22 ◆ 二〇××年 一月十三日

 最近の治安の悪化は手のつけようがない。どこかの武器商人が監視の目をかいくぐって自治区に銃を持ち込み、排他主義者と同化推進派に大量に売り捌いた。冷静になれば誰かの意図が働いていると気付きそうなものだが、冷静なら放火合戦はしない。争いが治安の悪化を生み、治安の悪化が争いを生む。それに乗じて、何の恨みもなく、暇潰しに商店街を襲う輩まで出始めている始末。
 そんな中で存在感を増してきているのが、ロルフの部下が代表、サラが副代表を務める自警団だ。どちらの派閥にも与せず、常に中立で、市民の安全を守ることだけを目的とする集団。ここ最近は、機能が麻痺している警察に代わっての治安維持に対する働きが認められて、自治区の暫定区長に、銃の所持と合法的殺人を許可されているらしい。市民の安全を守るためならば排他主義者や同化推進派の死も厭わない。当初の主戦力はあらかじめ訓練されていたロルフの部下たちだけだったが、徐々に一般戦力が底上げされ、排他主義者と同化推進派にとっては恐怖の対象に育ちつつある。いよいよ命の保証のない道へ踏み込んだサラに、自分は、何の影響も及ぼしていない。
 夏休み中に高校を退学したサラとは、あれ以来、まだ会えていなかった。消息が掴めないまま、夏休みが明けてすぐ高校に行き、教師の口から退学を聞かされたときは、心底驚いた。そこまでするのか、と。その代わりというのか、絵里が、リースに来るようになっていた。コルネリエのことは無視し、ヴェルナーや神代ともたまに喋るくらいで、黙って窓際で外を見ていることが多い。
 今日も、コルネリエが朝の支度を整える前の朝七時ごろ、ヴェルナーが店の電話で窓ガラスの修復を業者に依頼していると、「閉」という札がぶら下がっているはずの玄関のノブを回し、入ってきた。
「適当なの持ってきて」
 季節はすっかり冬だ。耳あて代わりに大きめのヘッドフォンをつけた絵里は、こちらが電話をしているのもお構いなしでそう言い、窓際の指定席に座った。淡いオレンジ色のマフラーを、外している。その背中にサラがだぶった。黙って大人しくしていると、所作はサラにそっくりだ。
「では、明日の午前十時からですね。よろしくお願いします」
 ヴェルナーは電話を切った。音漏れするほどの音量で音楽を聴いている絵里を一瞥しつつ、調理室に入る。適当が指定だし、本当に適当でいいかと思いながら皿を取り出して、仕込み途中のカレーをよそった。ライスなしでそのまま出すと、絵里は右部分の覆いだけ外した。
「ライスは?」
「贅沢言うな。あと、食べるときくらい外せって」
 絵里が着けているのは、首の後ろにバンドを通すタイプのヘッドフォン。漏れ聴こえるのはフランス語で、ロック調の曲。ギターががちゃがちゃと騒がしい。ヴェルナーは、そのバンド部分に手を掛け、引っ張った。左部分の覆いも取り去り、手を離す。淡いピンク色をしたバンド部分が絵里の首にだらしなく引っ掛かった。外す際に髪に手が触れた。白に近い金色に染められている髪は、ヘアワックスでハネやうねりが加えられていて、少し手にべたつきが残った。
「髪まで引っ張んな」
 絵里の拳の裏側が、腹に当てられた。ごく軽く。
「そういえば、そこの窓ガラス、どうした?」
 絵里が指差した先には、段ボールを押しあてて塞いだ窓がある。
「ああ、あれか? 夜、そこのソファで寝てたんだけど。いきなり、変なのに割られた」
「変なの?」
「愉快犯。店の壁にスプレーで落書きして、窓割って、逃げた」
「あー……平気? 怪我とか」
「大丈夫だった。どうにか」
「そうか。良かったな。分かってると思うけど、警察は頼るなよ。どうせ緊急回線、繋がんねぇし。私の所に掛けてくれば、人、手配できるんだから」
「お前の?」
「あれ? 言ってなかった? じゃあ今から言うから、覚えといて。番号は……」
 絵里は携帯電話の番号を暗誦した。ヴェルナーは慌てて携帯電話を取り出し、忘れないうちに登録した。
「時間は気にしなくていいから。私が寝てて出なければ、ジジイの部下が出るし」
「部下が?」
「使用物にプライベートはないってこと」
 絵里は、くく、と笑みを零した。どうしてこんなにも可愛げのない笑い方が出来るのかが不思議だ。儚げな笑みでも零して見せれば、もう少し、周りから同情を引けるのに。
「あんまり無理すんなよ。じゃあ、金は後でいいから」
 ヴェルナーがそう言って席から離れると、二階からコルネリエが下りてきた。階段を下りてくる途中で大きな欠伸をしたのだろう。目尻の涙を拭っている。
「おはよ」
「おはようございます」
「また来てんの、あいつ」
 コルネリエは呆れたように言った。いくら客には公平に接するコルネリエでも、ことごとく無視されていては態度も変わる。だからいつも、絵里が来ている時は気疲れの機会が増えた。絵里はコルネリエの存在すら気に留めず、黙々とライス抜きカレーを口に運んでいる。
「来てるみたいですね」
「ヴェルナーが甘やかすからでしょ」
「仕方ないじゃないですか。ちゃんと金を払うんですから」
「あ、そう。よかったねぇ、ヴェルナーは仲直り出来て」
 コルネリエは嫌味っぽく言い、視線を部屋の中に彷徨わせた。確かに、自分一人だけ和解したような形になって、申し訳ない気持ちもある。絵里の態度が軟化したのは、サラに痛めつけられた彼女を介抱し、背負って玄関先まで運んだあとからだ。それからは、絵里とは犬猿の仲であるサラに、ヴェルナーと会うよう頼んでくれたりもした。実現はしなかったが、不機嫌極まりない様子で『ごめん。無理だった』と呟いた彼女を見て、それだけでありがたい気持ちになった。
 自分とのわだかまりも、些細なことから氷解した。きっかけさえあればコルネリエとも話すようになるはずだが、そのきっかけがなかった。ヴェルナーが無理にきっかけを創出しようとしても、絵里が潰し、コルネリエが潰し、お互いに潰し合った結果、糸口すらも見えてこない。
 しかし絵里も、本当にコルネリエのことを嫌っているなら、喫茶店に入ってきたりはしないはずだし、コルネリエも、絵里の事を本当に嫌っているなら、彼女の本名であるアニと呼んでいるはずだ。サラの実姉である絵里は、中学に入った頃から「アニ・ルジツカ」という本名を忌み嫌った。渡瀬という、彼女の母の仕事名を名字とし、そこに自分で決めた絵里という名前を組み合わせ「渡瀬絵里」を自称していた。
「ねえ、箒は?」
「ああ、あれです。夜、変なのがたむろしてたんで、近くででかい音を立てるのに使いました」
 絵里とコルネリエが発する、緊張感のある沈黙に挟まれていたヴェルナーは、間をおかずに箒の落ちている方を指差した。箒は、散乱した窓ガラスを掃くのにも使った。今はガラスの破片が詰まったちりとりとともに、割れた窓際近くの床に転がっている。
「怪我はないみたいだけど。次は追い払おうとしなくていいから。店なんか、壊れたっていくらでも直せる」
「でも、もし気分が高じて放火されたらどうするんですか?」
「確かに放火は困る」
 コルネリエは考える時の癖で、髪の毛先を掴んで口元に持って行き、いじり始めた。
「そうでしょう?」
「ああ、でも、大丈夫だ。火災保険入ってるよ、そういえば。この騒動が始まってからはもう、自治区内でも外でも、色々な保険会社から入会拒否されてるみたいだけど」
 少し荒れ気味の手が毛先から離れた。くるりと巻かれた毛先が小さく跳ねた。
「だからさ。ヴェルナーも、少しは家に帰りなよ。疲れちゃうでしょ?」
「疲れてないです。むしろあのソファが気に入ってます」
 赤茶色の待合用ソファには、毛布が三枚重ねてある。
「じゃあ、あのソファはお客様用のだから使用禁止。上で寝るか、家に帰るか。二択ね」
「上で寝ます」
 即答すると、コルネリエは首を軽く傾げた。
「本気?」
「本気ですよ。店を空けていた時に襲われたりしたら、悔やんでも悔やみきれないと思うんですよね。俺。コルネリエが何かの被害にあったりしたら、なおさら」
「ヴェルナー、なんだか、ホルストが来てから神経質になってる」
「そうですかね」
「うん。そう。ホルストが来てからだ、ヴェルナーがこんなに神経質になったの。昔話が怖かったの? それとも、警告のほう?」
 どちらも怖い。だが、コルネリエが呆れ気味なのを感じ取り、答えなかった。
「あんなの、ホルストの考えすぎ。ティナに殺されたグレーナーの一族が、いまさらROT全体に復讐? 全然、現実的じゃない話よ」
 現実的でないのは分かっているが、自治区に愛着を持つロルフとは相容れないホルストが、わざわざあんな感傷的な話を持ち出してきたのだ。天地が引っくり返ってもありえないと、誰が断言できる?
「いくらグレーナーの子孫が大企業の社長だって、自治区全体をこんな状況に陥らせるなんてのは無理でしょ。どこかで証拠が残る」
「それは、そうですけど」
「ロルフ・ルジツカ。ROT自治区最大の企業の名誉会長。ただのくたばり損ない。組織できるのは、せいぜい民間人を寄せ集めた自警団程度。メルヒオル・グレーナー。国際的大企業を一代にして築きあげた傑物。五年前、ドイツ軍の受注も請け負う軍需企業をグループ傘下に収める。軍隊崩れならいくらでも金で雇える世界的な富豪。先祖代々の危険な民族優位性論者」
 ヴェルナーが言い淀むと、カレーを黙って食べていたはずの絵里が突然口を開いた。
「頭の出来が違ぇよ。これで楽観視できるなんて、気楽でいいな」
「絵里は黙ってて」
 はっ、と馬鹿にしたように絵里が笑った。
「素人が」
「何? 素人の何が悪いっていうの? あんたのそういう、人を見下した所が嫌いなのよ!」
「きゃんきゃん喚くなよ大人げねぇ」
 絵里は置いてあったマフラーを手で掴み、ヘッドフォンをつけ直して出口まで歩いていく。
「ごちそうさま」
 ヴェルナーに向かってだけ言い、絵里は外へ出て行った。絵里のいたテーブルには、空になったカレーの皿と千円札が一枚。コルネリエは近くにあった椅子を蹴っ飛ばした。
 絵里とコルネリエが、おそらく戻ってきてから初めての言葉を交わしたことに気付いたが、とても言い出せる雰囲気ではない。コルネリエが苛立たしげに大きな足音を立てて、調理室へ引っ込んだ。

「おととい、車でスーパーまで行ったのね。そしたら、駐車場に死体があった。日常の風景の中に違和感なく溶け込んでいて、それが、とてつもなく不気味だったの。誰も何も、気にした風もないんだよ? みんな風景として通り過ぎてく。どこかに連絡した方が良いって思って警察に電話をかけたら繋がらない。消防にかけたら、それは緊急性を要する様子ですか、とか聞き返されちゃって。どう見ても死んでるのよ。消防の人に言われたとおりに脈を取っても、動かない。そしたら、後で『拾う』から放っておいてください、なんていうの。その間にも、食料品を買いこんだ女の人とか、寝ちゃった子供を背負って歩いている男の人とか、みんな、死体の事なんて気にも留めないで歩いてた。みんな、慣れてた」
「それは、怖いですね」
 コルネリエの部屋は相も変わらず、雑然の一言で表された。散乱している雑誌をひとところに積み上げ、缶ビールの空き缶をゆすいで袋に移し替えている最中、コルネリエが昼間の話についてもう一度意見を求めてきた。
「私だってどこかでは分かってる。絵里の言うとおりだって。でも私、一歩商店街を出たら、死体が転がってるなんて、認めたくないから、むきになって、反論してた。だって、そうでしょ? ほんの半年前は何事もなく過ごせてたのに。区長が殺されてから……区長が、グレーナー将軍と同じ方法で殺されてから。それから、手玉に取られるように治安が悪化してるなんて」
「はい。俺もやっぱり、信じたくは、ないです」
「本当に、そんな奴がいるのかな。復讐だけのためにここまで出来る人間が。百年も前だよ」
 ROT自治区長が殺されたのは、グレーナー将軍と同じ、七月二十四日。百年近く前の七月二十四日、グレーナー将軍も、自治区長と同じように、体を滅多刺しにされ、首を飛ばされ、ティナ・リースによって殺された。
 コルネリエは、認めたくなかったのだろう。ROT民族すべてがこの世からいなくなればいいと考えている人間がいることも。マルセル・フォン・グレーナーの嫡流、メルヒオル・グレーナーの名が、ロルフに従う絵里の口からも、現地で調べてきたというホルストの口からも語られた、不運な一致も。
 だが自分は、不運な一致とは思えなかった。本当に一族の復讐であるにせよ、それを味付けに使った余興代わりであるにせよ、何らかの作為が入り込んでいるのは間違いない。
「俺も信じたくはないし、信じられないですけど、たぶん、誰かが自治区を消そうとしているのは本当なんだと思います」
「じゃあ、本当だとして。それでホルストは、あんな話を聞かせて、どうするつもりだったんだろう。どうすればいいの、私達は? このまま黙って……ロルフのやることを、それか、グレーナー一族の怨讐って奴が遂行されていく様を、黙って見てろってこと?」
 ほとんど独り言に近くなってきたコルネリエは、寝間着姿でベッドに腰掛けている。
 どう答えようか迷い、缶ビールの空き缶が詰まった袋を床に放った。
「いや、父さんの意図は、逃げようって提案だったじゃないですか。やっぱり、どうにかするつもりなら、自治区から逃げるほかはないんじゃないでしょうか」
 コルネリエは、少し険しさを増した目を向けてきた。
 しかし、いくら呆れられようと、自惚れることはできない。これは、国が仕掛けた戦争のような、分かりやすいものではない。姿を見せない相手に対して、抵抗しようとしたとして、影に取り殺されて終わりだ。そう……矢内美晴のように。サラが何度も忠告してくれたように。自治区を救う、なんて、今の自分が言った所で自惚れ以外の何ものでもない。
 三十万以上の人間を救うことで、民族全体のことも救ったティナ。彼女は確かに自分の先祖で、尊敬できる人だ。だが、自分は、英雄ではない。ただの、喫茶店の従業員。ご先祖様たちのような力は持っていない。サラの居場所すらも掴めなかったこの半年、それが身に沁みた。
「事件の初めの頃の威勢はどこへ行ったの?」
「あれは、何も分かってなかったんです。サラにも迷惑をかけた」
「じゃあ、一人で逃げれば。私は喫茶店、続けるから。ここ以外のどこにも、行くつもりはない」
「そんな言い方、ないじゃないですか。誰が逃げるって言いました?」
 さすがにむっときて、コルネリエへ視線を移す。変わらずベッドに座っているコルネリエは、脱いだ靴下を丸めている。そして慎重に狙いを定めて、畳んで置いてある私服の上に靴下を放った。言っていることとやっていることの差に、つい、笑ってしまった。この人はたまに、ひどく子供じみた仕草を見せる。
「何よ」
「いえ。一応、俺たち、真面目な話、してるんですよ」
「そうだよ」
「なら、靴下で遊んでる場合じゃないでしょう」
「遊んでない。明日の朝、すぐ行動ができるようにしただけ」
 ここから真面目な顔をして議論を再開させるのは骨が折れそうだ。空き缶が満載された袋を拾い、口を閉じて邪魔にならない所に放り直す。
 そしてソファでも使わせてもらっていた毛布三枚を引き続き借りることにして、フローリングの上に直接寝転がった。
「本当にそこで寝るつもり? 背中、痛くない?」
「外とか、店の床とかよりはマシですよ」
「そ。じゃあ、電気消すね」
 コルネリエが腕を伸ばし、味気ない電球傘からぶら下がる紐を三度引いた。真ん中の暗い電球は点けないらしく、本当に真っ暗になった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 背中に当たる木の硬さと冷たさのせいで、全く眠れる気がしなかったが、とりあえずそう返事をした。


inserted by FC2 system