26 十年間の結晶


 暴行騒動以降、ヴィーヴィとの立場が逆になった。
 トライドとログナはすべての武装を返還された。両手を縛っていた縄を外され、革の鎧に着替えることも許された。
 ヴィーヴィはすべての武装を解除された。後ろ手に縛られ、貧相な麻の服に着替えさせられた。
 クローセは、ログナの身の回りのことが悪意を感じる行動によって滞ると、苛立ちをあらわにした。トライドやログナにちょっかいをかけようとする者はいなくなった。やれば、首が飛ぶ。部下は全員、承知したようだった。ヴィーヴィの部下だという二番隊の隊員にすらも、一切の文句を言わせなかった。ヴィーヴィ本人すらも、文句を言わなかった。
 ……ルーアがここにいれば。
 張りつめた空気の中でトライドは思った。ルーアがいれば、この空気を変えてくれるかもしれないのに。
 トライドも彼女の真似をして、何度か明るい声を出して場を和ませようとしたが、すべて空振りに終わり、いまはもう黙り込んでいる。ルーアのように場を明るくさせる道化を演じることはできそうにない。
 ルーアが過剰に明るさを振りまくのは演技だと、小さなころから一緒に育ってきたトライドは知っている。本性に近いのは、イシュと初めて顔を合わせたときの、相手を見下すような冷めた顔だ。その、明るい中で時折見せる冷めた本性によって、彼女は孤立してきた。ログナの前ではそういうことがないようにと、だいたいいつも明るく振る舞っている。それは知っているが、演技でもいいから、ルーアの明るさがほしかった。
 一日、二日、一週間と、これから死地に向かう者たちのように重苦しい空気を抱えたまま、隊列は進んでいった。
 そんな隊列が、にわかに明るさを取り戻したのは、トライドとログナが拘束されてから八日経った朝だった。トライドが日付を数えている限りでは、もう、一月に――王国暦一二九六年の、一月三日になっているはずだった。
 王国の年齢制度は、数え年だ。全員が、一月一日に一歳、年を取る。だから、すでにトライドは十九歳になっているはずだが、この状況では感慨も何もなかった。騎士団の宿舎でささやかな新年の祝いをした去年のことが、遠い過去のように思える。カロル兵団の兵士たちも、新年を祝うこともできず、ただひたすら歩かされている。どこに明るくなれる話題があるのだろうと思いながら、地面に向けていた顔をあげた。
 そこに広がっていたのは、これまで通ってきた道のような、魔物に破壊しつくされた街や砦の残骸、人や動物の骸や骨の数々ではなかった。見ているだけで気が滅入る、これまでのような道ではなかった。
 目を疑うような、農村地帯。
 幾重にも築かれた石壁、石塁、土塁、空堀、堀、対空の魔物用に高く組み上げられた櫓。そういったものものしさと、王国よりも暖かい風が吹く農地が、一緒に存在している。西の方は東よりも温暖で、冬でも採れる作物があると、本で読んだことがある。魔物の勢力伸長に怯えながらも、あえて西の町々で暮らしていた人たちが多くいたのは、主にそういった環境面での魅力があってのことだった。だがそれは過去の話のはずだ。西の町々は、グテル市は、あの日、大虐殺によって滅んだ。
「どうだ。驚いたか?」
 前を歩く名も知らぬ兵士が、首を軽く曲げて、嬉しそうに声をかけてくる。
「俺たちの十年間の結晶だ」
 トライドのすぐ隣で荷車を引く兵士――おそらくノルグ族の兵士が、誇らしげに言う。
「すげえな」
 その荷車に乗せられているログナが半身を起こして、呟いた。あれだけの暴行を受けながら大きな怪我もせずに済んだ彼は、八日経った今ではすっかり体の調子もいいようだった。
「これを、ミスティが……」
 続いたログナの呟きに、複雑な感情を感じ取ったトライドは、彼を見るのをやめて、正面に視線を戻した。

 グテル市中心部への途上には、兵士たちがレイエド砦と呼ぶ、立派な砦があった。
 近づけば近づくほど、高く積み上げられた石壁が与える圧迫感が増していく。間近で見るその威容に、トライドは息をのんだ。これは、執念だ。魔物に、絶対に壊されてたまるかという執念の産物。
 梯子《はしご》を何本重ねれば、この石壁を乗り越えられるのだろう。そう思わせるほどの、ただでさえ高い石壁なのに、砦の左端と右端にそれぞれつくられた櫓は、近くまで来てしまうと、首を思い切り上に曲げなければ、一番上の階層が見えなくなっていた。飛行型の魔物が襲ってきても、おそらく問題なく撃退できてしまう。
 砦の正門は王都北部城塞の、三ノ砦と四ノ砦を完全に切り離してしまっていたあの重厚な鉄扉に似ていた。先頭のクローセが門を開けるように大声を張り上げると、その扉が外側へと開く。中から扉を押し出した兵士たちが見守る中、クローセのあとに続いてトライドたちが砦に入ると、中にも石壁が張り巡らされていた。石壁はよく見るとどこにも小さな穴が空いていて、中から一方的に攻撃できるようになっている。その石壁は、まっすぐ進んで突き当ったあと、右側にしばらく進んで、左側に少し進んで、右奥に進んで……というように、うねうねと入り組んだ構造になっていた。トライドはしばらく、ぐるりぐるりと同じ場所を行き来しているかのような錯覚を起こした。
 石壁の道の終わりにも鉄扉があり、またそれがクローセの声によって内側から開く。開いた先には短い坂があった。きつい傾斜で、上から集中砲火を浴びせたり、何かを投げたり転がしたりして足止めするには絶好の場所だ。ここの両脇にも石壁とそこに空いた穴がある。人間や魔物がここを突破するには、どれだけの死を積み上げなければならないのだろう。
 坂を上り終えると、また鉄扉があった。鉄扉を通った先は市街地のようになっていた。
 これまでの砦の造りがあまりにも立派だったため、家屋は、王都にも負けず劣らずの建物が立ち並んでいるのだろうと想像していた。
 だが、王都には全く及ばない。及ばないどころか、トライドとルーアが住み暮らし、裕福とは言えなかったコンフォールド地方よりも、はるかに見劣りする。
 部隊が素早く展開できるようにか、大きく開けた主街道の両側に、家々がある。家というよりも、馬小屋と言った方がいいかもしれない。それくらいみすぼらしい木造の貧乏長屋が、いくつもいくつも軒を連ねている。そこから見える人々の暮らしぶりは、豊かとはいえそうにもない。いくら温暖とはいえ、いまは冬なのに、薄手でぼろぼろの布きれを着ている人もいる。人々はぼんやりと眠そうな顔をして、隊列を眺めている。
 まだ一部を見ただけだが、おそらくこの砦の防備は、王都北部城塞にも劣っていない。当初は対ノルグ族の意図を込められて建造された王都北部城塞とは違い、初めから魔物だけしか考えられていない。魔物をいたぶり殺す、そのためにこの砦は生み出された。
 けれど、賢王ロシュタバが増改築を繰り返して作り上げた王都北部城塞に迫るほどの防備だ。人々の暮らしを豊かにしながらそんなことを成し遂げられるほど、現実は甘くない。逆に言えば、人々はこの防備を手に入れるためなら、いかなる不自由も甘んじて受ける覚悟があるということだろう。
 王都の東南、魔物の脅威があまり大きくない町で育ったトライドは、肌が粟立つのを感じた。あまりにも、育ってきた環境が違いすぎる。
 未だ撤去されていない、十年前の虐殺の痕跡が――血と思しきどす黒い液体のあとがべったりとついた家の石壁の一部、焼けた木造家屋の残骸、ログナに従ってあちこち行くようになってから見慣れたものになった痕跡が、いたるところにある。他の場所と違うのは、その痕跡がしっかりと保存され、花がその周辺にあふれていることだ。摘んだ花が石壁の近くに供えられ、また、石壁の周りは花畑のようになっている。色あせた馬小屋の一角に、赤、紫、黄色、冬に咲く花々が集めてある。あざやかな異郷が突然現れたかのようだ。
 おびただしい血痕に染まった石壁と、清廉に開く花々が同じ直線上に並んだその場所で、トライドは思わず隊列から離れ、立ち止まった。目を閉じて『聖母リリー、かの者らに安らぎを』と唱え、また、隊列に戻った。
 いくつもの花壇や鉄扉を通ってレイエド砦を抜けると、ようやくグテル市に入れるようだった。
 グテル市の重々しい正門が、手前側に、のろのろと開く。
 その入り口で待っていたのは、白い頭巾を被った、あの少女だった。
「半年ぶりね。ミスティ。元気だった?」
 クローセがそう言うと、ミスティは小さく頷いて、何も言わずに踵を返した。



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