一九一八年七月二十四日
ROT殲滅戦《無謀な突撃には銃弾の雨を》

 目前を流れる川は、特にいつもと変わりないけれど、人間の血液に汚染された水路となるまでに、そう時間はかからないだろう。
 テナン川の下流までついてきたのは、第一大隊の生き残りだけ。
 相当数、減るだろうなと覚悟してはいたが、兵数の三分の二が減ったのはさすがに堪えた。水流の減少が確認できた時点で、部隊を民間人誘導と、敵中腹の急襲との二つに分けて行動を開始するつもりだった。しかし、この人数ではどちらか一方の実現すら怪しい。
「あいつらは、現実がまだ見えてないんですよ」
 副大隊長は、あれからも軍規をそらんじたりして、なんだかんだと最後まで抵抗したが、結局、ついて来てくれた。
「でも、貴方が来てくれたおかげで、第一大隊の生き残りがついてきてくれました」
「謙遜を。私の力なんかじゃありませんよ。あいつらは、十一師団の救出に行く時、誰が一番最初に副師団長と会話できるか競ってましたから」
「……なんですか、それ」
「新兵に、ハイエル村出身の奴が居たんです。貴女がハイエル村を救った時、そいつが泣くほど喜んで、部隊の奴らにね、新聞を配って回ってたんですよ。知りもしないのに、絶対にいい人だ、って騒ぎまわっててね」
「ああ、そういうことですか」
「まあ、そいつ、砲弾に当たって死にましたけど。ハイエル村の全滅を知らずに死ねたのが、せめてもの救いでしょうが……」
 ほのぼのとしていたはずの話が突然終わり、左隣で馬を制止させていたクラウスが、何か声を漏らして身じろぎした。
 ハイエル村の全滅は、クラウスには知らせていない。ティナの手柄をあれだけ喜んでいたのだから、覚えているはずだ。
「クラウス、帰りたくなった?」
「帰りません!」
 やはり、クラウスは置いてくるべきだったかもしれない。いざという時は、どこか安全な場所に隠れているよう指示しないとならないか。初めての戦場だというのに落ち着き払ったエヴァルトはともかく、クラウスは、どこか危なっかしい。
「君は、ティナの下僕だったか? 若いな。何歳だ?」
「十四です」
「そちらの方は?」
「十八です」
「……十八?」
「副大隊長。ただの老け顔です」
 ティナが横から言うと、副大隊長は堪え切れずと言った様子で笑った。そののち、憮然としたエヴァルトを見て、
「失礼した」
 と謝った。歳不相応なその顔には目力も威圧感もある。
「まあ、頼もしい顔つきとも言えますけどね」
「ものは言いようですね、ティナ様。世間話もいいですが、先程から川の水位が下がっています」
 エヴァルトが、馬上から川を指差す。ティナは黒い液体が少し混じった川の流れを確認し、エヴァルトの顎の辺りを睨んだ。
 直に睨めないのは、あれのせいだ。……三時間前の。
「早く言ってよ。……第一大隊員! 事前に指示した班に分かれてください! それでは副大隊長、誘導は任せました」
「はい。三十万以上もの民をどこまで誘導できるかは分かりませんが……最善を尽くします。どうかご無事で」
 副大隊長が馬を蹴り、反転した。それに続いて、戦場に不慣れな新兵ばかりを揃えた民間人誘導の部隊が、次々に駆け出していく。たった五百騎では一万人の整理、誘導もおぼつかないが、それでもいくらかは救いがある。
「攻撃部隊は私に続いてください!」
 ティナはヴェルナーの頭を撫でてから走らせ始めた。蹄に弾き出された水流が、大きな音を立てる。恐らく、先程の会話が、副大隊長との最後の会話になるだろう。隣を走るエヴァルトの方をちらりと見遣る。エヴァルトは、分かっているのか。この川を越えれば、敵軍はすぐそばだ。雑木林で隔てられただけの場所に、敵軍が近代兵器を携えて待ち構えている。
 エヴァルトは黙ってティナを見返す。クラウスとは違う、覚悟の据わった面立ち。口もとの似たエヴァルトの妹の髪の匂いが思い出されたような気がしたが、目を正面に戻してその幻想を振り払った。ヴェルナーは川の端まで到達し、青々と雑草の茂った川辺を抜け、草原へさしかかった。砲撃の音が聞こえてくる。始まった。
 ティナは、改めて敵の指揮官の情報を頭に巡らせた。
 マルセル・フォン・グレーナー。テナン川周辺の守備、突破を任された部隊長。角ばった輪郭に、もみあげから顎、口もとへと髭の繋がった暑苦しい顔。歩兵部隊の中にあり、馬を常用していて、発見、識別は可能。彼を殺せば、テナン川周辺の部隊は一時、侵攻が停滞。作戦失敗により巻き添えになる、三十万の民が逃げ延びる可能性を広げる。そして、彼を殺せば……敵の只中に突っ込んだティナの部隊は、全滅の可能性が高まる。
 雑木林を隔てた敵陣地から、銃撃と迫撃砲の雨あられが、部隊の横腹に襲ってきた。
「大回りに移行! 以後、敵中腹の山林まで敵認識範囲を離脱!」
 側面から、五百もの騎馬の蹄鉄の音が鳴り響く。現在、方面司令官が前線に出てしまっているドイツ軍にとっては、決して無視できる音ではない。ここで一定数の部隊を釣り出せれば、囮としての陸戦司令官の突撃が、多少は効く。
 ヴェルナーに蹴りを入れて方向の転換を促す。今この騎兵部隊を上空から見れば、大きく緩やかな右曲がりの曲線を描いているだろう。騎兵の練兵が上手くいっていれば、それが直角に近づくまですぐだ。
 ――練兵が上手くいっていれば? 自分で考え付いた言葉に、前しか向いていなかったティナは嫌な予感がして周りを見回す。
 右後方を走っていたはずのクラウス。乗馬の下手なクラウスの姿が、ない。探しまわしているうちにエヴァルトと目がかち合った。エヴァルトの口が、いません、と口が動いた。
「予定地域まで、そのまま進め!」
 統率された騎馬と反対を向き、すれ違うたびに発生する風を感じながら、ティナは元来た道を戻った。
 もし離脱していたりしたら、引き付けようとしている敵軍に殺されてしまう。
 そう危惧したティナは、とにかくヴェルナーを最大速度で走らせた。
 見つけたのは、遠景の中、米粒大程度のドイツ軍の歩兵隊が確認できたときだった。そこには、馬がどこかへ走り去り、置いて行かれたクラウスが一人ぽつんと仰向けに寝転んでいた。手綱を急いで引き横腹を蹴り、阿吽の呼吸で急停止したヴェルナーから飛び降りたティナは、クラウスに取り付いた。頬をこれ以上ない力で叩くと、瞼の降りていたクラウスがこちらに気づいた。
「クラウス、落馬?」
 強い口調で質すと、クラウスは口を真一文字に引き結んだ。目からは早速、涙がこぼれ始めた。
「落馬したんでしょ? どこか怪我は!」
「腕が、反対方向に」
 しゃくりあげ始めたクラウスの右腕は、確かにあらぬ方向へ折れ曲がり、皮膚を突き破った骨が露出していた。
 やはりエヴァルトだけ連れてくるんだったと、先程からの何度目かの後悔を膨らませつつ、クラウスの両脇に手を差し込み、ヴェルナーに乗せた。
「馬が、砲弾の音に驚いて……。ティナ様、僕は、僕は、本当に、自分が嫌です。情けない……!」
「泣き言は後にしなさい」
「捨てて行ってください! 僕なんて、足手まといになるだけです!」
「そうね。足手まといだよ。初めから、分かり切ってることじゃない。何でみんなと一緒に逃げなかったの!」
 言葉を額面通りに受け取り、ヴェルナーから飛び降りようとしたクラウスの後頭部を引っ叩いた。
「馬鹿な真似しないで! 今さら遅い! ヴェルナーは乗り手が一人増えたぐらいで潰れたりしない。クラウスはそこに跨ってて」
 ティナは、そう言ってすぐに鐙に足を掛け、飛び乗った。座る場所が手狭になって尻が痛むようになったが気にせず、クラウスの肩越しに、手綱を握り直す。
「……だいじょうぶ、私に全部任せて。生きて帰してあげるからね。わかった?」
 ティナの言葉に頷いたクラウスには、折れていないほうの左手で手綱を握らせた。ティナは、左腕をクラウスの胴に回して固定、右手だけで手綱を握った。
 先程は米粒大だった歩兵隊が、立体的な大きさに切り替わってきているのを後方に確認したティナは、ヴェルナーを叱咤し、縦横無尽に走り回って敵をかく乱してから、列の最後尾に合流した。
 痛みに呻きつつも、クラウスは少し落ち着いた。クラウスを抱きつつ走るのにも慣れ、ティナは十分足らずで、エヴァルトが待つ最前列にまで到達した。
「間もなく敵中枢の背後の山林に到達します」
「ご苦労様。下僕が迷惑かけました」
「クラウス。お前、大丈夫か、腕」
「う、うん。痛いけど……」
「止まったら、衛生兵に治療してもらうから」
 ティナが左手で軽く頭を撫で、クラウスの頭を胸元に引き寄せた。されるがままになったクラウスの頭がプレートアーマーに当たり、鈍い音がした。
「そろそろだね。斥候(せっこう)! 安全確認を!」
 エヴァルトと共に、部隊の先頭から横に抜けて叫んだ。半径二キロ以内の危険の有無を探る予定の斥候部隊を除き、全体が速度を緩めていく。
「全軍、停止! 敵軍の接近がなければ、このまま三十分程度の休憩をとります。馬に水を与え、休ませてあげてください」
 ティナは先に馬から飛び降りてから、クラウスが降りるのを手伝った。
「衛生兵。負傷者がいるのでお願いします」
 兵士たちも、それぞれの乗る馬から降り、背嚢から馬用の飲み水容器を出して、水筒からそこに注いだ。ティナもヴェルナーにそうしてやった。鐙には軽機関銃や迫撃砲をばらしたものが備え付けられていて、普段より消耗が早い。水を勢いよく飲んでいく。



***



 クラウスは、山の中で拾った木の枝で添え木を作ってもらった。骨折の応急手当。
 右腕は、兵舎に戻れば早急に外科手術が必要らしい。激痛に耐えながら、部隊の行軍に合わせて、一歩、一歩、進んでいく。
 ……これ以上ティナ様の前で醜態をさらすわけにはいかない。
 先程自分は、ともすれば叫び出したくなるほどの不甲斐なさを、彼女の前で晒した。自分で進んで戦場に従軍しながら、馬すら御せずに落馬。余りの情けなさから涙があふれ、恥の上塗りをした。
 前を歩くティナが、こちらを見た。何度見ても飽きない、大好きな人の顔だ。
 プレートアーマーのせいで綺麗な黒髪が見れないのが残念だったが、あれはティナの父親の形見だから仕方がない。砲撃に下肢をもぎ取られ、残っていたのが血まみれの上半身と、プレートアーマーの頭部と胸部。所々の、錆に見える茶褐色のまだら模様は、彼女の父親のもの。
「頑張って。もう少しで休ませてあげられるから」
 微笑んでそう言ったティナは、また前を向いた。
 もう子供じゃないんですよ、僕も。
 今年に入って何十回と飲み下した言葉がまた、喉元までせり上がってきた。
 言ったとしても、軽くあしらわれるだけ。分かっている。
 日常の延長で髪を梳かれたり、日常の延長で手を握られたり、日常の延長で突然後ろから抱き締められたり、日常の延長で額にキスされたり……。これは全部、自分が子供だから。自分が彼女を夢の中で穢していると知れば、自分がもう子供でないと知れば。彼女はそれから過剰な慣れ合いはやめるだろう。
 先程、ティナの背嚢から、双眼鏡と、敵司令官の写真を抜いておいた。
 自分はティナにとって『怪我をした子供』だから、安全な場所に置いていかれるだろう。一人で待っているように言われるだろう。その時だ。その時に動く。何もできない自分は今日で終わらせる。彼女の、役に立ちたい。
「じゃあ、クラウスは、ここで待ってて。何かあったらこれで応戦して。使い方は、昔、教えたよね?」
 兵装の余りなのか、ティナはこちらに拳銃を押し付けてきた。
 やっぱり、と誰に言うともなしに思った。
「はい。分かりました」
 従順なふりをして、答えておく。
 指差された木陰に腰を下ろした。



***



 登山する物好きもおらず、荒れ放題になっている、標高六十メートル程度の小さな山。地の利というほどの安全を確保できない側面に対しては、敵も注意を払っていなかった。しかし、相手がこちらに気づかないと分かっていても、山頂から見下ろせるその威容、雲霞のような敵部隊を前に、ティナはしばらく呆けた。
 唾が口から溢れかけた所で我に返り、慌てて飲み下した。
 背の高い草に隠れ、しゃがんでいる兵士らも、ティナと同じように呆けていたのに違いなかった。誰も何も、声を発しない。
 兵士、兵士、兵士、兵士。地平線を埋め尽くさんばかりに隙間なく詰め込まれた兵士たちが、前進部隊と、砲撃部隊、塹壕の設置部隊に分かれて、作業を進めている。見たこともないような重機を使い、見る見るうちに土を掘り返している兵士もいる。
 ティナは、それぞれが馬で運んでいた迫撃砲と軽機関銃の部品の組み立てを指示した。敵軍の圧倒的な兵力を目の当たりにした兵士らは、呼吸にすら気を遣う。ティナが注意せずとも最小の音で作業を完遂した。時間は訓練の時よりも圧倒的にかかったが、許容範囲だ。
 作戦の決定までしばらく待つように伝え、砲撃部隊をその場に残す。設置を手伝うために来たティナとエヴァルト、騎馬攻撃部隊は山を降りた。クラウスは、砲撃部隊の後方で待機だ。周囲に斥候を放ってはいるが、山のふもとはいつ敵が来るか、知れない。今の所、安全な場所は山中だけだった。
 ドイツ兵の居る方とは反対に下山し、歩きながら情報を整理する。ざっと見ただけでも、敵はこの付近に一万以上。当初は、大砲部隊に側面を攻撃させ、そこに注意が向いている隙に、山を迂回した部隊が後方を襲撃する、という手が一番有力と考えていたが、それは無理だ。とても五百、大砲隊を抜いた四百の騎馬兵では太刀打ちできない。陸戦司令官が好む突撃を敢行して山を駆け下りて行けば、途中で見つかり、山ごと消し飛ばされる。しかし手をこまねいて時機を待っているだけでは、陸戦司令官の部隊が“溶解”してしまう。そうなるとますます苦しい。
 テナン川を渡河されると、首都のロッテンゲンは目と鼻の先だ。これ以上、思い通りに蹂躙されてたまるかという、ドイツ軍への激しい憎悪。陸戦司令官の精神論によって、市民の命が代償になるのは忍びないという、軍人としての矜持。今回の軍令違反は、それらの二つに拠る所が大きい。だが、そうした「公」の面だけでなく「私」の面が……父親のことが頭によぎらなかったといえば嘘になる。
 自分の父親は、市民が戦闘に巻き込まれるのを避けるため、孤立無援の国境の僻地で一週間耐え、死んでみせた。
 死地にあえて攻め込み、父に殉じたい。あるいは死地に血路を拓(ひら)き、父を超えたい。普通ならば息子が抱くであろう感情を、ティナもまた、抱いていた。
 しかしこの状況では、父を超えるどころか、父と同じ土俵にすら立てずに死んでしまうのではないか。市民を助けるなどと格好つけたお題目を掲げたくせに、第一大隊の五百名を道連れにしただけで、死んでしまうのではないか。
 無能。低俗。親の威光。陸戦司令官の言葉が、頭の中で、不安と激しく共鳴し合う。自分が参加していれば、陸戦司令官の作戦は上手くいっていたかもしれない。自分のした選択は、ROT共和国にとって、最悪の結果をもたらす引き金になるかもしれない。
 ――死にたく、ないなあ……。
 曹長の声が耳元で聞こえた。
「斥候部隊の一名が戻ってきます」
 近くで双眼鏡を構えていた兵士が、言った。地面を見つめていたティナは、顔を上げた。
「敵と思われる部隊を発見。こちらへ向け進軍しているように見えます。すぐに迎撃態勢を整えてください」
 斥候の報告に、また一つ足場を失った自分を感じた。斥候はすぐさま、配置に戻っていく。
「総員、騎乗! 迎撃体制へ移行します。軍刀構え!」
 ティナは掠れそうになる声を御して、そう告げた。自らもヴェルナーに乗り、腰に差していた軍刀を鞘から抜きさった。夕陽に反射して鈍く光る軍刀の刀身はそこまで長くなく、武器としては心許ないが、軽機関銃も迫撃砲も山の上だ。今から取りに行っても間に合わない。
 このまま、民の脱出とは無関係の戦闘で死んだら、無意味な軍令違反で終わってしまう。
 作戦の失敗の責任は、この女の命令無視にある。死んで何も言えないティナを前に、陸戦司令官はそう断じるだろう。千人以上を死に巻き込んだ第三連隊長の独断専行の事実は、陸戦司令官で止められているから、現時点での最大の規律違反者は、きっとティナだ。そんなことになれば、目を掛けてくれていた父の元同僚らはすぐさま失脚する。父の顔にも、拭いきれない泥を浴びせかけることになる。
 ティナは、生まれて初めて、戦場で、生への執着を感じた。こんなところで死ぬわけにはいかない。死ぬ前に結果が必要だ。それも、軍令無視が遠くかすむような結果が。騎馬の音が近づいてくる。軍刀を持つ手が震えた。
「大隊長! 攻撃中止! 攻撃中止!」
 しかし震える手を必死に律しようとしていると、そんな声が飛び込んできて、ティナは目を見開いた。
「味方です。第五騎兵師団、第三大隊」
 馬に乗ったまま近づいてきた斥候が、二度目の報告をティナに向けてした。
「よかった。間に合いましたか」
 何も言えずに斥候のことを見つめ返していると、近づく馬蹄の音とともに、聞き覚えのある声が、斥候の後方でした。
「リース中佐。お手伝いしますよ」
 信じられない。その二人の声が、ここでするはずがない。幻聴かという疑いを捨てきれぬまま、視線をずらす。
 ライナルトと、ルーファスの姿がそこにあった。
「お久しぶりです」
 ティナが黙っていると、ライナルトは、自分から話の続きを始めた。
「どう説明すれば伝わるか分からないんですが……。私は、第五騎兵師団長からの密命で、街の住民を逃がすように承ってきました。師団長は、陸戦司令官の作戦は確実に失敗すると踏んでいます。そこへリース中佐の民の救出を優先するという無線連絡を聞いて、是非助力したい、と。けれど、正規の第三大隊長が作戦に参加していなければ、軍令違反を疑われる。そこで、陸戦司令官に名前を知られておらず、おまけにティナ様とは知り合いである私たちに役割が回ってきたと……そういうわけです」
「で、ですが、住民の救出のためなら、どうして、ここに……」
「あなたの部下の、副大隊長から頼まれました。住民が案外落ち着いていて、避難はこれ以上ないくらい、順調にいっているそうです。だから、ここはいいから、リース中佐を助けに行って欲しいと。第三大隊は、住民を逃がす際に生じる戦闘行動も容認されているので、必要なら使ってください」
 ティナは、軍刀をゆっくりと鞘に収めた。
「総員、軍刀しまえ! これから、作戦会議を開きます。各隊の中隊長は私のもとに集まってください」
 騎兵一個大隊の兵力は、三千。作戦立案に関わった第五騎兵師団長も、自分と同じ考え。
 風前の灯火だった闘争心が、また勢いを取り戻しつつあるのが、自分でも分かった。



***



 木陰でじっと流れる雲を見上げていたつもりが、気付くと、ティナにこちらを見下ろされていた。
 慌てて立ち上がる。
「作戦、もうすぐ始まるから。ここにいてね」
「はい」
 今度は本心から、頷く。自分は、ティナに直接は認めて貰えないけれど、助けることはできそうだ。先程ティナが、大砲隊に指示をしていたのが聞こえた。大砲は、敵指揮官が見つかるまでは放たないこと。敵指揮官を見つけたら、その周辺へ向け集中砲火を浴びせかけること。そこからの砲撃は、味方が確実に居ない方角に限ること。
 敵指揮官は、自分が見つける。是が非でも。
「頑張ってください。指揮官なんですから、死んじゃ駄目ですよ」
「うん。私だって、わざわざ死にたくはないしね」
「ティナ様、僕、本当に、ティナ様の事が好きですから。それだけは絶対、忘れないでください」
「あはは、ありがとう。大人になったらもう一回聞きたいね、それ」
 ティナは、笑いながら、答えてくれた。こんな時まで、自分は子供扱いだ。
 だが今は、拒絶されないことを、喜ぼう。
 クラウスは、握手するつもりで左手を差し出した。
 するとティナは、その左手を無視して、抱きついてきた。包帯でぶら下がっている右腕が泣きそうなほど痛んだが、我慢した。
「今まで、本当に、ありがとう」
 耳元で囁かれ、吐息が耳にかかった。顔が熱くなる。
 ……こういう反応をする所が、子供なんだろうな。
 ティナは体を離した。
「じゃあ、ね」
 ティナは軽く手を振った。クラウスも左手を振り返す。
 ティナはそれから何度も振り返った。クラウスはその度に左手を振った。
「また会えますよね」
 何度も振り返るティナに違和感を覚え、クラウスはぽつりと呟いた。

 クラウスは、木陰から、先程治療を施してくれた衛生兵の陣取る場所に移った。衛生兵も、偵察用の双眼鏡を手にしたクラウスを無下にすることはなく、黙って隣に座らせてくれた。早速、左手だけで支え、双眼鏡を覗き込む。
 双眸の向こうには、ドイツ軍の兵士の、少しだけ緩んだ顔が見えた。一回見るたびに、十人ほどが視界に入る。
 違う、と思い、ずらす。
 違う、と思い、ずらす。
 違う、と思い、ずらした……四十人目。そこで、顔の縁(へり)全てが髭に覆われた男が目に入った。
「あれ?」
 是が非でも見つけるとは、意気込んだ。意気込んだが……早すぎる。ティナが大砲隊に指示する中で言っていたのは、敵軍が一万名以上居るということだった。一万分の四十。どのくらいの確率だろう。
 自分の目が信じられずに、クラウスは、写真を取り出した。双眼鏡から視線を外し、写真。写真から視線を外し、双眼鏡。馬に乗った、髭面の男は、変わらずそこで静止している。
「すいません、指揮官見つけたみたいなんですけど……」
 日々訓練を受けてきた、屈強な体格の男たちが真剣に双眼鏡を覗き込む中、なぜだか申し訳ないような気持ちになった。恐る恐る言うと、近くに居た衛生兵が、クラウスの左肩の辺りを掴み、自分が手に持つ双眼鏡を覗き込んだ。
「主人が優秀なら、従者も優秀だな」
 双眼鏡から目を外した衛生兵は、同じく双眼鏡から目を外したクラウスに向けて、笑いかけてくれた。
 クラウスは、自分が褒められたことよりも、ティナが褒められたことの方が、いくぶんも、嬉しかった。
「砲兵! 地図持ってこい、座標を教える!」
 衛生兵は、抑えた声で、他の隊員を呼んだ。


inserted by FC2 system