エピローグ1

「離してっ!」
 もう、どうあがいても列車は止まらなかった。操作盤をいくら壊しても、設定されたプログラムは止まらなかった。
 それに絶望した千絵が、加速し軌道に乗った列車の扉を開けようとしたため、慌てて抑える。
「……飛び降りたって、全身の骨が砕けるだけだ。周りをよく見ろ! 止まるまで俺たちには何も出来ない」
「いちろぉっ! 一郎! 一郎は! 何でそんなに冷静なの? 武田君が……武田君が、取り残されたんだよ! 見てた? 見てたよね? あんな化け物だらけの所に置いて行ったら死んじゃうよっ! 武田君、戦闘は得意じゃないっ! 私たちが……私が助けないとっ!」
 激しく抵抗し外に飛び出そうとする千絵の頭を床に押さえつけながら、一郎は手に力を込めた。
「冷静なんかじゃない! 千絵が異常なほどうろたえてるだけだ! 今飛び降りたら骨が砕けて、戻るどころじゃなくなる! 俺だって、俺だってなあ……!」
「俺だって、何? 手を……手を離しちゃったんだよ、私は! 嫌だ! 嫌! 嫌だよ! 私のせいで、武田君がっ……!」
 一郎は泣き叫ぶ千絵の頭から手を退け、軍服の襟首を掴んで無理に起き上がらせた。そして操作室に引っ張り込み、機械類の上に放った。千絵は頭をレバーにぶつけ、呻く。
「それ以上言うな! みんな同じ気持ちなんだ! 生き残った俺らが半狂乱でどうする。頼むから落ち着いてくれ……いつもの千絵でいてくれよ! そうじゃないと、俺……」
 そこまで言って、一郎は言葉を切った。
 千絵が、どうしようもない程顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
 力の入らない彼女の体は機械類から滑り、床に崩れ落ちた。
「うっ、う、う……うああああっっ……!」
 顔を隠すように袖で乱暴に顔を拭き、天を仰いでから、千絵が叫んだ。
 一郎はそんな彼女から目を逸らし、天井を見つめた。しかしもう、涙は我慢できなかった。 

 涙を零したところで、地下溝全体に爆音が轟いた。……核が、落ちたのか。驚きもせず、ただ、そう感じていた。
 今までいたあの地下三階は、どうなるんだろう。
 宮沢は加奈の寝ている椅子に寄り掛かり、悄然と床を見つめていた。いや、その虚ろな視線は何も捉えていないのかもしれない。
 一郎も考えるのをやめて、床に腰を下ろした。



          *



 崩落の音を間近で聞きながら、およそ一時間後、列車が緩やかに停止した。崩落には巻き込まれず、無事、辿り着いた。だというのに、車内では誰も言葉を発しない。
 それでも、孝徳の顔と腕の傷、夏樹の背中の傷をこれ以上悪化させないためには、列車を発たなければならなかった。武田の背嚢に入っていた医療道具は、もうここにはない。一郎はストレイジの資料が入った背嚢を背負って、立ち上がった。
 ホーム側の扉を非常レバーで開け、外に出て周囲を確認した。人の姿はない。近くにはやはり階段があった。あれを登って、その先は成行きに任せるしかない。念のため車両の通ってきた道を確認したが、既に瓦礫に埋もれていた。
「……みんな。早く行こう。ここまで来て味方の撤退に間に合わなかったら意味がない。孝徳と夏樹の傷も気になる」
「そうだな」
 反応を寄越したのは安藤と、右足だけでどうにか立ち上がってよろめいている加奈と、前川だけだった。前川も気絶から回復して事情を聞いてから、一言も喋っていない。
「千絵、宮沢」
 声を掛けると、宮沢だけが顔を上げた。千絵はまだ操作席に寄り掛かったまま座り込んで、顔を伏せて泣いていた。
「……ああ。行こう」
 宮沢は青白い顔を外に向け、床に放っていた小銃を担ぎ直した。宮沢に孝徳を助けて先にホームへ出ているように言うと、頷いた。加奈は生き残った朝鮮軍の兵卒三人に事情を説明しているようだった。そのうちの一人が、夏樹の近くに歩み寄って、抱きかかえた。
 車内にはもう、千絵しか残っていなかった。
 一郎はもう一度声をかけてから背嚢からタオルを取り出し千絵に差し出した。彼女はそのタオルに手を伸ばし、顔を見せないように涙を拭いた。
「………ちょっとだけ、待って」
 しばらく間を置いてから、小さな声で、言葉が返ってきた。嗚咽もいつの間にか止んでいた。
「……辛いかもしれないけど、な? 早くしないと」
「……分かった。……じゃあ、後ろ向いてて」
 掠れた声で千絵が言う。外に居るみんながこちらに視線を移している。
 素直に後ろを向くと、
「立てない。背負って」
 と彼女が言う。
「千絵、どこか怪我してたのか? それならそう言って……」
「……いいから」


 前川が加奈に肩を貸し、階段を上り終えると研究施設と同じ型の昇降機が見えた。今度は改札紛いの物も何もなく、すぐに昇降機だった。
 先程から首にしがみ付かれていて呼吸がしにくかったが、気にせず乗った。千絵はずっと、肩に顔をくっつけて離れようとしない。時折鼻を啜る音と、荒い呼吸が聞こえてくるだけだ。泣くのを我慢しているのかもしれない。
「……これは、地上まで直結みたいだな。押すぞ。いいか?」
 加奈が全員に聞いた。
「待……」
「ん?」
「いや。……なんでもない」

 ……もう戻れない。
 武田のことは、本当に助けられないんだ。

 激しい喪失感に襲われた一郎は、どうにか千絵を背負っていることだけを考えようと努め、昇降機が地上に出るまで黙って床を見つめていた。



          *



 悲しいという気持ちが、本当に理解できたのはこの時だったのかもしれない。それでも、一時間泣き通せば、頭は冴えてくる。……冴えなくたっていいのに。このまま、悲しみに浸っていたいのに。切り替えられてしまう自分が嫌だった。あの時とは違って、言葉も喋れる。失語するほどの辛さは、ない。今の自分には、支えてくれる人たちがいる。武田恒が居なくても生きていけると心の中のどこかで自分が考えているのが、分かってしまう。それが悔しくて、また涙が出てきそうだった。一郎に強く抱きつけばつくほど、軍服の内側に入れた珊瑚のペンダントが、皮膚に刺さって痛みを引き起こす。それが武田の声のように聞こえた。千絵は悲しくなって、思い切り一郎の肩に顔を埋めて、息を殺した。


 昇降機が上がり切ると、今度は目の前に梯子が現れた。
 全員の様子を確認して異常がなかったため、昇降機を覆う円状の構造のコンクリートに直接埋め込まれている梯子を早速上ることになった。千絵はそこで、一郎の背中から離れた。
 ……もう、甘えてはいられない。
 これから友軍を見つけ、敵兵でないと証明しなくてはならないのだ。部隊長のいない今、あまり良い状況とは言えない。千絵は最後に一度だけ鼻をすすってから、涙を拭き、梯子に手をかけた。
「大丈夫? 武田のこと、まだ、辛いだろうけど……」
 一郎が、心配そうに訊いてきた。
 この戦争中、自分の不安定な心を安心させてくれたその声が、今、とても愛しく思えた。武田のことばかりでどうにかなりそうだった頭の中が、少しずつ、落ち着いていく声音。
 彼のことは、一生かかっても忘れられないだろう。手を離したことを、一生、後悔していくだろう。珊瑚のペンダントだって、たぶん、手放せない。罪悪感で、一緒に居ることができないと彼には言った。三年の間、苦しんで、苦しんで。武田に対する気持ちも、再び会った時には、罪の意識しかなかった。彼を想う気持ちはどこにもなくなってしまった。あの時、終わってしまった。自分で、終わらせてしまった。
 すれ違いがなければ、今でも武田のことが、好きだったかもしれない。 
 だが今は、彼に申し訳なく思いながらも、目の前に居る人が、何より大切だった。

 気持ちが変わることが、こんなに苦しいなんて、知らなかった。親密な人を喪うということが、これほど苦しいなんて知らなかった。
 ……知らなかったけれど。
 その苦しさを打ち消してしまう程に、明るい光が存在することも、今の私は知っている。

「ううん。心配掛けてごめんね。大丈夫だよ」
 一郎のことを近くに感じると、胸の奥に明るい光が灯る。
「……もう、大丈夫だから」

 一郎がいれば、これからもきっと、大丈夫だから。
 心の中でそっと、呟いた。

 

 無事外へ出ることに成功した後は、整備されていない凸凹のある街道を歩き、土地勘のある加奈の言葉を聞きながら、友軍を捜索していた。彼女の話では撤退するのならこの辺りを確実に通るという。午前一時半。懐中電灯の光だけが、街路を照らす。
 それでも、加奈の丁寧な道筋説明のお陰か、程なくして撤退の痕跡を見つけることができた。はげた山肌のような土色が広がっていた街道の脇道のようなところで、背の低い雑草が所々に群生していた。そこには、煙草の吸い殻や、役目を終えた弾倉、焚き火の跡などが散乱している。これだけの痕跡を残すなら、慣れていない志願兵の可能性もある。
「日本兵だな。こんな分かりやすい真似すんのは」
「じゃあ、近いってことですね」
 孝徳が相槌を打った。
「……嬉しそうに言うな。まだそうと決まったわけじゃないんだ」
 加奈が言ったところで、銃声が場に響いた。
 対応に慣れたおかげで全員一斉に伏せたが、背丈の低い雑草では隠し切ることなどできない。匍匐した状態のまますぐに反撃の銃弾を撃ち込み、咄嗟に声を張り上げた。
「第二中隊預かり前川小隊、第三中隊所属武田小隊です! そちらは!」
 声を張り上げている間は銃撃も止んでいたが、返事の代わりに、暗闇の中で銃火が弾けた。牽制として撃っているのか、当たりはしなかった。
 すると、続けざまに宮沢が声を出した。
「この辺りの指揮を執っていたのは荒瀬さんではなかったでしょうか! 確認お願いします!」
「俺が荒瀬だ!」
 宮沢が叫ぶと、銃撃が止み、声が返ってきた。低くよく通る、迫力のある声だった。
「荒瀬さん! 俺です、宮沢!」
「あぁ? 本当か?」
「声を聞けばわかるでしょう! バスケの監督が、大切な選手を撃ち殺していいんですか!」



 暗闇からライトを照らしながらのっそりと出てきた荒瀬は、蓄えに蓄えた不精ひげを携え、帽子を取って軽く頭を下げた。
「すまなかった。撒き餌に釣られて敵が姿を現したのかと思ってな」
「撒餌?」
「あのなあ、お前、なめてるだろ。痕跡は普段はちゃんと消してる。俺だって、無い頭を必死に絞り出して戦ってるんだ」
 帽子を取ったままの彼は、前頭部にうっすらとだけ残る毛を指差して真剣な顔で言った。面白くもなんともないくだらないギャグだったが、意外なことに加奈が吹き出した。加奈に肩を貸していた孝徳も、驚いたように彼女を見た。
 肩を震わせて笑いだした加奈を満足そうに見据えてから、荒瀬は前川を見た。
「滝はどうした? それに他の連中は?」
「……全滅しました。あの辺りの中隊で生き残ったのは一時的に預かられていた俺だけです」
「松木中隊もか……。……そうか。よく、生きて帰ってきた」
 前川の頭を撫でつけた彼は、それから、はっとした様子で、苦しそうに笑っている加奈をもう一度見た。朝鮮軍の、青を基調にした迷彩服。その姿を見て、途端に厳しくなった表情を携え、荒瀬が言った。
「続きはベースキャンプで聞こう」



          *



 ベースキャンプとは言っても、二つある大型テントの手前に土嚢が積み上げられ塹壕が掘ってあるだけで、大した装備は置いていなかった。兵士も、数名がちらほらテントで眠っていただけだ。それでも医療装備はまだ十分に残量があった。事情を聞いて落ち着いた荒瀬は、ほとんどが即死しているから医療道具は余ってるんだ、と言っていた。
 一郎は夏樹の背中の傷を消毒してから包帯を巻いてやった。そして自分の小指の包帯も外して消毒し、新しいものに変えた。孝徳は隣で、千絵が治療してやっている。加奈は嫌々といった表情の安藤に腕と足を固定してもらっていた。
「……ここを百メートル西進すれば、安全圏なんだよな」
 テントの外で、宮沢が呟いた。
「なんだろうな。不思議な感じだ。生きて帰ってこれるとは思ってなかったけど……欲が出る。武田も助けられた筈なのに、って……」
「……お前のせいじゃないって何回言わせるんだよ。誰が悪いわけでもない。そんなこと言い出したら、夏樹を怪我させて武田に負担をかけた俺だって、安藤だって、みんな同罪だ」


 いつの間にか、狭いテントの中に、最後まで残った全員が集まっていた。もう一つのテントは既に疲弊し切った先客がいるし、外は冷える。生き残った朝鮮軍の兵士三人は、加奈と孝徳同様に武器を取り上げられ、テントに入るよう誘われたが断り、外でぼうっと朝鮮の夜空を見上げていた。もちろん監視は付けられている。
「……疲れた。早く安全圏で休みてえ」
「うん。そうだね」
 安藤が呟いた言葉に、加奈が返した。彼女は骨をしっかり固定され、今まで痛みに耐えていた分の力が抜けきったようで、いつもは吊り上がってる眉が情けなく下がり、眉間の皺も見受けられなかった。声も柔らかかった。加奈はそれから、安藤に目を合わせ、何やら言葉を零し始めた。彼女を嫌っていた夏樹は、治療した直後にようやく目を覚ましたが、事情を聞いた先程より、一郎の隣に座る千絵に、体を預けて泣いていた。武田の分と、恐らくは叔父である松木一郎の分。もしかしたら、先生の分もまだ足されているのかもしれない。武田が担いでくれて助かったということは、言わないことにした。事実を知れば、確実に自分を責めることが分かり切っていた。その夏樹を宥めるように彼女の髪を撫でつけている千絵は、無表情ではなかった。不安や、悲しさを一枚下に留め、慈しむ様に夏樹の髪を撫でていた。終始無表情に徹する千絵は、もういない。最初に千絵を捕虜として戦場で救った宮沢は、孝徳と前川と一緒に、話し込んでいる。バスケットボールのルールを、孝徳に教えているらしかった。宮沢は専衛軍の大会で優勝したチームのパワーフォワードだったから、バスケのことを語る今だけは、武田のことも深く考えすぎずといった様子でとても嬉しそうだった。

 この二カ月の間に、自分は随分いろいろなものを失って、いろいろなものを得た。武田に、弟に、叔父、そして育ての親を失った。人がこれほどまでに死んでいく場に身を置くことになるとは、思ってもみなかった。だが、得たものも、多くあった。コーポ東山と、小野医院。その他の人々とあまり関わりを持てなかった自分が、心から大切だと思える人を見つけられたこと。この異常な状況下で、心から信頼できる人々と出会えたこと。他人を思いやる心だとか、感情のぶつかり合いだとか、感謝だとか。逼塞したあの場所に閉じこもっていれば、失うこともなかったが、得られることもなかった。どちらもが自分を成長させたと思う。
 素直に成長が喜べないのは、朝鮮が戦争を仕掛けてきたという原因で全てが始まったからだった。核を落とし、本州を徹底的に焼き尽くした奴らの所業は、許せるものではない。これから幾年、幾十年経とうとも、決して消えることのない決定的な溝が、日本海に横たわった。自分が生きている間に、書類の面では溝は埋まるかもしれない。だが、この戦争を経験した者の精神面からは決してこの溝が埋まることはない。
 ……それとも日本人は、百年経てばこの戦争のことも忘れることができるのだろうか。
 数千万人が犠牲になったこの戦争で生まれた膨大な負の感情ですら、年月には敵わないのだろうか。いくら教育しても、伝えきれないものがある。受け手側が想像しなければ、感じられないこともある。百年前の、第二次世界大戦の民衆の感情は激しく渦巻いていた筈なのに、今では残滓すら感じられない。感情は常に風化し、淘汰されていく。それが真実なのだろうか。




 
 両手を後ろについてそんなことを考えていた一郎は、何となく視線を感じて、千絵の方を見た。
 千絵は夏樹の肩を抱きながら、一郎のことを見ていた。
「……ねえ、一郎。聞きたいことがあるんだけど……いい?」
「いいよ」
 返答すると、千絵が、口を開こうとして閉じて、そして意を決したようにまた開いた。
「……まず、ね。あれだけ取り乱したのには、理由があって。武田君の施設で過ごしてたことは話したよね。……でも、みんなには言ってなかったことがある」
 真っ直ぐ目を見てくる彼女は、小さな声で言った。
「ん? 何を?」
「……武田君のことが、ずっと好きだった。大切にしてるこのペンダントも、あの時武田君がくれたものなの。それで、武田君が、列車が出る前、好きだって、告白してきて」
 彼女の突然の言葉に、一郎は目を見返した。ペンダントが、軍服の内側から出された。暗闇に映えて、淡く緑色に光っている。
 しばらく黙って見ていると、彼女は気まずそうに視線を外し、髪を軽く撫でつけた。
 どういう意味だ? どうして今そんな話をするんだろう。
 千絵が言葉の続きを探している間も黙ったまま、考え込んだ。
 武田が好きだった。そして告白された。
 それが何を意味するのかを何となく想像してしまってから、一郎は彼女が口を開く前に沈んだ声を出した。

「……あぁ、そうだったんだ。じゃあ、今まで、俺、余計なことしてたとか? もしかして、迷惑だった? 何だ、もっと早く言ってくれれば良かったのに……。いつも助けてくれるから、勘違いしてたかも……」
 傍ヶ岳で助けてくれたことや、朝鮮に来る前の取っ組み合いの喧嘩、そして彼女が打ち明けてくれた過去の所業。
 苦しさも、嬉しさも、短い時間だけれど、凄く深く分かち合ったと思っていた。言葉に出さなくても、伝わっていると思っていた。相手も同じ気持ちだと思っていた。
 ……なんだか、傲慢だな。確かめもしないで、勝手にそう思うなんて。
 一郎は、苦笑した。
「そっか。武田かあ……。だから、あんなに取り乱して……」
 手に体重をかけ、テントの頂点を見つめた。他の皆は、まだ楽しそうに話している。夏樹はまだ泣いている。

 会話が終わったと思いそうしていると、隣から、違う、という大きな声が聞こえた。
 テントの中が、静まり返った。
「……ち、違う。そういう意味じゃなくて。……だった、の。……だから、今は、あの……なんていうか……。えと……」
 声がどんどん小さくなっている。皆が千絵のことを見つめていた。視線に気づいた千絵は今までにないくらい真っ赤になって、口を噤んだ。
 
 それぞれが話に戻ると、ようやく泣き止んだ夏樹だけが、顔を上げて見ていた。
 一郎は落ち込んでいた気分が徐々に戻ってくるような高揚感とともに、千絵に言葉の続きを促す。
「……ごめん、上手く伝えられなくて。隠すのが、嫌だったの。……武田君の告白は、断ったよ。でもね、そう言う気持ちが自分にもあったんだよって、……人間なんだって、知って欲しかった。だって一郎、未だに私のこと、感情ない奴だって思ってるでしょ。だかふぁ……」
 理屈っぽい言葉がまだ続きそうなのを遮って、千絵の両頬の皮膚に掴みかかり、引っ張った。彼女は驚いた目を向けて、益々顔を赤くした。
「知ってるよ。千絵が人間だなんてこと、とっくに」
 真っ赤な顔の千絵が可愛くて、つい、触りたくなってしまった。
「は、はなしてっ」
 本気で抵抗されたので、大人しく離した。そんなに触られるのが嫌なのかと、また落ち込みかけたが、そんなこと、どうだって良かった。一々帰ってくる、千絵とは思えない反応が、くすぐったかった。
「……で? 何で、人間なんだって知って欲しかったの?」
「だから……! だから、ね……」
「だから?」
 笑いながら訊くと、千絵が怒ったように睨んで来た。
「分かるよね。言わなくたって」
 本気で怒っているのかもしれない。からかうのは止めて、真剣な表情で千絵に視線を合わせた。
「言われないと、分からない。今も俺、武田と一緒に居たかったのかと、思っちゃったし」
「……どうしても、言わないとだめ?」
 睨むのをやめた千絵が、情けない声を出した。一郎は、弱気になった彼女の表情のせいで顔が熱くなるのが分かった。代わりに自分から言ってやろうかとも思ったが、折角勇気を出しているのだから、と思い直し、頷いた。

 そして、軽く息を吐いてから、
「……日本に帰っても、一緒に居ていい?」
 テントの中が再び静まり返っていたのも知らず、千絵が、言った。
「それは、好きだから、一緒に居ようってこと?」
 
 訊き返すと、真っ赤な彼女が頷いた。
 安藤と加奈が、顔を赤くしている自分と彼女を見て、笑いを堪えているのが目に入ったが、気にならなかった。
 一郎は、彼女の顔を引き寄せて、唇を重ねた。






***




 
 一郎が皆の前で突然キスなんてしたせいで散々に笑われ疲れた千絵は、トイレに行くと言って外に出た。実際に簡易便所がこのキャンプにはあったが、ただの口実だった。まだ食事は口に入れていない。
 冷気が入らないようテントの入り口を閉めてから、辺りを見回した。少し湿った土に背の低い雑草が生えているだけの何もない平野を、懐中電灯を手に歩く。十月上旬の肌寒い冷気が軍服の上から、火照った肌を冷やす。まだ心臓がどきどきしていた。千絵は上を脱いで黒いノースリーブのシャツ姿になり、地べたに直接座って両手を後ろについて、空を見上げた。綺麗な空だった。星が光っている。
 ――空は私たちを眺めているだけだから、救いを求めたって無駄なの。でも、いつも見ていてくれる。そのうちいいことあるさ、って、いつでもそばに居てくれるんだよ。
 自分が六歳の時に逝ってしまった彼女を想うとき。ただ空を眺めるとき。いつもこの言葉を思い出す。自分が希望を失う寸前でいつも押し留めてくれた、彼女のこの言葉を。
「……ありがとね、母さん」
 空に向って、囁いた。

 背後で足音がした。条件反射で振り返ると、夏樹が不思議そうに千絵のことを見つめていた。
「何か言いましたか?」
「ううん。何も」
 笑って否定すると、夏樹も笑顔になって、隣に座った。
「兄さん、いきなりするから、びっくりしちゃった。私もすぐ近くに居るのに、遠慮なしで。でも、千絵さんも、あんまり嫌そうじゃなかったですね」
「……その話はもういいよ」
「あはは、分かってますよ。嫌だから外に出てきたんですよね。……でも、みんな、少し元気出たみたいで、良かった」
「……夏樹は、いいの?」
「はい。こっちに来てからもう一年分は泣きましたから、来年の今日まで泣き納めです」
 彼女は、千絵と同じ態勢になり空を見上げた。
「千絵さんっていっつも空見てますよね。確かにすごくきれいだけど……何か思い入れが?」
「……なにか、大きなものに包まれている気分がして、安心できる。抽象的だから、今まではそう意識してこなかったけど。でも今は、こういう感覚も、大切なんだって思えるから。余計に、空を眺めたくなる。癖……みたいなものかもしれない」
 分かったような、分からないような顔をして、彼女がこちらを見つめてきた。当然だ。自分でもよく分かっていないのだから。
 空を見上げるのをやめ、夏樹に視線を戻すと、胸元で珊瑚を象ったペンダントが揺れた。淡い緑色の光跡を見た夏樹が、綺麗、と零した。
 大切にしているものを褒められて、悪い気はしない。なんだか、気分が良かったから、他人には教えたことのないこのペンダントの一番輝く場面を、見せたくなった。
「……一番綺麗に見えるのは、ここじゃないんだよ。見てて」
 ペンダントを首から外して手に持ち、頭上の月を目掛けて思い切り投げた。そして目で追う。彼女も、千絵の手から離れたものを同じく目で追った。
 月と重なったとき、珊瑚のペンダントが漆黒の闇の中で形容することのできない神秘的な光に包まれた。
 それから、緩やかな軌跡を描いて落ちてきたペンダントを手で掴む。

「すごい。不思議な光……」
「武田君に貰ったんだよ、これ」
「……武田さん、いいの選んだなぁ。なんか、意外」
 夏樹がペンダントを見ながら呟いた。
「ううん。違うの。店の人に選んでもらったって言ってた」
「なーんだ、やっぱり。そんなタイプには見えないですよねえ」
 笑いながら言ってから周りを見渡し、彼女は少し冷めた表情になった。
「本人が居ないところでからかっても、面白くないですね。武田さん、本当に、死んじゃったんだ……」
「……うん」

 座り直してからしばらくの間、黙っていた。
 涼やかな風が時折吹いて、背の低い雑草を揺らす。
 虫の鳴く音しか聞こえてこない。
 なんだか、また悲しみが沸き起こりそうだった。

 空腹に耐えかねた胃が音を鳴らしたのは、そんなタイミングだった。
 夏樹がその音を聞いて、笑った。
「戻りましょうか。食料も少しくらいなら残ってますし」
「……そうする」


 お尻に付いた土を払いつつ立ち上がり、千絵が足を一歩踏み出したとき。
 突風が吹いた。
 激しい風に揺られて、珊瑚のペンダントが、舞い上がった。


 なんとなく、後ろに武田がいるような気がして振り返る。


 ……そこには変わらず暗闇が横たわっているだけだった。

「すごい風でしたね。大丈夫でしたか?」
「うん」
 千絵は暗闇を凝視するのをやめ、視線を外して前へ向けた。
 テントの中から、ランプの光が洩れている。

 
 これから自分が暮らしていくのは、暗闇ではない。微かでも、光が零れている方だ。

 
 今まではそう思いたかっただけだった。光を当てもなく探して、足掻いているだけだった。
 でも、これからは。
 良い方に向かっていくだけだと、信じている。

 
 テントのファスナーを下げて、開く。
「あ、千絵」
 体を屈めて入ろうとしたとき、呼び止められた。
「……おかえり」
 ほんの十分、離れていただけなのに、彼は優しく言った。


「……ただいま」
 また伸びてきた前髪をかき上げてから、笑顔で返した。




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