第4章 禁じられた願い
27 拒絶


 この建物は、壊されずに済んだグテル魔法研究所をそのまま使っているらしい。ログナは床に座ったまま、ガラス越しに外の景色を見た。眼下にはきちんと区画整理された町並みが広がり、奥には、レイエド砦の威容がある。その遥か彼方に、山脈が連なっているのも見えた。位置からして、ダタ山脈だろう。
 なかなかの眺めだが、独房代わりのこの隠し部屋に閉じ込められ、すでに三日目だ。いい加減に飽きてしまった。
 何もすることがない。
 こうもすることがないと、考えないようにしているのに、嫌でもレイのことを考えてしまう。
 目の前にあるガラス一枚をとっても、思い出す出来事がある。
 昔、騎士団本部の庭でリルとともに訓練していたとき、リルが、休憩を終えたバルドーに後ろから話しかけられて魔法の制御を乱し、騎士団本部のガラスをぶち破ってしまったときがあった。微笑さえ浮かべながら庭にやってきたレイは、その微笑みに騙されたリルの首根っこを掴んで騎士団宿舎の裏手まで連れて行き、きつく説教した。
『戦場で少しでも集中力を乱したら、お前のせいで、お前か、お前以外の誰かが、殺されるんだからな』
 漏れ聞こえてきたその言葉は、今でも胸に刻んでいる。
 魔王討伐隊の結成当初、威厳に欠けるカロルが隊長ということもあり、隊はばらばらだった。すでにカロルとログナの間で信頼関係が出来上がってしまっていたため、豪快な両手剣の扱いとは裏腹に、やや人見知りのところもあったバルドーはなかなか馴染めなかった。同じ立場のリルが積極的に話しかけたことで、馴染み始めたが、今度は、カロルとログナ、バルドーとリルで、それぞれ別の隊を形成しているような状態になってしまった。
 カロルが魔法剣を発現しなければ隊長になる予定だったクローセは、カロルや他の隊員を軽く見ていて、いつも一人で魔物と戦って一人で事後処理を行っていた。五人の隊ではなく、カロル隊とバルドー隊、そこにもうひとり騎士団員が加わって一緒に戦っているだけの状態だった。
 そんな隊にとって、気安く打ち解けながらもしっかり注意ができる、レイの存在は大きかった。カロルの言うことはすべて聞き流していたクローセだったが、騎士団にいたころからレイを尊敬して、昔のレイの長い髪型まで真似していたから、レイの言うことならばなんでも聞いた。レイはもちろん、そのことをわかっていて、うまく隊を導いた。レイが参戦したときは、レイの的確な助言のもとで五人は効率よく連携して戦え、自分たちの動きがいつもよりもよくなったような錯覚を覚えた。やがてその錯覚が親近感に変わっていき、徐々に徐々に、隊としてまとまっていった。
 もともと個人技で好き放題に暴れ回るのを得意としていたカロルは、レイの与える的確な助言や、レイが討伐隊隊員や騎士団員を危険から守りながら戦う様子を見て、隊長が負うべき責任を考えるようになっていった。クローセは、そんなカロルを見て隊長職への未練を断ち切り、レイがいないときに、あえて隊内の嫌われ役を引き受けるようになった。カロルを助けるために戦いはするが、捨て石としての扱いに対してひねくれた思いを持っていた当時の自分も、それを見抜いたレイに何度も気遣われるうち、この人の期待に応えたいと思うようになっていった。
 人を守って感謝されるときは、自ら引く。人を守りきれずに罵倒されるときは、先頭に立ちすべてを引き受ける。
 レイは、不世出の、騎士団長だった。
 自分にとっては、賢王ロシュタバ以上の、カロルと同じ、英雄だ。
 冷たい床に座りこみ、窓ガラスごしの街の景色を眺めるともなく眺めていると、
「昨日も言おうと思ったんですが、どうしてわざわざ床に座ってるんですか」
 物音ひとつ立てずに入ってきたミスティが、呆れたように言った。右腕に、袋を抱えている。
 ログナは伸ばしていた両脚を曲げ、そこに肘を置いて前かがみになった。
 眼下の街並みから視線を外し、目だけしか見えない白い頭巾を被ったままのミスティを見る。
 ミスティは手にしていた袋を丸い机の上に置いた。
 沈んでいた気持ちをどうにか立て直して、話を合わせる。
「椅子が小さいんだよ俺には」
「ああ……」
 白い頭巾を外して外套の内側にしまい込みながら、ミスティは椅子に座った。
「すみません。そこまで気が回りませんでした。男の人はここに入れたことがないので」
「バルドーもか?」
 話題が転がってきたので、つい、口をついて出てしまった。退団した人間のことを話すと、ミスティが怒り出しかねない。
「バルドーをわたしの部屋に入れたりしたら、リルが怒るじゃないですか」
 けれどミスティのほうも、自然な流れだったからか、笑顔で応えた。ミスティは慌てて笑顔をしまい込んだ。
「そうでした。いまのログナは、敵なんですよね」
 自分に言い聞かせるように言った彼女は、ガラスのほうに視線を遣った。その横顔には、見覚えがあった。
 まだ両親と離れて間もないころ、ミスティはログナたちがする雑談にほどほどに話を合わせながら、よくこんなふうに横を向いて、視線をさまよわせていた。
 昔と似たような孤独を感じ取ったログナは、
「俺じゃお前の敵にはなれねえよ」
 と呟いた。
「実力が違いすぎる」
 苦笑いしながら、言って見せる。
 するとミスティは、眉尻を少し下げ、そのあと、冷めた表情をつくった。
「よく、笑えますね。わたしより弱くて笑っていられるログナなんて、もうそれは、ログナじゃないですよ」
「ひょろひょろの土魔法しか使えない俺に、どんな夢見てんだ」
「そういうことを言わないでください!」
 ミスティは突然、怒鳴った。
「ラシード砦で、戦った時も、そうでしたけど。そんなふうに、自分を貶めるような笑い方をする人じゃなかったはずです、昔のログナは」
「昔の俺ね……」
 往来を行き会う人々、資材運びの荷車、魔物の肉や革製品を売る露店などをぼんやり眺めながら言う。
「そんなことより、王国の生き残りと和睦する話、考え直してくれたか?」
「またその話ですか。できません」
 吐き捨てるような言い方だった。
 口調こそ丁寧だが、そこには断固とした拒絶の色があった。
「わからない人ですね。ここは、昔の、グテル市です。王国軍が救援をせず、見殺しにした場所」
 ミスティはガラスの向こうを見つめたまま、
「十年前は、この建物以外、ほとんど何も残っていませんでした。ただの瓦礫と死体の山。十歳だったわたしよりも、ずっと小さな子供たちが、玄関先に転がっている死体を踏み越えて、家の残骸に押し入り、ただひたすら食べ物を求めていました。わたしは、十歳のころのことを……ログナたちと旅したころのことを、今でも鮮明に思い出せます。あの子たちにとっての懐かしい思い出は、両親や友人が魔物に喰い殺されて、少ない食料を奪い合った風景なんです」
 ミスティはふたたびログナに目を向けた。
「王国は、グテル市が魔物に喰い荒らされる状況を放置して、生きのびました。自分たちが危なくなったときだけは、助けろと?」
 ログナは頷いた。
「もし本当に王国が滅んだなら、いまはもう、ただの人間だろ」
「そうだとしても、王国の人間だったことに変わりはありません。過去は消せない。あの子たちは、絶対に首を縦に振りませんよ」
 ミスティはそこまで言って、くすりと笑った。挑んでくるような、皮肉な笑顔だった。
「さっきからやけに王国側の肩を持ちますね。わたしたちはグテル市と一緒に切り捨てられたのに、どうすれば王国に……王国の残骸に、尻尾を振る気になるんでしょう。懸賞金の撤回のほかに、どんな取引を持ちかけられたんですか。金ですか、地位ですか、女ですか?」
「どれでもない」
 ログナは挑発には乗らず、淡々と言った。キュセ島に残してきた孤児たちの顔を、送り出してくれたルーの泣き出しそうな笑顔を、思い出しながら。
 ミスティは笑みを消し、少し考えてから、
「レイに助けを求められたから、ですか」
 正確には違っていたが、否定する気も起きなかった。
 キュセ島の島民の命を取引材料にされて、キュセ島を出てから、もうすぐ一か月が経つ。
 ラシード砦を攻略し、ミスティと戦いぼろぼろに負け、王都北部城塞ではミングスやルダスや新種の魔物を退け、ガーラドールに一太刀を浴びせ、レイの死を知った。
 レイの死を知った途端、全身の力が一度、抜け出ていってしまったような気がした。それでも、部下の命を預かっているから、キュセ島のみんなが自分の帰りを待ってくれているから、あまりだらしないことはできなかった。けれどいまは、守るべき部下とも一度離れて、ただ、一人の人間として、部屋に閉じ込められている。
 その自分と向き合ったとき、心の奥底へ無理やり沈めた激しい後悔に気付いた。
 ……レイを、守れなかった。
 全身に土魔法の刺青《いれずみ》を入れるという、とてつもない激痛に耐え、死に物狂いで習得した防御魔法。それしか誇れるもののない自分が、守ることだけしかできない自分が、また、カロルのときと同じことを繰り返した。
 これから先、旧ロド王国の人間たちは、人類は、経験したことのない圧倒的な強さの魔物たちと、カロルもレイも失ったまま、戦わなければならない。
 膨大な魔力の放出に耐え切れず吹き飛んだカロルの右腕。窓枠に引っかかっていたというレイの左腕。いまの人類は、両腕をもぎり取られたに等しい。
 勝てなければ全員、魔物の餌食になる。万が一、勝てたとしても、ほとんどの人間は死ぬだろう。
 そのとき自分は、部下を守れないかもしれない。
 もう、誰かが死ぬのを見るのは嫌だ。
 だから、もう、戦いたくない。
 奥底に沈んだ、幼い自分。戦いたくない、誰にも死んでほしくない、これは悪夢に違いない、そんなことを喚き散らす自分がいる。
「俺には、防御魔法しかないのに」
 自分が言った言葉に息苦しくなり、ログナは顔を伏せた。
「また、守れなかった」
 ぎゅっと目をつぶり、握りしめた拳を、太ももにぶつけた。
 一瞬で沸騰した感情が零れ落ちるのを堪え切ったログナは、目を開け鼻をすすり、顔をあげた。
「いま受け持ってる部下、面白いやつらなんだよ。自由なふりして人一倍気を遣うやつとか、人を守る時だけ力を発揮するやつとか、無表情のくせに誰にも負けないくらいの闘争心をむきだしにするやつとか。そいつらを、守ってやれる自信がない」
 もう、誰かが死ぬのは見たくない。これ以上は、耐えられない。
「どうしても、和睦できないのか。カロル兵団と王国の生き残りが和睦すれば、俺が前面に出ているような状況より、死ぬ人間はずっと減るはずだ。俺の部下も死ななくて済むかもしれない」
 ミスティは意識的にか無意識にか、左手で、顎を境に走る二本の大きな傷跡に触れた。
「クローセから、話は聞いています。クローセに預けた部隊が潰走させられた敵に、一太刀浴びせて、撃退したそうじゃないですか。それほどの実力を持ちながら、部下を守れる自信がない? 甘えないでください」
 ミスティは、ログナの自虐を怒った先程のように、ラシード砦でログナの不甲斐なさを謗《そし》ったときのように、蔑みを隠しもしなかった。
「いまのわたしは、たしかに、ログナより強いかもしれません。でも、ログナ。いまの言葉は、わたしに頼れば、自分は部下の死の責任を負わずに済むと考えているように聞こえますよ。そんな人の提案に、わたしは、わたしや団員の命を預けられません」
 ミスティはやはりもう、あのときのミスティではなかった。
 しっかりと、大人になっていた。
「この話は今日で終わりです。わたしたちはロド王国の残党と、絶対に、連携するつもりはありません。その代わり、諦めることもしませんよ。最後まで」
 ミスティは立ち上がって、白い頭巾を被った。
 続いた妙な呟きが、ログナの耳に届く。
「カロルのことも」
 けれどそれについて訊《たず》ねる暇もなく、ミスティは廊下の奥へと進んでいった。



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