ヒトクビオロチと生けにえのクロ
上 オロチとクロ
山から吹き下ろす咆哮に、叩き起こされた。
夏の熱波が少しずつ迫っているけれど、家の中はひんやりとしている。
家を揺らすほどの大音響にも動じず、ずうずうしく眠ったままのミュステを横目に、そっとベッドから足を下ろして室内用のサンダルを履く。
まだ生贄に選ばれて間もない十一歳のころ、この音があのオロチのあくびだと本人から直接聞いたときは、ばかばかしくて笑いが出た。
あれから十年経って、夫を得て夫と死別し、娘が四つを迎えた今でも、あくびだということを思い出すとそのたびにあきれてしまう。
『我慢しなさいよ、あくびくらい』
何度も注意しているのに、あのオロチ様は、起きぬけの欠伸だけは絶対に譲れない! とわけのわからない意地を通している。
いまではあくびだけでその日のオロチの気分がわかる。
機嫌がいいときは村はずれの広場で。機嫌が悪いときはオロチ山の山頂で相手をする。
きょうは村はずれの広場でいいみたいだ。
八つのうち七つの首を切り落とされたヒトクビノオロチのお相手をしてさしあげるのが、生贄であるわたしの役割だった。
たいていのことは無視するオロチの黒いうろこに、じいちゃんがたくさん遺してくれた特別製の白墨で落書きをするのが、いまのミュステの日課になっている。何が起こるかわからないから近づけたくないのだけれど、前に隣のファタおばさんにあずけたときは、おばさんが少し目を離したすきにわたしを追いかけて山を登り二日間行方が分からなくなった。
以来、
「ちゃんとしないと置いてくよ」
と言えば、普段はぐずる朝食、着替え、洗顔、歯磨きすべてをきれいさっぱり行ってくれるので、ついこちらも楽をしてしまう。
オロチの機嫌がいいときはこっちも気楽だ。
だらだらとしたくをして外に出ると、昨日降った雨のせいで地面がぬかるんでいた。外履き用の靴が泥に沈み込んで歩きづらい。泥にまみれて汚れたがるミュステの手を強く握りながら、のんびりと行く。
村はずれの広場では、祠から首と長い胴を吐き出したオロチが、黄色い目玉をぱちぱちさせて待ち構えていた。
この状態ですらとぐろをまいているのだから、その長さが実際にどれほどなのか、想像もつかない。よくこんな巨大な生き物を人間が倒せたものだ。
「よお、クロ」
声が頭の中に直接響いてくる。
人間のように声を出せないからこのやり方で通している、らしいが、こっちのほうがよっぽど不思議だ。説明できるなら説明してみろと言いたい。
「おはよう、オロチ」
わたしのほうはきちんと声を出す。生贄という制度がついこのあいだまでなければ、蛇に向かって話すただのおかしな女としか思われないだろう。
わたしは祠の近くに用意された木の長椅子に座り、目の前の巨大な生物を見上げた。
「きょうは機嫌いいね」
「おう。昨日は久々の雨だったからな」
ここに縛り付けられたままでは余りにも暇なので、オロチは精神体とやらを他の土地に飛ばして遊んでいるらしい。ふだんは時間制限があり暇を持て余してわたしに相手をさせるけれど、雨の日は力がみなぎり時間制限がなくなるのだとか。
亡くなったじいちゃんが『現実にはほとんど干渉できないから、害はない』と言っていたので、わたしも特に気にせず放っておいている。ほとんど、という部分が少し引っかかるけれど。
「また花嫁探し? どうせ体は動けないのに」
「ちげーよ。昨日は人間どもの『戦い』を観戦してきた」
「ふうん……」
「あれはいつ観てもいいな! わーとかうおーとか言いながらアホヅラさげて突っ込んだり、腕自慢がひとりで張り切って十何人も殺したりよお。昨日勝ったほうは負けた方の村にやりたい放題でよ。俺様も久しぶりに血がたぎっちまったぜ」
「何が面白いのか、わたしにはさっぱり」
「まったくお前ってやつはよお。お前は生贄なんだから、いざというときは俺様のご神体を守らなきゃなんねえんだぞ」
「自分でご神体とか言うな。稽古は毎日やってるよ。見てるでしょ」
祠に近い部分で、ミュステがひとりごとをぶつぶつ言いながら、オロチの黒いうろこに、あの白墨を押し当てた。オロチは首を曲げて一度だけミュステのほうを見たが、幼児の落書きなど痛くもかゆくもないようだ。またわたしのほうに顔を向けた。
「お前のほっそい腕じゃ、あいつらは止められねえよ。せめてお前が男なら、あのジジイみてえな真似もできたかもしれねえのに」
「じいちゃんは特別。わたしはただの人」
「まあそう卑下するなって。生神《いきがみ》クラスの生贄に選ばれて生きてるなんて、そうはいねえ。お前は選ばれた存在だよ」
「ヘビに選ばれてもね」
「あっ、また俺様をただのヘビ扱いしやがったな! 俺様がヤマタノオロチと呼ばれたころはなあ、生贄に求婚してくる馬鹿どもを次から次に……」
「昔話はもういいよ」
わたしはそう言って、祠に隣接した長方形の石箱に歩いていく。
力を目いっぱい入れ、うなり声をあげながら重い石の蓋をずらし、中から、ぼろぼろに刃の欠けた訓練用の槍を取り出す。
戻りながら見た、朝陽に照らされたオロチの横顔が少し寂しそうだったので、
「戦い以外の話をしてよ」
と言った。
じいちゃんから教わった型の練習を繰り返しているあいだ、オロチは上機嫌にしゃべり続けた。
遠く北の村で起こった羊たちの大脱走劇、西の村で井戸に落ちた子供の手に汗握る救出劇、おばさんたちがあみだした秘伝料理レシピ。
楽しそうに話す間にも、型が少しでも乱れたら的確な注意をしてきて、なんだかんだいってもオロチはすごいと再確認させられる。
「そこで最後にゾビビゾ虫を入れるらしい」
「ちょっとやめてよ何そのレシピ! 想像しただけで気持ち悪いから!」
「型が乱れた! 十回追加!」
槍の突きが鈍くなると、たちまちオロチは嬉しそうに言った。
「いまのはオロチのせいでしょ!」
槍を持ち替え、柄の部分でオロチのうろこを強くつつく。
オロチはくっくっくっく、と笑いながら、ちろちろと舌を出した。
認めるのはしゃくだけど、オロチといると、けっこう楽しい。
オロチは、わたしが何をすれば喜ぶかも、何をすれば怒るかも知っている。意地悪もするけど、いつでも口をきいてくれる。
……村の人たちとは違って。
花が咲き乱れている道をゆき、円状の土台に三角帽子が乗っかっている家々を通り過ぎていく。
その帰り際、何人かの村人たちとすれ違った。誰一人として話しかけてくる人はいなくて、こちらから大声で挨拶しても無駄。
自分だけならまだいい。
けれど、ミュステがかわいそうだ。
ぎゅうっと手を握ると、
「お母さん」
と声が聞こえた。
目を向けると、ミュステが笑っていた。
「早く帰ろ?」
涙がこぼれそうになって、わたしは慌てて、上を向いた。
翌日も、オロチのあくびで叩き起こされた。
今日のオロチはご機嫌はななめ。オロチ山だ。あれほど楽しく話した翌日にしては珍しい。
……登るの、めんどうだな。
思いつつも、したくを始める。
石笛をふたつ荷袋の中にいれて、肩に担いだ。
走り回ろうとするミュステの手をしっかり握りしめ、ぜえはあ言いながら登り終える。
山頂の広場は、じいちゃんの手によって整備されて、木々の中にぽっかりと円状の空間がひらけている。
祠から首と長い胴を吐き出したオロチが、真っ赤な眼で待ち構えていた。
「いつまで待たせやがる!」
慣れない者が聞いたら震えあがるような低い声。
「わたしはオロチと違って地中を移動できないの」
冷静に言いながら、肩にさげた荷袋から石笛を取り出す。
楕円形の石から息を吹き入れるところが突き出している。そこに軽く口をつけた。
石に空いた穴を指で押さえ、息をやさしく吹き入れる。
ぴゅろぉー。
ぴゅろぉー。
間の抜けた音。
何度かそれを繰り返した後、わたしは姿勢を正し、目を閉じた。
ピッピュィー。ピッピュィー。ピッピュイーピューイー。
ピッピュイー。ピュッピィー。ピッピュイーピューイー、ピューイー。
ピッピュィー。ピッピュィー。ピッピュイーピューイー。
ピッピュイー。ピュッピィー。ピッピュイーピューイー、ピューイー。
心が安らぐような、規則正しい旋律が、繰り返し山にこだまする。
ここまで吹けるようになるのに五年かかった。初めの頃は、へたくそな笛を聴いたオロチが余計に怒って体をばたつかせていた。結局は封印が作動してオロチが苦しむだけだったけれど、オロチをなるべく苦しめたくなくて、笛を練習した。
この村では、オロチを鎮めるための笛は女が継いでいく。ばあちゃんとかあさんは早いうちに亡くなってしまったから、我流では限界があった。村で一番石笛の上手い隣の家のファタおばさんに習おうとして、でもファタおばさんも当時はわたしのことを無視していた。毎日毎日、締め切られた戸の前でファタおばさんに頼み込んで、どうにか戸を開けてもらい笛を習った。
ファタおばさんにはびしばししごかれたけれど、そのぶん上達も早かった。
そのときからファタおばさんだけが、わたしの村での唯一の味方になった。
笛を吹き終えて、目を開ける。
真っ赤だった攻撃的な眼が、普段通りの黄色に戻っていた。
「手間かけさせないでよ」
石笛を口から離しよだれを服で軽くぬぐってから、鞄にしまう。
オロチは声で答えず、うっとうしそうに鼻を鳴らした。
ヤマタノオロチの七つの首が斬り落とされ、ヒトクビオロチになるまで、一年に一度の間隔で要求される生贄は、本当に食べられていた。
あるとき、村にやってきた青年が、川岸で飲み水をくんでいたその年の生贄の少女を見初めた。
オロチとの力の差は歴然としていたから、村の人々はあきらめきって何もしない。そのため、生贄の少女を助けることを理由にした旅人によるオロチ討伐は何度も試みられてきた。
ヤマタノオロチを斬り伏せれば、娘を嫁にやるという証文を彼女の両親から手に入れた青年は、オロチに挑んだ。今度もまた死体が一つ増えるだけだと思われたが、青年は卓抜した剣技で首を七つ切り落とした。どうしてすべて斬り落とさなかったのかとたずねた村人に、彼は
『殺されれば恨みが残る。オロチの怨念はこの村を悲劇に沈めるだろう。生きていれば何もできない。道理のわかるやつだけを残して体も封じた、心配はいらない』
と答えたそうだ。
それがわたしの祖父だ。
『道理がわかる』とじいちゃんに評されたオロチは、体を地中に封じられ、首と胴の部分だけが移動できるようになっている。
じいちゃんの情けだろう。通り道をつくってやり、退屈しのぎに首を出せる祠が、村にはニか所ある。祠の周辺は村人や旅人が立ち入るとオロチが目を真っ赤にして強く威嚇するので、生贄以外は近寄れない。
「俺様も機嫌が悪いが、お前の機嫌も大概だ」
「だから、勝手に心のなか読まないで」
「読んでない」
「ぜったい読んでる」
「人間の考えることはまとまりがないので読めん」
わたしはぽつりとこぼした。
「オロチはさあ、生贄をもらう代わりに村を災厄から守っていたのよね」
「まあな」
ちょっとだけ誇らしげだ。
「どうにかしてよ、村の疫病。最近、あれまでわたしとオロチのせいになってる」
「ずっと人を喰っておらんから力が出ん」
オロチがしゅるしゅると動いて、首をだらりと地面に投げ出した。黒いうろことは裏腹な、白い腹が見える。その巨体で普通に首を投げだせば地震が起きるが、慣れたもので、少し土煙が立っただけだった。
わたしは少し待ってから、
「わたしを食べればいいのに」
と呟いた。
この村で一番要らないのは誰か。
それは、生贄の相手をすることだけが仕事で、隣のファタおばさんと別の村に住む異母兄ふたりに食べ物をめぐんでもらって生活している自分だろう。
若い娘――自分とは無関係の人間――を生贄に出すことで安寧を得ていた村人たちも、わたしたち一家のことを、何より嫌っている。世代が変わった今でも、その空気は別の形で、村に残っている。
「俺様はもう人喰いはせん。殺されたくないからなあ」
そんな思いを知ってか知らずか、オロチは腹を見せて地面の上でゴロゴロしたまま、のんきに答える。
「クロ、お前が一番好きな食べ物はなんだ」
「ええ? エガトの実を煮たのも好きだし、おばさんの野草のスープ……」
「パッと答えろ、パッと!」
「じゃあ、ブリュトーの肉」
「お前はそれを食べたらどう思う。またそのうち食べたいなと思うだろう」
「うん……。特に最近は、不猟みたいだから」
「それが俺様にとっては人間なんだ。毒をたっぷりため込んだ人間の肉は最高の味がする。一度食ったらお前だけじゃ終わらん。村は全滅だ。そうなればまた勇者気取りのバカが来て、俺様は最後の首を狩られておしまいさ」
オロチが体を起こした。
「あんたにとってはその選択肢もありじゃないの? ここに何十年もつながれて、楽しい?」
「精神体で人間の卑俗さを覗いて嘲笑うのは、それなりにおもしろいな」
「兄弟の首を切り落とした人間どもめ! みたいな気持ちは?」
「お前、たしか別の村に異母兄がふたりいたな」
「いるけど」
たとえ話の好きな蛇だ。
「俺様たちは生まれてからこの方、一度も離れた事がなかった」
「強い絆があるみたいに聞こえる」
「逆だ。生まれてこの方、一度も兄弟と離れらない苦痛と言ったら……。食うときも一緒、寝る時も一緒、ウンコもションベンも一緒。交尾なんか特に最悪だな。お前だって男と……」
「男と、何かなあ?」
一瞬言葉を止めた後、オロチはくっくっくっく、と笑って、舌をちろちろと出した。
「お前はこの手の話は嫌いだったな。やめておこう」
「でもそうね。なんとなく、わかる気もする」
「ああ。俺様たちはお互いにお互いのことが疎ましくて仕方なかった。そこをうまく突かれて、お前のジジイにまんまとしてやられたわけだ。いまじゃせいせいしてるがな」
オロチの黒いうろこに、オロチの絵を描き終えて満足したミュステは、山を下りるのにようやくうんと言ってくれた。途中で「疲れた」と言って激しくぐずりだしたのを引きずって降りていく。農閑期にしか通る者のない山道は荒れていて、四歳の子供にはけわしい。それでもついてくると言ってきかない理由。それは単に「甘え」だけの問題じゃなかった。
山道を下りた先には古ぼけたレンガ造りの民家があって、庭先で選択した服を干している女の人がいた。足元には男の子。
けれどわたしとミュステの姿を見た途端、女の人は子供を抱えて家の中へ引っ込んでしまう。
男の子を見かけた途端機嫌がよくなったミュステが駆け寄ったが、途中でいなくなってしまった男の子のいた場所を呆然と見つめている。
オロチは疎ましかったと言っていたけれど。
せめて兄弟を産んであげたかった。