1−4 距離感

「バスケ部の友達から聞いたんだけどさぁ、飯原さん、五組の澤山さんを加害者にするためにあんなことしたらしいよ。その人のこと、本当に嫌ってて」
「嘘、そんなことで?」
「だって、普通……自殺未遂して十日しか経ってないのに学校、来る? 絶対、おかしいよ」
「んん、じゃあ、そんなに早く来たのは、澤山さんがどうなったのか、確かめたかったから?」
 教室に入った途端、そんな言葉が耳に入ってきた。
 今ここにいない綾の話で、教室の大半の喋り声が占められていた。
 席に着くまでにも、悪意のないぶんだけ性質の悪い、興味本位の噂話が聞こえてくる。
 直は、耳を塞ごうと、ミュージックプレイヤーを手に取った。
 耳にイヤホンを突っ込み、ランダム再生のボタンを押す。たまたまかかった曲が、切ない女声を響かせ始める。それは、綾が自殺を試みる前日、柚樹から借りたアルバムの収録曲だった。
 すぐに、止める。また、喧騒が耳に入ってきた。
「イベントあるたび調子乗ってたし、ちょうどいいんじゃない?」
「優等生は、かばってもらえていいなあ。媚売っといた甲斐があったんだね」
「ウチだったら、絶対、あんなアンケート取ってもらえないよね。つーか、いじめ調査とか張り切ってたけどさぁ。本当にいじめがあった矢崎の時なんて、何もしないで、指くわえて見てただけじゃん」
「でも楽しみ。矢崎さんより折り応えありそう。どこまで持つかな」
「はあ? 薬物中毒で精神病でしょ? ちょっと突けば終わるって」
「あはは、そう言われれば、そうだね」
 下品な笑い声。
 主観が混じっているからそう感じるだけだ。実際には、艶のある綺麗な高音が、教室の後方から響いてきているのだろう。
「こっからどう攻める?」
 そこで直は、堪え切れずに、後ろの、時間割が書かれた黒板のほうに目を向けた。
 蔵本が一番後ろの席に座っていて、好き勝手に話す安井と倉田に囲まれていた。蔵本だけが、直を見つめていた。やや細い狐目で、それが白くて小さな顔に映え、病的なほど似合っている。その蔵本は、微笑を浮かべていた。
 頭に血が上った。席を立ち、蔵本たちに近寄った。
「綾に、何するつもり?」
「あんたに関係ないでしょ、阪井」
「阪井さんだって、怒ってたじゃない。勝手に、自殺未遂なんかされて」
 倉田は丁寧な口調で、ゆっくりと話す。直が不満を零したのは、聡美に対してだけだ。どこで聞き耳を立てていたのだろう。
「そのとき怒ってたからって、見て見ぬふりする理由になるの?」
「熱いねぇ」
 安井が、茶化すように笑う。
「取り巻きは黙ってて」
 吐き捨てた。
「突っかかってきたのはお前なんだけど」
「お願いだから、やめて。不安定なんだよ、今の綾は。普通に考えれば分かることでしょ?」
「でも阪井さん、矢崎さんのとき、何もしてあげなかったじゃない? 調子良いんだね」
「追い込んだ側に言われる筋合いなんてない!」
 もう、ある程度の生徒は教室に揃っていた。会話に一瞬の穴があき、興味の対象が、蔵本と直のほうへ移ったのが感じ取れた。いい加減、ここにいない人間の事で盛り上がられるのは鬱陶しかったから、ちょうどいい。
 蔵本は何も言わず、笑いながら、頬杖を突いた。蔵本はいつもそうだ。たとえそれが残酷な提案でも、微笑を浮かべながら、楽しげに聞いている。
 あまりに腹が立って、蔵本から目を逸らした。近くに居た柚樹が目に入った。
「よくこんな馬鹿げた会話、平気で聞いてられるね、柚樹」
 ファッション雑誌を読んでいた柚樹に、声をかける。わざと、柚樹の後ろに立つ蔵本たちにも聞こえるように。
 柚樹はちらりとこちらに視線を遣ったが、また雑誌に目を落とした。
「どうでもいい」
「どうでもいいって……。本当に、そう思ってるの?」
「もうすぐホームルーム始まるけど。席、戻れば」
「こういう時に裏切るなんて、最低だね」
「しつこい。裏切るも何も、最初から友達なんかじゃない、あんな奴と」
 柚樹は雑誌のページをめくった。
「残念。青野は、引き込めなかったね」
 風鈴が鳴るような、涼やかで透き通った蔵本の声を、今日初めて聞いた。
「人を遊び半分で追い詰めるのって、楽しい?」
「ねえ、阪井。あんまり、はしゃがないほうがいいよ。後で後悔するから」
「何その言い方。脅してるつもり? 私は、矢崎みたいにはならない」
 微笑しながらの蔵本の話し方や、立ち振る舞い、その他すべてが癇に障り、歯止めが利かなくなってきた。
 更に何かを言おうと口を開けかけると、後ろから声が掛けられた。
「直」
 そう呼ばれただけで、頭が芯から冷えて行くのが分かる。振り返って、綾と目を合わせた。
「ほら、ぐちゃぐちゃ言ってる間に、愛しの綾ちゃんが来たよ。慰めてもらえば? 一線超えてるっぽいしね。阪井と飯原」
「え? 違うの? ずっとそうだと思ってたけど。阪井さんが飯原さん以外に笑顔を向けるの、見たことない」
「消えてくんねーかな。吐きそう」
 まだ言葉を重ねる倉田と安井を無視して、綾に笑いかける。
「おはよう」
 不意に、手首が引かれた。掴む手には有無を言わさぬほどの力が入っていて、直はされるがままにした。
 綾にしか笑顔を向けない。
 そのことが原因でいじめられたのは、中学一年の頃だったか。自分で意識したことはない。でも、綾が、人のしがらみを解きほぐすような気持ちにさせる人間だと言うのは、知っている。昔から人付き合いが苦手で、何かと世話を焼いてくる綾に、依存していた面も、あった。友人は綾だけだった。その依存が周りには気持ち悪く見え、標的にされたのだと思う。
 中学時代の綾は、みんなから好かれていた。そのため全てが密やかに行われて、綾はたぶん、直がいじめられていた事実を知らない。
 いじめに遭ってからは、綾との距離感には気を遣っている。今は、聡美にだって笑顔を向けるし……柚樹にだって笑顔を向けてきた。綾にしか笑いかけないというのは倉田の拡大解釈だ。けれど、周りから見て気持ち悪くない距離、というものを保てているかは、今も自信がない。保てていたら、自殺未遂の現場には遭遇しなかったかもしれない。
 廊下に連れ出されたあと、綾が謝ってくるまでしばらく何も言えなかったのは、そのことを考えていたからだった。

 いつものように、電気は点いていなかった。部活で酷使した体を引きずりながら、居間の電気を点けた。
 先程まで真っ暗闇だった居間の片隅で、母が、膝を抱えてうずくまっていた。
 もう、この程度で、薄気味悪いと思うような気持ちはどこかへ消えた。祖父が、病気で寝たきり。祖母が、認知症。どちらも母にとっては義理の両親だが、その二人の介護に精根尽き果て、抜け殻のようになっていた一時期よりは、ずいぶんと回復した。
 部屋着に着替えて冷凍食品のパスタを解凍し、勝手に食べ始めた。
「直、おかえり」
 席についてようやく、母は直に声をかけてきた。
「ただいま。母さんも食べる? 冷凍食品だけど」
「今日はちょっと、食欲がなくて」
「そっか」
 直は冷凍食品のトレーに入ったパスタを、カルボナーラのソースに絡めて口へ運んだ。
「おむつ、替えた? 洗浄は?」
「ま、まだ……」
 もともと青白い肌をしている母の顔色が、俯いたことで陰影がつき、余計に色みが薄く見えた。
「そんな顔しないで。責めてるわけじゃない」
「ごめんなさい、お昼食べた後、替えようと思ったんだけど……。今日は、駄目で」
「今日は、駄目な日だったんだね」
 自分の考えは言わず、母の言い分を繰り返す。
「疲れてる日は、無理することないから」
 母がこんな状態になるまで、父は仕事ばかりやっていて、直は部活ばかりやっていた。二人揃って、専業主婦である母の仕事はこの介護だ、と疑いもなく信じていた。身動きの取れない義理の父親から、毎日毎日、憂さ晴らしの対象として辛く当たられる介護が、どんなに苦しいものなのか、見て見ぬふりをしていた。それでもまだ、部活はやめられない。部活をやめてしまったら、この現実だけに、直面することになる。そう考えると、足が竦む。
 食事を済ませ、トレーを台所のゴミ箱に放り込む。台所では、お湯を沸かして、容器に入れた。容器はかつて洗剤が入っていた物で、よく洗ってから使い始めた。少しずつお湯が飛び出すのでとても扱いやすい。手を洗ってから、電子レンジを使って蒸しタオルを用意し、それらを持って、祖父と祖母がいる部屋に向かう。
 フローリングで十二畳ほどある部屋。もともとは、居間として使っていた場所だ。祖母だけが介護対象者だったころは、別の部屋を介護用にあてていたが、介護のしやすさを重視して、二人一緒の部屋に移ってもらった……いや、こちらの都合で、一緒の部屋に、押し込んだ。
 部屋には排泄物の匂いが立ちこめていた。
「ただいま。おじいさん」
「何時間放っておくつもりだ! あの豚はどうした」
 恰幅が良く、よく笑う人だった母をやせ細らせた今も、祖父は彼女をそう呼ぶ。
「すみません。下着、替えますね」
 ここで下着ではなく、おむつ、と言ってしまうと、祖父は酷く機嫌を悪くする。介護用品を入れている棚から、使い捨ての手袋を取って、手にはめた。
 いつものことだ。感情を排して、祖父の着衣を脱がせ、ゆっくりと、祖父の体を横向きに倒す。
 紙おむつを広げると、中のパッドに便がこびりついていた。だが、紙おむつ自体はさほど汚れていない。パッドを替えるだけで済みそうだ。トイレットペーパーで、肛門付近についた便を拭き取り、パッドにこびりついた便も拭き取る。異臭を発するそれを、すぐ近くにあるトイレで流し、戻る。
 布団を汚さないよう、フラットシートを、祖父の尻のすぐ下に差し込んだ。台所から持ってきていた、洗剤の空き容器に入ったぬるま湯を、陰部の周辺にかけた。病気を予防するため、石けんを使って泡立て、ペニスまでをよく洗う。またお湯をかけて流した。そして最後に、蒸しタオルで丁寧に拭いた。
 何時間も、便のついたまま放置され、不快感が続いていたのだろう。このときだけは、さすがの祖父も、安らいだような表情を浮かべる。いつもの罵詈雑言も、少しの間、鳴りを潜めてくれる。母を追いこんだ祖父のことは、何をどう間違っても好きにはなれないけれど、気持ちは、分かった。
 フラットシートを抜き、パッドを替えて、紙おむつをつけ直した。
 次は、祖母の番だ。


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