1−5 ミルクティー

 五時間目の体育の授業を終えて、綾と聡美と一緒に教室へ戻ると、先に戻っていた蔵本と柚樹が、二人で何かを話していた。
 直は小さく舌打ちし、自分の席について着替えた。
 綾が学校に戻ってから一週間と少しが過ぎ、ここのところますます、雰囲気が悪い。今日は、直よりはるかに社交性のあるはずの綾が、直と聡美以外のクラスメイトと話している姿を見掛けなかった。
 蔵本のやり方は、綾の存在を無視させる、あるいは綾の持ち物を壊したり、隠したりする、そういった類のものではなかった。蔵本は、このクラスの人間がもつ交友関係を把握して、別のクラスを起点に、話を流すだけだ。綾は、自殺未遂する前に、突然錯乱してカッターナイフを振り回したことがある。綾は、同じバスケットボール部の澤山にいじめの疑いをかけさせ、澤山を貶めるために、狂言自殺をしてみせた。綾が抱える精神的な疲れや、人間関係の問題点を使った、もっともらしい、虚偽の流言を。
 そしてそれらを聞いた人たちは、綾から距離を置きたがるだろう。それが、今の綾が一番怖がっていると思われる、恥ずかしいという感情に訴えかけている。相手も、あからさまな態度はとらず、申し訳なさそうに、やんわりと会話を断るから、綾は申し訳なさと恥ずかしさで、それ以上、どうしようもなくなってしまう。いっそ無視でもされていれば、自分以外に原因を求めることもできるだろう。けれど、周りからの「ごめんなさい、話しかけられても」という態度は、綾自身の自殺未遂に、原因を求めさせることになる。
 直は、学校に戻った綾が、四六時中、周囲からの視線を気にして緊張しているのが分かった。恥ずかしくなると無口になって俯く、そんな綾の癖を知ってもいる。しかし蔵本は、綾と親しいわけでもないのに、今の綾に対して、効果的な方法を見抜いた。
 蔵本は、表面的には、綾を眺めているだけだ。それでも、綾は確実に、追い詰められている。
「あーもー、疲れた!」
 着替え終えて椅子に座った所で、両肩に手が乗せられ、体重をかけられた。
「重い」
 小さく零すと、聡美はますます体重をかけてきた。
「いいよね、体力バカは気楽で。美術室で休んでこよっかな」
「美術室で休む病人がどこにいるの? それに英語、期末で三十点以下取ったら留年でしょ」
「あれ、次、英語か」
「時間割くらい、確認しなよ。後ろの黒板に書いてあるんだからさぁ」
「いいんだよ。教科書、ほとんどロッカーに揃ってるし、直前に見れば」
 聡美が、小さく笑った。そして、直の肩を軽く揉んだ。
「直のほうは、少し肩の力、抜きなよ。気ぃ張ったってしょうがないでしょ」
「分かってる」
 表面的には何もやってこない以上、いまは綾が少しでも気楽に生活できるようにするだけだ。
 聡美は体重をかけるのをやめ、短く切り揃えられた髪を翻し、教室後ろのロッカーへ教科書を取りに行った。その間にもわざとらしい咳をして、「あー風邪が」と零していた。
 軽くため息をついて、机の脇にかけた鞄のファスナーを開けた。今日は見るのを忘れてしまっていたけれど、母からメールが来ているかもしれない。
 しかしいくら手だけで探しても、見つからなかった。仕方なく、鞄を膝の上に載せて、探った。やはりない。家に忘れてきたらしい。
 母には、気分が優れないときは、無理せずメールで愚痴をこぼしてほしい、と言ってある。メールが送られてきたら、授業や部活の合間合間にどうにかなだめすかし、不安を和らげておくのが、日課だった。またいつ前の状態に戻るか分からないのが、今の母だ。
 昨日、少し休んだみたいから、今日は大丈夫なはずだけれど……。明日からはよく確認しないと。
 授業の始まりを告げるチャイムが鳴ったが、英語教諭はまだ来なかった。何気なく、ドアに備えられた縦長の窓から、廊下を見やる。廊下側の一番後ろの席なので、廊下と、前の席の男子しか視界に入らない。彼は、教室内にほとんど男子がいない空き時間を持て余し気味のようで、机にうつ伏せになっていた。この付近の高校は、学力レベルのバランスが悪く、難関高校から少しレベルを下げた位置にあたる高校が、この高校以外には、あまりなかった。三年前から共学になり、それを狙った男子が細々と入ってくるが、九対一の比率では少し、辛そうだ。
 男子といえば、と思い出す。男子バスケットボール部の、芝原。綾のほうは特に意識していないみたいだけれど、柚樹の話では、芝原は綾のことばかり見ている、ということだった。彼は今回の騒動で、何か綾に、してやってくれているのだろうか。いくら綾が心配でも、部内のいざこざまではカバーできない。
 廊下から風が吹きつけて、ドアが大きな音を立てた。ちょうど、英語教諭が、前のドアから入ってきた。

 六時間目の授業が終わり、部活用の鞄を肩に担ぐと、目の前に聡美が立ち塞がった。綾に何か声をかけてからにしようとしたが、彼女は少し目を離した隙にいなくなっていた。
「なーおっ」
 聡美の背丈は、直の胸に届くか届かないかくらいの高さ。邪気のない黒目がちな瞳がこちらを見上げていた。
「なに」
「今日、暇だったら美術室においでよ。他の部員が持ち込んだ漫画とか、暇潰しのものならいっぱいあるし」
「え? 今から部活なんだけど」
「暇だったらね」
 直の肩を軽く叩いて、聡美は廊下に飛び出していった。
 廊下に聡美の姿はなかった。直を置いてさっさと美術室に行ったらしい。聡美の意図が分からず、かといって、携帯電話を忘れたので聞き直すこともできず、足は勝手にいつもの習慣で進んでいく。
「あれ、阪井さん? 部活、出るの?」
 通路に設置された、自動販売機の前を通り過ぎようとしたとき、陸上部の顧問の、女教諭に呼び止められた。
 顧問なのに不思議な事を訊く、と思いつつ、立ち止まる。
 どう答えればいいのだろう。
「ああ、言葉足らずだったわね。ごめんなさい。最近、無理してるみたいだから……。一日くらい空けた方が良いかな、と思って。阪井さんの練習量なら、一日休んだくらいじゃ、差をつけられたりしないし。あ、ぜ、全国クラスの子には差をつけられるかもしれないけど」
 顧問は、不安げに上目遣いをしてきたり、自動販売機を見たりしている。視線がふわふわと彷徨って、ひとところに落ち着かない。
 ……心配、されてる?
「私、そんなに、おかしいですか」
「うーんとね……。うん。最近、ちょっと、ね。パッと見で分かるくらいには」
 ふと、自分が綾に向けている心配と、自分が顧問に向けられている心配が重なった。
 顧問に、この疲れを背負わせてまで練習したいほど、陸上に命を賭けているわけではなかった。
「今日は出ません。介護の手伝いがあるので、休みを貰おうと、言いに行く途中だったんです」
「そ、そう? よかった。阪井さん、このところ、やつれてるみたいで心配で。介護のお手伝いが終わったら、しっかり食べて、ゆっくり休んでください。あっ、あと、何かあったらすぐに相談してね」
 微笑みを一つ残し、顧問は人の流れの中に加わった。
 咄嗟に答えてしまったが、部活を介護以外の理由で休むのは、ずいぶん久しぶりだ。どこか抜けている性格の顧問に悟られるほど、顔に、疲れが出ていたのだろうか。
 鞄を肩にかけたまましばらく自動販売機を見つめ、少し迷ってから、財布を取り出した。気温の下がり始めた今も、未だにスポーツドリンクがたくさん並べてある。その中から、温かいミルクティーを選んで、買った。
 人気のない方へと、校舎の中を渡り歩く。そして、授業以外ではほとんど寄りついたことがない、美術室のドアをノックした。横開きで、ところどころペンキが剥げた白色のドア。開けたのは、聡美だった。
 聡美は一瞬、驚いたように固まったが、すぐに笑顔になった。
「入って入ってー」
 美術室は、一般生徒用と思しきスペースと、美術部の生徒用と思しきスペースが、衝立で分けられていた。パーテーション代わりの衝立は横長で、三つあり、壁と合わせて一つの部屋を作り出している。聡美は、折り畳み式の衝立を、少しずらした。後に続いて入ると、そこはまるで学校に、ワンルームの部屋をそっくりそのまま持ってきたかのようだった。急造ワンルームの真ん中には、会議室に置いてあるような長い机と、パイプ椅子が四脚あった。そして漫画のびっしり詰まった本棚があり、教科書や雑誌を収めた三段チェストがあり、学校指定のジャージが床に落ちていて、机の隅にはお菓子がいくつか置いてある。
「適当に座っていいよ」
 聡美は、本棚を背にして、奥の椅子へ座った。直は鞄を床へ放り、聡美の左隣に、座った。
「他の部員は?」
「今はいない。いつもは、ここで一時間くらいだらけて、美術室を出て行く感じかな。他の三人は、漫画やイラストを描いたりしてる。三人のやり方だと、仕上げにはパソコンが必要だから、ここじゃできないんだよね。美術室の道具を使って描いてるのは私だけ」
「え、紙に描いたのをどうやってパソコンで仕上げるの?」
「スキャナーっていう機械を使って、画像化して取り込んで、それに着色、修正を加えるとか。でも最近は、最初から全部パソコンでやっちゃう人も多いかな」
「最初から全部……」
 パソコンだけで絵を描く行為が完結するイメージは、全く、湧かなかった。
 すぐに聡美は説明を付け加えてくれた。
「マウスじゃ難しいから、だいたいの人はペンタブっていうのを使うんだよ。ペンの形をしてて、ペン先を専用の台座に押し付けると、反応するんだ。で、パソコンがその動きを読み取って、ディスプレイ上に絵が描き出される。そういう仕組み。私はあんまり使ったことないけどね」
「へえ。すごいね、なんだか。楽しそう」
 漫画やイラスト、それとパソコンに関してはほとんど何も知らないので、素直にそう思った。
「うん。きっと面白いよ、イラストも」
 聡美は嬉しそうに笑った。
 そこで、自動販売機で買ってきたミルクティーの存在を思い出した。鞄から二本、取り出し、机に置く。
「ありがとう。お金……」
「いいよ。勝手に買っただけだから。奢り」
「ありがと。じゃ、遠慮なく」
 聡美がプルタブを引いて、すぐに一口目を飲んだ。
「おいしい。温まるー」
 直はミルクティーの缶を手の中で転がしながら、パイプ椅子にもたれかかった。椅子の軋む音が、やけに大きく聞こえた。校舎の外れにあるからか、遠くで鳴る野球部の練習の音が届くだけで、それ以外にはほとんど何の音も聞こえてこない。
「静かでいいなあ、ここ」
「七時過ぎとかまで一人でいると、ちょっと怖いよ」
「いつも外から見てるから分かんないけど。夜の学校ってどんな感じ?」
「最低限の電気しかついてないから、暗いの。職員室に鍵を返しに行くとき、真っ暗な廊下で、自分の上履きの音だけがやけに大きく聞こえて……」
「それは怖いね」
 言ったあと、俯いて軽く目を閉じた。手に持ったミルクティーの缶を机に置き、じっと、静寂に身を委ねる。
 聡美も、ミルクティーの缶を机に置いたようだった。それから、立ち上がる気配がした。 
「じゃあ、ここでゆっくりしてて。暇ならそこに、先輩が置いていった漫画がいっぱいあるから」
「どこか行くの?」
 目を閉じたまま、訊ねた。
「行かない。キャンバス立てるにはここじゃ狭いから、いつも一般生徒用の方で描いてる」
「そっか。絵、頑張ってね」
 自分と全く接点のない部員が来たら、対応に困りそうだったので、安堵した。
 聡美が絵を描く準備をしている音を聞きながら、目を閉じたままじっとしていた。
 そうしているうち、だんだんと眠気が溢れだしてきた。パイプ椅子を引き、机にうつ伏せになった。
 聡美のイメージは、甘くて温かなミルクティーだ。凍えた体を優しく包んで、ほっと一息つかせてくれる。聡美と一緒の部屋にいるというだけで、こんなにも安心する。



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