一九一八年七月二十四日
ROT殲滅戦《進軍遅滞。作戦に支障あり》

 クラウスに別れを告げ、最終的な作戦の確認を終えた場で、ティナは、ライナルトとルーファスの二人に頭を下げた。
「ライナルトさん、ルーファスさん。本当に、ありがとうございます」
「私達は師団長の命令を受けただけです」
「それでも、ありがとう、ですよ」
 顔をひきつらせることなく、笑えた。
 敵を前にして、震えが止まらない。そんな不安は薄れ、いつもの落ち着きが戻ってきていた。
「あ、あと、もうひとつ。もし私が討ち死にした場合は、お二人だけで副大隊長の部隊に合流して、スイスを目指してください」
「縁起でもないこと言わないでください。それに……スイス? 住民の避難は、最南端のロクナ村までと聞きましたが? スイスは“永世”中立国です、戦時下での他国軍の進入を受け入れるとはとても思えません」
「よく考えたんですが、ロクナ村まででは駄目ですね。やはり、ドイツ軍から逃れるなら国外です。あと、スイスは通過するだけですよ。そこからさらに南下して、連合国側に寝返ったイタリアの領内も通過、東アジアに向かうんです」
「東アジア? しかしビザや船の手配は……」
「手配の方法はお任せします。まあ、私が死ななければいい話ですから、そこは後で考えてください。中国大陸は現在無政府状態と聞きます、地方にばらければ許可がなくとも居住地を探せる可能性が高いです。とにかく今はドイツの影響下から逃げるしかない。なるようにしかなりません」
 ティナは語尾を断定口調にして、反論を封じた。
 少し雰囲気が悪くなった所で、ルーファスが大きく伸びをした。
「これが終わったら、また、招待してくださいよ。リース中佐のお母様の料理は何度でも食べたいです」
 ここで、家族はスイスに向けて逃げている最中だから無理だ、と本当のことを言っても仕方ない。
「そうですね。また、招待しますよ。今度は、落ち着いて食べられるようにしておきます。その時は、私も何か作ろうかな」
「食べ方は汚いけど、料理は上手いですからね」
 一言余計だ、という意味を込めてエヴァルトを一瞥した。
「行きましょうか。お二人に神のご加護がありますように」
 目を閉じ、十字を切って見せた。 
「ティナ様は無宗教でしょう」
 エヴァルトが零す。
「まあね」
 目を開け、呆れ顔のエヴァルトを見た後、ティナはライナルトに近づいた。右手を差し出し、強く握った。緊張で、お互いに冷えている手を離し、次はルーファスにも、同じように、右手を差し出し、強く握る。ルーファスの手は、温かかった。いつも通り、ということだろう。
 二人は、馬に乗り込み、それぞれの持ち場へ走っていった。ティナの率いる四百名の騎兵は、最初は待機。砲撃がグレーナー将軍を仕留めきれなかった場合、居場所まで一直線に走り、殺害を図る。退路を含めた戦場の総合的な指揮を執るのは、ライナルトの薦めを受け入れ、ルーファス。ライナルトは、砲撃があった際に反転し、ティナの部隊と共にグレーナー将軍を狙い、目的を達したらすぐにルーファスの軍と合流する。
 山のふもとの東端、少し歩けばドイツ軍の視界に入る場所に集合した、第一大隊の面々を見回す。士気の高さを示す様相は微塵も見あたらない。どの顔も虚空を見つめ、生気のない瞳で、ひたすら何かを呟いている者も在る。途中で帰陣した連中の艶々とした横顔とは大違いだ。だがその姿は、ティナの瞳には頼もしく映った。これから戦場に赴こうというのに、目を輝かせているような部隊は、高揚した気分に身を任せて、大きな失策を犯しかねない。
 ヴェルナーに乗り込むと、既に自身の馬に跨っていたエヴァルトが、馬を寄せてきた。
「クラウスは、なんて言ってました?」
「指揮官だから、死んじゃ駄目。そう言ってたよ」
「へえ。案外、落ち着いてたんですね。あいつ、泣き上戸だから、もっと酷いことになってるかと思いましたよ」
「そうだね。……エヴァルトは、なんて言ってくれるの?」
「あなたを守ります。命に代えても」
 ティナはエヴァルトから顔を背けた。自分から水を向けておいて、また顔の紅潮を繰り返しそうになった。危ない。
「こんな感じでどうですか」
「い、いいんじゃない?」
「もしかして、照れてます?」
「うるさい」
 ヴェルナーを歩かせ、エヴァルトの馬から少し先に進んだ。
 母親、クラウス、エヴァルト、エヴァルトの妹。死なないでほしいと、少なくとも、四人には思われているらしい。結果を残したうえで自分が死ぬのは、そこまで怖くない。ないと思う。しかし、自分が死んだら悲しむ人間がいるというのは、困る。息苦しい。突き詰めて考えてしまうと、ライナルトとルーファスの参戦で拭えたはずの不安に呑まれ、感情の制御機能が動作不良を起こしそうだった。
 努力は、しよう。出来るだけ、死なないように。
 そこで何の前触れもなく、砲撃の音が、響いた。一発二発三発四発五発六発七発八発……。配備された全ての迫撃砲から弾丸が射出されているような、轟音。
「早いですね。もう見つけたようです」
 エヴァルトが言い、ティナは頷く。横は十、縦は四十の密集隊列を組んだ四百騎の最後尾まで響き渡るような大声で、命令を発した。
「これより、砲弾の着弾地点に向かう!」
 この砲撃で敵指揮官が死んでいればいいが、迫撃砲の命中精度は信用できない。そう上手くはいかないはずだ。
 ヴェルナーを駆り、山のふもとの東端を抜け、ドイツ軍の横腹に躍り出た。ドイツ兵は完全に油断していたが、動きのいい兵士たちはすぐに小銃を構えた。四方八方からの銃撃を受け始めた騎兵が、隊列の間隔を少し広げた。ティナはその中心を走ることになっていた。やや速度を緩め、予定通りの中心に、エヴァルトと共に収まる。
 大砲の命中精度には絶対の自信を持つドイツ兵も、さすがに味方が間隙なく集っている場所に向けては、撃てない。
「エヴァルト、ちゃんと覚えてる? 輪郭が四角くて髭面で馬に乗ってる兵士ね!」
 ティナはそう言いながら、軍刀を引き抜き、構えた。手綱は左手だけで握る。安全運転の車よりは速い速度で走る馬に乗っていると、ともすれば、ドイツ兵は景色になりかねない。そのため、グレーナー将軍を見逃さないことに、最大の集中力を使わなければならなかった。
「確実に殺します」
 エヴァルトも軍刀を引き抜き、刃先で馬を傷つけないよう、手首を斜めに倒した。
 最初の死亡者が出たのはすぐだった。大砲に取り付くのをやめ、テナン川への前進をやめ、塹壕を掘るのをやめたドイツ兵らが、次々に銃を構え、先頭を走るROT兵に射線を集中させ始めたのだ。
 前方を迫撃砲と軽機関銃の掃射が、右側面をルーファスの部隊が、後方をライナルトの部隊が援護してくれてはいるが、銃弾の数は圧倒的だった。馬が、次々に倒れた。後に続く騎馬兵は、その馬を避け、あるいはその馬の上を飛び越えて行く。
「砲弾の着弾跡を視認っ!」
 無数の銃声に紛れ、前方から必死の声が飛ぶ。
 銃弾が途切れなく襲いかかってくる。今はまだ走っているから当たりにくい。
 だが、ここからだ。死人が、加速度的に増えて行くのは。
「全軍、付近を周回しつつ敵指揮官を探せ! 決して止まるな!」
 前もって指示してあった通り、砲弾の着弾跡を囲むようにして、騎馬の円環が広がり始めた。さながらメリーゴーランドのように。遊園地にある回転木馬と違うのは、乗客が敵軍を馬で蹴り、軍刀で斬りつけ、見物客は総じて銃を構えていることか。ここでは、連射式のライフルで、馬を殺し、馬上の人々を殺すことが主な目的とされている。
「円環みっつ!」
 見つからないと見るや、ティナは、そのいびつな楕円形を更に三つに分けるように指示した。
 無数の騎馬に轢かれて見るに堪えなくなったドイツ兵、馬が撃たれて落馬し味方の騎馬に蹴り殺されたROT兵、騎乗している兵士の軍刀に刺し貫かれたドイツ兵、銃撃を頭部に受けて即死したROT兵。グレーナー将軍を探しつつも、視界に入ってくる、死。目が回るような速度で円環を維持しながら、めまぐるしいスピードで人が死ぬ。
 直線的な動きでないぶん、狙いをつけにくく、ドイツ兵が向こう側に居るドイツ兵を誤射してしまうことも起きたりした。だが敵軍の真っただ中に居ることに変わりはなく、この円環も長くは持たない。早く見つけないと、四百もの騎兵が全滅してしまう。
「見つけました!」
 必死に探していると、前を走っていたエヴァルトが円環から抜け出した。ティナも慌てて追従し、三つあった円環の一つが崩れた。他のROT兵もそれに続いてくれれば、殺せる確率は増す。
 ティナは、後ろからエヴァルトの背中を狙っていたドイツ兵の腕を、軍刀の切っ先で素早く払った。飛んだ手首が一瞬だけ右前方に映り、すぐに視界から消えた。
 エヴァルトが軍刀を持つ右腕を高く掲げ、縦に構えた。近い。ティナは必死でエヴァルトの視線の先を探り、ついに指揮官を見つけた。顔が黒ずんでいて髭が隠れ、特徴が見えない。本当に敵指揮官だろうか、と思った瞬間、エヴァルトが馬の速度を緩め、軍刀を横に薙いだ。それは相手の馬の額を削り取り、脳髄を露出させた。エヴァルトはそのまま刀を振り抜き、馬に乗っていた人物を地面へ叩き落とした。常人離れしたエヴァルトの剛力に、思わず、手綱を掴んだ左拳を握り締めた。
 しかし、急な減速を命じたエヴァルトの指示に混乱した馬は、そのまま直進した。エヴァルトの馬はドイツ兵が待ち構える場所に突っ込んでしまい、騎乗していたエヴァルトともども集中砲火を浴びた。
 エヴァルトだったものが粉々になる様子がやけにゆっくりと、鮮明に見え、ティナは、ヴェルナーから飛び降りた。受け身を取る余裕はなく、ティナは肩から不格好に地面に落ちて転がった。その痛みを堪え、すぐに膝を突いて体を起こす。主を失ったヴェルナーもまたそのまま直進していて、エヴァルトの体を外れた弾丸の餌食になった。ティナは、一瞬にして体中が穴だらけになった愛馬から目を背けた。
 目を背けた先に、エヴァルトが馬から追い落としたグレーナー将軍の姿が目に入った。血を流しながらも、うつ伏せで地面を這っている。死んでいない。
「敵総大将発見! 付近の敵を掃討!」
 後続の馬に轢かれないよう、ティナはそう叫び、手もとから弾き飛ばされていた軍刀を拾う。グレーナー将軍に向かって走った。
 沈みかけの太陽がティナの背中を照らし、グレーナー将軍の体を、ティナの影が包む。それに気付いたグレーナー将軍は、上を見上げ、目を見開いた。ここまで近くで見れば分かる。確実に、グレーナー将軍だ。
 軍刀の刃先を、下へ向ける。そのまま、軍刀を突き刺した。

 お前のせいでエヴァルトが死んだ。
 お前のせいでエヴァルトが死んだ。
 お前のせいでエヴァルトが死んだ!

 グレーナー将軍に向けてか、エヴァルトを戦場に連れてきた自分に向けてか判然としない言葉を心中で繰り返しながら、ティナは、グレーナー将軍の背中を滅多刺しにした。ティナは最後に、グレーナー将軍の背中に足を乗せた。それから首に刃を当て、渾身の力で軍刀を払った。
 グレーナー将軍の首が、飛んだ。
 ティナは、軍刀を放った。頭部用のプレートアーマーも外して、地面に投げつけた。
 力が抜ける様な感触と共に、体がその場に縛り付けられた。
「エヴァルト……」
 呟いたとき、腹の真ん中あたりを、何かが通り抜けた。なんだろうと思って目を向けると、胸部を覆うプレートアーマーの下部、二か所が、綺麗に丸く穴を開けていた。
 一拍置いたあと、血が、軍服に大きな染みを作り出した。
 戦場を知らない新兵のような、棒立ちの人間を、見逃す銃弾は存在しない。そんなことも、頭から抜け落ちていた。
 ティナは、顔を上げた。ドイツ兵と戦う騎馬兵らを横目に、ゆっくりと歩く。一歩一歩進むたびに、腹の周辺が酷く痛んだ。鉄パイプか何かで執拗に、腹部の傷口を抉られているようだった。歩くだけで傷口がそんなに大きく広がるはずはないのに、広がっていく錯覚を抱くほどの、痛み。加えて、内臓全てが掻き混ぜられているような不快感もある。
 途中で、黒々とした艶やかな毛並みを擁した馬が、横たわっていた。ヴェルナーだ。ありがとう、と頭を撫でてやりたかったが、必要以上に動くと血が溢れてしまう。断念した。
 先に進む。
 エヴァルトの死体は、うつ伏せで、横たわっていた。栗毛色の軍馬の近くに倒れても、見劣りしない、体格だ。左手で、撃たれた辺りを押さえたまま、ゆっくりと腰を下ろした。右手で、エヴァルトの体を仰向けにしようと力を入れた。痛みが一段と鋭くなった。目を思い切り閉じ、歯を食い縛り、堪える。
 仰向けにさせてから目を開けた。頭の半分はなくなっていた。無事なのは右目と口くらいだ。声にならない声が吐息となって零れた。
 腹の奥から何かがせり上がってくる。思わず咳き込むと、それは血だった。驚く間もなく、咳が止まらなくなり、ティナの口周りは血みどろになった。恐らく、胃か、肺がやられている。もう、助からない。
「風邪、引いたかも……。それとも、いま流行ってる、新種の疫病ってやつかな。お母さんより先に、罹るなんて、思わなかったな……」
 疫病で血が出るわけないじゃないですか、という答えを期待したが、彼の唇は、動かない。
「エヴァルト、今日の晩ごはんは、野菜たっぷりの、スープに、してね」
 自分ではちゃんと呼吸をしているつもりなのに、うまく、空気が吸えない。酸素が入って来ない。
 息苦しさが激しくなり、もう言葉が出せなくなった。腹に、力も入らない。ティナは、エヴァルトの大きな胸に、突っ伏した。頬に、熱が伝わる。少しだけ、生前の温かみが残っている。
 貫通箇所を押さえるのをやめた。押さえていた左手で、近くにあるはずのエヴァルトの手を探り、見つけると同時に、軽く握った。
 ……あったかい。それともこれは、自分の血の温度だろうか。
 父が存命の頃、住んでいた邸宅の庭、その芝生の匂いが鼻腔に広がった。こうしてエヴァルトと、クラウスと手を繋いで、芝生の上に大の字になった時があった。太陽の日差しを満面に受けて、家の中からは母と父の穏やかな会話が聞こえて……。

 今さらになって、涙が零れた。同時に、意識が、遠のいた。



***



「報告。衛生兵によって、ドイツ軍のグレーナー将軍および、我が軍のリース中佐とその従者の死亡が確認されました。転がっていたグレーナー将軍の首だけ、兵士に運ばせています」
 ライナルトは、しばらく黙っていた。
 戦場の地平線を眺め、夜の帳がそこまで迫っている様子を眺めた。
 やがて、伝令に促され、静かな声で、質問を返した。
「死因は?」
「腹部に二か所、銃弾が貫通した跡があったとのことです。リース中佐はプレートアーマーを装着していましたが、ライフル弾の前では無意味だったようです」
 ライナルトは、ひとつ、小さく息を吐いた。
 不思議な魅力のある女性だった。黙っているときは怖いくらいの無表情で、ひとたび笑うと、周囲の人間を巻き込むような和やかさを身に纏う。年長者を楽しげに手玉に取るような胆力があり、戦闘の際には不思議と艶やかさが滲んだ。
「目的は果たした。山を抜けて、撤退するぞ。ルーファスにも伝えてくれ」
 一度、戦場を共にしただけなのに、中央に推挙し、家にまで招待してくれもした。あの時の、嬉しそうに食べ物を頬張る姿は、なんとも形容しがたい……可愛らしさだった。もう少し、色々な表情を、見てみたかった。
「了解しました」
 ライナルトはそれからすぐ、周辺に居た部隊に撤退を命令した。
 馬を曳いて獣道を抜けると、すぐに味方の迫撃砲と軽機関銃を扱っている部隊を見つけることが出来た。先程からは、ルーファスの指示で、弾薬を温存している。ルーファスはここを撤退のための要地と定め、山周辺の守備にある程度の人員も割いていた。
 そこに一人の少年が混じっていないか探し、見つけ出すと同時に馬から降り、声を掛けた。
「クラウス君……だったかな?」
「は、はい!」
「単刀直入で申し訳ないが……リース中佐とエヴァルト君が死んだ」
 言うと、クラウスは一瞬、体の動きを止めた。そのあと、なぜだかクラウスは、微笑んだ。
「そうですか。わざわざ教えてくださって、ありがとうございます」
「何と言ったらいいか……」
「気にしないでください。そうなるんじゃないかと、覚悟してましたから」
 こちらが過剰に気遣っているように思えてくるほど、落ちついた対応だった。
 少しだけ安心し、ライナルトはクラウスに背を向け、馬の鐙に足を掛けた。
「君は確か、馬が逃げてしまったんだろう? 乗せて行こう」
 そこでちらりと見ると、クラウスは、自由が利く方の左手を使い、こめかみに拳銃の銃口を当てていた。
 ライナルトが何をする間もなく、クラウスは、躊躇いなく引き金を絞った。
 成長途中の華奢な体が玩具のように倒れ、地面に伏した。ライナルトは驚愕のあまりに、腕を伸ばしかけた間抜けな体勢のまま、少しの間じっとしていた。
 太陽が沈み切り、闇が降りてこようとしていた。


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