ヒトクビオロチと生けにえのクロ

中 オロチへの敵意


 あまりにも気分がふさいだので、ファタおばさんの家に向かった。
 この村の家の壁は円状に積まれた石造りでできているけれど、三角帽子のような屋根と、家の入口は木でできている。木の梁《はり》で囲われた木戸を、二度、かんかんとノックした。
 ファタおばさんの

「入っていいよ」

 という声が小さく聞こえたので、木戸を引き開ける。


 入ってすぐの空間はまあるくひらけていて、左側の丸みに沿ってベッドやこまごました狩猟道具があり、右側の丸みに沿って、台所の設備、水がめやかまどといったものがある。
 真ん中に置かれた机は二脚分で、片方には、椅子をこちらへ向けたファタおばさんが座っている。昔はその向かいの椅子に旦那さんがいたけれど、わたしの夫やこの村の大多数の若死にものと同じく、疫病で亡くなった。

 ミュステに練習用の石笛を与えて背中を軽く押し、わたしは旦那さんの席に座った。
 ファタおばさんは肩ひじをついて、何かの木の実をすりつぶして焼いたクッキーをぽりぽり食べていた。
 新しいひとかけを手に取りながら、

「今日もお疲れさん」

 とねぎらい、笑ってくれた。
 わたしも礼儀として、どうにか作り笑いを浮かべる。

「今日はオロチ様の機嫌が悪かったみたいだね」

「はい……って、なんでわかるんですか?」

 ファタおばさんは笑った。

「あんたって、よく気がまわるわりに時々抜けてるね。石笛だよ、石笛」

 ミュステがファタおばさんのベッドに腰かけ、床に届かない足をぶらぶらさせながら、石笛をひゅるーひゅるーと吹いている。わたしの小さい頃よりうまい。

「ああ……」

 わたしも今度は本心から微笑み、

「これはじいちゃんから貰った性格かも」

「そういえば、スダ様も肝心なところで抜けてたわ」

「オロチの移動路をオロチに掘らせるために封印を自分で解いておいて、一週間、再封印を忘れてたこともあったなぁ……」

「オロチ様がスダ様を呼びつけて、自分から伝えたのよね。封印、解けてるぞって」

 わたしは軽く手を叩いてから、

「そうでしたそうでした」

 笑った。

「オロチとじいちゃんの組み合わせって、最強でしたよね」

「お互いに信頼してるのが伝わってきてね。スダ様がいた間、村を襲おうなんて輩はひとりもいなかったわね」

 ファタおばさんはクッキーをまたひとかけとって、

「でも、あんたも負けてないわよ」

 とクッキーを軽く振ってから、口に放り込む。

「え?」

「スダ様が存命だったときですら頻繁に封印呪が作動していたのに、あんたが生贄になってから、目に見えて回数が減った」

「オロチも、封印呪の痛みは耐えられないからじゃないですか?」

「ヒトクビオロチ様は、封印が解けたことをわざわざ自分から伝えた。自分でも制御できない衝動に支配されるときが、きっとあるのよ。その回数が減ってるということは、あなたが生贄としての役割をとてもよく果たしているからだと、わたしは思ってる」

「えー? オロチがそんなにわたしを気に入ってるとは思えないんですけど」

 首をかしげながらも、わたしはうれしかった。わたしのやっていることが、オロチの役に立っているかもしれないと、ファタおばさんに認めてもらえると、思えることは。
 オロチとファタおばさんとミュステ以外、この村に味方はいないから。

「そういえば、きょうは本当に久しぶりに、オロチの目が真っ赤になっていました。どうしてなんだろう。昨日はすごく上機嫌だったのに」

 わたしがぽろっと言葉をこぼすと、ファタおばさんの顔に、さっと影が差した。
 オロチは精神体を飛ばせる。
 つまり……。この村で起こりつつある何かに気づいたのか。
 わたしは浮かべていた笑みを引っ込めた。

「やっぱり、今の疫病はわたしたちのせいってことになってるんでしょうか」

「そうね。オロチとあんたのせいになってる。いつもは冬にはやるのが、今年は春に三人も死んでしまってるからね」

 ファタおばさんはあっさりと認めた。

「オロチにそんな力はありませんよ。じいちゃんがきちんと封じ直したんですから」

「スダ様のことを直接知っている人間が、もう少なくなっているからねえ。昔はオロチ様が生贄を喰う代わりに村を守っていたとか、オロチ様を殺したら祟られるから生かしているとかいう話は、若い連中は誰も信じなくなってきてる」

「オロチを殺そうとする動きが?」

 ファタおばさんは即答せず椅子から立った。近くの棚から深皿を手に取り、ちょうどお湯が煮立ち始めた、土間のかまどのほうへ歩いて行く。布を挟んで鍋の蓋をつかみ、手際よく開ける。トングを使って中のものを拾い、深皿にひょいひょいと入れていく。
 家の中にただよう甘い香り。エガトの実をゆでたものだ。皮をむくと、中にほくほくしたほんのり甘い実がつまっている。これが木の実の中で一番好きだ。
 深皿が机の上、わたしとファタおばさんの中間に置かれる。

「あんた、明日の朝一番で、この村を出なさい。デナ村にいるあんたの兄様たちには、前うちへ寄ったときにちゃんと言っておいたから。腹違いとはいえ、働き者の妹のことはむげにしないでしょう」

 大好物のエガトの実に気を取られたせいで、その言葉がどういう意味なのかすぐにはわからなかった。

「村の若い連中、備蓄した食料の一部と引き換えに、ベイエスの村にオロチの討伐を依頼したわ。決行は三日後の朝だそうよ」

 わたしは言葉を失い、ただファタおばさんの目を見つめ返した。
 ミュステの吹く石笛の音が、部屋の中でさびしく響いていた。


 エガトの実をミュステとふたりで分け合って食べ、ファタおばさんの家から帰ると、家の前を、ひとりの男の子がうろうろとしていた。歳はミュステと同い年ぐらいだろうか。どこかで見覚えがあると思ったら、山道の入り口にある家の子供だった。ファタおばさんの家へ行く前、彼は母親に抱きかかえられて家の中へ入ってしまった。
 そんな彼は、ミュステとわたしの姿を見つけるやいなや駆け寄ってきて、ぱっと笑顔を咲かせた。
 何かを隠すように、後ろに手を回している。

「ふたりとも、手ーだして!」

 ミュステはぎこちない動きで手を出した。わたしは男の子の視線に合わせるよう、しゃがんでから手を出す。
 まずわたしに。紫色の花を手折《たお》って編まれた、首飾りのようなもの。

「こっちはミューちゃんの!」

 次にミュステ。
 男の子は、黄色い花と白い花を交互に編み込んでできた頭飾りを、ミュステの頭にのせてあげた。
 それから、ミュステの出した手には、腰から下げた麻袋の中から、深緑色のきれいな石を出してのせた。

「僕の宝もの!」

 にっこり笑って、男の子は駆けだした。
 何よりも先に、立ち上がって周りをうかがってしまった。誰も見ていないようで、ほっと胸をなでおろす。
 それから手元の首飾りに目を落とす。
 ふっと、笑みがこぼれる。ぎゅっと握りしめたくなって慌ててやめ、首飾りを、くれかかった夕日にかざした。

「へへへ」

 小さく笑いながら、首にかけ、ミュステの様子を見た。
 ミュステは顔から耳まで赤くして、男の子の走り去った方向をじっと見たまま、呆然と立ち尽くしていた。

「よかったね」

 と声をかけると、

「うん……うん!」

 かみしめるように二度、言った後で、ミュステは跳ねた。
 そして家の中へ、駆けだしていった。
 わたしはその夜、これから起こることへの不安と、唐突に受け取った贈り物への興奮とで、うまく眠れなかった。


 翌朝、まだオロチがあくびをする前に、深く眠るミュステを起こした。兄たちのいる村に行くと言うと、ねぼけていたミュステは、すぐに目を覚ました。ときおりこの村に訪れて、山遊びにつれて行ってくれる兄たちのことが、ミュステは大好きなのだ。
 わたしが背負う大荷物にも気づかない様子で、わたしの手をぐいぐい引っ張ったり、ぶんぶん振り回しながら、大はしゃぎで歩いた。休憩をはさんでも夕方までかかる距離なので、途中からはわたしが抱きかかえて歩くことになった。

 デナ村について起きてからもそのはしゃぎようはかわらなかったけれど、一番上の兄の家につき、事情を話してミュステを少しのあいだ預かってほしい旨を話し始めると、一転して泣き叫び始めた。

「置いてかないで! 置いてかないで! いい子にするから! いい子になるから!」

「三回、日が沈むまでには、ちゃんと戻ってくるから」

「やだ! 置いてかないで!」

 ふだんは聞き分けのいいミュステが、わたしの足にしがみついて離れようとしない。
 わたしはミュステの頭をなでながら、兄に目で助けを求めた。
 立派なあごひげをたくわえた兄は、ミュステを力ずくで引きはがし、強く抱きしめた。ミュステが嫌がってもがくが、兄はしっかりと抱きしめて、動けない。

「ミュステじゃないが、俺も、お前が戻るのには反対だ。奴らがオロチ様を殺して村を滅ぼしたいというのなら、勝手にそうさせればいい」

 歯を食いしばって、「そうします」と言い出しそうになる自分を押しとどめた。


「オロチが死ねば、この地域一帯は無事ではすみません。オロチは雨の日にもなると、精神体をかなり遠くまで飛ばせます。その飛ばせる範囲が、怨念の届く範囲ともいえるでしょう。おじいさまも、オロチより、オロチの怨念が怖いと常々おっしゃっていました。オロチが人の手で滅んだとき、大きな災厄が始まるだろうと」

「そうか……」

「兄さまはこの村の人たちに、避難の準備をさせてください。もしオロチが殺されたらすぐに動けるように」

「わかった」

「んー! んんー!」

 ミュステが、兄の肩に叫んでいる。
 わたしは英雄気取りでオロチを守って……あるいは守れずに、オロチとともに死んだりしてしまっていいのだろうか。
 この子のそばに、いてやるべきではないのか。
 けれど、背を向けた。
 兄の息子夫婦は連れ添って五年になるが、なかなか子供が生まれない。かわいがってくれるだろう。
 そう無理やり思いこんで、背を向けた。

「何もしてやれない俺を許してくれ」

 兄が小さな声で、そう漏らす。

「ミュステを、どうか」

 わたしが死んだら、とは言えず、目いっぱいに言葉をにごし、わたしは兄の家を出た。