28 懲罰房


 トライドは、独房に収容されるというログナから引き離されて、通常の牢と隣り合う、兵士用の懲罰房に押し込まれた。
 鉄格子が、大きな音を立てて閉められ、看守が去っていく。何とはなしに左に顔を向けた。
 広々とした空間のなか、ひとりの少女が立っている。ヴィーヴィと呼ばれた、トライドと同じくらいの年齢の少女だ。赤い布を頭に巻いている彼女もまた、トライドのほうを見ていた。その不機嫌な鋭い目と、トライドの目がかち合う。ヴィーヴィが先に目をそらした。
「なんでこんなところに、こんな奴と……」
 聞こえよがしに悪態をついたヴィーヴィは、牢の奥、正面から見て右隅の方に歩いて行った。
 座ってから体を横たえ、体を丸めて壁に顔を向け、
「少しでも近づいたら殺すから」
 そう言ってすぐ、静かになった。
 トライドは言いつけを守ってその場に座り、壁に寄りかかった。
 ここへ入るとき、返還されていた装備をふたたび没収されて、いまは革の鎧を着こんでいるだけだ。
 この鎧も、どうせ牢にいるのだから、脱いでしまいたい。いくら革で編まれた鎧とはいっても、きちんと硬度が上げてあるし、休むのには体を圧迫しすぎる。道すがら、酒にひたした布で拭いてみたが、それでも拭いきれない魔物の返り血が、少しばかり異臭を放ち始めてもいる。けれど、隙間風がどこからか吹いてきて、寒さに身震いし、トライドはすぐに考えを改めた。多少の窮屈さは我慢して、着こんでおくことにした。
 夜はきっと、寒くて眠れないので昼間に眠り、朝、昼、夜とかびたパンを貰って食べる。それ以外の時間は何も、することがない。暇であることに耐え切れず、体力維持のための運動を始めたけれど、パンのかけらしか食べていないのだから、逆に体力を消耗するだけだと気づいてやめた。それからはずっと静かに目を閉じ、なるべく何も考えずに、休息に徹した。
 懲罰房生活が二日目に入ると、ヴィーヴィは見るからに苛立ち始めた。鉄格子を何度も蹴りつけ、しまいには、遠く、牢の入り口にいるはずの看守に向かって早く出せと怒鳴り散らし始めた。
 騒がしいのはルーアで慣れているけれど、ヴィーヴィの攻撃的な騒がしさは耳障りなだけだった。
 あまり人に対して苛立たない、攻撃性が強くないので実戦に向かないという、自身の性格に対する自覚はある。それでも、何もすることなく過ごしている中で、同じ牢にいる人間に騒がしくされると、さすがに苛立ちも沸き立つ。
「少し座ってれば? どうせしばらく出れないんだし」
 堪え切れずに注意すると、
「うるさい!」
 予想通りの攻撃的な怒鳴り声。
 ……まるで子供だ。
 内心で呆れつつ、壁に後頭部をくっつけ、天井を見上げた。
 早く外に出たい。外では、各地で魔物たちが大暴れしているのだろう。ログナの話では、ルーアやイシュたちに、訓練を行いながら間隔を空けてついてくるように伝えてきたらしい。自分はこんなところに座っているだけでいいのだろうか。
 ただ、とも思う。自分が外にいたところで、特に何かの役に立てるとは思えない。特に、北部城塞を出るときに見た、二ノ砦、一ノ砦の、あのような惨状を目の当たりにしてしまっては。
 何度目かの八つ当たりを鉄格子にぶつけたヴィーヴィを、横目で見る。彼女は、苛立たしげにその場に座った。
 そして足を小刻みに揺らしながら、
「早く出ないと……もう五百に……」
 小さな声で呟く。
 ……五百?
 疑問に思ったが、また怒鳴られるのも嫌なので、黙っていた。
 二日目も、何もせずに朝が過ぎ、昼が過ぎ、夜が過ぎようとしていた。
 ヴィーヴィは懲りずに鉄格子の、扉の辺りを重点的に蹴りつけ続けていた。トライドが眠っていようがいまいが、近くの牢にいる罪人から苦情の声が飛んでこようが、お構いなしだ。
 昼に眠ったので、夜は、暗闇の中でじっと起きている。
 今日もそろそろ、我慢の限界だった。あんなにうるさくても一応は女なので、同室でするのはさすがに気が引け、なるべく我慢しているが、それでも無理なときは無理だ。立ち上がって、部屋の左隅にある便器に向かい、用を足した。トライドを置き物のようにしか考えていないように思えるヴィーヴィのほうも、一応は自分と同じような気恥ずかしさを感じるらしく、何も言わずに、『あっち向いてて』とだけ言って便器に向かうときがある。便器の下に深くまで穴が掘ってありそこに直接落とす仕組みらしく、用を足した音が部屋には響かないのが幸いだけれど、五人も六人もいる牢だったら、においが悲惨だろう。
 罪人も大変だ……などと呑気な事を考えていたら、なにか、壁から音がした。何かが、外れるような音。
 ログナが助けに来てくれたのだろうか、と一瞬考えたが、そんなはずはない。左隣は、労役に従事している様子の罪人たちの共同房、右隣は、誰も入っていなかったはずだ。
 便器から退いて、暗闇の中でじっと目を凝らす。夜になってしばらく時間が経っているので、目が慣れてきている。
 やがてトライドは、昨日、ヴィーヴィが眠っていた場所、部屋の右奥の隅辺りにある壁石が、次々に外れていっているのに気付いた。
 今は鉄格子に近い場所で丸まって眠っているヴィーヴィは、全く気付いていない。この寒い夜にぐっすり眠れるくらいだ、眠りに入り込みやすいのだろう。
 うるさい言葉が返ってきそうなので迷ったが、ろくでもないことになりそうな予感があったので、叩き起こした。
 寝ぼけて何か呻いた彼女は、しばらくぼうっとしたあとで、トライドを突き飛ばそうとした。あまり力が入っていなかったので、よろけただけだった。
「な……な、なっ、なっ」
 何か勘違いしている様子のヴィーヴィに、
「違う。あっちを」
 と言った途端、壁の奥から人影が部屋に入ってくるところだった。
 ヴィーヴィがわざわざあれだけ大声で、女が隣の牢にいると教えていたのだ。こちら側に入り込んでやることなんて、決まっている。
 これまでの自分だったら、簡単に決めつけることが出来ず、相手が何かをしてきたときに、初めて動いたかもしれない。
 けれどいまは、自然に体が動いた。トライドは男が何も言わないうちから、静かに歩いて近づき、距離が縮んだところで駆けて、ぼんやり見える腹の辺りを目がけて、そのまま右拳を振り抜いた。男のうめき声が消えないうちに、声が聞こえた位置から判断し、顎に打撃を加えた。かくんと体の力が抜けた男は、トライドが蹴りつけると、入ってきた壁の辺りに情けなく腰を落とした。
「俺は王国の騎士だ。退け!」
 無理矢理に低い声を作って、怒鳴る。倒れ込んだ男の体を引っ張る手が伸びて、壁石によってまた、穴が塞がれていった。
 意外と素直だ。はったりが効いたらしい。
 トライドは壁が閉じ切るのを確認した後で、何度かむせた。無理に変な声を出したせいだ。
「何それ。恩でも着せたつもり?」
 ……やっぱり、子供だ。
 人に頼るのが大嫌いなルーアだって、人に何かしてもらったら、一応、お礼を言うのに。
「そうなったら、気分が悪くなりそうだと思っただけだよ。子供には、わからないだろうけど」
 同い年くらいのトライドに子供扱いされても、ヴィーヴィは何も返事を寄越さなかった。
 ほどなくして、小さな寝息が聞こえ始めた。
 明けて三日目、昨日までのうるささが嘘のように、ヴィーヴィは黙り込んでいた。
 ようやく静かに眠れると思いながら、朝の食糧配給のあとに眠った。
 便器に足を向け、頭を鉄格子に向けて眠っていたトライドが目を開けると、反対側の壁によりかかったヴィーヴィがじっとこちらを見ていた。
「なに?」
 ヴィーヴィが何も言わずにふいと視線を逸らした。
 水分不足のせいか、軽い頭痛を覚えながら体を起こす。
「ねえ」
 両手の付け根で両目をぐりぐりと押し込んでいると、声が聞こえた。
「脱走に協力するつもりはない?」
「え?」

 ヴィーヴィが説明した通り、四日目の朝の食料配給と同時に、鉄格子が開けられた。
「出ろ。水浴びの時間だ」
 後ろ手に縛られ、着いてくるように言われる。きょうは週に一度の休日で、囚人たちに水浴びが許されるという。全員が水浴びが許されるが、まずは懲罰房の兵士から外に出される。カロル兵団はロド教を信仰していないようだが、週に一度の水浴びは習慣として残っているのだろう。
 ロド王国では、身を清めるために、週に最低でも一度は水で体を洗い流すことが奨励されている。
 夏場は川でも構わないが、冬場はお湯を沸かして入ることが多い。
 けれどやはり、そんな贅沢は望めなかった。
 牢は川の下流側近くにあり、上流から流れてくる水は、あまり衛生的とは言えない色をしている。
 いくら王都に比べれば暖かいとはいえ、入る前よりも体が汚れそうな川で水浴びをして、肺でも患ったりすれば割に合わない。
 縛られていた手が兵士によって解かれ、自由になったが、辞退しようと後ろを向くと、兵士でなくヴィーヴィがすぐ後ろに立っていた。
 笑顔で、
「は、い、れ」
 と言った。
 トライドは仕方なしに、革の鎧を外す。中に重ね着していた麻の服を脱ぎ去り、上半身裸になった。脚衣を脱ぐ前に、ヴィーヴィに向こうに行けと言おうとすると、彼女はすでにトライドから離れて、服を脱ぎ始めていた。しかし、ついてきている男の目の届く範囲にお互いいなければならない。こちらに背を向けている彼女の、裸の背中がはっきりと見えてしまった。トライドは慌てて目をそらした。
 恥ずかしくて、目をそらしたのもあった。けれどそれだけではなかった。ヴィーヴィの背中は、魔物の体液か何かで焼けただれたようになっていて、そのあまりにもむごい傷跡の上に、大きな水龍の刺青があった。おそらく、水魔法の発動に必要なのだろう。けれどあのぐずついた傷跡の上にあんなにも大きな刺青を彫るというのは、想像を絶する痛みを伴うものに違いない。
 牢に入ってからはただうるさいだけの印象しかなかったが、やはり、カロル兵団の二番隊隊長というのは本当なのだろう。
 トライドは脚衣を脱ぐと、手で川の水をすくい、体にかけた。その冷たさに、思わず尻込みしそうになるが、意を決して流水の中に分け入った。
 ほどなくして歯ががちがちと音を立て始める。
 これは、想像以上に、寒い。
 体についた垢をこすり落とすようにして全身をさすり、少しでも体を温めようとするが、あまり意味はなかった。
 しばらくそうしていると、監視していた兵士が上がるように言ったので、飛び出すようにして川から上がった。
 懲罰房の人間に対しては、監視が甘い。脱走しても損ばかりで、何の利益にもならない、ということらしい。貴重な戦力である兵士は、よほど重い罪を犯したものでなければ、衰弱するまで牢に入れ続けられることはないからだ。
 けれどヴィーヴィは、どうしてもすぐに牢から出なければならない理由があるという。ヴィーヴィが牢で脱走を提案したとき、トライドはすぐに断った。すると彼女は、唇を噛んでから、お願いしますと、牢の床に頭をこすりつけた。一時は、ログナとトライドを殺そうとした女だ。簡単に信用はできなかった。そう言うと、仕方なくといった様子で、なぜ脱走しなければならないのかを説明し始めた。
 ヴィーヴィが言ったことは、十分に起こり得そうな出来事だった。もしヴィーヴィが言ったことが本当なら、ログナとミスティの関係を軸に、カロル兵団と王国騎士団の残党を結び付け、王都奪還を目指すという作戦は、不可能になってしまう。
 トライドは上がるとすぐに、兵士が置いてくれた使い古された布を使って全身を拭き、大急ぎで服を着た。震えながらヴィーヴィの方を見ると、既に着終わっていたヴィーヴィの方へと兵士が近づいていく。ヴィーヴィはその瞬間、素早い動きで兵士の背後に回り、兵士を川に突き飛ばした。
 トライドとヴィーヴィは、すぐさま走り始めた。
 まずはヴィーヴィの部屋に寄って、魔石のついた手袋を調達しなければならない。



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