エピローグ4

 地下溝に取り残された武田は、腕を折られ手を離してしまった反動で線路に落ちた。変異型が迫っているのは知っていたから、ホームの下の退避場所にすぐに這って潜り込んで、息を潜めた。変異型が線路に下りて辺りを見回したが、視力はそれ程ないようで、息を潜めている武田には気づかず、またホームに飛び乗っていた。
 それから少し経つと崩落がはじまり、武田は生き埋めにならないように外へ出ようとしたが、ストレイジ同士の戦闘が始まり、出るに出れなくなった。どちらに見つかっても、殺されてしまうだろう。右足の出血はまだ続いているが、背嚢も小銃も、全ては取り落としてしまっていた。仕方なく、上着を脱いで、傷口の上から上着の袖部分できつく足を縛った。
「止まれ……」
 呻くが、なかなか血は止まってくれない。

 戦闘が終わって、人の気配が消えたのはそれからしばらく経ってからだった。武田は崩落したコンクリートの隙間を縫い右足を引きずってホームに這い上がり、階段を上り始めた。出血はどうにか止まったが、足の痛みは酷いものだった。血が足りなくて、なかなか思うように進まない。武田はPDAだけしか持っていなかった。他のものは崩落で押し潰されてしまって、拾うことができなかった。
 最後の手の感触、宮沢が、千絵が、手を握ってくれた感触。それを糧にして、武田は懸命に両足を動かした。このままだと二人とも自分を責めて、責め続ける。自分が悪いのに。手をちゃんと掴んでいなかったのは自分なのに。なるべく早く、追い付かなければならない。だというのに、地下三階の昇降機は、上に行ったきり、なかなか戻ってこなかった。地べたに直接座って、じわじわと嫌な汗が垂れてくるのを感じながら、昇降機が戻るのを待った。これ以上階段を進んでいく体力は残っていなかった。気力だけではどうにもならない距離があった。



 地下二階に辿り着いたとき、武田はすぐに倒れこんだ。全身が汗にまみれ、立ち上がることすらできなかった。全身から力が抜けていく。右足の感覚がない。
 そこで、彼は意識を手放した。



          *



 一郎と千絵は、武田の為に、一日十羽ずつ、折り紙で鶴を折っていた。
 総数は既に一万二千を超えていた。それは千ごとにまとめられて、小野医院のベランダから下げられている。
 二〇四八年、八月のある日曜日。
 蒸し暑い風に揺られて、鶴は小野医院を彩る。
「ね、すごいねえ、おかーさん、あれ見て!」

 通りすがりの子供の声が開け放たれた窓から届き、一郎は目を開けた。
 欠伸を零してから、布団から出た。
 あれから二年近くが経ったが、自分を取り巻く環境は特に何も変わらない。だが、それは凄いことだと思った。二年も変わらずに、千絵と関れている。
 よく感情表現をするようになった千絵とは、たまに喧嘩をする。彼女も自分も、お互いに何をされても怒らないわけではない。千絵が夕飯を作ってくれていたのに外で食べてきたら怒られるし、資源ごみの日に勝手に大切な漫画を捨てられたりしたら怒る。くだらない理由だけれど、喧嘩なんてそんなものだ。一時は軽い口喧嘩でも全く加減せずストレートに言う千絵に苛立って、家出して適当なビジネスホテルで過ごして、二度と顔を合わせないつもりになったこともあった。その時は夏樹に"いつまで拗ねてんの、さっさと戻ってきなよ"とビジネスホテルに怒鳴りこまれ、戻った。千絵も、言い過ぎた、と申し訳なさそうに謝った。それからも何度か仲裁してくれている。二人で生活していたなら、今頃は別々に暮らしていたかもしれない。そう言う意味でも、相変わらず夏樹には頭が上がらない。

 枕元の時計を見て、十時を確認した。休みだが、隣で寝ていた千絵を揺り起こす。部屋は子供のころから見知った副院長(現院長)から小野医院の余り部屋を借りている。元々ベッドの一つしかない個室で、ベッドは脇に避けて大掃除をしてあるから、床に直接、布団や小さめの四脚テーブルなどいろいろと置いている。
「今日は、公園で子供にバスケを教えるんじゃなかった?」
 昨夜は遅くまで起きて本を読んでいたらしい千絵は、珍しく朝寝坊をしていた。薄目を開けて小さく声を漏らしてから、あとちょっとだけ、と呟いた。
「もう十時だよ」
「うそ!」
 千絵が飛び起きた。約束は、いつも九時だ。運の悪いことに髪が大爆発している。彼女の髪は時々主人に激しく逆らうことがあった。一回その時の髪を見て吹き出してしまい、本気の喧嘩に発展したことがあったから、どうにか笑いを堪えた。彼女は、髪にコンプレックスを持っている。白い髪に。それを笑ったわけじゃないと説明しても、怒ってしまった。
「髪やってあげるから、歯磨きしてれば?」
「ありがとう。でも歯磨きしてる間になんか終わる……? この髪」
「無理」
「だよね……。皆、勝手に始めててくれるかな」
「とにかく、洗面台に行こう」
 洗面台は部屋を出て、すぐ隣にある。ヘアーアイロンを手にして、横へスライドするタイプの扉を引いた。

 裏面に千絵と書かれた歯ブラシを手に歯を磨いている彼女の髪を、ヘアーアイロンで平らにしていく。普通のくしがついているタイプのドライヤーではこの髪には太刀打ちできないと、最近ようやく気付いた。
「あ、でも、このドライヤーなら結構早く終わりそう」
「もっかた」
 良かった、と言ったつもりだろうか。千絵は歯磨き粉を付け過ぎてしまう癖がある。口から泡を溢れさせて、ぼたぼたと洗面台の上に零した。
「口、濯ぎなよ」
 一旦アイロンを外すと、千絵が泡を吐いて、くまのプーさんのコップに水を入れ、口を濯いだ。その際にむせる。彼女は白く綺麗な歯をしている割に、歯磨きの一部始終がどうしようもなく下手だ。
 顔を上げた千絵が、洗面台の鏡に映ったとき、口の周りに泡が残っていた。それを拭きとってあげると、少し顔が赤くなった。
「ほら、髪、できたよ。いいよね、これで」

 千絵が部屋で着替えている間、一郎も歯磨きをして、軽く髪を弄って、顔を洗った。髭はあまり伸びないから、一週間に一回剃れば十分なくらいだ。
 部屋に戻ると、Tシャツを着て、ジャージ素材のハーフパンツに穿き替えていた。
「……暇なら、一郎も今日、見に来る?」
「でも、俺バスケあんまり分かんないしなあ……」
 言うと、彼女は少し眉を下げた。他人から見れば変わらず無表情なのだろうが、長く生活しているだけあって、その辺の見極めは得意になってきている。
 一郎は考え直し、どうせ暇だから見ているだけなら、と呟いた。



          *



 中央公園で、千絵は男子高校生に混じって試合に出ていた。
 いつも子供たちにお手本を見せていたら、突然試合に出てほしいと頼まれたらしい。その高校生たちはいつもは体育館で練習しているそうだが、部活内で揉め事があって一ヶ月間活動禁止を宣告されたから外に出てきたと言っていた。試合は、千絵たちの勝利で終わった。千絵がスティールとスリーポイントを乱発して、圧勝。薬で能力が抑えられていても、身体自体が超人的な運動能力を秘めていた。  
 試合後、ベンチで座って見ていた一郎の隣に、千絵が座った。結構な汗をかいていたので、タオルとスポーツドリンクを渡した。男子高校生が、興味深げにこちらを見ていた。
「……実業団にでも、入ればいいのに」
 試合中の彼女はとても生き生きして見えた。本心からそう言うと、千絵は軽く首を振った。
「元々、この身体能力は、実験で作られたものだから。生活には使いたくない」
 前川を残し日本へ帰ってから、本州に渡ると言った加奈と孝徳と別れ、宮沢を家に送り、小野医院に戻ってきた。元々あまり大きくない病院だったから、一時閉鎖により職員は他の病院に行ってしまっていて、立て直すにはどうしても副院長の助けが必要だった。安藤がその消息を探している間、一郎と千絵はストレイジを研究している岩波たちに協力して、様々な検査を受けた。一郎が持って帰った背嚢の資料も、役に立ったらしい。ひとまずは発作と能力を抑制する薬が新たに開発され、捕虜である朝鮮のストレイジたちにも配られた。恐らくこの薬のお陰で、一郎と千絵は生き長らえている。薬がなければ、既に死んでいたかもしれない。副院長が見つかったその後は、彼の個人的な出資で、小野医院も徐々に立て直されていった。今では街に欠かせない病院となりつつある。
 一郎は警備会社に復職した。あの戦争の始めに、三井グリーンランドでほとんどの警備員が亡くなったため、ほとんど見知らぬ顔だった。それでも、以前は全く関わりを持たなかった同僚たちとも、今は割と普通に付き合えている。気の合った仲間と、飲みにも行ったりする。そして仕事自体もなかなかの収入があるから、安藤と夏樹の邪魔にならないよう、もう少ししたら小野医院を出ていくことになりそうだ。
「それだけのハンデを背負って生きてきた……って考えは、卑怯かな」
「……いいの。バスケだって宮沢君に教わったものだし、これからは、自分で自分のことを決められるようになりたいから」
 珊瑚のペンダントを弄りながら、千絵が呟く。
 武田の墓は作っていない。まだ、諦めきれなかった。
 というのも、今年になって発表された最終的な専衛軍、国営軍の死者の中に、未だ武田が数えられていなかったからだ。あの地域で武田以外全てが戦死者扱いされる中、一人だけ行方不明扱いだった。もう一度朝鮮に部隊を派遣して行われた調査でも、見つからなかった。だからといって生きているという保証にはならないが、それが後悔の一因だった。放射能に汚染された地域を通らなければならなかったとはいえ、あの時点でもしかしたら生き延びていた武田を、朝鮮に置いて帰り、見殺しにしてしまったのではないか。あの絶望的な状況で、死を信じて疑わなかった自分たちは、果たしてどうするべきだったのだろう。今でも、激しい後悔が残る。国交が断絶した状態だから、まだ朝鮮には戻れない。
 しばらく無言で、ベンチに座って子供たちが遊ぶ姿を見ていた。千絵は子供たちに大人気で、困ったように笑みを零しながら相手をしていた。

 それも、夕方になってようやく止み、公園には人がまばらになった。
「……帰ろーか」
 声を掛けると、千絵が頷いた。


 適当な夜ご飯を近くのファミレスで食べて小野医院に戻ると、珍しく安藤と鉢合わせをした。安藤は部屋で勉強しているか、院長室で現院長の手伝いをしているか、大学の夜間部に通っているかだから、同じ所に暮らしていても滅多に顔を合わせることがない。
「あ、久しぶり」
「一郎か。お前、休みの日は暇そうでいいな」
「そっちが休まな過ぎなだけだと思うけど。何か、手伝えることとかは?」
「医者になんのは自分で決めたんだ。迷惑はかけない」
 安藤と話していると、千絵が彼を見つめてから、先に部屋へ戻ろうとした。
「おい、逃げんな。また苦情来てんぞ。あの適当な対応は何だ、って」
 千絵は小野医院で看護師として働いている。並の看護師よりは素早く業務をこなすし、しっかり准看護師免許も取っている。ただ、舌足らずな対応が多く、明るく丁寧に接する夏樹とは違って、患者からの評判は良くない。
「……私に、言われても」
「んなことは分かってんだよ。でもたとえば……自然に笑顔が作れるように努力するとか、いろいろあんだろ」
「愛想笑いなんてできない」
「あー、もう、うるせぇ、やってみねえとわかんねぇじゃねえか。ほら、マニュアル持ってきてやったから、読め」
 看護師の基本、と書かれたレジュメには、千絵には到底不可能と思える事柄が多数記されていた。患者には笑顔で挨拶、診察室へ患者を呼ぶ時には優しく、大きな声で。
 ここへ居ついてから、千絵が微笑以上の笑いを見せたことはない。少なくとも、自分の前では。そんな千絵にいきなり言ったって、愛想笑いなんてできるはずがない。
「まず口角をあげる練習をしないと。こう言う風に」
 部屋に戻ってそのレジュメに目を落としていた千絵の頬の肉を両手の中指で頬骨辺りまで引き上げると、その部分の筋肉が痙攣した。突然触られた千絵が嫌そうに軽く睨んで来たが、呆れると同時に、自分の前以外でも大して笑っていないんだな、と思い、何故か安心もした。
「……毎日少しずつ上げなきゃ駄目だ」

 
 
 千絵を連れて部屋を出て、渡り廊下を過ぎて螺旋階段を降り、ロビーに向かった。日も落ちてきていて、院内は電気が点けられていた。
 長椅子がいくつも並べられている部屋の隅へ視線を移すと、テレビが設置された一.五メートル程度の台の手前で夏樹が長椅子の端に座って、テレビを見ていた。小さな声を零して笑っている。手で口を抑えるのは彼女の笑う時の癖だ。近づいていくと、歩いている途中で椅子に足をぶつけた。ここの病院は椅子の間隔が狭い。テレビを見ていた夏樹が後ろに手をつき、首を真後ろに曲げて一郎を見た。
「どしたの?」
「千絵にお笑いのDVD見せようと思ったんだ。テレビ見てんなら、後でいい」
 昔からこの病院にあるDVDプレーヤーの近くに、昔のお笑い番組を収めたDVDがある。入院患者の気を紛らわすために置いてあるもの。
「ううん、いいよ。ちょうど番組終わったところだから。でも千絵さんを笑わせるなら、頑張って選ばないと駄目だよ」
 一郎がDVDケースを漁り始めると、Tシャツに七分丈のズボン姿の夏樹が隣に並んだ。髪からシーブリーズの香りが漂ってくる。彼女は昔からこのシャンプーしか使っていない。すっきりとする夏の香り。
「これは? "絶対に笑ってはいけない高校"。意外とこういう下品な感じのが……」
 夏樹が漁っていた手を止め、一郎にそのDVDを見せた。一郎も適当なのを探し、手に取る。
「"モヤモヤさまぁ〜ず"とかもいいんじゃない? あんまり喋り倒すのは合わないかも」
「じゃあ"すべらない話"。淡々としてるし」
「それは下ネタが多いから駄目。教育上よくない。夏樹は松本人志が好きなだけじゃん」
「教育上ってなに? 松本がいいよ」
 夏樹は昔から、ダウンタウンという漫才コンビが好きだった。もちろん、生の彼らを見たことはない。あの時代のDVDは今でも復刻版として店頭に並ぶことが多く、先生が好きでよく集めていたのだ。
「"リチャードホール"、"きらきらアフロ"、"草野キッド"、"はねるのトびら"、"やりすぎコージー"……」
 そこで夏樹がちらりと千絵の方を見た。彼女は一郎と夏樹が選んでいる後姿を無表情で見つめていた。
「どうしよう。何見せてもくすりとも笑わない予感がする」
「それなら、夏樹が最初に言った奴を再生しよう」
「……兄さん、私に責任取らせる気?」
 
 夏樹は苦しそうに笑っていて、一郎も所々では笑っていたが、一番重要な千絵は"これが何?"という顔で、淡々とテレビ画面を見つめていた。本当にくすりとも笑わない。DVDが流れている間の一時間半、ずっとそうだった。
「……やっぱりこれは人を選ぶんだよ。どっちかって言うと男受けがいいし。よし、じゃあ次はリチャードホール」
 諦めずにDVDを入れ替えて、再生を押した。
 当時一世を風靡した芸人が、ローションまみれの坂を必死に駆け上がろうとしている場面で、千絵は目を擦って、呟いた。
「ねえ、もう、目が疲れた。これを見たから何なの?」
 夏樹が苦笑いして、手元にあったリモコンの停止ボタンを押した。

 
 部屋に戻った千絵は、出しっ放しだった布団にうつ伏せに寝っ転がって静かに本を読み始めた。読んでいるタイトルは分からないが、この間本屋に寄った時に買っていた小説だろう。彼女は意外なことに、恋愛小説を最近よく読んでいる。うちわで顔を扇ぎながら、隅によけてあるベッドの上でぼんやりとその様子を見つめていた。朝に梳かした髪は、肩から下の辺りまで伸びていて、電灯に当てられ白く輝いている。どうすれば、彼女を笑わせることができるのだろう。考えていると、千絵がふと小説から顔を上げ、一郎へ視線を移した。
「さっきから、どうしたの?」
 気付かれていたようだ。うちわを扇ぐ腕の動きを止め、一郎も訊き返した。
「……千絵って、俺と居るの、楽しい?」
 小説に栞を挟んで閉じ起き上がった千絵が、布団に座り直した。
「どうして?」
「あんまり、笑わないから」
「嘘? 私、前よりよく笑ってるよ。あのDVDは、単純に合わなかっただけ……だと思う」
「本当に?」
 煩わしい奴に思われるかもしれないが、さらに質問を重ねた。
「……あ、でも……。うん……。まだ、引っ掛かってるところはあると思う。……武田君のこと。私だけ、笑って、笑い合って、幸せになって。それっておかしいとか、思うことがある。たまに、笑うのを我慢する時も。一郎は、そう思ったこと、ない?」
 頬を軽く掻いて、千絵が一郎の目を見た。
「俺は……武田が告白したって聞いた時から、武田にも、誰にも負けないくらい、千絵のこと、大切にしようって考えてたから。そんな風には思わなかったな。幸せになることで武田に引け目を感じるとか、そういうことは絶対ない」
 そう言ってから、じっと千絵に見つめられて、今口から零した言葉が急に気恥ずかしくなった。立ち上がって、部屋の隅に追いやられているカラーボックスの上段から、折り紙を取り出す。
「鶴折ったら、俺、寝るよ」
 自分の布団に座って鶴を折りながら、呟く。
「……もしかして武田君のこと、嫌い? 無理に鶴、折らなくてもいいんだよ。私が付き合わせてるだけだから」
 千絵が遠慮がちに聞いてきた。
 一羽目を作り終え二羽目に入る。
「何でそうなる……俺も自発的にやってんの。それに武田が嫌いなわけないよ。今の話は、なんていうか……あれだよ、ライバルみたいな感じってこと。対抗意識」
「……変なの。告白断ったって、言ったのに」
「人の気持ちなんて、簡単に変わるから。感情が戻った千絵だって、そうだろ? また誰かのことを好きになるかもしれないし、俺のこと嫌いになるかもしれないし、ずっと俺と一緒だとも限らない」
 そう言うと、千絵は黙り込んでしまった。
 一郎は答えが返ってこないのが分かると、下に目を落として手際よく鶴を折っていった。手が伸びてきて、一郎の膝元に置いてある折り紙を取る。彼女は無言のまま、手際よく鶴を折っていく。作業といった印象を受けないでもないが、紐に通す時は一羽一羽に祈りを込めているのを知っている。元気でいてくれますように。生きていてくれていますように。そんなことを祈っているのだろう。千羽目を通し、目を閉じて心を込めて両手を合わせる彼女を見ると、一郎はとても愛しくなる。他の男の事を想っていたって、武田は特別だ。あの戦争を戦った仲間で、妹を助けてくれた恩人で、相手はどう思っているか分からないが、千絵を説得して傍ヶ岳の中まで追ってくれた、大切な友人。
 十羽目を折り、枕元に置いた。千絵もちょうど折り終えたようで、同じく布団の枕元に置いた。
 千絵が立ち上がって入口まで歩き、電気を消した。


 網戸がない、開いた窓から、涼しげな風が吹き込んでレースのカーテンを揺らす。一郎は寝付けずに、その窓から夜空を見上げていた。
 次郎のこと、あの戦争で殺した兵士のこと、武田のこと、これからのこと、千絵のこと。いろいろ考えていると、どんなに寝ようと努力しても、寝付けない時がある。
 仰向けでいるのをやめ、隣の布団の千絵の方へ体を向けた。
「起きてる?」
 大抵、自分が寝られないときは、彼女も寝られない時だ。似ている者同士、何となく空気が伝播してしまうのだろう。声をかけてみたら、なに、という声が返ってきた。
「さっき、ずっと一緒に居られるとは限らない、って言ったけど……ごめん。なんか。もしかして……気にしてるかと思って」
 自分への自信のなさから出た言葉だったが、千絵は違う受け止め方をしていたかもしれない。思って、訊いた。うつ伏せで寝るのが癖の千絵も体を横に向けた。目が合う。
「……うん。他に気になる人でも出来たのかと思った」
「ごめん。そういうつもりじゃなくて。……この間、話しただろ。あれだけ仲が良かった先輩の夫婦が、離婚した話。あれを聞いてから、何か不安になってるんだ。些細なきっかけで、今の千絵との関係が崩れることもあるんじゃないかって……。だから、少し、後ろ向きな気分になっただけ」
 最後まで言い終えると、千絵が小さく笑った。そんなことだったんだ、とでもいう風に。
「……あの時の味噌汁の味、私、まだ、覚えてる。私のこと、見捨てないって言ってくれたことも」
 千絵が手を伸ばして、タオルケットの上に乗せられた自分の手に、その手を乗せた。
「私の気持ちが変わらないなんてこと、これだけで証明になると思わない?」
「……俺が、そのうち、精神的におかしくなったとしても、か?」
「おかしくなんてさせない。前に、言ったよね。どうしても駄目だったら、私が助けるから、って」
 彼女はやさしく言った。


「それにしても、寝る直前は武田の話してたのに、よくここまで逸れたよなあ」
「噛み合わないのが私たちの特技だから、ね」
 千絵の言葉に笑って、それから溜息をひとつ吐いた。視線を窓の外に移す。

「……まだ、生きてんのかな」
 手を握って星空を見上げたまま、呟いた。
「会って、ありがとうって言いたいな……」

 
「……今から言おうよ。二人で」
 呟くと、千絵が手を握り返してきて、笑う。


 千絵の提案に、一郎は頷いて、立ち上がった。
 窓際に立って空を見上げる。ちょうど朝鮮がある方角だ。
 隣に立った千絵と軽く視線を交わし合ってから、二人で息を合わせ、言った。
「ありがとう」
 声がずれて、千絵の方が先に言い終わった。


「……本当、私と一郎って噛み合わないね。なんで一緒に居るんだろう?」
 彼女はまた笑って、それから一郎の肩に頭を預けた。
 一郎は、すぐ近くにある白い髪に手を伸ばして、軽く梳いた。
「噛み合わないから、楽しいんだよ」
 

 
 八月のある夜。
 彼女の首からさげられたペンダントが、淡く緑色の光を発していた。




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