10

 土砂降りの雨が地面を打ち、また、辺りに散乱した鋼鉄の機械類を打ちつける。
 あれほど見事なまでに咲き誇り、脈々とした生気を感じられたエゾスズランは、もう燃えてなくなってしまった。未だにあちこちで燻り続ける小さな炎たちは、エゾスズランを燃やしたことなど、気にも留めていないのだろう。男はぬかるんだ地面に足をとられない様に気をつけながら、慎重に歩を進める。そして彼はゆっくりとその機械の残骸に近付いていく。先程まで――この豪雨に消し去られるまで――橙色の中に所々青さの混じった炎が行く手を塞いでいた"現場"へ近付いていく。
 この戦時下に山火事をわざわざ消し止めて、敵の民を救ってくれるような敵軍は居ない。異様な臭気の漂うこの状況は、ある意味意図的に作られた状況とも言える。幸いにも昨日の夕方から降り出したこの大雨は、数日に渡った山火事を、綺麗に押し流してくれた。
 彼はもう一度この機体、ハリアーVが墜落しなければならなかった原因について考えてみた。あれ程の腕を持つパイロットが、なぜ逃げ出す自分たちを取り逃がしたのか。なぜ木々が生い茂る雑木林の只中に墜落しなければならなかったのか。
 しかし、それ以上に、なぜパイロットが居ないのか、という疑問の方が今は大きい。彼は墜落するハリアーVから、相当な高度を保った位置から、"何も着けずに"飛び降りたのだ。無事で居られるはずがない。しかし現に今、そこには機械の残骸しか残されていなかった。
 松木一郎は自分を落ち着けるためにポケットに入っているはずの煙草を探る。しかし、もう既に箱の中身は空だった。仕方なく反対のポケットに手を移し、銀紙に包まれた小さなガムを一粒取り出した。包みをはがしてガムを口に含むと、ミントの香りが自分の鼻腔をくすぐった。ミントの刺激で再び排出を始めた唾液を、からからに乾いた喉に阻まれながらも何とか飲み込む。
 松木は一本だけ燃えずに残った、どこにでもありそうな大きな木の幹に、寄りかかるようにして腰を下ろした。
 そして腕時計をちらりと見遣る。三時二十一分。
 今は八月何日の、朝鮮の侵攻が始まって何日が経過した三時二十一分なのだろうか。午前なのだろうか、午後なのだろうか。岩波さんは無事に札幌に着いただろうか。多々良たちは大丈夫だろうか。様々な疑問が逡巡する中、松木は意識を失うようにして眠りに落ちた。
 
 

          ◆

 
 
「解任……?」
「ええ。下水道の警戒を怠った上、部下をほとんど壊滅させたんです。それくらいで済んだだけでもいいと思わないと……」
 治療道具や包帯の入った引き出しは辺りに散らばっていて、消毒液は床に黄色い水たまりを作り、その上に止血用のガーゼが数枚落ちている。先程の戦闘の余韻を残すこの部屋に、小野と一郎はいた。
「その前に、小野さん。……そいつは? かなり暴れ回ってたみたいですが」
 頭に巻いた包帯をさすりながら、岩波は一郎を見る。
「……宗一の息子だ。こいつの妹と弟も外にいる」
「ああ、宗一の……」
 彼は得心したように呟いた。
「……とにかく、新しく師団長に就任した大沢さんの部隊を頼ってください。うちではあなた方を守りきれない」
 岩波はベッドから起き上がり、入り口のコルクボードの前に立ち、"LAV"と表記してある場所から鍵を二個外した。
「外に止めてある車の鍵です。軽装甲車のLAVを使えば小樽までそう時間はかからないでしょう。民間人の護送も任務の一つ。兵士は付けられませんが、倉庫のシャッターを開けておいたので使ってください。なるべく損害を避けあちらの部隊に届けてくださると助かります」
「ありがとう」
 岩波は、鍵を小野に手渡すと再びベッドに戻った。そして、銘柄がわからないほどに汚れた箱から煙草を取り出し、ライターで火をつける。火をつけた煙草をゆっくりと口にくわえて、煙を吐き出す。
「……負けるなよ」
 岩波の言葉を背に受け、一郎は左手に巻いた包帯の感触を確かめながら、ドアの取っ手に右手をかける。
 そしてドアを押し開きながら言った。
「……負けません」
 
 外に出ると、まず目に入ったのはLAVの車庫だった。入ってくるときには気付かなかったが、四棟ある兵舎のうち、この医務室が備え付けてある兵舎は、軍備を蓄えておく兵舎の正面に据えられていたようだ。
 正面から見ると異様に目立つ大きさのタイヤの上には、サイドミラーが備え付けられていて、屋根の代わりに付いている上部ハッチからは、小銃を据え付けて銃撃することが可能となっている。装甲は、重機で掃射されればひとたまりもないが、小銃程度の銃撃なら十分にカバーできる。
「……運転、できるか?」
「慣れれば大丈夫だと思います」
 不安げな声を発した小野に言うと、一郎は車庫へと入っていった。
「千絵たちを呼んで来て下さい」
 LAVの運転席に乗り込み、エンジンをかける。
 普通乗用車に比べてサイドミラーの位置が遠く、慣れるまで背後の様子を探ることは困難そうだ。左右の様子を確認してから、ゆっくりとアクセルを踏み、ハンドルを右に切って車庫から車体を出す。昨夜降った雨でぬかるんだ土は、午前中の照りつける日差しによって乾き、今は地面に凹凸(おうとつ)を作っていた。それはタイヤを伝って車全体を揺らし、安定した操作を困難にさせる。
 徐行運転で少しの間進み、小野たちの姿を確認した一郎は、兵舎を出たところで車を止め、サイドブレーキをかけてエンジンを付けたままLAVから降りる。
「大きいー……。お兄ちゃん、こんなの運転できるの?」
 LAVから降りた一郎を見つけてゆっくりと歩み寄ってきた夏樹が、その車体を見上げる。LAVの車高は最低でも一.八メートルはある。
「たぶん、な。……夏樹はこれに乗って。大事な話があるから」
「……いいけど、なに?」
「じゃあ、出発だ。先生たちは、僕らの後についてきてください。近付きすぎず、離れすぎずでお願いします」
 夏樹の後ろから歩いてきた小野に、一郎は言った。
「先導なんて勇ましいな。……でもな、道分かってないだろう?」
 不意に小野の背後で発した声を聞いて視線を移すと、そこには地図を持った宮沢が立っていた。
「この地図にルートを書いておいた。LAVには四人しか乗れないはずだから、二部用意したんだ。誰に渡せばいい?」
「……ありがとう。一つは安藤に渡してくれ。もう片方は俺が」
 彼はそれぞれ一部ずつ安藤と一郎に渡すと、一郎の正面に立った。
「……また一緒に戦えるか?」
「朝鮮軍がこの島から消えてなくなるまでは、戦える」
「そうか……じゃあ、しばらくの間お別れって事だな。……頑張れよ」
「ああ」
 一郎はそう言うと、先程からエンジン音を唸らせ、出発を催促しているかのようなLAVの運転席のドアを開き、ゆっくりと乗り込んだ。それに誘導されるように夏樹も助手席側に回ろうと歩き出す。
「……夏樹は後ろに。助手席だと銃撃があったときに避けようがない」
 彼女は開きかけた助手席のドアを閉じ、後部座席のドアを開ける。
 夏樹が乗ったことを確認してから、一郎はLAVの右側の窓越しに宮沢の姿を見る。窓は開けることができない仕様になっているが、一郎は車内から彼に笑いかけた。
 相手の表情が和らいだのを確認すると、アクセルにかけた右足に力を入れた。
 

 
          ◆
 

 
「スト……レイジ?」
 まだ上手く情報を飲み込めてない様子の夏樹の表情がルームミラーに写り、一郎はもう一度情報をまとめた。
「六歳のときに実験の失敗が原因で処分されそうになっていた一郎の中に、実験の後遺症として俺が生まれて、そしてそれを拾ったのが宗一さん」
「でもお兄ちゃんは最初から……」
「……夏樹はその時三歳。俺が来たときの記憶になくてもそれはそれで仕方がない」
「……じゃあ今ここに居るのは?」
「実験で生み出された人格、だよ」
 彼女は助手席と運転席の間から出していた顔を引っ込め、それきり黙りこむ。
 一郎はその様子を確認してから、ゆっくりと手元にある地図に目を戻した。先程から砂利道が続いているが、曲がる箇所が無いために片手でも十分に車の操作はできる。数十キロ先までひたすら直進で良いことを確認して、地図を畳んで助手席に放り投げた。そして再び両手でハンドルを支える。百キロまでしかないメーターで、針が丁度真ん中の五十キロ付近を指している。
「……じゃあ、これからあなたのことを兄さんって呼ぶから」
「え?」
 夏樹の声を近くに感じて見遣ると、彼女は座席の肩部分に顎を乗せて、こちらを向いて話し掛けてきていた。
「……本当の"お兄ちゃん"はあなたの中にいるんでしょ? だからあなたは"兄さん"」
「そんな適当な……」
「こうすれば私の中でははっきりと区別できるし……養子だとしても、義理の兄だとしても、実験から生まれたとしても、兄は兄。私の中では何も変わらないから」
「……ありがとう」
 一郎は彼女の目をしっかりと見て、礼を言った。彼女は少し戸惑った様子で座席の肩部分に乗せていた顎を外すと、窓の外の青々しく背の高いススキに視線を移した。
「兄さんが兄さんでいられる方法、絶対に見つかるよね……」
 夏樹がそう言い終わると、目の前にはようやく道路らしきものが見えてきた。岩壁を削り取ったかのような場所だが、見たところ目立った破壊の痕跡は見受けられなかった。恐らく朝鮮軍はまだここまで侵攻していないのだろう。少し安堵した一郎を乗せ、LAVの車体は砂利道に別れを告げ、ゆっくりと道路に乗り上げた。
 
 しばらくの間ただひたすら車を走らせ、一郎が軽い眠気に襲われるようになった頃、辺りは暗くなろうとしていた。この車がもう少しスピードが出れば夜が来る前に小樽へ着いたのだろうが、徒歩で歩く気苦労を思えばあまり文句は言えない状況ではあった。
 一郎は相変わらず無愛想な岩壁が立ち並ぶ道を走らせながら、地図を確認する。あと少しで国道に入るから、ここを右に曲がって……と前の道路と地図とを見比べて思案していた一郎は、轟音と共に突如出現した物体を避けるためとっさにブレーキを踏んだ。後ろから着いてくるであろう安藤たちの車を待ちながら、三十キロ前後で走っていたLAVは、どこからか悲鳴を上げて物体に接触する直前で何とか踏みとどまった。窓に顔を寄りかけて寝ていた夏樹は突然のブレーキで体制を崩したようだったが、音はますます強くなる一方で、そんなことを気にしている場合ではないと一郎は本能で感じ取った。突然出現した物体――着地の衝撃で砕け散った岩石――をしっかりと目に焼付け、一郎はアクセルを思い切り踏んだ。
 LAVを発進させた直後、慣れないサイドミラーでなんとか後方を確認した一郎は、今まで車体が存在していた場所に巨大な岩がめり込むのを確認して、さらにLAVを加速させる。左隣で発した音なのか右後方で発した音なのかさえ分からないほど、落ちてくる岩は留まることを知らなかった。
「夏樹、頭をできるだけ低くして手で覆え!」
 薄汚れた制服と長い黒髪が薄闇の中で動くのを横目で確認した一郎は、再び前に向き直った。巨大な岩が道路に突き刺さる音にまぎれて聞こえる、ぱらぱらとルーフの辺りを打つ小石の音が、一郎の恐怖を煽り立てる。
 正確な運転ができるようにしっかりと恐怖を押さえつけ、一郎はLAVの速度メーターが振り切れそうに鳴るくらいのスピードでしばらく走らせると、短いトンネルを抜け、国道との分岐にたどり着くことができた。
 車から降りて今まで通ってきた道を確認すると、見事なまでに崩落したトンネルがそれより先の目測を妨げ、辺りにはコンクリートの塊が散乱しているばかりだった。
 

「安藤、聞こえるか」
「聞き取れる」
「見ての通り、岩に行く手を塞がれた」
「別の道を探すしかない。国道に出るのはその道だけか?」
「こっちから来る道と、もう一つあるみたいだ。もう片方の道路と僕と夏樹が通った道路で、国道への交差点が形成されてる」
「それにしても一体何故……まあいい、道が見つかったら連絡するからそこを動くな」
 
 夏の夜独特の湿った空気が辺りを包み込み、おそらく道路脇の雑草に身を潜ませているであろうコオロギの鳴き声だけが響き渡る。崩落したトンネルから離れたところに車を移動させて路上駐車した後、安藤に連絡を入れた一郎は、誰も通る気配のない道路のセンターラインの上で仰向けに寝転んだ。冷たいコンクリートの、汗ばんだ体を癒すような感触が心地よい。
「兄さん、そんなところに寝てると轢かれるよ」
 仰向けに寝転んだ一郎の視界に、夏樹の顔が現れる。少しだけ遠慮がちにこちらを見るその目は、やはり義母さんにそっくりだった。
「やっと兄さんって呼ぶのに慣れてきた」
「……無理して呼ぶ必要ないのに」
「その方が兄さんも"自分は本当の一郎と別の人間だ"って思いやすいかなって。……それに十六にもなって"お兄ちゃん"だとなんか頭悪そうじゃない?」
「そんなの知らないって」
 口元に微笑を浮かべる夏樹としばらくぶりの会話らしき会話をして、一郎の顔は自然に和らいでいった。
 一郎が束の間の安息を感じながら、ゆっくりと立ち上がろうとしたとき、不意に、しゃがんだ夏樹の頭の辺りに赤い線が一本差し込むのが見えた。その赤い線はしばらくの間上下左右を彷徨っていたが、やがてこめかみの辺りにその線は固定された。

 一郎はコンクリートに右手を突き駆け出すと、勢いをそのままに夏樹を押し倒した。
 勢いあまって背と腹の表裏が逆転し、背中から地面に叩きつけられた一郎は、腹筋を使って起き上がり、どこが撃たれたのかも分からない夏樹を抱きかかえ車の影へと滑り込んだ。その際に次弾が肩を掠めたものの、五体に異常はなかった。
 連射はできないタイプの狙撃銃らしい、という事実が唯一の救いだったが、LAVの装甲では防ぎきれないと感じた一郎は、夏樹を左肩に抱えたまま、急いで車内に置いてある背嚢と救急箱を取り出す。
 三弾目はLAVのエンジンルームに直撃し、LAVのフロントガラスと運転席は一瞬にして炎に包まれた。ガソリンがさらなる爆発を誘発する前に、LAVの影から離れ、どこか隠れられる場所を探す。ここには幸いにも、岩壁が抉れてできた空洞のようなものがあちこちに見受けられた。普通の感覚を持つ人間なら近寄らないだろうが、そんなことを言っている状況ではない。
 そして手近な空洞に走り出した直後、背後からの突風に体が一瞬浮き、気付いたときには頑強な岩壁に叩きつけられていた。あまりの衝撃に息がつまり、その場に倒れこみたい一郎だったが、未だ夏樹は狙撃の危険のある場所に転がっていた。ぎこちない動作で手を伸ばして、足を撃たれたらしく、立ち上がる様子のない彼女の手のひらを握ると、そのまま空洞のそばへ引きずり込んだ。
 最後の銃弾は夏樹の足元で弾けて、彼女が気に入っているナイキのシューズを道連れにして回転を止めた。対象を失った赤いポインターは辺りを右往左往した後、暗闇の中へと消えた。
 それを確認すると、一郎は岩壁に体を預け、滑り落ちるように地面に座り込んだ。
 夏樹の被弾した箇所を確かめようと視線を彼女へと移す。幸いにも臓器への被弾は避けられたようだったが、彼女の肩と足の辺りからは血がにじみ出てきていた。
 肩の傷は少し掠めただけだから浅いと思っていたが、口径が大きい弾だったらしく、貫通した傷跡からは血が溢れ出ていた。
 一郎は背嚢から救命道具を取り出すと、彼女のブラウスのボタンをすべて外して脱がせた。ブラウスを脱がせると、肩口の辺りで下着の紐が千切れていて、そこから被弾点を割り出すことができた。被弾した傷の近くに座り、銃創に消毒液をかけ、ガーゼで覆う。夏樹はあまりの苦痛に顔をゆがめたが、一郎はさらに、出血を抑えるためにガーゼで覆った患部を強く押さえる。

 彼女の表情を見ていられなくなった一郎は視線を空気の澄んだ夜空へと移し、患部を押さえることだけに集中する。
 空洞のかすかな隙間から空を見上げた目は、無数の星に紛れた朝鮮軍の人員輸送ヘリが虚空に消えていくところをしっかりと捉えた。




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