二章幕間 ◇◆◆ 一九五八年 七月二十四日

「僕は、自治区がどうしてこんな状況にあるのか、聞いたつもりだよ。その話が今とどう関係するの?」
 ロルフ・ルジツカは、薄汚れた学生服にこびりついたチョークの粉を払いながら、聞き直した。黒板消しを綺麗にするためと言って、やられた跡だ。今通っている、自治区外の中学校では、このくらいはいじめの準備体操のようなものだ。自治区内には、まだ、学校はできていない。我慢して、行くしかない。
 いま、ロルフが期待していたのは、なぜ自治区が貧乏で、なぜ自治区の住民に対して理不尽な暴力が横行していて、なぜ景気回復の波とやらに乗れていないのか、そういうことへの答えだった。
 しかし父は、突然、昔話を始めた。
「自治区はこれからなんだよ。まだ十年だ。これから発展していくさ」
 もともと、父に順序立てた話し方は期待していない。切り替え、別の話を振った。
「今の話、最後だけやけにリアルだったね?」
「まあ、な。ライナルトさんから直接聞いたから。弟の最期は」
 父は、なんでもない口調でそう言いながら、読みかけの本を手に取った。
「え?」
「だぁから、最後に自殺したクラウスってのは、俺の弟。お前の叔父さんになった予定の男なの。ちょうどお前と同い年で死んだんだけどな……。お前、クラウスにそっくりだよ」
「嘘!」
「嘘ついてどうするよ」
「え、じゃあ、もしかして……」
「そうだ。ティナ様は、斜向かいのリースさんのとこの子の、伯母になる予定だった人。エヴァルトは、真向かいのシーフェルデッカーさんのとこの子の、伯父さんになる予定だった人」
「あ、えーと、ちょっと待って、整理していい?」
 鞄から、授業で使っているノートを取り出し、鉛筆でメモを取り始めた。
「父さんの方が先に生まれたのに、なんで下僕にならなかったの?」
「俺は小さい頃は虚弱児だったんだよ。今じゃ普通だけど」
「そうなんだ……。あ、あと、ティナさんに兄弟はいなかったはずだよね?」
「ああ。それは、ティナ様の母親が、ROTの男と再婚して。体が弱い人だったんだが、どうしてもリースの血筋を残したかったらしい。ティナ様の妹を産んですぐ、亡くなられた」
「それで、クラウスさんの血筋は、父さんで。エヴァルトさんは……」
「ティナ様に懐いてた、エヴァルトの妹が、今はもう母親になってる。お前がおばさんって呼んでる人だよ。何だ、関係ないって言った割に、興味あるんじゃねえか。急にメモなんか取りだして」
「うるさいなぁ。そんなに身近な人たちの話って分かってたら、もっとちゃんと聞いたよ」
「あとは、この本の十九ページ辺りだな。お前の知りたそうなことが載ってる」
 父は大儀そうに立ち上がり、本棚を眺め、一冊抜き取った。夏は蒸し暑く、冬は隙間風が厳しい、錆びたトタン屋根が目立つ家。最先端の電化製品はひとつもなく、その本棚に納められた膨大な数の本だけが、財産と呼べるものだった。 
 放られたそれを、慌てて受け取る。


■自治区形成の概略 五
 以上のようなティナ・リース将軍の働きによって、一時的に指揮系統に混乱をきたしたテナン川周辺のドイツ軍の南下は、停滞した。だが、彼女の上官であった第四方面軍の陸戦司令官はその戦いですらも敗れ、敗走を重ね、ついにはスイスとの物流ルートを失陥。他の方面軍も次々に敗走、ROT共和国は、一九一八年八月十日、ドイツに無条件降伏した。
 それからもROT民族の受難は続く。第一次世界大戦後、ベルサイユ条約によってROT共和国領土の解放を約束したはずのドイツに、不法に国を占拠され続けたのだ。彼らは国際社会に訴えかけたが、莫大な賠償金を負うドイツを必要以上に刺激したくなかった戦勝国は、それを無視した。
 結果から言うと、第一次世界大戦前には六百万人程度いたと思われる、ヨーロッパにおけるROT民族は、第二次世界大戦終了までにたった十五万人にまで数を減らし、国も失った。ドイツによる占領で医療物資が一般市民にまで届かなかったことによるスペインかぜの大流行と、占領下における虐殺の成果だ。
 前述のリース将軍の機転で中国や満州に逃れていた三十万を超える人々も、旧日本軍によって徴発、あるいは連行された。連行されたROTは日本語を話すことを強制され、彼らが所蔵していた、ROT民族の共通語で書かれた書物の数々は燃やされた。徴発を免れたROTは対日義勇軍を結成して老若男女問わずに戦い、一定の戦果を上げた。
 終戦後、対日義勇軍の指導者であったルイス・ライナルトらを中心とした三十万を超える在外ROT人が連日GHQの幕下付近に押し掛けて座り込みを行い、ROT民族の救済を訴えかけた。その様子は世界中で報道された。そして一度ROT民族を見捨てた負い目からか、終戦直後の高揚感からか、世界の人々から同情的な声が湧き起こった。
 ROT民族の扱いに難儀したGHQは、徴発されたROT民族が数多く働いていた軍需工場跡地付近に、自治区の形成を約束。そこはただの焼け野原となっていたため、周辺の土地も安く買い上げることができた。土地分配の整備が進み、現在の神奈川県ROT自治区の原型が完成されたのは一九四八年のことだ。
 意図せずして、ROT自治区は日本の敗戦の象徴となった。


 ロルフは、『ROTの歴史』と表紙に書かれた本の十九ページ周辺を読み終えると、顔を上げた。
「ライナルトさんって、すごいんだね。話では地味だったのに」
 日本語で、呟く。
「地味とか言うなよ。ティナ様の指示を守って、言葉の通じないスイス・イタリア経由で市民を逃がしたんだぞ? おまけに借財までして脱出用の船を用意させて……軍令違反を問われた時は船の上、ドイツに占領されたROT軍首脳はどうすることもできなかったってわけだ。それから、第二次世界大戦では、旧日本軍と戦ったり、ロビー活動を主導して自治区形成を認めさせたり……」
「本当に凄い」
「初代自治区長にもなったしな。俺は、第一次大戦が始まる前にも、見たことあるぞ。ティナ様が食事に招いたんだ」
 少しだけ誇らしそうな父の言葉を、日本語でメモを取る。
「ああでも、面白い話もあるなあ。ライナルトさんは、七十になられた今もまだ、独身で。その理由を周りに聞かれると、決まって『戦時中に知り合った女性よりも、魅力的な人が見あたらない。どうしても比べてしまう』とかなんとか答えるらしいんだ」
「あれ? それって……」
「面白いだろ?」
 そう言うと、父は自分の読んでいた本を投げ出し、あぐらをずらして、ロルフに向き直った。
 こちらの目を、真っ直ぐ見つめてくる。
 ロルフもメモを取るのをやめ、その赤い眼を見つめ返した。
「まあ……今は、俺たちが不甲斐なかったせいで、こんなことになっちまってるけど。これから大事になってくるのはお前らだよ。ティナ様たちが命と引き換えに、俺たちを逃がしてくれたから、ライナルトさんたちが身を挺して市民を守ってくれたから、お前らが生まれたんだ。自治区を発展させるのも、財政難で潰すのも、お前らにかかってる」
 もう今は、自治区がなぜ貧乏だとか、差別されているとかということは、気にならなかった。
 決意していた。将来は起業して、ROT自治区を引っ張るような産業を生み出してみせることを。他人の為に命を捨てたティナや、ティナの為に銃弾を恐れず敵陣を切り裂いたエヴァルトや、自分と同い年で拳銃自殺したクラウス、それにあの大戦で死んだ大勢の人々のためにも、自分が、彼らの遺志を継ぎ、差別や貧乏や暴力から、懸命に生きるROT自治区の人々を守ってみせることを。


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