9

 一郎はゆっくりと目を閉じた。
 午前三時、まだ雨は降り続いている。
 地面に飛び散った血の水たまりを、一郎の罪を、雪ぎ、流すかのように。
 どこかの国の軍隊は、敵への憎悪や家族への愛情で戦うらしい。だが自分は、戦った後に自己を正当化する言葉を見つけることが出来ない。そして、見つけたとしてもそれを信じることが出来ない。
 妹の為? 敵の兵士たちにだって家族は居たはずだ。日本の未来の為? 国の未来がかかっているのは敵だって同じだ。いくら口で家族や仲間を守る為と言ったって、自分のしたことはただの殺戮だ。最終的な結論は、いつもそこに辿り着く。
 目を開けると、相変わらず雨は地面を打ち、地面を打った雨は血の水たまりを雪いでいた。
 そして、血の水たまりの横には千絵が立っていた。
「……あなたがやったの?」
 感情の起伏が全く感じられないその声は、何を意図して一郎に質問しているのかまったく読み取らせてくれないような印象を受ける。その声は、ただ分かりきった事実を確認したいだけなのだろうか。
 一郎も感情などを出す気にはなれず、普段なら無愛想に感じるだろう彼女の訊き方は、かえって心地よかった。
「そうだ。全部俺がやったんだ」
 
「……すごい血」
 先程の彼女が発した感情の起伏が感じられない声とは裏腹に、感情を滲ませた声音。一郎を見上げた瞳は、何が原因だか分からないがどこか不安げだった。自身の不安を反映した瞳を捉えられることを嫌ったのか、彼女はすぐに目を逸らした。彼女が視線を外すと、辺りを再び雨音だけが包み込む。多少音は小さくなったものの、相変わらず視界の半分は雨によって遮られている。
 曇天の様相を呈し、肌に刺さるような痛みを伴った雨粒を零す空を見上げて、一郎は雨音が支配していた長い沈黙を破った。
「どこかで休もう」
 千絵も小さく頷き、一郎は突風に飛ばされずに残ったテントを探すことにした。発作を抑える薬を届けてくれた安藤や先生が下水道で待っていることは分かっていたが、とにかく今はゆっくりと腰を据える場所が欲しかった。
 
 
 探し始めて数分後、四人一組で就寝するタイプの中型テントが見つかった。靴にビニールシートを被せて雨から守り、ゆっくりとその中に入った。雨の流入を防ぐ為、テントの入り口を開いているジッパーを閉じてしまうと、雨音は遠くで鳴っている物音のように感じられた。床はすでに豪雨のせいで濡れていたが、一郎も千絵も同じような状態なので全く気にしていなかった。
 ここを使っていたのは神経質な隊員たちだったのだろう。大きめのボストンバッグを、さらに大きめのビニール袋で覆ったものが置いてある。中を開けてみると、そこには着替えや電灯、携帯電話等の電子機器が入っていた。着替えを見つけなければこの服を着たまま過ごそうかと思っていたが、いくら夏とはいえこのままの状態で居ると風邪を引きそうだったので、兵士たちの着替えを勝手に借りることにした。
 一郎は電灯と着替えを引っ張り出し、失くしてしまった腕時計の代わりに、携帯電話で時刻を確認する。
 八月十二日午前三時二十一分。戦闘が始まったあの日から、六日が経った。
 一郎は、美人な女性が赤ちゃんを抱いて笑っているところを壁紙にした携帯をバッグの中に戻し、千絵に着替えを渡す。
 彼女が着替えている間、一郎はポケットから一粒の錠剤を取り出し、そのまま飲んだ。喉はからからに乾いていて、奥の辺りでつっかえそうになりなったが、何とか飲み込む。テントの中は衣擦れの音が支配して、相変わらず会話はない。
 
「終わったよ」
 しばらく何も考えずに目の前を見据えていた一郎の肩を、千絵が叩く。
 振り返ると、彼女は無地で白のTシャツの上に緑の迷彩ジャケットを羽織り、濡れた髪を白で無地のタオルで拭いていた。暗闇で引き立つその姿は、一郎が次の行動に移るのを少し躊躇わせた。
「……着替えないの?」
 しばらく千絵を見上げていた一郎は、慌てて立ち上がる。千絵はその様子を確認すると、何も言わずにナイフホルダーからナイフを取り出し、ずぶ濡れの背嚢に入っていた砥石を使って研ぎ始めた。もう自分は視界に入っていないのだろう、と思い、警備員のズボンと服を脱ぎ、専衛軍の軍服を着る。戦時中だというのにこの六日間で三回も着替えることが出来るのはある意味幸運だと言える。
 そんなことを考えていると、足を通すときに裾につま先を引っ掛け、両手でズボンを引き上げていた為に、顔面から倒れこんでしまっていた。
「あはははっ」
 音の割にはそれほど痛みはなかったものの、思い切りぶつけた額をさすりながら立ち上がろうとすると、誰かの笑い声が聞こえた。もちろん千絵以外の何者でもないその笑い声だったが、意外なほど快活な声だった。笑っているその表情が徐々に元の表情に戻り、少しバツの悪そうな顔で一郎を見上げるまで、とても彼女が発した声だとは信じられなかった。
「……ごめんなさい。だって、いきなり頭から……」
「いや、別に良いんだけど……」
 一郎は赤くなった耳を感じつつ、その場に腰を下ろした。笑った直後だと言うのに妙な緊張感を迸らせている千絵からは、本能的にやや距離を空けた。
「……千絵も、"ストレイジ"なんだよな」
 一郎は千絵がナイフを研ぐ様子を眺め、ぽつりと呟く。一郎の物が大型のシースナイフなら、千絵の物は、より堅牢に、より実用的に設計された標準よりやや小さめのコンバットナイフだ。これはシースナイフよりも威力は弱くなるが、女性兵士でも十二分に使いこなせる重量だ。
「……うん」
 一定の緊張を維持した千絵が、ゆっくりと肯定の口を開いた。ランプのような形状をした電灯に左手を添えている彼女の表情は、相変わらず冴えない。
 
 
 Strage(ストレイジ)。実験の内容に反してなんとも間抜けな話だが、その名前は学者のスペルミスから生まれた言葉だった。実験に使われた自分たちを指す正式名称はStage・Orphan(ステイジ・オーファン)。直訳すると初期の遺児、という意味になる。要するに、初期に行われた人体実験の、失敗作だ。
 その組織は薬物投与による人体実験に自分たちを使い、その上身体異常や精神異常などの一生付き纏う厄介な欠陥を残して、実験を放棄した。
 そしてその欠陥は、人によって症状が違う。千絵のように喘息の発作のような身体的障害もあれば、一郎のように一つの体に二人の精神媒体が存在している異質な精神的障害もある。欠陥を宿したものたちは総じてストレイジと呼ばれ、その欠陥と引き換えに、あるものは常人では考えられない自然治癒能力を、あるものは信じ難い身体能力を手に入れた。つまり、失敗作だとは言っても、欠陥を除けば当初の目的であった人的兵器の作成は成功していたわけだ。北朝鮮と韓国の武力統合がなければ、実験はまだ続いていただろう。
 
 
 千絵とストレイジについて交換した情報は、自分が小野から教えて貰ったものとほとんど相違なかった。ただ、彼女は、自分がストレイジであることを知ったのはつい最近だと言ってから、それきり押し黙ってしまっていた。
 いつも閉鎖されたコミュニティで生活していた一郎は、この初めて遭遇した状況に、どう対処すればいいのかしばらくの間迷い、迷っているうちに精神の混濁が激しくなってきた。精神的な欠陥――自分がステイジ・オーファンと呼ばれる根幹の部分が、先程の戦闘の代償に、一郎の精神を蝕み始めている。薬は飲んだが、抵抗が付いて効かなくなり始めているらしい。
「……どうかした?」
 顔色の変転が著しい一郎に、黙っていた千絵が声をかける。一郎は立ち上がり、千絵に断ってから、テントのジッパーを開け始める。
「……少し気分悪くて」
 一郎は、それだけ言って外に出た。そして彼は再びテントのジッパーを閉めた。千絵は呼び止めようとしたが、これ以上深みに嵌るな、と囁いた自制心がその行動に移ることを許さなかった。そして、その自制心が次に指示した行動は、現在の専衛軍の経過と自身の行動記録を、複雑に暗号化したデジタル文書で送付することだった。
 
 
 
          ◆
 
 
 
 目を覚まして、まず像を結ぶのは浅緑のビニールシート。
 充足した眠りとは程遠いその感覚を律し、体を起こす。正面には太陽の光で透けたテントの入り口があり、雨がもう止んだ事を知った。光が差し込むテント内は、少しだけ蒸し暑い。昨日はどうやって寝たんだっけ……と頭痛のする頭で考えようとしたが、途中で諦めた。
「多々良君、昨日はどうしたの?」
 突然の声に驚き後ろを振り返ると、テントの入り口から屈んで顔を覗かせる千絵と、目が合った。
「……俺、昨日、千絵に……何かしなかった?」
 いつもは安藤に宥められ正気を取り戻すことが出来るが、自分をさほど知らない彼女 が、自分の手綱を取れるとは思えなかった。昨日の夜、テントを出てからの記憶が何もないことも手伝い、一郎は千絵を気遣うような声を出していた。
「精神の混濁が酷いと……暴力を振るったりする、から」
「多々良君は……精神異常の型なの?」
「……多々良君じゃなくて、一郎でいいよ。妹と弟も後から紹介するから、紛らわしくなる」
 物珍しい口調で聞き返した千絵に不機嫌な調子で答えて、話題を逸らした。
 しばらく彼女は顔色を伺うようにじっと一郎を見つめていたが、やがて目線を外すと、ごめん、と小さな声で謝ってから、テントから外へ出た。
「あ……」
 千絵を追うようにテントを出た一郎は、予期せず近くにいた彼女を押し出す形になり、軽くよろけた。前のめりに倒れて泥の沼に突っ込んだ千絵は、起き上がると、泥まみれになった顔をこちらへ向けた。
「……ちゃんと確認してから出てよ、"一郎"」
 一郎は、怒ったような口調で呟いた彼女の、泥まみれの顔を見て、久しぶりに声を出して笑っていた。自身の笑いに、精神的欠陥の原因である"もう一人の自分"が、少しだけ主張を弱めたような気がした。
 

 
          ◆
 
 
 
 千絵にタオルを貸してから下水道に降りていくと、そこにはまだ三人の姿があった。
「……あ、やっと来たよ、安藤くん」
 夏樹の声に促されて顔を上げると、そこには一郎と千絵の顔があった。
 安藤は面倒くさそうに立ち上がると、彼の方を見て言った。
「……何してたんだ」
「テントで寝てた。……先生、ちょっといいですか」
 一郎は安藤の言葉を軽く流し、千絵にそこで待つように言ってから、下水道の奥へと進んだ。


 瓦礫の山が道を塞いでいるあたりまで辿りつくと、一郎は小野に昨日の夜のことを話した。
「薬が効かない?」
 素っ頓狂な声を出した小野に、一郎は小さな声で話すように促し、話を続ける。
「ええ、あの時、確かに僕とストレイジの二人が同時に存在していました」
「調べてみる必要があるな。岩波と交渉してみよう」
 小野は一郎に背を向け、もと来た道を戻っていく。そして数歩歩いた後、こちらを振り返って言った。
「何もお前の出来が悪いわけじゃない。……あまり気に病むなよ」
 一郎は、白髪頭を揺らして人懐こい笑みを浮かべた老人のあとに続いて歩き出す。
 
 戻り際に見た、傷口に虫のたかる刺殺体の見せた表情は、一郎を再び不安に陥れるには十分すぎるものだった。




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