エピローグ3

 都市部に残る残留放射線を考慮し防護服が配られていた。専門家によれば、爆心地から相当の距離があるため着ていなくても害はない程度だが、念のための措置だという。
 脱出に成功して一週間後、丁度ジュンナンのクーデターが行われた日。国際的道義上の観点から市民を救出するなどという胡散臭い衛兵たちの集まりに混じって、戦闘を重ねたあの街に入った前川は、自分たちが松木を置いて逃げた場所に来ていた。
 そこには無残に腐乱した死体があった。分厚いコンクリートの陰になったために放射線の被害は受けていないようだったが、とても見れたものではない。そこら中で腐食が進んでいる。喉奥まで沸き上がってきた吐き気を堪えて、死体が松木のものであるという証拠を衣服から探ろうと手を伸ばした。赤や緑の死斑に包まれた皮膚。網上に浮き出た血管のようなもの。ウジが防護服の上から這って来たが気にせずに懐を探っていると、財布が出てきた。
 そのまま器用に開くと、片側の透明な収納口に奥さんの写真が入っていた。確かに、顔はよくない。不謹慎にもそんなことを思った前川は、他にも何かないかと、背嚢を松木の背からどうにか外して、探る。食糧が残っていたためか背嚢の中も虫だらけだった。逆さまに振ると、遺品と一緒に虫がばらばらと落ちた。あまりこういったことに慣れていない前川はまたえずいたが、遺品はしっかりと持った。
「どうかしましたか?」
 日本人の衛兵が近寄ってきて、話しかけられる。
「……上官の遺体があったんです。遺品は回収したのですが、どうすれば?」
「それなら、リアカーで運びましょう。これからまとめて火葬しますから。待っててください、今持ってきます。遺骨は、諦めて貰うしかありませんが」

 火葬している中、前川はずっと黙祷していた。防護服を着ているために臭いは分からなかったが、火をつけた時は黒煙が天高くまで上がっていた。
 自分があの時、中隊長を助けに行っていたら、こうはならなかったのだろうか。
『ここで援護しててやっから先に行け! 俺はまだ後から追いつける!』
 最後の声を思い出す。
 様々な逡巡を抱えた中、肩を叩かれ、目を開けた。
「すぐ近くの地下施設で、朝鮮の残留兵が助けを求めてきたそうです。前川さんは戦闘部隊の方でしたよね? 念のため、ついてきていただけますか?」
 高めの声が黒く半透明の防護服の中から聞こえた。丁寧な喋り方だ。思わずこちらも敬語になる。
「あ、はい、分かりました」

 つい一週間前、脱出を果たした研究施設では、自分たちが殺した敵兵の遺体もまた、腐乱していた。松木だけが特別というわけではない。この戦争では、誰かの大切な人が、次々に殺されていった。自分もそれに加担した。松木を殺したギルソンだけを罵ることはできない。自分も罵られて然るべき立場の人間なのだから。昇降機を使い、衛兵の一団と共に地下施設へ降りた。崩落が激しかったはずだが、この昇降機はまだ使えるらしい。
 内部は大分崩落が進んでいた。天井から崩れ落ちたコンクリートにより負傷した人々が予想以上に多い。傷の酷い怪我人から手際よく担架に乗せ、上階へ運び出していく。一応、力は人並み以上だから、傷口に触れないよう、慎重に担架に乗せるまでが自分の仕事だ。
「なんだ、これは……」
 牢に閉じ込められた新型ストレイジの"成り損ない"を見て絶句している衛兵たちを他所に、前川は朝鮮兵の先導でさらに奥へと進んでいき、地下二階へ降りるため、資料が淘汰されていた研究室に入った。ここの昇降機は停止しているらしく、どうするのかと思えば、朝鮮兵が昇降機とは違う場所に向かい、扉を開いた。自分たちが突入したとき気づかなかったが、階段があるようだ。
 前川はテンポよく長い階段を下りて行き、地下二階に入った。



 地下二階の状況は、地下一階より酷かった。地下一階では崩落による死者は出ていなかったが、ここでは死体が脇に避けられている。 
 より安全な場所を求めて深くまで下りたのだろうが、それが完全に裏目に出ていた。電気系統は所々分断されていて、暗く、輪郭しか確認できない。怪我人はどこにいますか、と問いかけるが、日本語のため怪しまれただけだった。どうしようかと迷っていると、先程の日本人衛兵が後ろの階段から声をかけてきた。
「どうされました?」
「朝鮮語、話せますか? 二階の方が怪我人酷いみたいで……」
「分かりました。説明してみます」
「あの……さっきから親切にどうも。お名前は?」
「ああ、住良木(すめらぎ)って言います。よろしくお願いしますね、前川さん」
 軽く会釈をされた。防護服を着たままだから表情は読み取れないが、落ち着いたものであることは間違いない。場慣れしている。
 彼が朝鮮語でリーダーらしき人物に説明をしている間、前川はさらに奥に進んだ。先程からどうしても気になっていたのは地下三階。しかしそこで、前川は見覚えのある後ろ姿を見つけてしまっていた。電灯が明滅する薄闇の中で、しゃがみ込んでいる後ろ姿。一時的に、地下三階のことは頭の隅に無理やり追いやって、近づいた。コンクリート片を踏んで大きな音が鳴った。
「ジンヒ……?」
 こちらと視線を合わせた少女に声をかける。市民の怪我を手当てしていたのは、十三歳とは思えない程大人びた、あの少女だった。
 彼女は威圧的な防護服を見て怯えた表情になって体を強張らせた。暑苦しい防護服を脱ぎさって顔を見せ、もう一度声をかけた。防護服の下の軍服は汗まみれだった。
 忘れられていないといい、くらいの気構えだった前川は、途端に笑顔になった彼女に抱きつかれ、軽くよろめいた。
「……無事だったんだ。よかった」
 髪を軽く撫でて、呟く。言葉の意味は分かっていないだろうが、なんとなく伝わってはいるだろう。またしても軽い気持ちで考えていた。すると顔を上げたジンヒが、涙を流しながら笑顔を零した。これだけ気に入られる理由が分からなかった。思い当たるのは、松木に言わされた長い朝鮮語だけ。だが、今ではもう問い質すことはできない。
「少し、待ってて。俺はもうひとつ、確かめなくちゃいけないことがある」
 屈んでジンヒと目を合わせ、言った。ジンヒは首を傾げる。当たり前だ。
「住良木(すめらぎ)さーん! こっち、来てもらえますか!」
 声を張ると、はい、という返事が聞こえた。


 地下三階へは、昇降機が利用できた。ゆっくりとしたペースに焦れながら、住良木と一緒に昇降機が下階に着くのを待つ。
「あのジンヒって子、喋れないみたいでしたね。十代前半なのはなんとなく分かりましたけど。知り合いですか?」
「ああ、なんて言うか、あのジンヒって子の家に、泊まらせてもらったんです」
「え……と、泊まり……ですか?」
 少し上ずっているような声が被せられたので、慌てて否定する。
「あ、そういう事じゃなくて。敵に包囲されたとき、たまたま隠れた家があの子の家で。包囲を脱出するまで、居させてもらって」
「脱出?」
「あの、さっき火葬した上官と一緒に、この街を脱出しようとしてて。数十人の包囲を二人で、だよ? それで、俺だけ生き残らせてくれた。自分が足怪我してるのに、先へ行け、なんてカッコつけたこと言って、一人で身代わりになって……殺された。……でも、尊敬できる人だったよ」
「……そうだったんですか。……なんだか、ごめんなさい。軽々しく、火葬を勧めたりして」
 沈んだ声が発せられたので、またしても慌てて否定した。
「ち、中隊長だって、あんな姿では居たくなかったはずだし」
 手をひらひらと振ると、昇降機が止まり、鉄柵の一部分が上がった。


「ここにいて。まずは俺ひとりで行ってみるから」
「え、どうしてですか?」
「君は、何歳?」
「この間、十九になったばっかりです」
「そんな年なのか……? なら、尚更だ」
 自分と同年代くらいだと思っていたが、予想以上に若い。
 それならば尚更、ストレイジがまだ残っているかもしれないここから先に、進ませるわけにはいかなかった。前川はホームに降りる階段に視線を移し、一段目に足をかけて下り始める。
 一旦、踊り場で様子を確認した。死体……のようなものが見えた気がした。
 そこからは早めに降りて、周囲を警戒した。

 死体は、朝鮮兵が六人、ストレイジの変異型二体と、新型が至る所に、という状況だった。鼻を劈く臭いが辺りにたち込めていた。思わず呼吸を堪えるほどの臭い。
 地下三階は電力が通っていた。そのために周囲の確認は容易い。しかし、崩落がひどく、目的の遺体はなかなか見当たらない。
「前川さーん、どうですか?」
「大丈夫だよ。降りてきても。死体しかない」
 防護服を着た彼は動きにくそうに降りてきて、前川の隣に並んだ。
「上の階でも見ましたが……。これ、人間……なんでしょうか?」
 投げ出された新型の腕を手に取り、住良木が呟いた。





 地下三階をいくら捜索しても、武田の遺骸は見当たらなかった。隣を歩く住良木(すめらぎ)も、はぐれてしまった味方がいると話すと、愚痴一つ零さず快く手伝ってくれた。いい兵士に会えたと思い、こんな状況でも嬉しくなった。
 そんな感慨を抱いているとき、昇降機への階段を上っている途中で、突然彼が倒れこんだ。
「だ……大丈夫?」
 慌てて抱き起こすと、彼は軽く息切れしながら、大丈夫だと答えた。
「ちょっと、暑くて、朦朧としちゃって。体力には自信あるんですけど、この防護服……脱いでも、平気でしょうか?」
「大丈夫。この地下溝、脆いけどさすがに深い。放射線は届いていないはずだ。地下二階では放射能にやられた人はいなかったし」
「じゃあ、早く脱いでおけばよかった」
 彼は、そう言ってから、防護服を脱いだ。


 いや、彼女だった。
 彼女は思い切り息を吐くと、気持ちよさそうに息を吸った。
 てっきり男とばかり思っていた前川は、汗だくで髪の毛が額に張り付いている彼女を見て、軽く口を開けて呆けてしまった。
「……どうしたんですか? そんなに驚いて」
 妙に高く女っぽい声だと思っていたが、防護服の中でくぐもった音に変換されていた本当の彼女の声は、もっと女らしかった。
「……男かと思ってた」
「失礼ですねー……私、そんなに男っぽく見えましたか?」



 それから、地下二階で患者の運び出しをしていた朝鮮兵に、住良木を通して事情を訊いた。
 初めは頑なに口を閉ざしていたが、ストレイジに変異型、という単語を出すと少し力を抜いたような顔つきになり、そのあとも必死に粘ると、事情を話してくれた。もちろん、住良木の協力なしでは聞き出すことはできなかった。
 ジルミの命令で住民を地下溝に連れ出していた彼ら十名は、着弾十五分前に到着し、住民を地下一階と二階に分散して避難させたあと、地下三階にある脱出口を目指した。しかし地下三階に到着した時には列車は既に行ってしまっていて、残っていた変異型二体と新型多数との戦闘になったらしい。その結果が、先程の状態だそうだ。死者六名。それだけの被害で済んだのは、彼らもまた、全員がストレイジだったから。ストレイジが十人中三人、満身創痍の自分たちが残っていたとしたら、全滅していただろう。
 武田のことも聞いたが、自分たち以外には誰も残っていなかった、という。
 怪我人を全て上階に運び終え、前川たちは一時休息を取った。怪我人はどれも応急の手術が成されていて、隣村の臨時病院に運びこめばどうにかなるようだ。


 途中で脱いでいた防護服を、住良木はもう一度着た。前川は軍服のまま、立ち上がった。ジンヒを差し置いて着るのは気が引けたし、戦闘になった場合致命的な程の動き難さが防護服にはあった。ジンヒには防護服は大きすぎるため、事情を話してくれた朝鮮兵に、団体のまとめ役に承諾を貰ってから譲渡した。
「本当に、着なくていいんですか? まだ一部では放射線も……」
「ここは爆心地から離れてる。専門家も、万が一があった場合に責任取りたくないからあんなこと言ってるだけだよ。それに……せめてこの人たちくらいは守りたいから。まだ、戦争は終わってない」
 小銃を担ぎながら、前川は呟いた。
 救急搬送用の車輌が走り去っていく音が隣で聞こえた。



          *



 その翌々日、十月十六日。衛兵の一団にも正式に停戦命令が下知された。焼き払われた街を中心に活動していた一団は幸い負傷者も出すことなく、多くの朝鮮人を救い出した。後にこの活動に加わったことが知られた住良木と前川は、ほとぼりが冷めるまでの間、朝鮮の兵士の救助活動を行ったということで個人情報を晒され、一部の国民からネット上の掲示板などで徹底的に誹謗中傷された。
 しかし二人は朝鮮半島に残ったために、そのことは知らず、年を越した。
 
 
 同日早朝、日朝の往復船の予定が発表された。
 それは年内で断たれ、以降断交が解けるまでは行き来ができなくなる、という話だった。
 前川はここでも朝鮮に残った。
 あの後、住良木に付き合って貰って町人に聞き込みをしたが、日本兵士の姿を見たという町人がちらほら現れたのだ。真っ赤に染まった軍服を着て、右足を引きずりながら階段を上っていく所を見たという住民や、床に倒れこんで苦しそうに呻いていたという話、治療を受けていたという話。
 それでも、肝心なところで話が繋がらず、武田の消息は未だに掴めていない。日本に居る一郎たちにも、断交される前に手紙を送り知らせようかとも思ったが、確かめてもいない事実を知らせることはできなかった。
 
 ジンヒの家は吹き飛ばされていた。その家を貸していた大家も、避難が遅れ、死んだ。完全に孤独になってしまったジンヒはまた体を売って生活しようとしたから、無理矢理引っ張り回して、一緒に生活している。家はないが、働き場所は見つけることができた。崩壊した建物の撤去や工事現場など、ジュンナン新政権の庇護のもとで、引き手はいくらでもあった。それにさえ、我慢できれば。
 住良木は、遠くの町からも運び込まれてくる放射能に体を毒された人々の診察を、女性の専門医の下で手伝っている。あまりに酷い傷口や症状に、進んで診察をしたがる人間はなかなかいないからやりがいがあると話していた。彼女はその専門医と一緒に生活している。




 二〇四七年三月十日の早朝、前川は今日も朝鮮語の練習をしていた。住良木に教えられて、既にハングル文字を読むことや日常的な会話は可能なレベルになっていたが、文章の書きはまだ上手く出来ない。
「ジンヒ、これ読める?」
 寝ぼけ眼で"おはよう、体調はどう?"とメモ帳に書き出したものを、隣で毛布にくるまってぼろぼろの教科書を読んでいたジンヒに見せる。三月とはいえ、まだこの辺りは冷えた。厚着をしないと肌寒い。
「……い」
 彼女は首を傾げて、何かを呟いた。小さな、本当に小さな声でも、ジンヒは少しずつ話せるようになっていた。
「え、これでも読めない?」
 ジンヒが軽く頷いてから、再び音楽の教科書に視線を落とした。昨日街中で拾ってから、前川が話しかけない限り他のことには目もくれず一心不乱に読んでいる。十一歳で娼婦を始めた彼女は、母親を失ってからは学校にも行っていなかった。そのため難しい朝鮮語は読めずに、よく住良木に聞いているところを見かける。知識に対しては貪欲だし、吸収も早い。
 自分の書いた進歩のない歪なハングルを見てため息をついてから、前川は寝袋から這い出した。
「どうする? 今日は住良木のところ、行くの?」
 ジンヒは教科書から完全に視線を外した。
「……行く」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
 ジンヒは既に準備を済ませているらしかったが、自分はまだだ。さすがに何もしないままで外をうろつきたくはない。
 
 今日は仕事が休みだったから、彼女を慕うジンヒを連れて住良木の所に行こうと思っていた。適当な公衆トイレを探して、その洗面台で髭を剃ってから、顔を洗って歯を磨き、髪を軽く梳かした。路上生活を始めて五ヶ月目。そろそろ金も貯まってきたし、早く住居を探して、落ち着きたかった。二日に一回は日本で言う銭湯に似た施設も利用しているから、自分はまだ平気ではあるが、心配なのはジンヒだ。冬をどうにか越すことができたものの、精神的な消耗が激しいらしくその体は徐々に痩せ細ってきている。さすがにこればかりは住良木に泣きつくわけにはいかない。自分がジンヒの稼ぎ方を否定して引き取ったのだから、責任は取らなければならない。もちろん、本人の意思は尊重するつもりでいる。
 威容を残す壊れた対空兵器の脇を通り過ぎて、前川は住処にしている空地の近くを歩いていた。残留放射線の数値は流れた月日によって減少し、ほとんど自然の状態に近いから、どこに居ても自由だ。綺麗な区画で区切られているから、この街は復興が早く、既に平屋の建築物は復帰してきている。よって住む所の確保はそう難しいことではない。所々表面が剥がれたコンクリートの上を歩きながら、財布を開いて今までに貯めた金を数えた。銀行はあまり当てにならない。強盗が横行している現在でも、自分で持っていた方がまだ安心できる。肉弾戦でもそうそう負ける気はしないし、小銃も置いてある。
 結果から見れば、住居を借りる資金は貯まっていた。ポケットに入れて、再び歩き始める。ポケットにはもう一つの財布の感触がある。松木のものだ。あれから肌身離さず持ち歩いている。彼の妻の下へ帰すまでは失くすわけにはいかない。
 そろそろ将来のことを真剣に考えないとなあ、と思いつつ最後の角を曲がろうとして、前川は、ジンヒだけしか居なかったはずの空地に、声が響いているのを聞き取った。不審に思い空地を覗き込むと、ジンヒを取り囲む男、四人の姿があった。
「お前さァ、この間まで娼婦やっててそれはないんじゃないの? 探したんだよ? ボクたち」
 ここは解体工事の途中だ。何度か現場監督と話したこともある。建物の壁に立てかけられた鉄パイプを拾い、前川は様子を見る気もなく走って近寄るが、少しばかり距離があった。ビルに囲まれた広い、袋小路のような空地。その、一番奥にジンヒはいる。
「……す」
「ああ? 聞こえねえよ」
「……もう、辞めたんです。触らないで……」
「ざけんなよ、てめぇ……。散々金注ぎ込んでやったって言うのに、その態度は何だ?」
「金やろうと思ってたけどやーめたっ。俺、この子タダで頂きます」
「は? 俺、はなっからそのつもりだったけど?」
「ははっ、最低だなお前」
 男たちが口々に言い、一人が強引にジンヒの腕を掴んで、押し倒した。ジンヒは震えながら必死に手足をばたつかせたが、抑え込まれてしまう。
 軽口の言い合いの間に仲間の一人に接近することができた前川は、背後から鉄パイプで男の頭を思い切りぶん殴った。続けざま、隣に立つ男の背中も殴打し、振り向いた三人目の男の顔面目がけて鉄パイプを振り抜く。そしてジンヒの服の中へ手を伸ばしていた、ニット帽を被った男に振り降ろそうとするが、三人を殴り倒した間に気付いていたらしく、軽々と避けられる。そこから、形勢が変わった。顔面を殴りつけた男が起き上がり、前川の後ろから蹴りを喰らわせた。なんとか倒れず踏ん張ったが、背中を殴打した男は正面に回り込んでいて、鉄パイプを奪おうと組みついてきた。その辺のチンピラとは違い、作業服姿の男たちは筋肉隆々としていた。もみ合いになれば勝ち目はない。前川は鉄パイプに固執せず、あっさりと離して、その男がバランスを崩した隙をついて、鍛えようがない急所、股間に渾身の蹴りを見舞った。すると、また背後から蹴りが入り、今度は地面に伏してしまう。
「クズが……! その子はまだ、13歳なんだぞ!」
 叫びながら起き上がると、目の前に銃が突き付けられていた。ニット帽を軽く上げて笑みを作った男の眼は、妙にぎらついていた。
「そんなの関係なくね? こんだけいい女、そこらにいねぇし?」
 その銃は、自分が不用意に寝袋の近くに置いてしまっていたものだった。知識があるのか、実戦経験があるのか、男は慣れた手つきで小銃をいつでも発射できるような状態に仕立て上げ、前川へ向けた。先程頭を殴り飛ばした男と、股間を蹴り飛ばした男は気絶していたようだった。だが、鼻が曲がり血を流す男と、ニット帽を被った男はいつでも前川を潰せる、という空気になっていた。
「おーっとぅ、動くな。両手はうーえ、だよ」
 腰に掛けたナイフを取り出そうと手を伸ばすが、その前に勘付かれた。こめかみに小銃の先端が当たった。大人しく両手を挙げる。
「あんた、やるなぁ。……で? あんた、この子の何?」
「お前には関係ない……!」
「保護者ってとこかな? まあ、大事だよねえ、この子のこと。いきなり鉄パイプ振り回すんだもんねえ。……おい、いいぞ。先に楽しんどけ」
 後半の声に、足を動かすが、小銃がより深く当てられる。
 
 ジンヒの服が、見せつけるようにゆっくりと脱がされていく。上に着ていた男もののジャケットを脱がされ、ジーンズを脱がされ、長袖のTシャツを脱がされ……。前川は、激しく憤るが、突き付けられた銃と、前川より二十センチは高い男の体格、それに鍛え抜かれた筋肉が、その怒りを阻害していた。
 ……今邪魔したら、どうなる?
 このまま見ているだけなら、二人とも無事で居られるかもしれない。それだけで、帰ってくれるかもしれない。
 だが、無駄に抵抗したら。……殺されるかもしれない。徐々に警察の権力は復活してきているが、この郊外の辺りはまだまだ無法地帯。殺人など犯人は容易く割り出せないだろう。
 前川が考え込んでいる間に、ジンヒの下着が取られ、全裸にさせられていた。彼女は激しく震えて、前川に助けを求めている。涙をぽろぽろと零し、助けて、と小さな声で叫んでいる。
 ここでの抵抗は無意味。双方に損害しか与えない無駄な抵抗だ。自分に言い聞かせる。この腕の震えは、怒りによるものだ。目の前の男に対する、目の前に突き付けられた銃器に対する、恐怖によるものなどでは断じてない。ここでの抵抗は無駄だから、諦めるんだ。言い聞かせる。
 ジンヒの体に、鼻を折られた男の舌が這う。
 前川は、体全体を震わせた。
 ……無駄な抵抗? これが、無駄?

 そして舌が乳房の辺りをかすめて往復したたとき、前川は心の奥から叫んだ。 


 これを見過ごしたりしたら、自分を生かしてくれた松木さんに、顔向けできない!


 前川は瞬間的に小銃の切っ先を掴み、ニット帽の男を蹴り飛ばしていた。さすがに見かけだけでなくその体は頑強で、小銃は離さなかった。裏拳で殴り飛ばされた前川は咄嗟に銃口を向けられ連射を受け、足に何発か被弾した。
 痛みに絶叫しながらも、前川は立ち上がり、また小銃に掴みかかった。中空に向けて小銃が激しく撃ち放たれる。両手で掴みかかってもなお、男は離さない。前川はもう立っていられなかった。再び大声で叫んだ前川はその小銃を持つ右腕に、精一杯の力を込めて噛みついた。痛みに身を引いた男の腕からようやく小銃を奪い取ることに成功し、遠くへ投げ飛ばした。
 足からは止めどなく血が溢れて、力が抜けた。しかし男は容赦なく、前川の顔面へ膝蹴りを打ち込む。頭が揺れ朦朧として、次の息を吸い込む間には投げられ壁に叩きつけられていた。
「……前川、さん……。もう、いいよ……。……少しだけ、我慢すればいいの。今までも、こうやってきたんだから……」
 ジンヒの、諦めたような声が聞こえ、前川は激しく咳き込みながら、その場で力の限り地面の砂を掻き毟った。
「何が良いんだ……! また、逆戻りなんて、させない! 俺が認めない!」
 叫びながら、前川は撃たれた足を奮い立たせて、ジンヒを襲っている男にぶつかっていって、確実に気絶するよう、膝蹴りを何度も腹に叩きこんだ。ニット帽の方は小銃を拾いに行って少し距離が開いていた。逃げるチャンスだったが、血が激しく噴き出して、足の感覚がもうない。今度こそ立ち上がれそうになかった。
 寝袋の上に押し付けられていたジンヒが立ち上がり、駆け寄ってくる気配がした。これを逃したら、もう逃げられない。
「引きつけてやるから、行け! 俺はまだ後から追いつける!」 

 松木の言葉を真似て、叫んだ。

 心配そうに体を揺するジンヒを突き飛ばす。
 前川の声に押されたジンヒはそのままの勢いで窓ガラスの割れた建物に入ろうとしたが、彼女は未練がましく振り返った。
 建物内を顎で指す。
 彼女は、中に入って行った。



 仰向けに倒れこんだ前川は、しばらく、青空を眺めていた。
 太陽が徐々に高みに昇っていて、雲すらない空はどこまでも澄んでいる。


「覚悟は出来てんだろうな、てめぇ……」
 小銃を取って、ゆっくり戻ってきた男が激しい怒りを滲ませた声音を発した。



 そんな彼に対し、前川は首を掻き切る動作をして、笑った。 
 

「くたばれ、クズ野郎」

 
 銃が素早く頭に向けられた。
 ……ああ、死ぬのか。
 松木さんみたく、ちゃんと、守れたかな、俺……。


 ――もしあなたが降伏を嘆願したんだとしても、それは生きたいという思いが、誰よりも強かった証拠だから。俺はあなたを、軽蔑なんてしません。あなたは、身を挺して部下を守った、最高の兵士でしたよ。








「ああああああっ!」
 カッコつけた感慨を抱いていると、男の背後から、叫び声が聞こえた。

 それは、死への決意を、断つ叫び。
 自分があの時果たせなかった、叫び。
 振り向こうとした男の首が役割を果たす前に、妙な方向に曲がって、巨体が地面に倒れ伏した。
 


 息切れしたジンヒが、鉄パイプを手に立っていた。
 酷く安堵した表情で、それを取り落とし、床に座り込んだ。
「人が良いにも、程があるよ……なんで? なんで、そこまで、してくれるの……?」
 問いには答えず、前川は、泣き出しそうなジンヒの頭を軽く撫でた。
「ありがとう。助かったよ」



          *



 それから、前川は連絡を取ったジンヒにより病院に運び込まれた。出血多量で一時は生死も危ぶまれたが、以前血液検査をしてくれた住良木の病院にデータが残っていて、無事輸血が間に合い、一命を取り留めた。男たち四人は強姦未遂及び殺人未遂の容疑で逮捕され、リーダー格の男の証言を受け前川も傷害致傷容疑で取り調べを受けたが、ジンヒの証言と犯人のうち一人の自白がきっかけでどうにか逮捕は免れることができた。
 手術の際にかかった金で、五ヶ月間必死に貯めてきた財布の中身はほとんど空になってしまった。それでも、ジンヒは、住む場所なんてなくていい、と言ってくれた。最初は、あの日記に記された呪詛を知った時から、どうにか彼女を普通の子に戻したいという気持ちだけだった。だが最近は、献身的な彼女に対し、不思議な気持ちを覚え始めていた。まだ今は恋愛の対象には成り得ないが、これから先のことは、分からない。
 住良木も、仕事の合間を縫ってよく会いに来てくれ、新聞や暇つぶしになるものを置いて行ってくれる。何から何まで、世話になりっ放しだ。
 どうしてここまで親切にしてくれるのか、妙な答えが返ってくるのではないかというニュアンスで訊いたが、自惚れだった。
「私、よく勘違いされるんですよね……。前川さんのこと、好きでもなんでもありませんから。うーん……強いて言うなら、雰囲気が死んだお兄ちゃんに似てるから、です」
 可愛らしい笑顔で、きっぱりと否定された。
 なんとなく、傷ついた。
「でも、人として、尊敬しています。これからもよろしくお願いしますね。何かの間違いで好きになってしまったとしても、ジンヒちゃんの獲物だと思って、諦めます」
  

 
 獲物呼ばわりされた前川は、二か月のリハビリの結果、ようやく退院して、外に出られるようになった。
 ジンヒは仕事の時以外ずっと前川の傍に居たから、荷物もすぐに持ち出せて、移動できる状態だった。
 ナースステーションらしき場所で、お世話になった先生と看護婦に挨拶を済ませてから、歩き始める。
「地下で手術した日本人みたいになるかと思ったけど、ちゃんと足も直って、良かったよ」
 背後で他愛ない世間話が聞こえた。


 外に出た前川は、太陽に目を細めて、隣を歩くジンヒを見た。少し、身長が伸びた気がする。
「もう、体なんて、売ってないよね?」
「うん。ちゃんとした店で、短期の仕事をしてたんだよ」
 あれから、声が段々と戻ってきた彼女は嬉しそうにポケットから財布を取り出し、前川に見せた。なかなか膨らんでいる。
「すごいな。こんなに……」
「手術の後の入院にも、お金がかかるって聞いたから。入院費が払えないと、追い出されちゃうって、看護婦さんが隣の患者さんと世間話してたの。だから、頑張ったよ」

 ジンヒの頭を撫でて褒めてあげると、彼女はくすぐったそうに笑みを零した。


 そこで、前川は立ち止まった。

 看護婦、世間話……。



 どこか引っ掛かった、先程の言葉を思い出す。

 地下で、手術した日本人?

 この街で戦っていた中隊の人員は、全員の死亡が確認されている。
 日本人が住んでいた、などという話も訊き込みの中では出てこなかった。

 そして住民が地下に居たのは、去年の十月七日から十四日までの間。
 事情を知らない人間が表から入ってこられるはずはないし、それ以降は崩落の危険を考慮し出入りが禁止になっている。


 "いるわけがない"。
 地下で手術された日本人が。
 十四日に来た自分と、住良木以外の日本人が!


 前川は、ちょっと待ってて、と叫んで、元来た道を全力で駆け戻った。




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