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「今日はここまでにしておこう」
 江別駅を出たときに沈みかけていた夕陽はすっかり消散し、大谷地ジャンクションを闇が包み込む。車が入ってくる気配など微塵もないし、コンビニのような外観をしていたであろう食堂や、トイレのすぐ脇に設置された自動販売機には、光が供給される様子はない。月明かりがなければ、千絵たちの姿どころか、目の前に突き出した手さえ確認できないだろう。武田の話では札幌に入るまであと二時間歩く程度、ということだったが、瓦礫の山と化した国道十二号線を、闇夜で進むのは非常に危険だった。敵の空襲も、まだ止んだわけではない。二時間程度歩けばたどり着く場所で、テレビでしか見たことのない爆撃が行われようとしているのだ。
 攻撃が止まないということは札幌がまだ陥落していない何よりの証拠だが、いくら物資豊かな札幌とはいえ、これを他所からの輸送なしで一週間以上続けられれば、まず間違いなく陥落する。朝鮮軍だけの軍需物資を考えればそんなことは不可能に近いのだが、支援している国家があれば話は別だ。ハリアーVを所持していると言う情報が正しければ、何者かによる支援が行われていることは充分に考えられるだろう。支援の可能性が考えられるのは、中国・ロシアなどの日本との不和が指摘されていた国々。
 そして、もし支援している国がいるとしても、それらの国に太刀打ちするには、日本は物資生産の能力が脆弱すぎる。中国の経済成長時代、本州の工場のほとんどが、当時国土を持て余していた中国やアメリカなどの海外への移転を考え、次々と実行してきた。そして産業の空洞化という、自衛戦争の可能性さえ唾棄し、企業が利益ばかりを追求すると言う過ちを犯した日本に残された道は、滅亡しかないのかもしれない。
 
「……どこで休む気?」
 目の前に広がる鉄くずやコンクリートの粉砕痕。無事なのは崩れかけたトイレとそのすぐそばにおいてある自動販売機のみ。おおよそ現代人が寝るような場所ではない。しかし、そんなことを呟いたのは一般人である一郎だけで、他の三人はそれぞれ上空の敵から確認できないような狭い場所に、荷物の中に入っていた寝袋を用意していた。
「……寝袋か」
 一人だけ寝具を持ち合わせていない一郎は、一応宮沢たちに寝袋に入れてくれと頼んでみたが、明らかな寝たふりを通され、全く取り合ってもらえなかった。結局、トイレの近くに転がっているペットボトル専用のゴミ箱を立て直し、ゴミ箱の影になる様、寄りかかって眠りに落ちた。
 
 

          ◆

 
 
 目が覚めて体を起こしたとき、まだ太陽は昇っていなかった。
 この体勢で熟睡すると言うのが無理な話だが、せめて太陽が出てから目覚めたかった。歩き通しだったせいか、傷口をかばって歩いていたせいか、原因は分からないがとにかく全身が痛い。だが、この状況で一人だけ泣き言を言っているわけにはいかないので、会社で教わった筋肉疲労回復のためのストレッチを一つ一つ実践していく。
 これほどまでに全身が痛みに襲われた経験は今までになかったので、効くかどうかは分からなかったが、筋肉が関与している痛みはストレッチをこなしていくうちに、徐々にではあるが引いていった。
「……体は大丈夫なのか? 大丈夫なら、もう出発しよう」
 一通りストレッチを終えて、立ち上がろうとしたとき、崩れかかったトイレの壁に寄りかかった武田が口を開いた。いつからそこにいたのか分からないほどに気配を感じられなかった。半ば驚きながらも、大丈夫だと思う、という事務的な返答が声になると、そうか、と武田もまた事務的な返答を寄越し、その後でベルトを締め直しながら宮沢の方へと歩き出した。一郎もその背中に促されるかのように、千絵の寝ている場所へと歩き出した。

 
 
          ◆


 
 
 少年を刺した時の感触が、いまだに手に残っている。
 ぬるりとした血の感触に、そのナイフを引き抜こうと重なった暖かい少年の手。
 今までに何人こうやって殺して来た。
 誰の為に? 何の為に? これは自分の意思なのだろうか。
「千絵」
 誰かの声で、現実に引き戻される。意識の潜在的な部分での思考の余韻を感じながら、徐々に目を開いていく。
 睡眠から覚め、目を開けるとき、いつも考えることがある。
 目を開いた先に広がる世界は、十七歳の自分が住む代わり映えのしない日常ではなく、六歳の自分が住む、毎日が幸せだったあの日のあの世界になっているのではないか、と。そして、目を開いた先にあったのは、紛れもなく十七歳の自分が生きている世界だった。
 しかし、私をこの世界に引き戻したのは、いつものような、私を蔑み、貶めるような目をした大人ではない。どことなく空虚な、それでいてしっかりとした優しさを感じさせる瞳をした少年だった。
「……どうかした?」
 そこで彼に対する思考を打ち切る。それ以上の感情移入をするな、同じ轍を踏みたいのかと警告を囁く存在を確認して、ため息混じりに訊いた。
「出発するから準備しろ、だって」
「……分かった。先に行ってて」
 
 
 
 
 まだ自分が幸せだったとき、両親がいた。母は近所のスーパーでパート、父は防衛庁に勤める国家公務員。庁内ではかなり偉い方だったらしい。しかし、両親が共働きだったからといって、一人で毎日寂しく過ごしていたわけではない。母はハーフタイムのパートが終わる午後の三時にはすぐに帰ってきて遊んでくれた。千絵が小学校から帰ってくる頃にはいつも家にいてくれた。父だって休日には遊園地に連れて行ってくれたりもしたし、家族を連れて外食にも行ってくれた。
 住んでいた場所はいたって普通の公務員用の社宅で、そのころはまだ他の子供とも遊んでいて、小学校が終わればブランコやアスレチックのある公園にだってみんなと行った。それに、あの頃はまだ髪だって黒かった。
 
 平穏な生活が壊されたときのことは少ししか思い出せない。
 夕陽に照らされた公園のベンチに座る二人の親子。それは自分と母親だった気がする。くたびれた社宅の隅のほうににある小さな児童公園には、まだ夏だと言うのに人の姿は見当たらない。あの日が年に一度の縁日だったからだろうか。風に揺られてブランコがひとりでにキイキイと鳴り、浴衣姿の二人はその様子をゆっくりと目で追っている。夕日が沈み、ベンチから抱え上げられて、母の胸に抱かれた直後、突然の衝撃に、目の前には地面がせりあがってきて、手を付こうとしたときにはもう、千絵の意識は飛んでしまっていた。
 その時、自分は誘拐された。
 
 
 朝鮮では一緒に誘拐された父親と、朝鮮の割と豊かな区域で生活していた。元々用意されていたかのように、ある程度の地位に上り詰めていた父親は、朝鮮語が元々得意だったから、仕事でもすぐに馴染めたんだと言っていた。そして父は誘拐されたその日から、私に関係することでどんなに嫌なことがあっても、絶えず空虚な笑顔を作るようになっていた。その当時の私は父親が大好きだったから何も感じなかったが、今考えると、まるで私に対していい父親であることを認めさせるかのような漠然とした不自然さも併せ持っていた。昔の父は、その日、死んだと思う。
 体に異変が起き始めたのは朝鮮の軍事学校に入学してからだったか。家で睡眠をとっているときに急に激しい頭痛に襲われたり、布団から起きようとすると足が痙攣して立てなかったり、朝食を食べてから少し動いただけで嘔吐したり、髪の毛の色が日を追うごとに薄くなっていったりした。
 学校で食べる昼食に何か入っているのではないかと疑い、昼食を抜いて一週間過ごしたこともあった。しかし、症状は収まるどころか、ますます酷くなっていった。そして遂には、基礎体力をつけるためのマラソン中に倒れ、病院へと運ばれることになった。朝鮮の中流区画にある寂れた病院に運び込まれると思っていたのだが、行く途中に、視界を遮っていた目隠しの隅のほうから見えた器具は、どれもあの当時の朝鮮にあるとは思えない代物だった。そんな病院で治療されたからなのか、いつの間にか運び込まれた家の布団で目を覚ました後は、今までの異変が嘘のようになりを潜めた。
 ……ただ一つ、白とも銀ともいえないこの髪が、二度と黒くならなかったことを除いては。
 十四になると正式に軍人として認められ、一年目から、旧北朝鮮領でたびたび起こる内乱の鎮圧に追われた。朝鮮の首都であるソウルから距離が離れれば離れるほど内乱の起こる確率が高まっていて、地方に遣わされたのは一度や二度ではない。そして、そのお陰で天候や地形による変化を考慮した、実践経験を積むことが出来た。
 そんな内乱鎮圧に奔走する折、キム・ヨンジェは日本への宣戦布告なしの出兵を全軍に伝えた。
 国の内部がこのような状態で日本への出兵計画が成功するわけがない。そう思った。
 しかし、一部の国を除いての国際社会からの孤立を余儀なくされるというリスクを持つ核発射というカードを切ったヨンジェの、巧妙な工作と演説に末端の生活を送る者が操作され、政府の教育方針により溜まりに溜まった反日感情を国民全体が爆発させると、国民全体が政府に協力的になった。東京を消滅させ、大阪を業火で包み込み、福岡、長崎への上陸作戦を成功させると、上層部は新鉱物の発見された北海道の領土割譲を餌に、ロシアへ物資支援を要請、北海道の北と西それぞれから攻め込む事に成功した。
 
 そして、常人離れした能力を上層部に買われた自分に言い渡された今回の作戦は、小隊を率い、一般の客と民間の警備員三十名程度しかいない娯楽施設の制圧、その後岩見沢市に侵攻した本隊と共に札幌へ進軍、と言う内容だった。しかし、岩見沢基地の苛烈な抵抗、第十三空艇師団の全滅、ハリアーVの撃墜などで本隊は物資を消耗、別働隊は武装した警備員達の思わぬ抵抗に、千絵が後から率いる予定だった六十人一隊で構成された中隊二隊までもが潰走、通信兵に援軍の要請を受け、九人構成の分隊を従え駆けつけた千絵自身も、結局は部隊を壊滅させた。
 北海道のここまで独立した武装を考慮できなかったのは、戦勝に次ぐ戦勝から来た油断に他ならない。私たちが札幌に向かっていると言うことは、岩見沢攻略はかろうじて成功したようだが、大敗といってもいいような内容だったことだろう。
 そのような戦況とは関係なく、自分をあの戦場で殺さずに置いてくれ、対等な目線で会話をしてくれたこと、彼らが私に対してとった行動は、自分の過去を癒してくれるような気がした。戦うなら朝鮮のためではなく、この少年たちのために戦いたい、とも思う。
 例え、その資格を得ることが出来ない身だとしても、任務を果たすまで傍にいることくらいは許されるのではないか。そんなことを考えさせる力が、あの少年の瞳にはあった。あの頃の武田恒と……同じような力が。
 悔恨の棘が自分を貫き始める前に思考を止めた千絵は、
「急いで、札幌に行かないと」
 と武田に向かって言った。千絵から口を開いたことに驚いたのか、彼は少しの間返事をしなかった。無視するでも怒りをぶつけるでもない態度に、記憶を失ってしまっているのか? と考えたのも束の間。そうだな、と武田がそっけない言葉を返したのを潮に、三人は歩き出していた。後を追いながら、千絵は首から提げたペンダントを軍服の内側にしまい込んだ。




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