終章終幕

「あの時、腕を掴んでた。こうやって、しっかり。それなのに、俺は離して……」
 彼……宮沢広隆は雪の腕を掴んで、呟いた。悲しい目をしている。雪は反対の手で、腕をぎゅっと握り返した。
 話を聞いている間に、料理はすっかり冷めてしまっていた。
「……ヒロくんは、悪くないよ」
「みんな、優しいから、そう言ってくれたよ。だけど……俺が離さなければ、武田は、今も」
「そんなの仕方ないよ。ヒロくんが悪いわけじゃない。部隊を回収もしないで、撤退した軍が悪いんだよ」
「誰が悪いとか、悪くないとかじゃないんだ!」
 大きな声で言ってから、彼は驚いている雪と視線を合わせ、目を伏せた。
「……ごめん。雪に怒鳴ってどうすんだって感じだよな」
「ううん、大丈夫」
 立ち上がって、軽く笑みを見せた。
 全く手をつけていない彼のお皿と自分の食べたお皿を洗面台に持っていった。生ゴミ用の三角コーナーに残飯を流し込み、そのままスポンジを手に取って、洗剤を軽く振った。脂の浮いた平皿にスポンジを擦りつけ、考える。遊んでくれたあの女の人も、同じことを言っていた覚えがあった。宮沢が家に帰ってきたときに、玄関でもう一度見た女の人。
『宮沢君が気にする事じゃない。最後に腕を離したのは、私なんだから』
 玄関口で話している声が聞こえ、そこで扉を開けたのだ。
 五歳ごろとはいえ、その辺りの記憶はしっかりと残っている。溝口さんに、連絡があって明日帰って来るらしいと教えて貰ってから寝ずに玄関で待って、そして彼が本当に帰ってきたのが嬉しくて仕方無くて、玄関を開いた瞬間に彼に飛び付いた。でも、顔をあげると、宮沢を送りに来た人たちは、敵国から生きて帰って来たというのにどの人も暗い面持ちをしていた。それでも、バスケで遊んでくれた女の人は自分に気付くと、軽く頭を撫でて、お兄ちゃんが帰ってきてよかったね、と微笑んでくれた。
 思い出しながらぼうっとしていると、皿を手から滑り落として我に返った。割れはしなかったが大きな音がしてびくりと肩を震わせる。
「……今日は早く寝よっと」
 独り言が零れた。
 皿をさっさと洗い終えて頭上の乾燥機に乗せた。

 
 

 翌朝、雪は揺すり起こされた。結局なかなか寝付けず、布団でミュージックプレーヤーを聞いていたら、いつの間にか眠ってしまったようだった。それでもまだ眠っていると、イヤホンを外され、もう一度体を揺すられた。
「学校遅れるって」
「ん」
 雪はようやくそこで目を開けた。外されたイヤホンから爆音で日本語パンクバンドの音が流れている。目を擦りながら伸びをして、腹のあたりにあったプレーヤー本体を右手で探し当てた。停止ボタンを押して、掛け布団を押しのけ体を起こす。寝る前は隣にあった布団は、綺麗に片づけられていた。
「今日は仕事遅くなるから、適当に食べてて。あ、それと、電話が来るかもしれないから、受けてくれ。前も言ったけど、社内には携帯持ち込めないんだよなぁ、うちの会社」
 まだ重い頭で突っ立って髪を梳かしていると、携帯を投げ渡された。
「置いてっちゃって大丈夫なの?」
「ああ。仲良い奴にしか携帯番号教えてないし、そいつらにはちゃんと説明してある」
「ふぅん。分かった。じゃ、誰からの電話を取ればいい?」
「たぶん安藤か……夏樹ちゃんか」
「………夏樹ちゃんて、誰」
「え? ああ。安藤って奴の奥さんだよ。昨日話しただろ? ほとんど無傷で帰ってきた奴。そいつのこと」
 ネクタイを締めながら答えた宮沢は、少し硬質になった自分の声に気づいたのか、苦笑混じりに答えた。
「早くお前も、彼氏作ればいいのに」
「……うるさい。ばかヒロ」
 父であり、母であり、兄であり、憧れであり……。彼に対する愛情は、もう深すぎて何が何だか分からなくなっていた。家族に対するものなのか異性に対するものなのか、分からない。自分でも判断がつかない。
 だが、彼は雪が向ける彼への好意を感じ取ると、いつも苦笑いで誤魔化す。彼に愛情を注ぎ込みすぎて、他人なんて、彼以上に好きになりようがないのに。
「ま、いいや。んじゃ、仕事行ってくるから。サボんないでちゃんと行けよ?」
「うん。行ってらっしゃい」




          *



 コンビニで弁当を買って帰り、扉を開いた。
「ただいま」
 溝口さんの遺影に話しかける。彼は戦争が終わった二年後、亡くなった。癌だった。あの時は宮沢が軍を辞めて再就職してしばらく経った後で、金銭面では特に混乱はなかったが、感情面では人生で一番の混乱だった。大切な人を失う苦しみは、既に二度目だった。耐えきれなくて、毎日毎日泣いて、泣いて過ごしていた。宮沢広隆という人間がいなければ、どうにもならなかったに違いない。
 有料のビニール袋は断って、鞄に入れてきたコンビニ弁当をテーブルに出した。電子レンジに入れて温めようと思い立ち上がると、机の上で着うたが流れ始めた。「生まれた所や皮膚や目の色で〜」と流れたところで手に取り、電話に出る。
「はい」
「あ、宮沢さんですか? お久しぶりです! 静岡の時はお世話になりました。元気にしてましたか? 安藤くんは相変わらずで……」
 快活でよく通る声が耳に入ってきて、一気に捲し立てる。面食らった雪は慌てて口を挟んだ。
「あ、あの、あたし、ヒロくん本人じゃなくて、あの、子供って言うか、妹って言うか、その、あの、宮沢広隆の同居人なんですけど……」
「嘘、宮沢さんがついに同棲? えー、そんなこと何も言ってなかったのに」
 上手く説明できずに口ごもると、また相手が話し出した。人見知りは治ってきたとはいえ、知らない人と長く話そうとすると極度にあがってしまう雪は、すぐにこの相手と応対することが辛くなってしまった。心臓が早鐘を打ち、口がうまく回らなくなる。これは自分の一番嫌いな部分で、直そうと病院に行ってみたりもしたが、小さいころに受けた精神的な衝撃が残っていて、無意識のうちに他者との交流を拒んでしまうからだと医者に言われたことがある。
「ち、ち、違います、あの、き、き、き……」
「き? 木がどうしたの?」
「あの、ヒロ……き、聞いて……」
「ヒロから聞いて?」
「……ごっ、ご、ごめんなさいっ!」
 思わず電話を切ってしまった。
 携帯を持つ手が震えた。
 携帯の電源を切って胸に手を当て、乱れた呼吸が元に戻るまで、しばらくじっとしていた。

 そしてようやく鼓動が元通りになったところで、再び携帯を開いて、電源をオンにした。着信履歴を見て、一番上にある多々良夏樹、070-XXXX-XXXXという番号を選択し、押した。二回の着信音の後、彼女はすぐに出た。
「あ、あの、さっきはごめんなさい。……私、宮沢雪って言います。知らない人としゃべるの、慣れてなくて……」
「あー、雪ちゃんか。宮沢さんからよく聞いてるよ。なんでも自分でやる、良い子だって。なんか、ごめんね。私の方こそ。勝手に喋って」
 相手は照れくさそうに謝る。落ち着いて喋ると、とても知的な雰囲気を醸し出す声音だった。どちらが本当の彼女なのだろう。
「い、いえ。で、用件は……?」
「みんなで、集まろうって話をしていたのね、前から。で、日時が決まったから、お知らせ。急だけど、日曜日の、朝九時辺りに岩見沢の、小野医院で待ち合わせってことで伝えておいて。言えば分かるから。あ、雪ちゃんも予定が空いてれば来てね。じゃあね。ばいばい」
「はい。分かりました」

 自分のペースで話すことができるのならどうにか応対できる。今度は彼女も配慮してくれたのか、用件だけの話だったために気分もだいぶ良くなった。
 電子レンジで温めた弁当を食べ始め、あの人も……白髪の女の人も来るのかな、と考えた。


 
 食事を食べ終えた後、雪は窓を開けて空を見上げた。今日はよく晴れていたから星も綺麗だ。
 泣き通しだったころは、毎晩彼に、空を見てごらん、と慰められていた。
『あの一番綺麗な星に、溝口さんや皆はいるんだよ。だから、雪が泣いてばかりいると、あの場所で、みんなは悲しくなっちゃうんだ。だから、笑って、な? 雪には笑顔が一番! 俺も保証するから。』
 
 それから、彼が仕事から帰ってくるのが遅くなって一人でいる間も、空を見上げるようになった。空を見上げていれば不安が薄らいでいた。もちろん雨の日や曇りの日は星が見えないけれど、その動きも面白かった。彼の言葉と同じく、変わらずそこにある空には数えきれないくらい、救われてきた。
 





 ヒロくんが帰ってきたら、今度は私が慰めよう。





 あの一番綺麗な星に、武田さんはいるんだよ。

 自分を責めてばかりいたら、あの星にいる武田さんも、悲しくなっちゃうんだよ。

 だから、笑って?

 私の大好きな、大好きな人。



 きっと、どこかで、また、会えるよ。だって、二人は……親友なんだから。




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