陽光降り注ぐその墓に、一人の老人が歩み寄った。ステンレスの花瓶には、酷く錆ついたペンダントがかけられている。
 右足を引き摺った老人は、軽く拝んでから花を添えると、静かに歩み出した。
 小さな子供が走って来ることに気付かない様子で、歩き続ける。
 それから間もなく、左側から突っ込んできた子供は彼にぶつかり、倒れてしまった。
「う……」
「悪いな。大丈夫か」
「おじいさんのせいで、転んじゃったじゃないかぁ〜! お墓の中で転んだら早死にするんだよ? どうしてくれるんだよぉ!」

 彼は柔らかなやさしさを宿した右目で彼を見、手を差し出して起き上がらせた。母を呼び走り出す少年を、後ろから見つめる。
 それからまた、ゆっくりと、右足を引き摺って歩いていく。









最終話






 二〇五八年十月七日、十二年前朝鮮に核が落とされたこの日、ようやく日本と朝鮮の国交が回復。
 大々的なニュースにはなったが、往復船の予定は未定とあったため、一郎たちはやきもきした思いでそのニュースを眺めていた。いつ。いつ行けるようになる。
 一方、朝鮮からは日本への船が出ることになっていた。前川らは、この時になってようやく、朝鮮から日本に帰国する船に乗れることになる。
 小野医院に連絡が行ったのはその夜のことだ。日曜日に皆で会えないか、と。



          *




 二〇五八年十月十三日、日曜日の早朝、家を出発して旭川駅から六時二十五分の電車に乗った。
 長時間電車に揺られていると、眠気が時々襲ってくる。気付いたら隣から寝息が聞こえてきていた。
 彼は、武田という人の話をしてから、どこか余所余所しい。以前にも増して、心の壁を厚くしてしまったような、そんな印象だった。支えさせてほしい。弱音を吐いてほしい。雪の願いも虚しく、彼はあれから毎夜、雪が寝たのを確認した後に、一人で空を見上げている。朝まで、ずっと。
 
 結局、彼についていくことにした。
 知らない人と話すのはやはり得意ではないが、十数年来の付き合いの友人がどのような人たちなのか、彼の友人に彼を救えるヒントが貰えるかもしれないという興味と期待が勝った。
「次は光珠内(こうしゅない)。次は光珠内です」
 アナウンスが聞こえ、隣で寝ていた彼が唸りながら目を覚ました。
「……あと何駅?」
 目を擦りながら、聞いてくる。
「あと二駅で岩見沢だよ。たぶんね」
「あー……。納内(おさむない)までしか記憶ないな……」
「……すぐ寝ちゃうんだもん。つまんない」
 彼はまだ、心の壁を厚くして、平気なふりをしている。皆と会って、武田という人のことを思い出すのが怖くて仕方がないくせに。少し早めのマフラーを巻き直して、車窓から見える、晴れ渡った空に視線を移した。気分はあまり良くなかった。本当は、すぐ寝たことに文句を言いたいわけではなかった。
「悪い。帰りはちゃんと起きてるから」
 あなたの心が見えない。雪はそう言い出したい衝動を、必死に堪えた。


 岩見沢駅のホームに降りてすぐ、大きな木彫りの馬の像が目に入った。
 随分昔に改修工事があったようで、それが理由で立て直されずに周りから取り残されていた岩見沢駅も、戦火に見舞われ一部焼失してからは、また作り直された。室蘭本線と函館本線が乗り入れる場所であるから、人の往来は活発だ。予定通り七時五十七分に着いた雪たちは、三階にある改札からエスカレーターで下に降り、一階にあるキヨスクで朝食を買った。雪はあまりコンビニの食事が好きではなかった。そのすぐ右にあるパン屋は九時半からの営業だったため、仕方なくとろろそばを買った。
 
 歩きながらとろろそばは食べられないと外に出てから気づいたが、彼はすぐに着くから、と呟き路面に散らばるコンクリートを踏みならし、雪の前を歩いた。
「ほら、着いた」
 宮沢が呟いたのを聞いて、前を歩く彼の足を見ていた雪は、顔を上げた。
 小野医院という看板が目に入った。病院右側のベランダから、数えきれないほどの鶴が吊り下げれている。すごい。
 インターホンを押してから遠慮がちに扉を開くと、正面にはエレベーターと階段、左には診察の待合室、右側には長椅子が並べられたロビーがあった。
「あ! 宮沢さん! お久しぶりです。早かったですね」
 雪が周りを見渡している間に、階段から降りてきた女性が話しかけてきた。髪が長く、とても愛らしい目をしている彼女は前髪をゴムで縛って丁髷のようにしていた。化粧の途中なのか眉が薄い。何もそんな姿で降りてこなくても。
「夏樹ちゃん、久しぶり。相変わらずだなあ……化粧、してからでもいいのに。まだ皆は来てない?」
「……あ、う、そ、そうだった。見苦しい姿ですいません。えっと、あの……加奈と孝徳はもう来てます。飛行機苦手だったらしくて顔色悪いですけど、中庭に居ます」
 電話口で聞いた声だ。雪が宮沢の袖を深く握っていると、近づいてきた。
「もしかして、雪ちゃん? ……この間はごめん。知らない人にいきなり喋られたら嫌だったよね。私……落ち着きないから」
「う、ううん。へ、平気です」
 どうにか答えることができた。雪が安心して宮沢から手を離すと、彼女はほっとしたように笑顔になった。
「じゃあ、私、適当に化粧して、二人を連れてきますね! 先に中庭に行っててください」
 スニーカーを履いた彼女はばたばたと上階に上っていく。中庭というのはどこかも知らされないまま、二人はその場に置いて行かれた。
「変な人……」
 思わず、呟いた。
「面白いだろ? 昔から変わってるんだ、あの人。軍服着てみたり何かして」
「軍服?」
「なんでもない。中庭、探そう」


 彼女が言っていた中庭らしきところには、木のテーブルと同じく木でできた背もたれのない円状の椅子があって、扉を開けてみると手前の石でできた段差の所に、女性が寝転がっていた。腕を顔にのせているから表情は読み取れないが、心持ちがよくないというのは分かった。その隣で、太陽から彼女を庇うように座っている男の人は、座っていても分かるくらい長身だ。
「孝徳? 久しぶり。六年ぶりくらいか? 男らしくなったなぁ」
「あ、宮沢さん! 久しぶりです。そちらは何も変わってませんね。年相応に老けないとそのうち年齢信じて貰えなくなりますよ。……その子は?」
 確かに隣に立っている彼は、三十過ぎとは思えない若さを保っていた。褒められて何故だか自分まで嬉しくなった雪は、視線を移されて心臓が跳ねたのが分かったが、さすがに慣れてきた。
「……あ、私、ですか。私は……ヒロくんの、何て言ったらいいかな……。……妹……ていうより、もう彼女?」
 本気の告白をしてしまいそうだったため、語尾をふざけた口調にして腕を取って絡ませると、宮沢が素早く振り払った。
「勝手に彼女にするな。一緒に生活してるだけだろ。義理の妹だよ」
「うるせえのが来たな……何だ? 誰? 孝徳」
「宮沢さんと……うーん。何だろう。宮沢さんの彼女だそうです」
「孝徳まで乗らないでくんない? 雪はそういうこと言われるとすぐその気になるから」
 彼はそう言うと、石の段差を軽く飛び、中庭の中心に設置されている木のテーブルに荷物を置いて、すぐ近くの椅子に腰かけた。
「老けないってんなら、そこの曹長もそうじゃない? 全然変わんないよ」
「いや、そうは言っても加奈さんもさすがに、二十代の時より皺は……」
 そこで言葉を区切った孝徳が、妙な声を出した。
 うご?
「孝徳、お前さあ……失礼だと思わない?」
 いつの間にか起きていた加奈と呼ばれた女性が、孝徳の腹を殴りつけていた。
「……相変わらず立場弱いな。でも日本じゃDVっていうんだ、こーゆーの。度を越したら警察に言えよ」
 宮沢が孝徳の耳元でぼそりと呟くと、加奈は宮沢のことも睨んだ。
「はは……ゆ、雪。早く朝ご飯食べよう。このおばさ……」
 後ろ姿しか見えない彼女がまた怒りそうだったので、雪が慌てて口を挟んだ。
「ヒロくん! ちょっと、黙ってなよ」



          *



 小野医院に足を運ぶのは久しぶりだ。
 住居を移してからは、前ほど頻繁に夏樹や安藤たちとも会わなくなった。
 歩いて小野医院の正面に立つと、やはり目立つのは折り紙で作られた鶴。ベランダから垂れる鶴の数は未だに増殖を続けていた。自分たちがいなくなった後も、夏樹が宗二と一緒に作っている。
「……少し、遅れちゃったね」
「まあ、大丈夫だよ。ちょっとくらい」
 隣に立つ一郎は笑いながら言って、小野医院の扉を開けた。
「確か、中庭って言ってたよな」
 彼の言葉に頷き、千絵は歩き慣れた院内を進んでいく。

 中庭の扉を開くと、つまみの様な料理を囲みながら、紙コップを片手に話している見知った顔たちがあった。
「兄さんに千絵さん! 久しぶり!」
 テーブルの真ん中まで手の届かない子供を抱きかかえて料理を取らせてあげていた夏樹が、子供を石でできた地面に降ろして近寄ってきた。
「あ、おいちゃんだー。千絵さんもいる」
 鼻が詰まって声が不明瞭なこの子供が駆け寄ってくる。目元口元が次郎にそっくりだった。夏樹と安藤の子供。今年で六歳になったが、なかなか親離れできない甘えん坊だ。
「宗二(そうじ)……なんか、またでかくなってない?」
「うん!」
 一郎のことはおいちゃんと呼んで、なぜか自分のことは千絵さんと呼ぶ。いつも夏樹がそう呼んでいるからだろうか。千絵さんにはおばちゃんって言ったら失礼だからね、なんて夏樹に言われているのかもしれない。それでも、自分と一郎には子供はできないから、可愛い甥ではある。近寄ってきた宗二を抱きあげる。さすがに六歳ともなると重い。ただ、体は小さい方だし、本人は嫌がらないから抱くのは容易だった。普通ならだっこが恥ずかしくなってくる年頃だと思うのだが、お構いなしだ。
「学校は慣れた?」
「ともだち、いっぱいできたよ!」
 抱きながら訊くと、大きな返事が耳元で聞こえた。鼓膜が震え、耳奥で甲高い音が鳴る。
「相変わらず、声、大きいね……」
 夏樹を見ると、苦笑いが返ってきた。千絵はゆっくり彼を地面に下ろした。
「あはは……。誰に似たんでしょうね。ほら、宗二、枝豆食べるんじゃないの?」
 宗二は促され、席に戻る。隣に座る安藤の腕を引っ張り、枝豆、と怒鳴った。煙草を吸いながら加奈と話していた安藤は怒声にびくりと肩を震わせて、それから面倒そうに枝豆の皿を引っ張り、宗二の前に置いてやった。
「前川さんたちは、もう少しで来るみたいです。皆が揃って、よかった」

 千絵や加奈は長年服用していたストレイジの薬の副作用で、子供ができない、産めない体になっていた。不妊治療もしてみたが、駄目だった。夫となった一郎は良いと言ってくれたが、悔しかった。自分の能力を今まで以上に憎んだ。それから看護師は辞めて、千絵は一郎と共に護身術を教えている。与えられた能力ではなく、自分で積み上げてきたものを使った職業をやりたいと思っていた、千絵の提案だった。一郎も体力的な限界を感じて仕事を辞め、それを手伝ってくれた。ストレイジの薬の副作用が、やはり予想以上に重かったからだ。一郎が元有名警備会社に勤めていたという触れ込みもあり、今では遠くからも通う生徒のいる、名の通った教室だ。自分たちのペースでできるというのも魅力だった。
 安藤は無事医者になった。他のところで二年程度研修した後、小野医院に戻ってきた。そしてから夏樹と結婚して、子供が出来た。加奈と孝徳は事実婚。形にこだわるのは相手を信用できない奴だけだ、と言って夏樹と取っ組み合いの喧嘩になったこともある。相変わらず仲が良くないが、どこか認め合っているからこその喧嘩のようにも見える。
「安藤くん、おかわりは?」
 彼は多々良へ姓が変わったのに、夏樹は未だにそう呼ぶ。一度"ゆーくん"と呼んでみたら殴られそうになったから辞めたという。彼が義理の弟となったときに、一郎も"ゆーくんはこれから妹をどう幸せにしていくつもりなんだ?"とふざけて聞き、殺気立った目で近くにあった灰皿と目を合わせられてから、それからも安藤と呼んでいる。ただの照れ隠しだと思うが、余計な口は挟まないでおいた。

 改めて見回すと、宮沢の隣に見慣れない子供の姿があった。高校生くらいだろうか。
 彼女が一人でジュースを飲んでいたので、隣の席に腰を下ろした。
「もしかして……宮沢君の、妹?」
 声をかけると、俯いて紙コップに口をつけていた彼女が驚いて頭を上げた。毛先が丸まった明るいブラウンの髪が跳ね、顔が見える。間違いない、あの時、バスケで遊んであげた子供だ。化粧気がないから、すぐに分かった。
「………っ」
「千絵っていうの。昔、遊んだ……。覚えてる? 私は名前も覚えてる……」
 少女は口を開いたまま、こくこくと頷いた。
「……大丈夫? 飲み物が詰まった?」
 心配して訊くと、彼女は首を横に振り、ようやく声を出した。
「お、憶えてます。忘れないです。バスケで遊んでくれて、あのとき、ヒロくんを、送って来てくれた人の……」
「……覚えててくれたんだ。雪が小さい頃だったと思うけど……。記憶力、いい、だけ?」
 呟くように言うと、彼女は照れたように頬を掻いて視線を外した。
「くだらないって思われるかもしれないです……。でも、頭を撫でて、お兄ちゃんが帰ってきてよかったねって言ってくれましたよね。あたし、あれがあったから、ヒロくんたちが暗い中でも、素直に喜べたんです。それが、今でもあの日のことが忘れられない理由なんです。すごく、優しい気持ちにさせてくれたから。それに、遊んでくれた時も、子供なりに不安を感じてた時で……。とにかく、感謝してるんです。あなたには」
 思った以上の言葉が返ってきて、千絵は驚いた。そして自分がその時その時で取ってきた行動が、こう言う風に他人に感謝されていることに、もっと驚いた。
 自分は昔、奪うことしか知らないし、出来ない人間だった。殺して殺して殺して、他人の人生を奪うことが仕事で、存在する意味だった。彼女に言っても、理解されないだろう。武田も一郎もみんな、自分が人間じゃなかったことを知っている。表情一つ変えないで、小さな声で喋るだけの機械だったことを知っていて、おそらくそこから変わっていった自分を認めてくれている。でもこの子は違う。この子にとって自分は……最初から、人間だ。だから、驚いた。人間である自分を面と向って褒めてくれたのは、彼女が初めてだった。いつも、無表情な奴だと患者にも生徒にも良くは思われてこなかったから、頬が自然に綻んだ。
「……あの日、いなくなった人……いるんですよね? ヒロくんは、そこから、縛り付けられたまま……なんです。どうすれば、いいですか? どうすれば武田恒からヒロくんを開放できるんですか? あなたなら、知っているかも……と思って。私……心配で、仕方無いんです」
 少し間を置いて、雪が訊いた。彼女の隣では夏樹と加奈がまた言い争いをしていた。
 千絵は小さな笑みを浮かべたまま、答えようとした。
「……私も、実を言うと、まだ引きずってる。あの後ね……死体が、確認されなかったの。いくら地下溝を探しても、見つからなかったって、岩波さんが言ってた……だから、置き去りにしてきたことを、今でも後悔しているんだと思う。宮沢君、責任を感じて、縛り付けられて……」
 後半、自分のことを言っているようで、千絵は喋る勢いを失速させ、表情を沈ませた。思い出してしまう。あの手の感触……あの時の武田の顔も。
「離れる直前、武田君は……笑ってたの。しょうがないって顔で……笑ってた。……私も、縛り付けられているのかもしれない。解放されるとしたら、きっと、死ぬ時……」
 話し終えると、雪も沈んだ表情になった。
「死ぬ時、か……」
 遠くを見つめるような目をした彼女の視線が、空を射た。太陽が照り付けている。
 彼女は首に巻いたマフラーを取り去り、テーブルに置いた。




 
 それから千絵は、ひたすら飲んでいた。かつてないほど大量にアルコールを摂取していた。
 少し苦い。でも、冷たくて、おいしい。飲んだ瞬間は、気持ちを和らげてくれる。
 だが、いくら飲んでも酔えない。異常なまでにアルコールへの耐性があった。
 顔色も変えずただ淡々と飲んでいく千絵を、隣で雪が見ていた。何故だろうと彼女を窺うと、答えはすぐに返って来た。
「あの……気に障ること、しちゃいましたか。私が、武田って言う人のことを、思い出させてしまったから……?」
 雪が訊く。
「雪が言わなくても、今日はそういう気分になってたと思う。皆で集まるだけで、思い出すから」
「……どうして? どうしてみんなそんなに気に病んでいるの? ヒロくんも、あなたも……」
 呟き、彼女は黙り込んだ。
 武田を置いて列車が過ぎ去ってから、十二年。その間にいろいろなことがあった。疲れが取れる間隔が長くなったとか、少し老け始めた自分だとか、段々と年相応に見えてくる白髪だとか、現実的な十二年を積み上げてきた。それは、一郎がいるから積み上げることができた。今も自責の念には苛(さいな)まれるが、あの時ほど自分を責め続けていたらどうにもならなかった。彼は、他人から見れば、感情はあっても表情に乏しく、世間に馴染めないだけの十八歳の女を、三十過ぎまで積み上げさせてくれた。一方で、縛り付けられたままの部分がある。言ってしまったことへの後悔や喪失感といった、見知った顔ではなく、他人へ向ける感情。それらはあの時以上の重みを持つことがなく、度々仕事にも影を落としてきた。よく看護をしていた患者が死んでも平然としていられたし、もっと気にかけておけばよかったなどという後悔も沸いてこなかった。夏樹は表情に出さないようにしたが悲しんでいる様子が伝わり、他の患者への説明の時も声を潤ませていたが、自分にはそれが出来なかった。だからずっと、通院する患者たちの間では「冷たい看護師」だった。
「……どうしようもなく、悲しかったんですか?」
 雪が再び千絵に視線を戻して言う。
「うん……」
 一郎に抱きとめて貰った時と武田の手を離してしまったとき。自分はどちらで多く泣いたのだろう。今でも、あの時の自分の泣き方が思い浮かぶ。


「……でも、千絵さん。やっぱり、失礼ですよ、そんなの。……周りに相談しもしないで、勝手に自分を責めて、落ち込んで……」
 それまで淡々と話していた雪が、ふと怒りをにじませた声音になる。
「立ち直れたのは誰の支えがあったからですか? 武田って言う人じゃないですよね? 今あなたの隣にいる人でしょう? ……そんなにずっと引きずって。失礼ですよ。支えてくれた人に対して。それに、武田さんの気持ちを踏みにじってるって、気付かないんですか? 最後にしょうがないって笑ったんですよね、その人は。それなのにあなたが自分を責めたりして、どうするんですか? 彼はあなたに幸せになって欲しかったんじゃないんですか? ……バカみたい」
 雪が、自分で紡いだ言葉たちに後押しされて、段々と怒りを膨らませていく様子が分かった。
 言葉に追い立てられ、大事にしまってきた宝物を傷つけられたかのような痛みが、千絵の心を抉った。
 それが瞬間的に感情へ変換され、胸奥で怒りに変わったのが分かった。
 ……バカみたい? この十二年間の思いが?
 千絵は間髪入れずに反論した。
「……何が分かるの? まだ、高校生の、雪に」
 わかば園で武田を刺し、殺し尽くした。その時にも感じた激しい後悔と喪失感。自分でその場を壊してから三年して、和解することができて。そしてあと少しで脱出できるというところで、その手を離した。あの時の絶望を、こんな……こんな子供に分かられてたまるか。千絵は目の前の少女が急に嫌悪すべき人間に成り下がったことに戸惑いながら、言葉を続けた。
「雪が今、へらへらして生きているのを楽しんでいるときに、私はっ、私は、死にたくなるような、いろいろな経験をして、それを助けてくれて、理解してくれた、誰かと比べることのできない大切な人を喪った。それを今でも引きずってることが、バカ……? そんなこと、誰に言う権利がある? 雪に、私の、武田君の、何が分かるの!」
 思わず声を荒げてしまう。隣で喧嘩していた夏樹と加奈が黙り込み、静まり返った場で全員が二人を見た。
「……バカです。バカですよ! だって、そうじゃないですか! 支えてあげたいって思ってくれている人間がいて、それなのに過去の人間のことばかりに囚われて! 今ここに存在している人に目を向けてあげてくださいよ! 楽しいですか? そんなに自分を責めて? 楽しいわけがな……」
「うるさい! 雪が、そんな……そんな子だと思わなかった。知ったような口利いて、人のこと否定して……。何? 何が楽しいの? そんなこと言って。……私は! 雪なんかに理解できないほど、ずっと苦しんできたんだよ!? この気持ちが雪なんかに分かるわけがない! 分かったような口を利くのはやめてよ!」
「分かったような口なんか利いてない! あたしはっ! 三歳の時、大っっ好きだった家族を、みんな、みんな喪いましたっ! 泣いて、泣いて、泣いて……ようやく立ち直った時! 七歳の時に、また育ての親を亡くしました! 今度こそ立ち直れないと、手も差し伸べてくれもしない周りの大人は言いました。でも! それでもここに立っていられるのは! 支えてくれた人がいたからです!」
 雪が一字一句に魂を込めて叫んだ。
 千絵は気圧され、反論の言葉が咄嗟に思い浮かばなかった。雪は潤んだ瞳を千絵に向けたまま、続ける。
「……あたしは今、その人のことだけ考えて生きてます。育ての親が末期癌と宣告される前、体調が悪かったときに気づいてあげられなかっただとか、自分を責める理由なんていくらでもありました。でも、その人……宮沢広隆が支えてくれて、どうにか普通の子供に戻してくれた。ヒロくんが支えてくれたから、今あたしはここにいる……。あなたはどうですか? きっと同じですよね? その絶望的な悲しみを和らげてくれた人がいるから今ここにいるはずですよね? 
 だから。だから、見ていて嫌になったんですよ……! 武田って人に十二年経ってもこだわる、あなたが! ヒロくんが! 周りの人が支えたいと思ってくれているのに、今度はあたしが支えたいのに。あたしみたいに吹っ切れる機会を与えられているのに。ずっと自分のことばかり責めて、心を開かないで、過去に囚われ悲しみに浸ってばかりのあなたたちが! あたしは大嫌いなんですっ!」
 彼女は声を張り上げて、千絵を見つめた。それから、目を伏せ、俯いた。
「弱音、吐いて……頼ってよ。今、ここに生きてる、あたしたちに……」
 



 千絵は酒を飲むのをやめて、隣の席で泣いている雪をぼんやりと見つめていた。彼女は宮沢のことがあって、それで似たようなことを言っている自分に、腹が立ったのだろう。まだ高校生なのだ。不安定で当たり前。そこでああまで反論してしまうというのはさすがに大人げなかったと反省していると、泣き止んできた雪が顔を伏せるのをやめて、千絵を見た。
「……すいませんでした。八つ当たりみたいになっちゃって……。ヒロくんに自分が直接言えないからって……。千絵さんに、こんなっ……こんなこと言うつもり、本当になかったんです。本当にあなたに、感謝してるから……」
 彼女は必死に頭を下げて、謝った。千絵はそれを見て笑みを零した。
「……いいよ。それより、宮沢君と、話したら? さっきから、ずっと隣にいて、泣き止むの待っててくれてるよ」
 彼女ははっとした様子で隣の席に振り返った。宮沢が複雑な表情で雪を見、それから千絵の顔を見た。
「小山田、ごめん。俺がちゃんと雪のこと、気付いてやれなかったせいで……」
「謝るなら、雪に謝って。気持ちに向き合って、答えを出してあげて」
 自分には、まだ、無理だけれど。
 答えを出すことは、できそうにない。まだ、引きずってしまうけれど……。
 
「あ、はい。分かりました。玄関ですね」
 そこで、携帯を耳に当て、返答している夏樹の声が聞こえた。自分と雪の言い争いにより静まり返った中庭だったが、どうにか場が収まると再びそれぞれ話し始めていた。その中でも夏樹の声はよく通った。
「みんな、ちょっといいですか?」
 彼女が中庭の入口のドアノブに近づいてから、振り返って言った。
「前川さんが、もうすぐ着くから玄関に集まって欲しいって」



 
 十二年ぶりに会った前川は、随分と逞しくなっていた。以前のどこか細身な印象はもうない。工事現場が似合いそうな体格だった。
 そしてその隣には見たことのない女性が立っていた。
「隣に居るのは、住良木って言って、俺の朝鮮での活動を手伝ってくれた人。ジンヒは朝鮮に置いてきたんだ。そこの女がいるから」
 住良木と呼ばれた女性は穏やかな笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
 それから千絵は前川に憎しみを込めた視線を向けられ、顔を俯かせた。
 彼は舌打ちして、それから全体を見た。
「……あ、ジンヒっていうのは……松木さんと俺を助けてくれた女の子で……今は一緒に暮らしてる。結婚はしてないけど、もうずっとだな……。って、そんなことはいいか。とりあえず、大事な話があって来たんだ。大事な話だから、心して聞いて」
 そう言うと、小野医院の鶴と視線を合わせ、それから全体を見た。

「……俺はずっと朝鮮で、仕事をしながら仲間たちの遺骸を探して歩き回った。十二年、ずっと。国営軍の現地調査にも、随分貢献したよ。それもこれも、住良木が居たお陰だ。それでも、諦められなくて。活動をつい最近までやっていたんだけど……」
 前川はそこで、言葉を区切った。
 今度は加奈が舌打ちした。
「んだよ。テンポ悪ぃな。さっさと要点だけ言え!」
「……見つかったんだ」
 前川は静かな声で、言う。
「は?」
「……武田君が、見つかったんだ」




 千絵は俯かせていた顔を、勢いよく上げた。
「それは、遺体が、ってことですか……?」
 一郎が、こちらもまた静かな声で訊いた。


 十二年間ずっと後悔してきたこと。ずっとあの場所に心が縛り付けられてきたこと。
 あの時の手の感触、彼の表情。
 
 唐突に蘇ってきたそれらを受けて、胸の鼓動が早まる。
 体が、震える。
 次の言葉を待って、様々な思いが錯綜し、心音が激しく乱れた。








「……死んでなかった。生きていたんだ。武田君は」







 前川の背後に、人影が見えた。
 右足を大きく引きずりながら小野医院に近づいてくるのは、間違いなく、彼だ。
「……武田君は医師に助けられた後、ずっと朝鮮で生活していて……」

 前川がまだ話していたが、もう耳には入らなかった。

 足が一歩、動く。
 そこからはもう自分でも、何が何だか分からなくなった。

 全速力で駆け寄って、徐々に自分に近づく彼を確認する。一郎や宮沢も、千絵より少し遅れて走りだした。

 変異型との戦闘で潰されてしまった右目に眼帯をしている。髪は飾りっ気のない短髪をしている。しっかりと同年代に見える顔になっている。あの時怪我した右足をひきずっている。
 見なくても分かった。でも、見るとまた、違う感慨が沸き上がってきた。
 彼は、自分を見て、泣きだしそうな顔になって、口を開きかけた。


 だけれど千絵はその前に。
 その前に、地面を蹴った。


 一郎、ごめん。今だけ少し、浮気する。
 
 
 高く跳んだ千絵は、そのまま武田に抱きついた。
 涙がぽろぽろ、ぽろぽろ零れていたが、顔は、満面の笑みだというのが自分でも分かる。
 いきなり抱きつかれた武田はそのまま体勢を崩し、地面に倒れこんだ。
 その彼を、あの戦争を戦った仲間たちが囲む。
 みんなが、あの頃の顔に戻っていた。

 宮沢が武田と叫べば、夏樹が短髪をぐしゃぐしゃ撫でまわした。


 千絵は彼に抱きついたまま、目を閉じる。胸に耳を当て、彼の鼓動を感じた。

 本当だ。

 本物だ。

 生きている。

 夢なんかじゃない。

 武田君は、生きてる!

 十二年の思いが瞬時に融解し、今この瞬間の歓喜に変わった。
 強く、強くその体を抱きしめた。

 
 前川と住良木に感謝の言葉を叫んだ一郎は、武田に抱きついている千絵を見て、本当に嬉しそうに駆け寄り、そんな千絵の背中に飛び付いた。

 そんな千絵たちを、加奈は、輪から外れて、笑って見ている。仕方がない奴らだ、とでも言うように。


「げほっ、お前ら、やめろ……!」
 
 二人に乗られた武田が苦しそうに呻くが、誰も聞いちゃいない。


 孝徳の姿が見えなくなったのは数十秒で、すぐに玄関から飛び出してきた。ビール缶とビール瓶を、ありったけ抱えて。
 はち切れんばかりの笑顔を見せる宮沢は、そんなビール缶の蓋を片っ端から開けて、武田にかけまくった。たちまち彼の着ていたつなぎが、びしょ濡れになる。
 そして顔中ビールまみれにした武田が、痛そうに目を瞑りながら、彼の体に乗った一郎と千絵をどうにか引きはがし、宮沢からビールを奪って、逆襲に転じた。
 その顔もまた、歓喜に満ち溢れていた。

「俺が死ぬはずなんてないだろうがっ!」
 武田が叫んだ。
「はははっ! 残念でしたぁ! 知ってたし!」
 宮沢が叫んだ。




          *




 場所を中央公園にまで移して、馬鹿騒ぎがようやく落ち着いたのは、それから五時間後のことだった。上がり切っていた太陽が、夕日に変わっている。
 酔ってテンションの上がり切ってしまった夏樹が中央公園の噴水に飛び込んで溺れかけたり、加奈が散歩中の犬と飼い主に絡みまくったり、宮沢がバスケコートでの試合に乱入したりしたために、近所の人たちから苦情がきて、駐在の警察官まで駆けつけてきた。だが、小野医院の院長が飛んできてくれたお陰でどうにか場は収まった。とても三十前後のいい大人のすることとは思えなかった。それでも、恥ずかしさはなかった。嬉しさしかなかった。
 
 武田は、列車が行ったあとどうにか地下二階まで辿り着き、医師の治療を受けた。その後四日間眠り続け、目を覚ましてから、手術をしてくれた看護師たちに礼を言って、治療費の請求先を国営軍の会計宛と書いてPDAを証拠に残し、すぐに地上に出た。右足に後遺症が残っていたが、気にせず歩き続けた。前川が来る二日前だったために既に放射能は薄まっていて、ある程度の場所なら行き来ができた。そして爆心地からさらに離れた隣町まで辿り着いたときに戦争が終わり、そこから街を転々として暮らして行ったそうだ。国籍も持たず言語も持たず定職に就かず、徐々に徐々に、中国国境を目指して。そして病院に残された記録から足取りを追った前川は、十二年経って、ようやく武田を見つけ出すことに成功した。




 千絵は閉じていた目を開けて、立ち上がった。
 わかば園の跡地の中心に、建てられた墓。周囲は日朝戦争で死んだ人々の墓で埋め尽くされている。どの墓も放置された様子はなく、花も真新しい。沈みかけた太陽が彩るその石碑から視線を外して、いつの間にか隣に立って黙祷を捧げていた一郎を見た。
「……一郎も、お祈りしてくれたの?」
「……まあ、ね。千絵の過去なら、一緒に背負えるから」
 目を開けた一郎が、少し照れながら呟いた。
 後ろで、咳ばらいが聞こえた。一郎を見つめていた千絵は、慌てて視線を外した。
「すっかり仲良しだな」
「そ、そんなこと……」
 武田が笑った。
「今更照れなくてもいいだろ」
 墓石周辺の範囲の狭い砂利に武田も上がってきて、右目を閉じる。
 しばらく祈ってから目を開けると、千絵に視線を合わせてきた。
「まだ、諦めてないから」
 呟き、意味ありげに一郎を見た。
「泣かせるような真似したら……」
「ああ。分かってるよ」
 そう言うと、軽く握った拳を、武田の前で掲げた。武田も、拳を軽く握ってそれに当てた。
 一郎は笑みを零すと、先に墓石から離れて行った。

「……珊瑚のペンダント、まだ持ってる?」
 千絵は首に下げたペンダントを外してから、武田を見た。
「ここに、残していこうと思って。須能さんが、きっと喜ぶから。……もう、過去とは決別しなくちゃいけない気がするの。自分が犯した罪を忘れるわけではないけど……」
「ああ。きっと喜ぶ」
 千絵の言葉を遮って、武田も、首に掛けられていたそれを、二対のアルミ製の花瓶にかけた。千絵は武田がかけた方とは違う花瓶に、珊瑚のペンダントをかけた。





 三人で並んで、墓地の中を歩く。
 戦争中はよくこうやって、歩いていたっけ。思い出しながら、足を動かす。
 そうしていると、右足に障害を残す彼が、徐々に遅れ始めた。それに気づいた一郎が、立ち止まり、後ろへ振り返った。
 武田が追い付くまで、ずっと彼を見つめていた。
 千絵も同じように、武田のことを見つめる。

「武田」
 ようやく武田が追いついてきたところで、一郎が、言った。まだ少し距離がある。
「……いきなりだけど、ありがとな。夏樹を助けてくれて。あ、あと……」
 そこで、一郎が千絵を見る。千絵が言った方が喜ぶから、と耳元で囁きながら。

 千絵は、それに頷き、笑顔になった。


「おかえり。」
 大きな声で、微笑みながら言う。




 そして、右手を差し出した。


 彼も、苦笑いをしてから、あの時離してしまった右手を差し出した。


 手が重なる。今度は離さない。



「ただいま。」
 
 武田は、そう、呟いた。







 しばらく三人は、無言で歩いた。武田のペースに合わせて、一郎が歩く。
 千絵はさらに遅いペースで歩き、その様子を後ろから眺めていた。
 

 千絵は、あの時のように気配を感じて、後ろを振り返った。


 そこには誰もいなくて、涼やかな風が吹き抜けて行った。


 赤い赤い夕焼け空が、広がっている。



 
 




 これからも続いていく醜い争い。
 それでも、空は私たちを眺めているだけだった。


 嘲るように、そして……慈しむように。










「千絵、何してんの」

「ううん。なんでもない」

 一郎の声が聞こえ、千絵は空から目を切った。
 自分を見つめている二人に、駆け寄る。
 それからまた、三人並んで歩き始めた。
 


 三人の影が、夕暮れの墓地に伸びた。









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