エピローグ2

 厳しい残暑の中、黒髪の女は、ショートヘアーを靡かせ足取り早く駅の構内を闊歩していた。男と見紛う髪型ではっきりとした目に意志の強さを秘めながら、それでも、顔が整っているために、女だということはすぐに分かる。薄めに整えられた眉は吊り上っていて、朝の混雑する時間帯だというのに、誰も彼女の前を横切ろうとはしなかった。運悪く横切ってしまったサラリーマンの男は、思い切り顔の側面に衝突され、眼鏡のフレームを折られた。弁償、と言いかけた彼は常人ではあり得ない殺気の籠った目を向けられ、平謝りするだけだった。服装は、ノースリーブのシンプルなキャミソールに短パンという肌がちらつき目のやり場に困る格好で、何かと注目を浴びたその女は、各駅停車の先頭車両、女性専用車両に収まった。車内まで一緒ではたまらないと思っていた周囲の人間が胸をなで下ろす中、彼女の後ろを歩いていた男は情けない顔をしてから、後部の男女共用車両に回った。

 


 日本に亡命してから、もうすぐ二年になる。
 とにかく戦争直後のこの国では何をするにも金が必要だった。人手不足の本州のコンビニで働いて、女だからと言ってナメた口を利いてきた大柄な男の客を暴行し、大怪我を負わせて辞めてから、以来どの仕事も長続きしなかったが、孝徳に養われるなど死んでも御免だったので、今は行政が発注した道路の工事現場で働いている。これはなかなか性に合い、随分と続いていた。肉体労働だと人は言うが、軍の訓練に比べればどうということはない。
 ただ、ストレイジの発作を抑える薬を飲んだ後はどうにも体調が芳しくなく、仕事を休むこともある。今日がその日だった。そんな体調の中、孝徳がどうしても会いたいというからわざわざ来たというのに、彼は自分がアパートに現れるまで何と眠っていた。呼びつけておいて何してると怒鳴り込んだ後、少しの間壁に寄り掛かって待ってやったが、途中で待つのをやめ、駅へ向かった。
 
 自宅に帰るための電車に揺られながら、窓際の扉に寄り掛かり、反対側の窓から見える外の景色を眺めていた。この辺りも大分工事が進んで、復興してきた。あの辺は自分たちが整備した……と思いながら、溜め息を吐いた。孝徳のはっきりしない態度と、自分の短気に。
 孝徳とは週に一回くらい会っている。同じ県内に住んでいるが、一緒には住まない。自分から言い出すのは柄ではないと思ったし、孝徳もそれで満足しているみたいだから、何も口は挟まない。この間十八になった彼とは、七歳の差がある。その差が少しだけ、嫌になるときがある。彼の職場には若い女が腐るほどいるし、生来のお人好しのせいで人気もある。
 ……なに考えてんだろ。舌打ちしてから、加奈は今の駅で降りた女性が座っていた席に腰を下ろし、バッグからビオレのクレンジングシートを取り出した。それを使って薄めに施してきた化粧を落とした。一応、化粧はする。軍に居た頃は頓着しなかったが、さすがに最近は気にするようになった。
 あいつのせいで。


 
 常磐線の赤塚駅で降りた。
 後部車両を一瞥すると、孝徳が目に入る。あの長身だ、すぐに分かった。声を掛けようか迷ったが、掛けずに降りて、駅から出た。
 この辺りも、昔はどうだか知らないが、深刻な被害があって復興中らしい。関東圏で被害を受けなかったのは、恐らく大子だとか、あの辺りだけだ。
 駅は簡素なものだった。何かの小屋のような、急遽建て直された物。廃墟と化した駅は取り壊す方にしか金が回せず、このような状態になったのだろう。ただでさえ、路線の整備が急務なのだ。駅の見栄えを気にしている余裕はない。
「加奈さん、待ってくださいって」
 小走りに近づいてくる男の声が聞こえて、加奈は立ち止まった。
「……私は今、体調が悪い。気分も悪い。近づかないでくれる?」

 太陽がじりじりと肌を射て、湿っぽい暑さが加奈の体力を奪ってきていた。さすがに疲れて、早歩きは出来なかった。孝徳は横に並んで無言で歩いている。
 手を繋ごうとしてきたから、振り払った。簡単に許すと思うなよ。
「家までついてくる気か? このストーカー」
「ストーカーって……あの、それって、俺のことですか?」
「お前以外に誰がいる」
 孝徳は、敬語のような口調が抜けきらない。既に癖になっているようだ。自分を呼ぶ時も、呼び捨てでいいと言っているのに、未だに"加奈さん"だ。一回仕事の電話が入ったことがあるが、そこでも敬語だった。軍に居た頃はずっと年上に囲まれていたから、そうなってしまったのだろう。変な奴。所々歪に盛り上がっている歩道を歩き、家までの路を淡々と進んで行く。
 坂を下ってしばらく行ってから、小道を左に曲がり、また小さな坂を下り右に折れ、左に折れ。そうするとやっと住んでいるところが見えてきた。薄緑の外観をしたそこは、この地域にある大学の学生が多く住んでいる二階建てのアパート。時折住民に挨拶されたこともある。
「寝てたのは謝りますから。そんなに怒らないでくださいよ」
「私が、どんな状態であんたの家まで辿り着いたか分かってんの? 歩くのだってだるくてしょうがないってのに……寝てただあ?」
 後ろに立っていた彼の胸倉を掴んで、アパートの周囲に張り巡らされている金網のフェンスに押し付けた。最近では体つきも変わってきたが、まだこの男には力負けしない。
 そこで急に吐き気が襲ってきて、加奈は力を込めるのをやめた。激しく咳き込んでから、その場にしゃがみ込む。
「だ、大丈夫ですか!」
「……声がでけぇよ。周りの奴らに迷惑」
 薬は飲んだはずなのにと思いつつ、どうにか立ち上がってバッグからアパートの鍵を探しだした。鍵穴に差し込んで回す。

 台所、風呂、トイレと一通り生活に必要な空間は整っている。部屋は三部屋あって、そこそこの広さ。和室には布団が敷いてあり、居間にはタンスと四脚テーブルとテレビが一つずつ。娯楽といった類のものはほとんどない。朝鮮関連の新書と、それを読むために買った漢字辞典、あとは小説が三、四冊あるだけ。化粧の方法などが載っている女性誌は布団の下に隠してある。
 加奈は襖を開けてそのまま和室に向かうと、布団に横になった。もう立っていられなかった。
「もしかして……風邪じゃないですか? 発作の薬は飲んだんですよね?」
「あー……確かに、風邪かもしれない。そっか、だからか……。……怒ってんのも疲れてきた。寝る」
 ぼそぼそと呟きながら仰向けになると、孝徳が耳に何かを当ててきた。驚いて避けようとすると、頭を押さえられ、耳にもう一度何かが当てられた。
「体温計ですよ。暴れないでください」
「……何で今そんなもん持ってんだよ。近所の奥さんかてめぇは」
「だって、顔色悪かったし……出るとき、持って来たんです。薬も。飲みます?」
「バカか、前にも言っただろ。併用はできないって。どんな相互作用が働くか分からない」
 薄いタオルケットを取って、被った。
「……少し寝るから。何もなくて暇だろうけど……なんか、適当にやってて。元はといえば、お前が悪いんだから」



          *



 振り返って見上げれば、赤い屋根の家。
 自分は研究所の人間四人に囲まれ、泣きながら引きずられていく。母さん、母さん、と叫びながら。
 でも……窓から見えた、送り出す母親の顔は、笑っていた。
 
 
 うなされて目を開けたとき、目の前に孝徳の顔があった。結局こいつも寝たのか、と思い、起き上がる。外はすっかり暗くなっていた。
「夢見悪ぃな……最近」
 部屋の中はもう薄暗い。枕元の時計を見れば、午後五時を過ぎたあたりだった。十時頃寝たから、七時間は経っている。体調はすっかり回復していた。まだ自分も、どちらかといえば若い部類に入るのかもしれない。
 立ち上がって、部屋の電気をつけ、窓のカーテンを閉めた。それから台所に向かい冷蔵庫を開け、チューハイを取り出し和室に戻って、枕元に置いてある新聞を拾い上げた。窓枠の下の壁に寄り掛かる。冷やりとして気持ちいい。チューハイのタブを開け、一口飲んでから、置いた。そして新聞を広げる。昨日の仕事帰りに駅で買ったものだ。昨日は読まずに寝てしまった。
 二ページ目の国際情勢欄に、朝鮮の記事が載っていた。終戦周辺の流れを改めてまとめた記事。


二〇四六年十月七日
 瀋陽に核搭載の弾道ミサイルが着弾。
 しかし朝鮮軍は尚も徹底抗戦の構えを見せ、翌8日、中国革新派・ロシア極東連邦管区と同盟を結ぶ。
 米大統領バンダヴァは国際的な非難を浴びる。

同月十四日
 核により西方戦線が壊滅的被害を被った朝鮮軍に対し各軍が反撃、朝鮮軍は劣勢に追い込まれた。
 そこで突如、軍の実権を握るジュンナンがクーデター。
 同日中にプサン、ソウルなど南側の主要都市を完全掌握したジュンナンは、ピョンヤンに潜む直属部隊(チョルミン少佐ら。後述)に連絡を取り、キム・ヨンジェを殺害。
 翌十五日、戦争状態にある日米の政府幹部に対し、革新派・極東連邦管区との同盟解消を約束し、外交官イ・スンマンを通し停戦を打診。

同月十六日
 国内の反対を押し切り、暫定政府の首相奥山が停戦を承諾。
 日朝戦争事実上の終戦。

同月二十日
 入念に下準備をしていたジュンナンが朝鮮全土を統一。日本と正式に終戦条約を結ぶ。
 核兵器使用を陳謝し、日本が勝利したという論旨と、補償金を返済していくなどといった条件が、条約には盛り込まれた。
 ここへ来て、反朝、再度開戦を声高に叫んでいた一部の国民が鎮静化の兆しを見せる。
 あまりに出来すぎなクーデターに、バンダヴァとジュンナンの間に核射出前、または射出後に関する何かしらの密約があったのではないかとの噂も流れた。

同月二十七日
 周囲の状況が大きく変わって孤立に追い込まれた極東連邦管区と、勝者なしの終戦で合意。
 FAR EASTERN WAR、終結。

【キー・パーソン】
 キム・ヨンジェ=今回の戦争を仕掛けた朝鮮の最高指導者。日本に対し核を使用した。
 ジュンナン=キム・ヨンジェの素行に不審を抱き、クーデター。朝鮮一統後、最高指導者に就任。就任後は穏健派。
 イ・スンマン=ジュンナンの右腕で、卓越した外交手腕で現政権の樹立を助けた。
 チョルミン少佐=朝鮮軍最強の戦闘部隊の指揮官。わずか数百〜数千の人員で数々の首都防衛線を突破し、キム・ヨンジェを殺害。日朝戦争終焉の影の立役者。



 再確認した。
 悪者はキム・ヨンジェ一人。新政権に対しては、海外メディアも好意的だ。
 終わってみれば、ジュンナンが全てを手に入れてしまった。自分にはどうすることもできなかった。朝鮮の人たちは、あいつらに踊らされた。だが、一般の人々はそんなこと、気付きようがない。いくら賢明な人でも、周囲に存在する情報自体がどれもこれも間違っていれば容易く操作されてしまう。
 ストレイジ私兵部隊の武力、防衛庁での職務経験を手札に周囲を蹴落とし順調に出世していき、ヨンジェを唆し開戦、包囲され本土開戦となっても崩れぬ余裕。変異型を使い瀋陽を陥落させこれからという時に釜山に移ったジュンナンと承晩、一時間前に鳴った警報、誰もいなくなった研究所、チョルミンの"時間がない"という言葉の意味。
 見過ごしたくはない。大切な同胞を使い捨てにされ、一人で権力を掴んだあいつを。だが、これはジュンナンの謀議だとたった一人で挑んで何になる? 国際社会は朝鮮の民主化に期待しているし、実際ジュンナンは期待に応える素振りを見せている。今更一人で叫んでも、どうにもならない。握り潰されて終わりだ。こんな片田舎で道路を作っているだけの女、どうにでも消せる。
 加奈は次にスポーツ欄に目を移した。世間は女子バスケが一大ブームだ。
 それからざっと芸能面などを流し読みして、新聞を閉じた。どこかの女優と、どこかのロックシンガーが結婚したという、ありふれた話。無理に明るく紙面を飾らせようとしているところが目についた。裏にはテレビ欄。ほとんど公共放送しか見ていないが、一応番組表をチェックしてみると、NHKで深夜に女子のプロバスケの試合が再放送されるらしかった。
 DVDは一応録画も対応だから、予約して録って、後でバスケが好きな孝徳と一緒に見よう。そう考えてから、目を閉じ、壁に身を預けた。




『母さん……何で? どうして? 私が悪いことしたなら謝るから、だから……!』
『やっと私の役に立ってくれると思ったら、なんて往生際が悪いの。では、皆様方、よろしくお願いします』
『分かりました。娘さんは将来、朝鮮軍の一員として働けるよう立派に育てます。少ないですが約束のものを』
 代わりに差し出された金。そこでようやく、五歳の加奈は気付く。自分は、売られたんだ、と。
 嫌だ。連れて行かないで。必死に泣き叫んでも、母親は窓から笑って見ているだけ。心臓が早鐘を打つ。
 それは、恐らく彼女の、心からの笑顔だった。
 



 加奈は体を大きく揺らして、壁に後頭部をぶつけて目覚めた。寄りかかったまま、寝てしまったようだ。
「大丈夫ですか? うなされてましたけど……」
 冷やしておいたオレンジジュースを飲んで、孝徳はテレビを見ていた。和室と居間の間の襖は開いていて、目が合った。
「何勝手に飲んでんの?」
「なんか適当にやっててって言いましたよね。飲みたいなら、残りでよければ」
 ペットボトルを掲げられたが、いいよ、と答えてから立ち上がり、建て付けの悪い窓を力を込めて開けた。それから窓枠の上に引っかけておいたTシャツを取って、上から着た。キャミソールを中で脱いで、床に放る。
「今、何時?」
「十二時十分です」
「あ、NHKに変えてもいい?」
「NHKですよ、これ。今はドキュメンタリーやってますけど」
「じゃあ録画の準備しとくか。後でヒマなとき見たいし」
 そう言って、DVDのリモコンをいじって録画予約をした。機械は割と好きだ。一人で黙々といじっていられる。安物の服や化粧品を買って、電化製品は一通り揃えてしまった。戦争直後だというのに、この国の安定ぶりは異常だった。日数が短く総力戦ではなかったというのもあるが、いつ何が暴発して紙幣が紙切れになるか分からない。だからすぐに使う。
 
 
 試合が始まった。
「……すげぇな」
「加奈さんも、このくらいの力はあると思いますけど」
「バカ言え。まだ十九だからあんな真似ができるんだ」
 ストレイジという存在は今でも秘匿されたままではあるが、朝鮮軍の残したデータを使用し発作を抑える薬が増産され、一応は安穏とした生活が送れている。黙ってさえいればジュンナンも仕掛けてこないはずだ。猛勉強している安藤は元々小野の手伝いをしていたから、成長すれば新たな薬も開発されるかもしれない。
 歓声が一際大きくなったので、画面に集中した。
 髪を加奈と同じくらいまで切り上げたフォワードが、三人をゴボウ抜きして一旦スリーポイントラインまで下がり、シュートを放った。そして響く快音。小さくガッツポーズをしたのが見えた。



          *



 孝徳は勝手に布団に入ったが、加奈はまだ目が冴えて眠れなかった。チューハイを飲み終えてからは、机に肩肘をついてテレビをただ眺めていた。酒には弱い方だと思う。それでも飲みたくなる時があった。
「孝徳……ってさ。両親は……どうしてるの?」
 胸を痛ませるあの夢が、先程からどうしても頭から離れない。
 幸せな家族の話が聞きたくなって、孝徳に訊いた。彼は軍人一家の待望の長男だったから、大切に育てられてきたはずだ。
「え? ああ……。分かりません」
 布団に潜っていた彼は、まだ起きていたらしく、返事を寄越した。
 朝鮮と日本は、終戦したが国交は回復していない。よって貿易や行き来もほとんどない。一港だけ、日本向けに開かれているが、警備が幾重にも張り巡らされていて取引などもっての外。日中の中継所としての意味合いしかない。そんな状態だから、朝鮮に居る両親と連絡が取れないのは当たり前だ。訊きたいのはそこじゃない。
「寂しくない? 孝徳が居たいって言うなら、私、朝鮮に居ても良かったんだよ」
「……どうせ、あっちに居たって会えなかったし。いつも仕事仕事で、たまに帰ってきたら勉強はしたのか、訓練はしたのか……。俺のことなんて見ていなかった。欲しかったのは長男って肩書だけ。だから別に、居なくたって寂しくない」
「本当にそう思うのか?」
「はい」
「お前に立派になって欲しくてやったんだとしても?」
「……はい」

 本当の愛情を知らずに育った人間はどこか欠落した部分を持ってしまうと、何かの本で読んだことがある。どうしても、孝徳がそうだとは思えなかった。自分とは違う、しっかりとした愛情に包まれてきているのだと信じたかった。だが本人は、それを否定する。ただ長男だったから、それだけだという。加奈はもう一枚のタオルケットを押し入れから取り出し、隣の畳の上に直接寝ころんだ。
「それなら、私たちって、欠陥同士の集まりなのかもな」
「……どうしたんですか? さっきから」
 背中を向けているから、孝徳は加奈の表情は読み取れない。
「愛情を知らないで育った奴が、人のことを愛せる?」
「……?」
「私は、こいつらに感情なんてない、完璧な人間兵器だって言われながら育ってきた。お前は、そんな私とは違うから、私のことを好きだなんて言うんだと思ってた。でも、お前も、愛情を受けて育った覚えがないって言う。……好きって、何だろ? 愛情って? お前にも分からないなら……私はもっと分からない。……なあ、私たちって、本当に、好きで一緒に居るのか? 欠陥部品同士、似ているから勘違いして一緒に居るだけじゃないのか?」
 鼓動が速くなる。愛情なんてものを考えるから、こうなるんだと分かっていた。それでも考えてしまう。孝徳の側にいると、どうしても気になる。
 考える度に、母の顔が思い出される。お前なんか、産まなければよかった。生まれてこなければ良かった。四六時中虐待を受けてきて、それで最後にあの笑みだ。虐待を受けても、受けるたびに母に依存していった自分は、あのとき心の底から泣いた。でも誰も、助けてはくれなかった。喚くなと蹴り飛ばされ骨を折られただけだった。心臓を鷲掴みにされたような気分になり、胸元のTシャツを右手でぎゅっと握る。
「いいじゃないですか。欠陥同士だって。俺は、曹長のこと、好きだってはっきり言えますよ。これが本当の愛情じゃなくても、勘違いしているだけだとしても」
 握ったところで髪が撫でられ、淡々とした声が聞こえる。

 いつも苦しくなっては、この程度のことで今はあの時とは違うんだと思え、安心する。鼓動が段々収まり、胸の痛みが引いていくのが分かった。
 そうして、言葉をもう一度考え直す。顔が少し熱くなり、今度は別の感情で鼓動が早まる。
 しかしよく思い出すと、余計な言葉が聞こえていた。顔が熱くなったのも脇によけて、怒りが沸き上がってきた。
「……お前、何だよ、曹長って。雰囲気ぶち壊しだろーが。バカじゃねえの。曹長って呼ばなきゃいけない時に加奈さんって呼んで、このタイミングで曹長って……」
「……すいません。たまに、癖が」
「癖……ねえ?」
 背中を向けるのをやめて、彼に向き直った。天井を見ていた孝徳も、こちらに視線を合わせてきたので、軽く睨んだ。
「え、え? そんなに怒ることですか?」
「怒る! どこの世界に好きな奴に仕事の名前で呼ばれたい奴が居んの? しかも軍の呼称で! そんなのが嬉しい性癖なんて持ってねえよ」
「……? よくわかんないけど……ごめんなさい」
 加奈は軽くため息を吐いて、孝徳に近寄った。仰向けの体のまま、加奈の方へ顔だけを向ける孝徳が、少し身を引く。
「避けんなよ。お前ってホント変な奴……。前から思ってたけどさあ、私を友達だとでも思ってるわけ? 二年近くも会ってんのに、何もしないし」
「何もって?」
「……とぼけてんの? 本気? 昔言ったこと、まだ気にしてんのかと思ったけど……違うんだ。……お前、それでも男なの? 大丈夫? ちゃんと十八歳?」
「だから何が?」
「……鈍すぎ」
 言ってから、加奈は起き上がった。
 そして顔を避けて孝徳が仰向けでいる布団に両手をつくと、覆い被さる様にして口元に唇を寄せ、キスをした。

 顔を離すと、孝徳の顔が信じられないほど赤くなった。キス程度でこれかよ。大丈夫か。
 彼は固まってしまった動かない。タオルケットをどけて、孝徳の腹の辺りに乗ったまま、彼の目を見る。
「ねえ、固まってないで、続き、してよ。……もしかして、私じゃ立たないとか?」
「な……な、なにをっ……!」
 孝徳がようやく口を開いて、焦り始めた。
「……笑えるからやめてくんない? そのうろたえ方。顔赤すぎだし」
 自分のことは棚に上げて言った。
 こちらも、自覚できる程に顔が熱い。
「笑えるってなんですか!」
「ぐだぐだうるせえ奴だな……さっさとしろよ」
「わ……分かりましたよ。とりあえず、重いから、どいてくれませんか?」
「てめえぇ……」
 配慮のかけらもない物言いに彼の胸倉を掴んだ。
 すると急に孝徳が体を捩じったため、加奈は軽く声を洩らしながら反転させられ、固めの枕に頭を打ち付けた。
「……いてぇんだけど」
 頭が枕に軽く沈み込み、背中には先程まで孝徳が寝ていて暖かな布団。孝徳のことを掴んでいた腕が離れた。
 力では負けないと思っていたが、実際のところ、彼が本気を出せばもう敵わないのかもしれない。
「だって、どかないんだもん、加奈さんが」
「それは孝徳があんな言い方するから……。私だって、体重くらい、気にする、し……」
 言い合いをしているうちも、ずっと視線は固定。孝徳の顔も近い。いい加減間近で見つめ合っているのが恥ずかしくなってきて、語尾まで声が張れず、萎んでしまった。
 そんなことにすら気付かない目の前の男。鈍い。
 耐えきれなくなって顔を逸らしたら、ようやく孝徳が横に寝転んできた。抱きしめられて顔が近付いてくる。ゆっくり目を閉じた。
 唇は、ざらざらとして少し荒れ気味。それから舌が遠慮がちに入ってきて、こちらの唇や歯をなぞった。

 離れてから、またしばらく間があった。
 どこか甘い雰囲気に耐性のない加奈は、思わず下を向いた。孝徳はそんな自分を見てなのか、小さく笑い声を零す。
 なんだか遊ばれている気がして苛立った。
 加奈は抱きついている体を引きはがしてから、Tシャツを脱いで、にやついている目の前の男に投げつけた。
 だがTシャツは右手であっさり止められて、また笑われた。
 今までに見せたことのない、その悪戯っぽい表情も割と似合う。
 悔しいが、また頬が熱くなる。そこで再び抱きしめられ、額にキスをされた。

「……おどおどしてたのは演技か? 最初からこんな風にできるなら、私に言わせる前に、やれって」
 悔し紛れにそう言うと、彼はもう一度笑った。
「演技じゃないです。加奈さんの顔見てたら、なんか、逆に落ち着いてきたって言うか。……それに昔、女のことなんて性欲の捌け口としてしか捉えられない歳のくせに、とか言ってたじゃないですか。まだあれから二年しか経ってませんけど?」
「……それは、それだよ」
 呟き、真っ赤になっているだろう自分の顔を彼に近づけて、長い、長いキスをした。



          *
 


 二〇四八年十月七日。残暑が収まってきて、ようやく秋らしくなってきた頃。
 朝鮮兵の、知っている者は少ないが実際にはストレイジの慰霊碑に、去年は線香を立てて来た。だが今年は自分も孝徳も休みが取れそうになかったから、北海道には行けなかった。 
 行けなかった代わりに、教えられた住所へ手紙を送った。しばらくすると、それぞれから律儀に返事が戻ってきた。安藤からは薬の追加分も届いた。一郎、千絵、夏樹、安藤の住所は小野医院だから、送る側としても楽だった。小野医院は当時の副院長だった男が経営を継ぎ、再開している。
 一郎は警備会社に復帰し働いていて、千絵と夏樹は小野医院で看護士として働きながら、公園で近所の子供たちにスポーツを教えているらしい。安藤は現院長の経営を手伝いつつ、新設された医大の夜間部に通っているそうだ。宮沢は軍を辞めて民間企業に就職。生き残った中で唯一手紙を送れなかった前川は朝鮮で生活していて、別れる間際の話では、戦争中に知り合ったという子どもを捜し、松木や武田、滝などの亡骸を探し出して墓を作るということだった。国交が回復するまで、彼とはしばらく会うこともないだろう。朝鮮の言葉も知らない彼が、どれだけの決意であちらに残ったのかは容易に想像できる。それほど、仲間を大切に想っているのかもしれない。


 あれから孝徳とは、週に何度か会っている。少しずつ、距離が縮まっていく感覚。一緒に住もうなどという言葉はまだ当分出てこないようだが、それでも今は良かった。孝徳が、こんな自分に愛想を尽かさないで、会いに来てくれるのなら。……これからも、うだうだ悩むこともあるかもしれない。でも、なんだか、孝徳と居れば何でも出来そうな気がした。髪を撫でられただけで、小さな頃に刻み込まれた心の痛みが薄らいでいく存在。今までも、これからも。自分にとっては唯一無二の存在。浮気の一つや二つされたって、恐らく離れられない。




 現場での作業が終わり、つなぎ姿のまま、家路に着く。いつもだったら適当な公衆トイレを見つけて着替えていくが、今日は薬を飲んだ日なのにどうしても休めなかったから、そんな気力もなかった。そのまま帰るなんて女っ気のない奴だと言ってきた二歳年上の男の肩を殴りつけて、駅へと歩き出した。空は霧雨模様。早めに帰らなければ。
 構内に入り、ICカードを自動改札に当てて通る。それから階段を下って、丁度来ていた電車に滑り込んだ。車内には誰もいない。安心して座席に腰を下ろして、目的駅まで電車に揺られた。揺れが眠りを誘ったが、寝過ごしてしまいそうだったのでどうにか耐えた。

 赤塚駅に着いたアナウンスとともに車両を下りた。駅員が手近にある機械を使い手動でICカードをチェックする小さな改札を抜け、外に出る。霧雨はいよいよ本降りに変わってきた。傘はないから、仕方無く雨に打たれて歩き始め、数分。
「遅かったですね」
 声が聞こえた。俯いて歩いていた加奈が顔をあげると、自転車に乗った孝徳が傘を片手にこちらを見ていた。立ち止まると余計に雨が冷たく感じた。
「何で自転車?」
「自転車屋さんが、レンタルしてくれるっていうから。一日二百円で」
「訊いてんのはそこじゃねえよ」
「……乗りますよね?」
 言い合っているのも疲れそうだから、大人しく後ろの荷台に乗った。

 片手で傘をさした孝徳が、よろよろとペダルを漕ぎ始める。
 頼りない背中。
 ……それでも。自分が手を貸せば、なんとかなっていくのかもしれない。
 加奈は、彼が傘を持つ左手に自分の左手を伸ばし、傘の柄を、彼の手の上から強く握った。
「ちゃんと、家まで連れてってよ?」
 不安げに言うと、
「了解しました、曹長」
 笑い交じりの答えが返ってきた。


 ふっと息を漏らすように笑ってから、空いている右手で、彼の肩に掴まった。
「曹長は嫌。加奈って呼んで」




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