ヒトクビオロチと生けにえのクロ

下 オロチの生けにえ


 途中の草むらで一晩野宿して朝、村に戻ると、村はずれの広場にある祠が崩されていた。崩された祠のレンガが整然と並べられ、オロチの通り道が完全にふさがっている。
 わたしは周りを見回しながら注意深く祠の残骸に近寄った。
 白いレンガのひとつを、じっと見、手で触る。何かで叩いたあとがある。レンガとレンガの隙間には、粘着質な土が張り巡らされている。

 ファタおばさんは、三日後と言っていた。まだあの時から一日半しか経っていない。残りの時間全てを使ってオロチの出入り口周辺にあらゆる罠を張り、敵の人数を減らすことを考えていたけれど、なんだか胸騒ぎがする。
 木の幹の陰から木の幹の陰、木の幹の陰から背の高い草むらへ、背の高い草むらから作業小屋へ、作業小屋から三角屋根の家へ。家のなかには人の気配がなかった。狩猟につかう武器が残っていれば盗んでいこうと思ったけれど、それもない。オロチを退治しに行ったにしてもおかしい。女や子供や、彼女らが身を守れる程度の武器は残していくはずだ。

 ファタおばさんの家を確認して中に誰も人がいない。自分の家の手前まで来たところで、ふと、立ち止まった。敵は生贄のわたしのことを知っているはずだ。誰もいないと油断させておいて、待ちかまえてはしないだろうか。
 少し考えて、ファタおばさんの家に戻る。台所を物色するが、ここにも刃物などは残っていない。仕方なく、ファタおばさんの室内履きを空の鍋に入れて、外へ出る。深く策を考える時間はない。

 足音を立てないように自分の家の木戸の前に近づく。鍋をいったん置き、ファタおばさんの室内履きを両手にはめて、四つん這いになりながら玄関の手前まで近づく。
 わざと大きな音を立てて戸の前に止まったところで、槍の穂先と柄の一部が木戸から突き出し、背中の上を通った。わたしはすぐにサンダルから手を外して槍の柄を左手でつかみ、思い切り引っ張った。内側から押して開く木戸だから、バランスを崩した槍の持ち主が、中から前のめりに出てきた。

 地面に置いていた鍋を右手でつかみ男の頭に思い切り振り下ろす。鈍い音がして、男が手に握っていた槍から力が抜ける。左手でつかんだ槍を引くと、木戸に刺さって外れなかった。外そうとしていたら、中からもう一人の男が飛び出してきた。

 ――くそ。

 槍はあきらめて、右手に持ったままだった鍋をぶん投げる。男は槍の先で突いてはじき落とす。その際にはっきりと顔が見えたが、村人じゃない。
 立ち上がって、ファタおばさんの室内履きを男の右側に向けて投げる、男は歯牙にもかけず、槍を突き出す。右側から飛んでくる室内履きが視界に入っている男の突きが、やや左寄りになる。わたしは右へ体をねじって避け、そのまま男に向かって駆けだす。槍が刺さった木戸と一人目の男を跳び越える、組みつく。二人目の男が倒れてちょうど腹の上に乗るかたちになったので、右手の人差し指と中指を強く突き出す。両目を潰したと同時にまた跳び、男の頭を超えて家の中へ入り、水がめ――土器――を両手でひっつかむ。それを、叫びながら立ち上がりこちらを向こうとした男の横顔に叩きつけてやった。土器がにぶい音とともに砕け散り、中の水が勢いよく吐き出された。男は再び倒れて動かなくなった。

「たった二人で殺そうなんて」

 息切れしながら、悪態をつく。

「オロチの生贄なめんな、ばーか」


 結局待ち伏せの二人以外、村に人はいなかった。槍を二本、左肩にもたせかけ、山道を駆けていく。二人と素手で殺し合ったせいで、体の節々に痛みがあるけれど、文句は言っていられない。さっき、オロチの叫び声が聞こえた。機嫌がいいとか悪いとかではかれる声ではなかった。オロチがじいちゃんとの戦いであげたに違いない、悲鳴のような声だった。
 山の中腹まで来ると、山道の上のほうで、まばらに人の気配が感じられるようになったので、わたししか知らない道を大回りして、山頂を目指した。

 草木に囲まれた山頂の広場では、オロチの背面部にある森林に出た。近くに祠があり、祠のそばにある石の収納箱の周りに、三人。祠から首と胴を出したオロチの体を、青色の封印呪が覆っている。
 そしてオロチの体をまじまじと見たわたしは、あげそうになった悲鳴をこらえた。槍、剣、包丁、なた、斧、体中に武器と言う武器が刺さって、赤黒い血が絶え間なく噴き出している。

 オロチの正面には、村の男たち。さらにその後ろには――村の女子供を一か所に寄せ集め、刃を突きつけている見知らぬ男たちがいた。数は十、二十、三十……三十六。いずれも戦うために鍛え上げられた肉体だと、服の上からでもわかる。やつらは笑いながら、オロチに負けず劣らずのやられぶりの村の男たちをはやしたてている。
 人質の中に、ファタおばさんと、おととい首飾りをくれた男の子の姿を見つけて、思わず飛び出しそうになった。

 けれどとどまる。
 考えなければ。この状況をどうにか逆転する方法を。
 手元には二本の槍と、石笛。敵はわたしよりも圧倒的に腕力に勝るだろう三十六人の戦士たち。
 いまこの間にも、封印呪で動きを止められたオロチの体には傷が増えていく。とぐろを巻かず伸ばしきれば、とても人の攻撃の届かない位置にあるはずのオロチの弱点――頭の位置が、だんだん下がってきている。
 わたしが生贄だと名乗り出て囮になっている隙に、村のみんながベイエス村の連中を……だめだ。村の連中だってわたしに気を取られて、何もしないだろう。

 ――違う。わたしの強みはそうじゃない。

 いまのわたしの強みは、オロチとの連携ができることと、連中に気づかれていないことだ。
 オロチはわたしがどこにいるかだいたいわかるはずなのに、さっきから一度も声を伝えてきてくれない。気配を探る余裕すらないのだろう。小さく石笛を吹けば、伝えられる。それには、祠のすぐ近くにいて石箱を見張っている三人が邪魔だ。オロチに伝わるような強さで吹いたら確実に気づく。二人なら槍を一本ずつ投げて、頭に刺されば即死させられる可能性もある。けれど、三人だ。

 人質がちらちらと目に入る。わたしとミュステを無視してきた村の連中なんかどうでもいい、と言えればいいけれど、こんな状況で殺したくない。ベイエス村の連中の手の上で踊らされて、なんて。
 歯噛みする。じいちゃんなら……じいちゃんが生きてたら、こんな連中、すぐに斬り捨ててくれるのに。

 顔をうつむけると、突然、歓声が上がって、またすぐに顔を上げた。
 憎らしいほどの青空に突き立っていた一本の巨大な塔――オロチの胴が、大きくゆれていた。
 弱りに弱ったせいか、オロチを抑え込んでいた封印呪の光すら消えている。

「あ……あああ……」

 十一歳のころから、いつも一緒だった。
 春も、夏も、秋も、冬も。
 わたしの四季に、いつもオロチがいた。
 毎日毎日、祠に通い詰めて、話し、笑い、怒り、沈黙を愛でて、ときには二人で歌い、踊った。

「ああっ……」

 影が大きくなり、笑いながら村の人々をもてあそんでいた男たちが、右往左往して、散り散りになった。
 村の男たちの反応はわかれた。呆然とオロチを見上げている幾人、人質の方へ駆け出す幾人。
 オロチは。
 わたしの大好きなバケモノは。
 ゆれて、ゆれて、ゆれて――。
 最後に左のほうへゆれたまま、力を失い、地面に倒れ伏した。


 石箱の周りにいた邪魔な男たちもいったん逃げた。
 すぐ飛び出そうとしたが、わたしの体はいうことを聞かず、揺れに足を取られて地面を這うはめになった。
 風圧が木々を、オロチの体が地面をはげしく揺らす。細い木を吹き飛ばし、祠の石積みを崩す。
 揺れがようやくおさまったところで、体の自由が戻った。持ち場に戻ろうとしている男三人の、二人に向けて、それぞれ槍を投げた。
 一人には突き刺さったが、もう一人には外れた。

「生贄がいたぞ! 武器を持ってる!」

 同時に、男たちが叫んだ。
 落とした槍に一直線に駆け、転がりながら拾い、振り向きざまに突き出す。何度も訓練してきた型の一つ。槍が、二人目の男の顔面を食い破る。
 すぐに引き抜こうとした時だった。
 わたしがいま、槍で顔を突いた二人目の男の腹のあたりから、何かが突き出してきた。

 ――三人目の、槍。

 避ける間はなかった。
 二人目の背中ごしに突き出された槍が、二人目の男の腹を貫き、わたしの体を、貫いた。
 胸のあいだのあたりから、背中へ、槍が抜ける。

「あ」

 言いつけを守って毎日毎日訓練して。
 こんな。
 こんなものなんだ。
 槍が、無造作に引き抜かれる。
 先ほどの男の怒声を聞いた何人かが集まってきた。

「オ……」

 出ない力を振り絞って、仰向けのまま、頭の方からのぞき込んでいる男の靴に手を伸ばす。

「こ」

 オロチ……。
 オロチを……。
 殺さないで。
 空を、六人の頭がふさいでいる。

「二人も殺しやがって。バケモノ女が」

 六人それぞれが、槍を持ち替える。
 六本の槍が振りかぶられ、わたしの体に、六つの大きな穴が開いた。



 暗い。
 暗くて、何も見えない。
 音もない。
 においもない。
 何もない。
 ただ時間だけがある。
 死んだ。
 どうしてだろう。死んだのに、考えている。この状況が何なのか、考えられている。

 オロチの顔がよぎる。
 よぎって、ふと、オロチがよく出していた舌を思い出した。
 ぺろ。
 なんだろう。においがする。真っ暗なのに、目の前になにか像がよぎった。
 オロチは言っていた。俺様は舌でにおいを感じ取っていると。においで世界のようすを感じ取っていると。
 ぺろ。ぺろ。
 血しぶきだ。みんなでオロチの首を切り落とそうとしている。
 だめ。そんなことをしてはだめ。

「おい」

 初めての音だった。

「俺様がいつ、勝手に死んでいいと言った」

「クロ、お前は、俺様の生けにえだろう?」

「違うのか?」

 ううん。違わない。
 わたしはオロチの生けにえ。

「このままだとお前は死ぬ」

「俺様の許可もなしに」

「だから」

「だから、赦せ」

 何を?

「オロチの血が、お前の中に通うことを」

 いいよ。

 オロチがしたいなら、赦す。



 手が動く。
 足も動く。

「おい、今――」

 音が聞こえる。
 視界が赤い。
 突き刺さっていた槍の一本を引き抜き、

「おい! おい、来て――」

 男の首に突き立てた。
 オロチの首にたかり、剣で切れ目を入れていた兵士たちが振り向く。
 わたしは自分の体に刺さった槍を一本一本引き抜いて、捨てていった。
 オロチの首の周りにいた男たちが、次々にこちらへ目を向け、立ち尽くしている。

「なんだ……そのうろこは……目の赤さは」

 唇の端から舌をぺろっと出す。
 戦士たちのあいだに流れるにおいがわかる。
 恐怖のにおい。
 わたしは近くの石箱にゆっくり向かい、蓋を外した。
 クサナギの槍。
 手に持つと、いつも訓練に使っていたただのボロ槍が、赤黒い光を帯び、その光が消えると、欠け一つないきれいな槍になった。

「ふふ」

 笑って、なぐようにふるった。
 風が巻き起こり、いまだ事態に気づかず、オロチに剣を振り下ろし続けていた戦士たちの体がばらばらになった。
 それを皮切りに、戦士たちがわたしに向かって殺到しようとした。

「あとはお前だけでやれるな」

 オロチの声が響いた。
 わたしは静かに頷いた。