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 岩見沢の戦線を突破されたものの、わずかな兵しか損じず撤退に成功した岩波中将率いる専衛軍十一師団第二連隊は、北からの侵攻に対処するため、札幌市街の東、白石区に、激戦の末陣を築いた。三日前の最初の空襲時に徹底的に焼き尽くされ、二十七万人が住んでいた白石区は見る影もない。行軍を焦る敵も、直接札幌を狙うなどという行動は取らなかったのだ。七千人の兵士を総動員して住宅撤去と死体の収容が終わったのが昨日の深夜。
 そして、元々札幌で防衛の対策をしていた第一連隊を率いる大沢大将が三日前から始めていた要塞化は道路の封鎖などを終えれば一時間半後の午前八時には終わる予定で、完成すれば、札幌の前線は空軍にだけ注視していれば良いという、本格的な要塞になる。
 背後を突かれないよう、白石陣を起点に小樽港や函館港の安全を確保した後は、開戦後初めに奇襲を受け指揮官を失い敗走した第二師団、北海道の北東を守る第五旅団、千歳より南東を守る第七師団とも協力して、第二師団から奪った北西の旭川に本拠を構えた朝鮮軍への徹底した包囲を敷く予定だ。幸い岩見沢で大打撃を受けた朝鮮軍の動きは止まっており、準備にある程度の時間を割くことが出来た。
 一時間前には街全体を使った対空迎撃防衛網の準備を終え、もう既に空襲の被害を食い止めるべく臨戦態勢に入っていた。
「師団長」
「今度は何だ……」
 立て続けに上がってくる事務処理にうんざりしていた岩波は、不機嫌な調子で訊いた。
「武田から無線連絡が……」
 

 
          ◆
 

 
「そうですか、はい。ありがとうございました」
 武田は無線で話し終えると、岩波に聞いた札幌の状況を、あと一時間で札幌が完全に要塞化することについて、特に絞って話した。淡々と話す様は、無線機から周囲に漏れ聞こえるほどに叱責を受けたことなど意に介してはいないようだった。
「とりあえず、通常二時間で辿りつく所を一時間で行くことになる。強行軍だが、やるしかない」
「多々良君はどうするの?」
 と、千絵が言った。
「一郎は……無理じゃないのか。この状態で走ったりなんかしたら……」
「……それなら、どうする気?」
「俺らはすぐに札幌に戻らなきゃならないから、小山田は一郎を護衛しながら来てくれ。投降兵の処遇は俺らに決められることじゃない」
 宮沢は千絵に「ごめんな」と一言謝り、無線機を彼女に手渡し、乾パンとみかんの缶詰を四缶ずつ、飲料水の入った五百ミリリットルのペットボトルを五本と、カロリーメイト三パックに懐中電灯、小銃のマガジン二本を透明なビニール袋に詰めたものを一郎に渡した。
「無線があればなんとか俺たちと連絡が取れるし、この程度の食料があれば節約すれば一週間は凌げる。……今は駄目でも、あっちに行ったらなんとか入れてもらえるように説得する。それでも駄目だったらまた別の方法を考えるから」
「今はもう時間がない。すぐに出発する。札幌で合流しよう」
 目と目を合わせて正面で一郎を見て、武田が言った。
 分かった、という返答を聞くともなしに、武田と宮沢は大谷地パーキングエリアを発った。
「……私たちも行く? 多々良君」
 走り出す二人の背を見ていた千絵は、振り向くと、そう言った。
 
 
 その後は二人とも黙って歩き、しばらくすると、先行していた宮沢から無線連絡があった。
「聞こえるか。今はどのあたりにいる?」
 地理が分からないのか、応対した千絵が周囲を見渡して戸惑っていたので、彼女から無線機を受け取り、代わりに今自分たちのいる場所を無線に吹き込んだ。
「北郷ジャンクション。もう封鎖している車輌が見えるよ。……一応聞いてみるけど、待ってもらえそうだったか?」
「駄目だ。聞く耳すらもたない。もう封鎖が完了しちまったから、武田といろいろ侵入ルートを考えたんだけど……一つだけつながってる道があった」
「道? 要塞になったら道路も全部封鎖されるんじゃないのか?」
「下水道だよ、下水道。普段は交代で見回りして封鎖しておくようになってるんだけど、そこに俺と武田が割り当てられたんだ。師団長はそういうところにも気が回る人でね。俺たちが見回りしているときになら、お前らのために開けてやれる。俺たちが割り当てられたのは十二時、つまり正午ちょうどだ。遅れないように来てくれ」
 と、宮沢は流暢に説明を終えると、言葉を続ける。
「入り口は、そこのトイレにあるマンホールから降りて、行き止まりになるまで、ただまっすぐ歩けばいいだけだ。そこはもう白石区だから」
「下水って……」
「文句言ってる場合じゃないだろ。時間がないから切るぞ、じゃな」
 告げるべきことを告げ終わると、一方的に無線は切れた。
 
 
「私たちは……何をすればいいの?」
「そこのトイレのマンホールから降りて、正午までに下水道を通って来いって」
「下水道……」
 千絵の顔がほんの僅かに歪んだので、それを見て内心ほっとした。常に無表情で淡々とした話し方でも、一応は、自分と同じような感受性を持っているのだろう。
「今は十時だから……まだ一時間くらい余裕はあるよね。……仮眠してもいい?」
 昨日はあまり眠れなかったから、と彼女は言った。それは一郎も同じことだったではあるが、黙って頷いた。
 心地よい太陽の日差しを浴びながら、焼け残った芝生の上で空を見上げる。四時間も寝ていない一郎は今にも眠りそうだったが、意識を傷の痛みに集中させて睡魔から逃れようとした。
 視線を千絵に戻せば、もう既に眠っていた。相変わらず聞いているだけで疲れてくるような、規則的で小さな吐息だ。一郎は、何の気なしに肩よりやや下程度の長さの髪をじっと眺めていた。前は肩にかからないくらいの長さだった気がするけど……と、意味もないことを考えていると、一郎たちが歩いてきた方向の随分向こうの場所から、轟音が響き渡った。
 砲撃が放たれたかのような爆音が虚空に消えると、一刹那置き、激しい鳴動が辺りを包み込み始めた。それは人の叫び声のようにも感じられるし、機械の駆動音のようにも感じられる。その音は、ゆっくりと、だが確実に近づいてくる。そして、だんだんと音の発生源らしきものが近づいてくるにつれ、大地の震動はますます大きくなっている。
 その振動に危険を感じた一郎は、仰向けに寝転んでいた体を起こし、必要なものをまとめ始める。千絵はまだ寝ていたが、体を揺らして声をかけたら、すぐに目を覚ました。一郎も千絵も、それぞれ自分の背嚢を担ぎ直して、目の前のトイレへと走った。
 トイレの中に入った一郎は、マンホールの前に立って、手をかけた。マンホールの蓋が予想以上に重かったので、何か器具を入れる窪みのようなところに、近くにあったデッキブラシの柄をはめ込み、てこにするようにして蓋を開けた。開けた途端、こみ上げてくるような臭気が二人を包み込む。だが鳴動は大きくなる一方だった。文句を言っている場合ではない。まだ眠そうな千絵に先行し、一郎は梯子を降りていって安全を確認する。下水の凄まじいばかりの臭気以外は、特に異常もない。自分に続いて降りてきた千絵が蓋を引っ張り、ゆっくりと閉めたのを確認して安心すると、再び肩と腹の傷が痛み出した。思い出したかのように襲ってきた痛みを堪えきれず、壁に手を付く。
 こうしている間にも、敵は侵攻を進めているかもしれない。痛みで平衡感覚を失いかけた体を無理矢理動かそうとするが、ふらついた足が体を支えきれなかった。うつぶせに倒れた、と思うと、倒れる瞬間に何かが胸に当たった。百八十度景色が変わって、下水に突っ込む一歩手前で踏みとどまったその体は、千絵が支えていた。
「……危なっかしい」
 一郎は痛みを堪えながら、出来る限りの笑顔で千絵を見た。しかしそれは苦笑にしかならず、彼女はそれを見てため息を零していた。
 
 

          ◆

 
 
 しばらく千絵に気遣われながら通路を走っていたが、やはり脇腹の痛みは尋常でなく、途中で息切れしてしまっていた。膝に手をかけ息を整える一郎に、千絵は少し迷ったような表情をしてから、口を開いた。
「大丈夫? 少し休む?」
「できれば休みたいけど……」
 一郎たちは立ち止まっているのに、今の下水道内には複数の靴音が響いていた。それも、ごく近い場所で。
「振り切るのは無理か……多々良君、あなたまだ戦える?」
「……自分の身を守るくらいなら」
「それなら、いい」
 押し黙った千絵が、考えるような仕草をしてからそう言った。
 
 通路の静寂を裂く靴音は、すぐそこにまで迫っていた。




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