52

「ダクトが看破され防火扉を突破されました。これより、地下二階第一研究室が危険に晒される可能性が生じます。さらに侵攻された場合、地下溝を突破される可能性も。エレベーターが止められれば良いのですが、完全に手動ですのでどうしようもありません」
 第一研究室の部隊から齎された情報を報告をすると、目の前の男は爪を齧るのを止め、舌打ちした。
「使えねえ……。新型まで投入してやったのに、何てザマだ。ギルソンは何やってる」
「第一研究室にいます。あれを準備している様です」
 呟くように言葉を返した。チョルミンはそこで機嫌を直したように笑う。あれか、と満足そうに洩らしながら。
「どうしますか?」
「そろそろ俺も出る。これ以上損失を出せば査定に響く。それに、あれほど楽しませてくれる玩具を逃がすつもりはないからな」
「は……。ですが、武器弾薬はすでに尽きています。それに、ここはどうなさるおつもりですか?」
「あんな奴ら、"これ"とナイフがあれば十分だ。後はジルミ、お前の好きにしろ」



          *



 第一研究室と書かれたプレートが目の前にあった。小さなプレートに対し、扉は十メートルほどの大きさがあり、防火扉よりも重厚なものだった。警戒しながら進んで、ここまで到着するのに三十分程かかった。これだけ広い廊下に何の意味があるのだろう。研究などの移動に、非常に不便なはずだというのに。
 時計に目を移す。もうすぐ、午後九時。瀋陽からの撤退命令が下ってから二十時間近く経過した。どの辺りまで撤退したのかはPDAには入ってきていないようだが、急がないと確実に撤退する味方陣内へ追い付けなくなる。休憩は十二分に取った。あとはただひたすら進み続けるだけだ。胸に下がるペンダントを軽く握ってから、千絵はそれを軍服の内側へ入れた。持つ武器は敵から奪った使い勝手の悪い小銃に弾薬十回分、グロック17、コンバットナイフ、手榴弾が二個。
 加奈が全員に目配せをしてから先頭に進み出て、扉の取っ手に手をかけた。
 だが、扉は開かなかった。鍵がかけられているようだ。
「これを使おう。対空兵器破壊の際に使用する予定だった爆薬がある」
 前川が進み出た。そして手際よく準備を進めていく。速度を上げていかないとならないと、彼も考えているようだった。


 一つ手前の十字路まで戻ってから、遠隔操作で発破をかけ、凄まじい爆音で扉が吹き飛んだのを予測すると、加奈は飛び出した。千絵も後に続く。入口付近まで到達したあと、粉塵に紛れ、隊は壁伝いに二手に分かれた。加奈、孝徳、前川、安藤が第一隊で、一郎、千絵、夏樹、武田、宮沢が第二隊。粉塵は二次的な幸運だったが、別れたのは事前に打ち合わせたとおりだ。銃声が降ってくるが、既に誰もいない入口に集中砲火を浴びせているだけで、人間には当たらない。ただ、銃弾は当たらないが、一郎らと連絡を取り合う余裕はなく、逸れてしまった。
 粉塵から脱出すると、千絵は一郎らを捜しすぎないよう途中で切り上げ、素早く手近なコンテナに身を隠した。僅かに顔を外に出して、この研究室の全容を確認する。
 部屋の中央には黒色に覆われた、巨大な円柱状の装置らしきものがあり、その周りには兵士が幾名。部屋の中は鉄骨で形作られた階段と通路が縦横無尽に走っていて、各個の部屋へと繋がっている。ざっと見た限りでも十数室を宿す研究室内自体も地下一階の研究室とは違って広い。ここを突破するのは骨が折れそうだ。考えてから、近くに視線を戻す。コンテナのすぐ裏側には上へ上るための階段が伸びている。その階段が辿り着く先は、研究室の右隅だった。それより高い位置にある階段はない。
 千絵は瞬時に立ち上がり、高所を見回して階段に飛び込んだ。限界まで屈んで階段を上っていく。

 別の通路と高さが交錯するところではしっかり背後も警戒して、千絵はどうにか右隅の部屋の手前まで辿り着いた。息を整えながら、手すりがあるだけで覆いも何もないむき出しの通路から身を乗り出し、小銃で狙いを定めた。上から見れば、誰がどこにいるか丸分かりだった。この利を明け渡すというのは通常あまり考えにくい。ここもチョルミンという兵士が直接指揮をとっているわけではないのかもしれない。
 まず一番手近な空中通路を歩いている敵兵に小銃を連射し、仕留めた。さらにその下の階段で銃声に振り返り、目が合った兵士にも容赦なく撃ちかける。



          *



 身動きが取れない。
 夏樹とどうにか逸れずに済んだだけで、複数人の敵には完全に目を付けられた。巨大な地下溝を支えるための柱の陰に隠れていても、徐々に弾幕の間隔が短くなってくるのが分かる。このままだと、包囲される。だが、夏樹は疲労がどうしようもなく溜まっている筈だ。隠していたってどことなく伝わってくる。
「……兄さん、逃げよう? 私は、走れるから」
「さっき膝が抜けてた」
「休んだから平気」
「……でも。もし転んだりしたら」
「ここに居ても同じでしょ。そんなに心配なら手でもなんでも掴んで引っ張ってよ」
 益々近づいてくる弾幕に、一郎は話を中断し、小銃の先をつき出し敵が距離を詰めてきているであろう方角へ撃つ。夏樹の腕を掴んで立ち上がり、使い切っていた小銃のマガジンを雑嚢から取り出し、攪乱するよう投げた。同時に右隅に見えるコンテナへ向かって走り出した。
 マガジン程度では一瞬しか気が逸らせなかったらしく、すぐに間近で着弾の音が響き始めた。やられる、と思った一郎は夏樹を背に回し、小銃を構えた。しかし相手の方が捉えるのが早く、銃口の一つがこちらを向いていた。トリガーにかけた指に力が入る瞬間が、ストップモーションで見えた。夏樹の手がぎゅっと肩を掴む。自分が死んでも上手く逃げてくれ、と念じた。
 しかしストップモーションに見えたのは死ぬ直前に一郎の脳が超反応をしたわけでも、感覚がおかしくなったわけでもなかった。直後に敵兵士が場に崩れ落ちる。撃たれたようだ。助かった、と思うより先に、少し裏返り気味の声と、手榴弾が上の階段から降ってきた。
「跳んでっ!」
 戸惑いで反応が遅れた一郎は、機を同じくして肩を掴んでいた夏樹に突き飛ばされコンテナに転がり込む。手榴弾が大きな音を立てて爆散を起こした。破壊力は先程の部屋で実証済みだ。まともに受ければ体など軽く吹き飛ぶ。
 すぐに起き上がって振り返った。自分が居たところでは爆風の煽りを受けた夏樹が壁に叩きつけられたらしく、倒れこんでいた。
 周囲を確認もせず近寄って体を揺すると、夏樹が弱々しく目を開け、笑った。
「一郎、反応が遅い。って千絵さんに怒られるよ。このくらいだいじょうぶ。行こう」
 手を引っ張って体を起こすと、怪訝な視線が自分を射た。
「兄さん、何か、小指が……」
「それより、早く……」
 言いかけると、雄叫びが背後で発した。通常状態では考えられない愚行だ。恐らく手榴弾に吹き飛ばされた兵士の一人。痛みによるものなのか、それ以外の何かか。それでも、反応の鈍化は妹に指摘されたばかりだ。確認することはせず、小銃の銃把を体を回転させながら振りぬいた。雄たけびが掠れ、消えた。
 手にはぬるりとした感触。改めて見ると、銃把が運悪くも喉を突き破り、敵兵を殺傷していた。自分の……並の人間の力ではない。死を賭けた戦闘が始まった……自分の中に巣食う狂気が、歓喜の声を上げたのかもしれない。
 動揺して視界がぶれ、銃を取り落としかけてよろけると、すぐさま夏樹が腕を掴んできて、無理矢理立ち上がらせられた。
「しっかりしてよ。狂気なんかに揺さぶられないで。私も、千絵さんも、みんなもいる」
 思い切り両手を広げた彼女は、一郎の両頬を挟むように叩いた。
「ほら、行こう。さっき声が聞こえたのは上からだよ!」


 千絵とは階段を登る途中で鉢合わせした。既に銃を構えていた彼女はすぐに撃つ態勢に入ってしまっていたが、無茶苦茶な体重移動をさせ、弾道を逸らした。
「……一郎か。無事?」
「……さっきはありがとう」
「いい。皆を探そう。右側の敵は大体潰したから」
 階段を再び降りて、慎重に周囲を見渡す。
 何に使うかわからない、身長をゆうに超える高さの鉄組装置の間を縫って、駆け抜ける。



          *



 どのくらいの時間が経っただろう。
 激しい銃撃を繰り返し、相手に致命打を与えられず、かといって致命打も受けず、今に至っている。小康状態を打開するためにいろいろな方策を空想し実行するが、なかなか上手くいかない。ただ、行動をしないままでは事態が解決されるはずもなく、隠れているデスクにまた銃弾が撃ちかけられた。相手は無理に殺さず、時間を引き延ばしているような感触を覚える。
「前川、どこだ!」
 わざとらしく名前を呼ぶ声と銃声が聞こえて、銃弾を再装填していた前川は顔を上げた。すかさず様子を窺った前川は、相手の出方を確認した。案の定、声のした方に気を取られている。こちらが反撃をしないから、敵も少し油断しているのだろう。思い切って、立ち上がった。小銃を構えて撃ち掛けると、敵兵は血飛沫を上げ、倒れ込んだ。同時に、物陰から周囲を警戒し加奈が駆け寄ってきた。
「手間取りすぎだ。一人相手に何十分かかってる。探しに来なかったらいつまでここに居た?」
「……同じ程度の相手だった。美月と一緒にしないで欲しいよ」
「まあいい。早く着いてこい」


 中央の、黒色の半透明ガラスで覆われた円柱状の装置付近で、敵兵が猛戦していた。部屋の奥へと繋がっていそうな主要階段は中央に集中しているため、どうにか制圧しなければ先の部屋に進むことができない。扇状に包囲している第一隊を寄せ付けず一定の間隔を維持して、絶対に譲ろうとはしない。研究室右の高所から第二隊も射撃を続けているが、防弾仕様の盾でそれらを防がれ、なかなか決め手がない。早めに突破したいところだが、幾重にも積み上げられた土嚢が分厚く銃弾は届かない上に、あの場で籠っている敵兵は恐らく軍に忠誠を誓っている側の人間。不用意な攻めをすれば、手痛い反撃を受けるかもしれない。
 前川は撃つ手を休めて土嚢を窺っていた目を何気なく上へ……円柱状の装置へ向けた。
 その時だった。突如土嚢から飛び出し円柱状の装置の操作盤に取り付いた見覚えのある顔……ギルソンの横顔を捉えたのも一瞬、断続的に大きな炸裂音が響き、円柱を覆っていたガラスが大破した。そちらに銃口を向けると、土嚢からも一斉に兵士が部屋の奥へと駆け出した。虚を突かれたが前川は思い切って遮蔽物から飛び出し、全速力で走り込んで後を追った。高所からの一郎らの銃撃は激しさを増し、前川自身も逃走する兵士の後ろ背を銃撃し一人を殺害した。長髪が目立つギルソンの後ろ背も捉える事が出来たが、弾は当たらなかった。前川はさらに深追いをしようとして、怒声を受け呼び止められた。
「前川、追うな、早く戻れぇっ!」



          *



 高所に居た第二隊は、円柱から解き放たれた、人型をした"生物"の存在をいち早く察知した。真っ先に気づいた千絵が階段を尋常でない速度で降りて行き、一郎も続いた。速度を上げると、幻聴が聞こえたが気にしてられない。群れをなした生物らが下階に居る四人に殺到しようとしていた。数はざっと見た限り……五十体以上。


 共食いをしている者もいたが、ほとんどの者が標的を標的として認識していた。まさに人間兵器。ただそれは、人間と呼んでいい姿ではなかった。変異型と同様、そこに本人たちの意思、人間の尊厳など欠片もなかった。ここまで……ここまですることが許されるのか?
 兵器への同情をどうにか押し殺し、小銃を乱射してある程度の人数を殺傷したが、弾はすぐに尽きた。入れ替えようとすると、鋭い蹴りに小銃を弾き飛ばされた。続いて太く長い爪が襲ってくる。シースナイフをホルダーから引き抜きどうにか受けると、今度は二体目が跳躍し、頭に跳びかかってきた。一体目の爪をいなしてナイフを戻すと、二体目の攻撃もかわしそのまま喉元に突き立てた。ナイフを喉元から抜く余裕はなかった。グロックを取り出し一体目にお見舞いする。グロックを一発撃っている間、既に三、四、五体目が一斉に攻撃を開始していた。右端の生物だけを撃つことができたが、肩に当たっただけだった。しかも他二体の爪は右肩と左鎖骨の辺りに突き刺さった。刺される瞬間膝を抜いて態勢を変えなければ、心臓と右胸が貫かれていた。刺し込む力がそこまで強くはなかったのが幸いしたが、今度は肩を撃たれた三体目が起き上がり、顔面を狙う。左鎖骨に爪を立てた生物を蹴り飛ばし、常人では不可能な体重移動を使って左へ逃げた。
 逃げた先にも当然のように生物は待ち構えていて、一郎は本能で突進、相手が爪を振り上げている間に六体目の腹に体当たりをかまして、細い体を床に伏せさせた。その少しの動作の間に、背中にも爪が突き立てられる。激痛に喘ぎながら、ストレイジの能力に完全に依存し全力で走った。狂気の声が徐々に、徐々に大きくなってくる。追いかけてくる足音は三体。一郎はコンテナの曲がり角で急停止し、コンテナをぐるりと一周してまた同じ位置に戻ってグロックを構えて待ち構えた。一体は目論見どおりに二発使って射殺。残りの二体もすぐに続いてくるものと思ったが、違った。一体はコンテナの上から飛び降り、一郎に肩車するような形で組みついてきた。右手でグロックを持つ腕、左手と長い爪を使って首元を強く抑え込んでくる。知能も残っているのかと驚愕したのも一瞬、正面からもう一体が現れた。混乱しつつもどうにか足が出て、腕を蹴り飛ばすことができた。そのあとコンテナに背中から思い切り体当たりをして、首に組みついていた生物を振り落とす。激しくむせ込んで、落とす際に引っ掻かれた場所から血が溢れ出した。
『このままだと死ぬなァ? オレなら、オマエを生きて返すくれェわけねェ! 使い終わったらいつもみてェにひっこませりゃいいだけだろォが』
 床に伏した二体が起き上がって突進してくるのを確認した瞬間、一郎は狂気の甘い囁きを聞いた。が、二体を射殺した彼女……千絵の助力が入り、どうにか踏みとどまる。今度明け渡したら、人格が入れ替わった素振りなど狂気は絶対に見せない。その時が自分の最期だ。
「後ろに! まだまだ、いるっ……」
 顔を汗まみれにして完全に息が上がっている彼女は言葉を途中途中で区切り、声を出している間にも攻め来る生物に銃弾を浴びせかけていた。
 振り返ると、およそ四体が再び一郎に殺到していた。
 一郎はグロックを残弾すべて使い切ってどうにか二体を殺し、三体目の攻撃を腕を掴んで止め、足払いをかけた。四体目の攻撃も避けようとしたが敵わず、再び左鎖骨に直撃した。三体目が起き上がるまでにどうにか四体目の腕を掴んで、顔面を殴りつける。倒れこんだ敵の胸元を力の限り何度も踏みつけると、ようやく事切れた。そのまま態勢を立て直した三体目の攻撃も避けて背後に回り込み、後頭部を引っ掴んでコンクリートの柱へ何度も何度も叩きつける。爛れた脳皮はずり落ち、中身が見えそうになったところで視線を外した。

 出血のある左鎖骨の辺りを強く押しながら、一郎はコンテナに寄り掛かった。素手では限界が来ている。生易しい呼吸は超えて機械のような呼吸音が出ていた。それなのに呼吸をしている感覚はなかった。苦しみに苦しみ抜きながら周囲を見回す。この当たりの敵は殲滅したようだ。だが他はまだだろう。


 どうにか浅くて済んだ各部の傷口を、前に千絵から分けてもらっていた止血パッドで止血して、最初に襲撃を受けた土嚢のあたりに行くと、目を閉じた前川が土嚢に寄り掛かり、加奈が血の海の中でうつ伏せに倒れこんでいた。周囲には二十数体の死体があった。まだ鳴りやまない呼吸を携えては話しかけて確認をすることもできず、近づいて体を揺さぶる。加奈は自分と同じような呼吸状態だ。生きてる。体中にべったりと血を塗りたくりながら見上げてくる目は焦点が定まっておらず、彼女は再び突っ伏した。目を閉じていた前川はと振り向くと、目を開けて一郎の姿を見つめていた。
「……よく生きてられたね」
「前川さん、こそ……」
「美月が駆けつけてくれなければ死んでた。ギルソンを深追いして、敵の集中攻撃を受けそうになっていたから。正直、美月が来るとは思わなかったけど」
「うる……せぇよ。孝徳が……隣でっ……。騒ぐ、から、助けて、やっただけだ……お前の、ため、じゃない」
 途切れ途切れの声が聞こえてくる。激しい呼吸の合間合間だった。
「お前、動けんなら、他も見てこい……」
 
 階段付近では、宮沢が座り込んでいた。やはり周囲には死体が数体ある。
「ここまでやるか、普通……?」
 憤怒の表情を浮かべた宮沢は荒い呼吸を整えながら、その死体を……軍事転用された人間の死体を睨みつけていた。
「……武田は?」
「上で夏樹ちゃんを守ってるのかもしれない。小山田を追いかけて、俺もすぐ飛び出したから、たぶんだけど……」
「宮沢、余裕があれば、確かめてもらっていいか? 俺は他を探すから」
「分かった。見てくる」
 宮沢はよろめきながら立ち上がると、階段に足を掛け、手すりにもたれかかるようにして一段一段上がっていく。
 呼吸はようやく落ち着いてきていた。だが状況は休む暇を与えてくれず、今度は入口付近で銃声が聞こえた。すぐさま走り始める。

 入口に駆けつけると、千絵が二体相手に応戦している最中だった。小銃に組み付かれながらも必死に攻撃を避け続け、相手の体に地道に蹴りを入れていっている。一郎は残弾のなくなったグロックを投げつけ、一体の注意をこちらに逸らした。それはすぐに方向転換すると、素早く距離を詰めてくる。残り僅かな体力を振り絞り、渾身の一撃を横に跳んで避けると、起き上がってから相手の腕に回し蹴りを叩き込んだ。いくら俊敏とはいえ、大振りの後には隙がある。どことなく間合いが掴めてきたが、問題は一郎の体力だった。敵は起き上がるが、足が重い。その場でどうにか踏ん張って、二撃目の爪を左腕で受けた。今までの傷の中で一番深く突き刺さったが、これなら敵もすぐには引き抜けない。もう片方の手が襲い来る前に、右手で敵の細い首を掴んで、力の限り握り、床に押し倒した。足掻きに足掻くそれは、涎と思しきものを垂れ流しながら、絶命していく。その様子は自分が殺人者だと改めて認識させた。
 ようやく呼吸が止まったのを確認してから、一郎はどうにか左腕を爪から引き抜き立ち上がって、千絵の方を見る。千絵は肩を激しく震わせて呼吸をしながら、立っている。駆け寄ろうとすると、突然倒れた。受け身も取らずただ倒れた。
「千絵!」
 名前を呼ぶと、千絵はどうにか仰向けになったが、それから喉を掻き毟りながら悶え苦しみ始めた。
 近寄ったが、どうすることもできない。資料はあっても、薬はこの場にはない。そこで目が合う。千絵は仰向けの状態でいるのを止め、肘を床に立てて、這いつくばる様にして体を一郎から背けた。これだけ苦しんでいるのに呼吸が聞こえて来ないのを不思議に思ったその時、今までに聞いたことのないような咳の音が聞こえ、酷い過呼吸が始まった。発作の姿を見られたくないのは分かっているが、千絵にもう一度近付き、背中を擦る。自分にはこのくらいしかできない。
 どの音にも例えることのできない呼吸の最中、千絵は何度も吐いた。食事を抜いているから、胃液しか出ない。それでも何度も吐き続けた。

 本当に元に戻るのかと思う程長い時間その呼吸を繰り返していたが、途中でどうにか落ち着いてきて、千絵は会話をできる余裕を取り戻した。最後の辺りでは血を吐いていたが、本人に見せまいと、すぐに口元をタオルで拭いてやり、そのタオルを顔に押し付け寝かせ、血を吐いた所に近くにあった敵の死体を置いて、誤魔化した。
「……発作の姿は見られたくないって言ったのに……どうして?」
「見て見ぬふりなんてできるわけないだろ……」
「私の気持ちも考えてよ……心配されるのは、」

 千絵が言いかけたところで、急に赤色の明滅が近くで始まった。仰向のまま、顔に乗せられたタオルを取り払った千絵は、言葉を止め、一郎の後ろを見た。釣られて視線を移すと、吹き飛ばされた入口の数メートル上にあるランプが、揺れていた。何だろうと言葉に出そうとすると、今度は研究室内全体に爆音で朝鮮語が響いた。切羽詰まった言い方で、その声に続いて、サイレンの音が響き始めた。
 何が起きたのだろう。千絵に聞こうと振り返ると、通常の運動後程度の呼吸速度にまで回復していた彼女は、よろめきながら立ち上がった。
「一郎、急いで……。早く地下三階を目指さないと……大変なことになる」




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