1−6 だから一緒に

 練習の終わりに、ジャージと、学校の備品であるビブスの代金、一万円を支払って、顧問に頭を下げた。
 一昨日の日曜日、綾の所属するバスケットボール部は、電車とバスを乗り継いで遠征に行った。市外の高校より、練習試合に招かれたからだ。新人戦も終わり、開催が近いウインターカップは予選で敗退。春まで公式戦がない高校同士の、練習試合だった。対戦相手校に着き、借りた更衣室へ荷物を置いた所で、顧問に呼ばれた。
 その隙に、当日、試合で使う予定だったジャージとビブスが、何か鋭利なもので裁断されたように、ばらばらになっていた。バッシュはどこかへなくなっていた。
 ……こんな、直接的でくだらない真似をするのは、澤山だ。
 あの時は、そう思って片付け始めたが、誰も、片付けを手伝う素振りは見せなかった。誰がやったかなんて、本当のところは、分からない。
 結局、電車に鞄を置き忘れたことにして、制服のまま、試合を見学した。綾がいつもこなしているポイントガードのポジションには、代わりに柚樹が入った。柚樹は、個人技能は平凡だが、敵味方の動きを先読みする洞察力とパスセンスがある。綾が司令塔の位置にいる時よりも、チームはまとまっているように見えた。見えただけでなく、実際に、実力ではこちらより数段上であるはずの対戦相手から、僅差で勝利をもぎ取った。笑顔で健闘を称え合う部員を、テレビの中の出来事のように眺めた。
「これからは、なくさないように気をつけます」
「ああ……。まあ、気にするな。金もちゃんと払ってもらったしな」
 顧問にもう一度頭を下げた。制服の入った部活用の大きな鞄を持って、部室に向かう。今日から、芝原の厚意で、荷物は男子側のコートに置かせて貰っていた。
 父から離れたいま、生活に、それほど余裕があるわけではなかった。少し荷物から目を離したというだけで、母親に余計な経済的負担を強いたことが、悔しくもあった。しかしそれよりも何よりも、恥ずかしかった。顧問にはとても、言い出せなかった。
 ビブスとジャージの切れ端を、何人もの部員に見下ろされながら、ひとつひとつ、独りで、拾い集める。
 あの作業で味わった恥の感覚が逆流してくるのを抑え込み、部室の扉を開けた。
 部室には、着替え途中の柚樹だけがいた。綾は柚樹の方をそれきり見ず、荷物を放って、学校指定の体操服に手をかけた。
 そして、体操服を脱ぎ始めると、
「似合ってたね、体育館シューズ」
 柚樹が、馬鹿にし切った声で囁き、出て行った。
 バッシュが無くなったままだったので、今日は、体育館シューズで練習した。そのことを、言っているのだ。
 綾はひとつ深呼吸をしてから、体操着を壁に向かって投げつけ、壁際に寄せられているベンチを、蹴り飛ばした。水色の破片が散り、プラスチック素材で作られたベンチは、蹴った部分だけ欠けた。
「誰がやったの?」
 誰もいない更衣室で、綾はひとり、呟いた。
 一年生の時、入学祝い、と言って母親がくれたお金。何に使おうか迷いに迷って、バッシュに決めた。
 学校の前の、銀杏が両脇に植えられた坂では、新芽が芽吹いていた。入学したばかりで、道もよく分かっていなかった日の、放課後。名簿順で前後の席になった女子が、バスケットボール部に入る予定だと知り、彼女と一緒に、駅前のスポーツショップへと立ち寄った。
 お互い、ぎこちない愛想笑いを浮かべながら、中学時代の話をしたり、バッシュのデザインについて、ああでもない、こうでもない、と言い合ったりした。気付けば、愛想笑いをする必要もなくなり、バッシュのレディースコーナーの前で、すっかり陽が落ちてしまうまで喋っていた。
 そして、バッシュを買って店を出る頃にはすっかり打ち解けたその女子に、下の名前を聞いた。
 彼女は、落ち着いた、静かな声音で『柚樹。青野柚樹』と名乗った。
「返してよ……」
 ベンチを蹴った足が、今さらになって痛みを発し始めた。それ以上、物に当たることはできなかった。当たる力が、湧いてこなかった。しばらくその場に立ち竦み、俯いたままでいた。
 部室から駐輪場へ向かうには、体育館の横を通り過ぎなければいけない。
 ドリブルの音、バッシュが床を蹴る音、ボールがネットに吸い込まれる音。芝原は、冬も近づいているのに、シャツの背中部分を汗でぐっしょり濡らしながら、一人で居残り練習を続けている。練習しない日は、いつも、声を掛けてから帰るが、今日は、掛けようとすら思えなかった。
「今日も練習やらないで帰んの?」
 しかし入口を通り過ぎようとした所で、体育館の中から声がした。
「うん。ちょっと疲れてるから」
 無視するのも、面倒だ。後からいろいろと詰問されたくはない。綾は、声が変にかすれたりしないよう、注意して、返事をした。
「ちょっと疲れてる、程度じゃないだろ、どう見ても。さっき、青野が通ってったけど、青野に何かされたとか?」
「されてない」
 今度は、自信がなかった。けれど、距離の離れている芝原に聞こえるよう、大きな声を出したおかげで、震えは伝わらなかったらしい。
「そっか。そうだよな。青野は、青野だけは、違うはず……」
 聞かせるともなしに、芝原が言った。綾に対して言ったのか、それとも独り言か。判断しかねた綾は、応えなかった。
 月は雲に隠れてしまっている。街灯を頼りに向かった駐輪場は、部活終わりの生徒で混雑していた。まだ、バスケットボール部の部員も固まって、立ち話に興じていた。人がはけるまで待つことにして、体育館の方に引き返した。
 体育館の外周に作られた、コンクリートでできた通路に座り、校舎を眺めていると、二人の人影が近づいてきた。部員と最後に話したのは一週間前だし、わざわざやってくる人間に心当たりはなかった。自分に用があるわけではないだろうと思い、視線を足元に落とした。
「いた!」
「あー、もう。耳元でいきなり怒鳴らないで」 
「あやー」
 すぐに顔を上げる。暗闇の中で手が動いていた。
「なんでそんなところにいるの? 探しちゃったよ」
「人がいっぱいいるから、少し時間空けようかと思って。そっちはなんで?」
「直が珍しく部活さぼったから、一緒に美術室でだらだらしてた。普段は時間合わないし、たまには、どっか寄ってから帰ろうよ」
「うん、いいよ。一緒に帰ろう」
 聡美の弾んだ口ぶりにつられて、今の今まで渦巻いていた痛みが、静かに霧散していくような気がした。どこかで遊んでいくような元気はないはずなのに、自然と、同意していた。
「あ、ねえ、ゆずは? ゆずも……」
「なんで今、柚樹の名前なんか出すの?」
 直が初めて、口を挟んだ。
「あ、ごめん、無意識に」
「さっき体育館で、綾の居場所、聞いたんだけど。芝原ってあいつ?」
「そうだよ。それがどうかした?」
「なんでもない。行こっか」
「うん」
 綾は立ち上がり、通路から地面に飛び降りた。
 先に歩き始めた直が、ふと振り返って、言う。
「聡美、ごめん。さっきの言い方、きつかった?」
「直がきついのはいつもだよ」
 聡美はそう言って笑った。
 ……このやりとり見るの、なんだか、久しぶり。
 綾は小さく、安堵の吐息を零した。

 最寄りの駅ビルに行くことになった。
 駅の構内からそのビルへ入ると、二階部分に出る。手ごろな価格帯のブランドが並んでいるフロアだ。カジュアルなものから、デートに着て行くような気合の入ったものまで、多種多様の女性服が取り揃えられている。直や聡美なら、特に選り好みせず買えるかもしれないが、綾の小遣いでは簡単に買えない。こういうところに来るときは、好きなブランドのセール品、そしてカジュアルなもののなかから、頑張って選ぶことになる。
 まずは直が見たいと言った店の区画に入った。直は、スカートでもパンツでも、何を履いても似合う。足が長くて綺麗で、ウエスト周りは部活のおかげで無駄な脂肪が削ぎ落されているからだろう。可愛さを前面に出す服が似合わないことを、本人は残念がっている。けれど、綾から見れば、どんなに取り澄ました服装をしても、まったく嫌味じゃない直が、羨ましい。
 黙って服の物色を始めた直の隣で、聡美はさして興味もなさそうに、マネキンに着せられた服を引っ張ったり捻じったりして遊んでいる。聡美は、一時期ファストファッションと呼ばれた系統の服を好んで買い求める。流行はお構いなしで、いつも同じ服を着続けているから、こういった場所で服を買っているのを見たことがない。
「これ綾に似合いそう。アウター欲しいって言ってたよね」
 直がぽつりと呟く。右手に売り物のパーカーを持ち、こちらに向けた。パーカーは緑で、左胸にシンプルなロゴが縫い付けられている。裏地のもこもことしたボアが、襟元から覗く。デザインがシンプルで、朝練の時などにも、着回しが利きそうだった。
「で、下はこれにブーツとか」
 これ、と言って今度は左手をショートパンツのコーナーに伸ばし、デニム地のものを手に取った。
「無理無理無理! 上は気に入ったけど、下の合わせは……。そんなに足に自信ないよ」
「夏に一回、履いてなかったっけ」
「あれは……気の迷いというか、試しに履いてみただけというか。とにかくそれは嫌!」
「えー、駄目かなぁ。聡美はどう思う?」
「いいんじゃない? 私、直の足より、綾の足のほうが、見てて襲いたくなるもん」
「変態」
「下はいいか」
 直は軽く流して、デニム地のショートパンツを元あった場所に戻した。
「上、どうする? 半額だってよ」
「どうしよ……。もこもこ、可愛いなぁ」
 鞄から財布を取り出し、小遣いの残金を確認する。しかしそこで、思い出した。すぐに財布をしまう。
「あ、でも、今はやめとく。今月はもう使えないんだった」
 ジャージの代金を母に返すまでは、使えない。バッシュのこともある。これ以上思い出すと悔しさが再び沸き立ってきそうだったので、すぐに考えるのをやめた。
「じゃあ、しょうがないね」
 直はパーカーも戻した。
「服買わないなら、聡美に付き合ってあげて。買いたいものがあるんだってさ。私、もうちょっと見てくから」
「せっかく一緒に来てるのに、一人で選ぶなんて、寂しくない?」
「小学生じゃないんだから」
 苦笑いされてしまった。
 聡美とともに五階の書店へ向かい、適当にぶらついた。気が向けば本は読むが、それは大抵、図書館で、だ。新品の本とはあまり縁がない。名前を知っている作家の新刊を手に取り、冒頭を軽く立ち読みしたあと、先が気になり始めたので読むのをやめた。このまま読み続けたら、閉店までここに縛り付けられてしまう。
 聡美を探した。いつもの少女漫画のコーナーにいるのかと思ったら、彼女は絵本のコーナーにいた。
「乃亜ちゃんに?」
 声をかけると、聡美は照れ笑いした。
「うん。最近、ちょっと難しい言葉でも分かるようになってきたから」
「可愛いよね、乃亜ちゃん」
「本当は、ノアなんて、当て字っぽい名前にしてほしくなかったんだけど。でも、まあ、産んでくれたお母さんには感謝かな」
 人を呼ぶことを厭う事情もなく、四人が集まれるだけの広さもある聡美の家には、何度か行ったことがある。そのたびに、聡美の十五歳年下の妹、乃亜は、こちらの予想を超える成長ぶりを見せてくれる。この間行ったときなどは、顔も覚えてくれて、あや、あや、と言って、おぼつかない足取りで綾に向かってきた。
 聡美が見ていなければきっと、乃亜を殴り飛ばし、何度も何度も、足蹴にしていただろう。殺したい、と思った。穏やかな聡美の家庭に対して、吐き気を覚えるほど強く、嫉妬を覚えた。それは、自殺を考え始める少し前だった。
 人は誰でも悩みを抱えていると言うけれど、聡美には、本当に悩みがあるんだろうか……。
「これにしよっと」
 ぱたん、と絵本を閉じる音。書棚下段の絵本を見るふりをしていた綾は、顔を上げた。
 それから、さっきまでいた店の紙袋を手にした直と合流し、ペットショップにも寄った。聡美は年甲斐もなく、ペットが見えるガラス窓を指で叩いてまわり、店員に注意されていた。直はひとりで、一匹の犬をじっと眺めていた。
 CDショップでは、三人とも知らないことが条件のマイナーなグループから、誰が名曲を発掘できるか、という遊びをした。それぞれ三枚のCDを集めてから、視聴用の機器に張り付いた。直が見つけてきたシンガーソングライターの歌が、今日一番の名曲ということになった。
 くだらないけれど、楽しかった。些細なきっかけで今置かれている状況を思い出し、醒めた頭で俯瞰してしまう時もあったけれど、楽しかった。

 電車通学の聡美とはそのまま駅で別れ、直と二人、自転車で帰宅の途についた。
 帰宅方向が分かれるY字路で、なんとはなしに、自転車を停めた。ふと直を見ると、既に彼女も自転車を停めていた。
 晩秋の街路は、耳鳴りがするほど、静かだ。
「聡美がいると、本当、楽になる」
 しばらく黙っていた直は、唐突に、そんなことを言った。彼女はハンドルから両手を離し、アスファルトに両足をつけていた。
「うん。二人だけだったら、きっと、思いっきり沈んでたかも」
 片足だけでバランスを取りながら、そう答える。
「この間、蔵本とやり合ったときとか……聡美だったら、軽く受け流せてたよね。でも私は、うまくかわせなかった。友達ぶって、逆に、迷惑かけて」
 部活の時は後ろで括り、ふだんは胸の辺りまで垂らしている髪を、直は乱暴に撫で付けた。
「僕のためにやり合ってくれたんでしょ?」
「それは、そうだけど」
 綾は軽く笑った。
「いま、自分で言ったこと、気付いてる?」
「何が……。あ」
「変な所で意地張るよね、直って」
 確かあの時の直は、綾のためにわざわざ、蔵本に突っかりはしないと、はぐらかしていた。
 そしてこちらは、蔵本たちは無視しておけばいい、なんて釘を刺したけれど、本当は少し、嬉しかった。巻き込みたくないのは本当でも、直が陰口を聞き流したら、やっぱり、悲しくなったはずだ。
 直はしばらくこちらを見つめたあと、目を逸らした。
「あのさあ。綾のためだってバレたついでに、お願いしてもいい?」
 軽めの口調を装ってはいるが、なんとなく、言いたいことは分かった。
「足掻いて。あれを、やろうとした理由は聞かないよ? 聞かないけど……。でも、考えた? 小学校からの友達が、目の前で、死にかけてるのを見つけた時の、私の気持ち。医者が安全だって言うまで、病院の廊下に吐かないように必死で堪えて、震えも、止まらなかった。いまちょっと、家がごたごたしてて、うまく、綾の事、助けてあげられないかもしれないけど。でも私も、頑張るから。だから一緒に、綾も、足掻いて。一人で、また勝手に溺れたら……怒るよ」
 黙って、頷いた。

 家の電気は消えたままだ。母はまだ、帰ってきていないらしい。
 母の車庫入れの邪魔にならないよう、駐車スペースの隅のほうに自転車を停め、玄関の扉を開けた。
「ただいま」
 二階の自室で部屋着に着替えてから、一階へ下りた。
 この間の日曜に、異臭を放つゴミ袋などを、母と協力して片付けたが、それでもまだ、かなり散らかっていた。二人して倦んでいた時期に溜め込んだゴミの量は半端ではない。ここのところはまた、掃除する気力も萎えかけていたが、直と聡美のおかげで、少し、持ち直せた。
 ご飯をすぐ用意して、片付けも進めておこう、そうすれば母さんも喜ぶ……。
 そこで、鞄に入れっ放しの携帯電話が鳴った。メールだ。
 誰だろう、と思うと、直だった。
 言い忘れたことでもあったのかな、と訝りながらメールを開く。
『そういえば、聞き忘れてたんだけど。澤山をはめるために狂言自殺したって、本当?』
 一瞬、息をするのを忘れた。
 アドレス帳で直のアドレスを一字一句誤りがないか確認して、また、受信ボックスを見た。間違いなく、直からのものだった。
『どうしたの、直?』
 震えそうになる手を律しながら、メールを打ち返す。
『聞いてるのはこっち。答えてよ』
『そんな理由じゃない』
『じゃあ、どんな理由?』
 ついさっき、理由を訊いたりしないと言ってくれたばかりなのに。
『言わないとだめ?』
『本当のことだから、言えないんだ? 本当だとしたら、最低のクズだね。クズ以下だよ』
『違う。澤山は関係ない』
『綾のせいで、どれだけ迷惑がかかったと思ってるの? 警察に事情聴取まで受けさせておいて、狂言自殺。私のこと、何だと思ってる?』
『友達だよ』
『そう? 私は、思ってないよ。今回の事で、もう、うんざり。いつもいつも、へらへら笑って、私が陰で何されてるかなんて知りもしないで……』
『何のこと?』
『聡美に頼まれて、今日まで付き合ってたけど。明日からはもう話しかけないで。錯乱してカッター振り回すような奴と話してるほど、暇じゃないから。周りに迷惑かける前に、さっさと入院したほうがいいよ』
「何で、そんなこと、言うの?」
 ディスプレイに向けて、問い掛けた。
『一緒に足掻いてくれるんじゃ、なかったの?』
 送ったメールは、サーバー上を彷徨って、綾の携帯電話に送り返されてきた。
 情報の処理が追いつかない。
 ……なんで? どうして?



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