、サラを抱き寄せた。気絶している人間を抱え上げるのには無理な姿勢だったが、普段では考えられないような力が出て、そのままサラを車外へと連れ出せた。運転席側に回った絵里とコルネリエが、目の前で牽制の弾幕を張ってくれていた。コルネリエの銃撃姿勢は、素人目には意外としっかりしていて、射撃の反動にも対処できている。邸内入口にある階段の手前には、出る時にはなかった車が三台横並びになっていて、バリケード代わりとして扱われていた。そこから、ロルフの部下が支援の弾幕を伸ばし、「櫻井さん、こっちです!」と叫んでいる。
「分の悪い賭けだな。オッズは千倍くらいか?」
 絵里が軽口を言ったが、その顔はにこりともしていない。ヴェルナーは一旦サラを地面に下ろし、コルネリエに手伝いを頼んで背負わせてもらった。ぐったりとしたサラを背負い直し、それから邸内入口までの短距離走のスタートを切った。絵里もコルネリエも、続く。櫻井と呼ばれた男は、護送対象の腕を引きながら周囲を警戒。その櫻井の周りを固める森と安島が敵の銃撃へ反撃しつつ、邸内を目指している。
 口を開けて酸素を取り込みながら、とにかく全力で走った。邸内入口までは直線で、それだけに敵もついてきやすい。何度か銃弾が足元をかすめていった。肩にしなだれかかっているサラに、目を覚ます気配はない。運転だけで精一杯の自分に、サラを助けることができたなどと、思い上がるつもりはなかった。今は一刻も早く邸内へ辿りつき、サラに治療を受けさせることだ。半年分。半年分、話したいことが、ある。サラもきっと、あるはずだ。そうであって欲しい。けれど半年分の雑談をするには、遠い、二百メートル弱。
 ……百メートル走、何秒台だっけ。残りの距離が縮まって、到達までの秒数を考えた所で、踏み出した右足から、力が抜けた。そのままアスファルトに顔面を殴打しそうになり、右腕でサラの膝裏を押さえたまま、慌てて左手を突き出した。二人分の体重に突然のしかかられた左手が悲鳴を上げ、ぼきん、と冗談のような音を発した。
「ヴェルナーが撃たれた! 安島、森! 櫻井さんと護送対象はジジイの部下に任せろ! こっちに回れ!」
 撃たれたのか。うつ伏せになったヴェルナーは、力の入らない左手を突いて起き上がろうとして、激痛に喘いでまたアスファルトに伏した。
「サラは私が連れてく。お前はコルネリエに肩を借りろ」
 背中にのしかかっていた重み……温かみが退き、ヴェルナーは右手を突いて、左足を起点にするべく力を入れた。しかし右足にも力が入ってしまい、我慢のしようもない鋭い痛みに襲われ、突っ伏した。そこで、手がアスファルトと体の間に差し入れられた。もう一度、挑戦した。今度はその手のおかげで、起き上がることが出来た。
「しっかりして」
 コルネリエのつけているバニラ系の香水の匂いが、微かに漂ってきた。彼女の首にもたれかかるようにして、思い切り体重を預けながら右足を引きずり、早歩きで邸内に向かう。全力疾走のせいで大粒の汗が、左手と右足を襲う痛みのせいで冷や汗が出ていた。
 森と安島が上手く支援してくれているのか、そこからは二発目の銃弾を浴びることなく、邸内に辿りつくことが出来た。遠慮なく体重をかけていたので、体重をかけられていた方のコルネリエも邸内に着くなり倒れ込んでしまった。靴は脱がなくていい、とサラに何度も注意された玄関で、自分とコルネリエの激しい呼吸音が響く。櫻井と呼ばれていたスーツの男と護衛対象は、先に着いていた。
「あーだりぃ、こいつらホント使えねぇ」
「彼の運転がなければもっと被害は広がっていた。コルネリエさんも、敵への牽制の有効弾数ではお前を上回っていた」
「はい、隊長、訂正します。使えないのは会長の御令嬢、かっこ妹かっこ閉じ、だけでした」
「何言ってんの? 私の妹のほうが、お前より数倍有能だろうが」
 ヴェルナーとコルネリエに続いて、サラを伴った絵里と、森と、安島も玄関に到達したらしいことが、言葉の掛け合いで分かった。
「負傷者三名! 担架二つ!」
 少しだけ顔を上げた。明るい所でしっかり見ると、櫻井も右肩を怪我していた。彼の怒鳴り声が、邸内に響いた。


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