51

 後ろから蹴り飛ばされて転がったが、孝徳に助けられてどうにか顔面から防火シャッターに突っ込まずに済んだ。防火シャッターとはいっても、日本でよく見るような生易しい素材ではない。コンクリートと鉄で固められた重厚なものだ。潰されればただでは済まなかった。
「ありがとう、孝徳……くん。あ、日本語は?」
「二人とも話せる」
 加奈が小さく呟くのが耳に入り、顔を上げた。後ろの区画では銃声が聞こえている。一郎や千絵は大丈夫だろうか。
「……後ろでは銃声が聞こえるのに、何でここは襲われないんだろう」
「まずは脱出口を探す。このシャッターは上がりそうにない。……孝徳は援護。そこの女。じっとしてろ。絶対に動くなよ」
「私、夏樹って言います」
「名前なんかどうだっていい」
 精一杯の力で、様々な感情を飲み込んだ声音を出すと、軽くあしらわれた。
 拳を深く握り直す。……ふざけるな。夏樹は、安藤に諌められたことも気にせず、加奈のことを睨んだ。次郎のことを、殺した奴の一人。二か月前のあの瞬間。殺された場にはいなかった。それでも、一秒だって忘れたことはない。千絵や武田から聞いたことを、まるで自分が見ていたことのようにリアルに想像した。何度も、何度も。崩落した施設の瓦礫を漁り、見つけたのは千切れた右腕だけ。悔しくて、悔しくて、どうしようもなかった。
 殺したい。素直にそう思えた人間が、目の前にいる。護身用に持っているメスは、いつでも取り出せる。いくら戦闘の達人でも、味方に見せる背は、隙だらけだ。
「発作は大丈夫ですか?」
「……平気」
「じゃあ、開けます。夏樹さん、下がって。危なくなったら、加奈さんの言うことなんて聞かなくていいから、逃げて」
「うん。聞くつもりなんて、最初からないよ」
 加奈が睨んでくるのも気にせず受け流し、孝徳が開けようとしている右側の扉を見つめた。先程から、扉を叩くような音が断続的に響いている。
 彼の手にかかったドアノブがゆっくりと下がっていく。何が起きるか分からない。身構えると、扉のドアノブが下がり切った瞬間に扉を押しのけ何かが飛び出した。俊敏な動きのそれは、夏樹より小さな体をしていて、体に似つかわしくなく異常に長い爪が目立つ。牢で見た髪を食む男にどこか全体的な容貌が似ている。判断できたのはそれだけで、襲いかかってきたと思うより先に、夏樹の脇を通り過ぎ反対側の扉に取り付いて、ドアノブを下げていた。夏樹は一も二もなく走り、孝徳の側に付いた。
 加奈は軽機関銃を構えたが、既に扉から離れて駆け出していた生物に、組み付かれていた。
 長く獣の様な爪が彼女の両肩に深く食い込み、痛みに声を漏らした彼女はその生物に頭突きを食らわせた。
「……っなれろ……!」
 爪はなかなか外れず、さらに深く刺さる。
 夏樹は気付かないうちに、恐怖とは別の感情で胸が高鳴るのを感じた。彼女が終わった後で次は自分なのだとしても。それでも、一瞬だけの気の昂りだとしても、確かに期待した。
 そのまま、そいつを殺して。


 しかし、夏樹が期待した通りにはならなかった、加奈が取り落とした軽機関銃を飛び込んで確保した孝徳が、起き上がりざまにその生物の腕を撃った。
 生物はようやく加奈から離れたが、左側の扉から出てきたもう一体に、目の前で孝徳が飛びつかれた。今度は、見ているわけにはいかなかった。体が勝手に動き、護身用の大きなメスを取り出して、生物の背中に突き刺していた。大きな金切り声が上がって酷く粘ついた血液が噴き出し、顔に掛った。気にせずメスを力の限り引き抜くと、生物は素早く後退した。
「入れっ!」
 生物が離れた一瞬で右側の扉を確保した加奈が、叫んだ。孝徳が夏樹の襟首を掴んで頭を抱え、内部に無理やり飛び込む。
 同時に、扉が閉まった。ドアノブを下げようとする生物に、加奈は扉に足を掛けてノブを必死に持ち上げ、対抗する。
「女ァ! やるじゃん。怪我は?」
 虚を突かれた。
 こちらが殺したいほど嫌っていることが分かっている筈なのに、彼女が発したのは少し笑っているような声。
「な……夏樹だって言ってるでしょ!」
 黙っていると負けのような気がしたので、反射的に答えた。
「……夏樹って、民間の看護師だよな。そのヘルメット。……道具あるなら、少し手ぇ貸してくれない? まずいかもしんない。孝徳! 抑えんの交代して」
「は、はい!」
 加奈がそう言ってすぐ、孝徳がドアノブを抑えにかかった。加奈はふら付いた足取りで歩いて背中から壁にぶつかると、脱力したようにくず折れた。
 夏樹は黙って加奈のもとへ歩み寄って、手を伸ばせば傷口に触れる位置まで来てから、しゃがんだ。そして言った。
 ……何で私が。
「……何で私が、あんたの傷口なんか、治さないとならないの?」
 声が聞こえたのか、孝徳が驚いたような顔でこちらを見た。
 まだだ。あの時の恨みはまだ、根付いている。
「そんなに……恨まれてるんだ。……私、お前に何かした?」
「多々良次郎。これで思い出せなければ……あんたを今ここで殺す」
 覚えがない、と言うように、息切れしながら言葉を紡ぐ加奈に対し、自然にメスを振り上げる。
 相手は軽機関銃を孝徳に渡し、痛みで足取りも覚束ない、丸腰も同然の状態だ。自分でも、十分に殺せる。
「……知らねえよ。そんな名前。人違いじゃねえの」


 自分では彼女の左目に突き立てたつもりだった。だがメスはその後ろの壁に当たって、コンクリートの表面がぱらぱらと落ちた。
 避けた? あの状態から?
「ハッ……殺すんじゃなかったのか?」
 見上げてくる挑戦的な瞳は、奥底で余裕を宿していた。夏樹は激しく脈打つ鼓動に呼吸を速めながらメスを再び振り上げる。
「避けたの? どうやって?」
「……何もしてねえよ、私は。で? 大切な次郎くんの仇討ちはどうすんの? やめちゃうの?」
 言われて、また頭に血が上った。今度は頭部全体を狙って、持てる力のすべてで刺した。
 ……つもりだった。今度もその上のコンクリートに当たる。
「はぁっ……はっ……な……何で? 何で当たらないの?」
 激しく息を切らせながら呻くと、加奈が笑った。
「だから、言ってんだろ。私は何もしてない。お前が避けたんだ」
「何言ってんの? 私が? 私が避けた? そんなわけない!」
「それなら、もう一回やってみろよ」
「嘘だっ! 嘘に決まってる! こんなに殺したいのに! そんな……私が避けるわけ、ないじゃない! あ、あんたが避けたんだ。能力を使って!」
 三度(みたび)振り上げ、どこにでもいいから当たれと振り下ろした。しかし、今度も後ろの壁に当たった。それから何度も何度も振り下ろしたが、結果は同じ。当たらない。そして自分の目が正しいのなら、加奈は動いてなどいない。痛みによる荒い呼吸を吐き出して、血まみれの肩を上下させているだけだ。
「……何で。何で当たらないの。ちゃんと当たって! 目の前にいるのに!」
 次郎を殺した一人が、目の前にいるのに……!
 数十回も繰り返して、腕に力が入らなくなってきたところで、夏樹はメスを取り落とした。

 涙が溢れてくる。
 次郎、ごめんね。ごめん。本当にごめん。何だか知らないけど、殺せない。
 ……腕がちゃんと、動いてくれないんだ。
 思わず脱力して、床に座り込んでしまった。

「……兵士にはなれねえな。一人殺そうとする度に、そんな状態になってたら」
「う……うるさい! 黙れぇっ! 人殺し!」
「……覚えてるよ。次郎って……承晩に引き渡した、あの子供だろ。優しそうな目をした……」
「はぁ? なんだよそれ。今更……今更優しいとか言ったって遅えよっ! お前が次郎のことを少しでも語るな! もう死んじゃったんだよ! 次郎は! 生きたまま、全部削ぎ落とされて。皮まで剥がされてっ! まだ……まだ十三歳だったのにっ!」
「それが承晩のやり方なんだ」
 諭すかのように、加奈が呟いた。その口調に、新たな苛立ちが巻き起こるが、悔しさと嗚咽で言葉が続かない。
「なんで、なんでそんなことする……奴だって、わかっててぇ……!」
 倒れこまないよう、床に手をついた。悔しい。何でそこまでわかっていて、引き渡す? 信じられない。
「……悪かったよ。でも、あれが私の仕事だった」
「……っ……うぅ……ぁ……! ……じろぉ……」

 言葉が続かなくなりしばらくひとりで泣いていると、床に手をつき顔を伏せ泣いている夏樹の顎を、加奈の細い指が持ち上げた。
 触るな。言おうとしたが、嗚咽が邪魔をして、声が出ない。
 メスを突き立て疲れて手も動かない。顔を上げたまま、目の前で壁にもたれる加奈を強く睨んだ。拍子に、ひと際大きな涙が零れた。
 彼女の指が、包み込むように溢れた涙を拭っていく。
「……ごめんね」 
 絞り出すようなか細い声が聞こえた。後頭部に手が回され、頭を抱えられる。
 首に噛み付こうとしたが、たった四文字の言葉で果たせなくなり、涙と嗚咽でむせ込みながら、夏樹は彼女の腕に身を委ねた。
 彼女はこうして触れれば、なんでもない、ただの人間だった。
 ……戦争なんて、大嫌いだ。
 


 加奈の体からゆっくり離れて、気まずそうに目を逸らした彼女の横顔をただじっと見つめていると、孝徳が声をあげた。
 二人で言い争っている間にも、孝徳はひとりで耐え抜いていた。
「加奈さんっ! まだ交代できませんか? そろそろ腕が……」
「……まだ、無理」
「貸す。後で返して」
 弱気な声が間近で発したのを聞いて、夏樹は消毒液と包帯、止血用パッドを加奈の近くの床に放った。
「孝徳くん。手伝うよ」
「あ、ありがとう。あいつら、凄く力が強いんだ。あんな細い体つきのくせに」
「変異型でも、人型でもない……。まだ、実験が……?」
 加奈が小さな声で呟いたのを聞き取りながら、夏樹はノブに手をかけた。本気で持ち上げると、どうにか二センチほど動いた。
「……あれ、楽になった」
 意外といった声がすぐ隣でする。
「ちょっとずつ、力抜いてみて。これくらいなら、あと一分は平気」
 何度も刃物を振り上げた腕は疲れていたから、あまり大きいことは言えなかった。控え目に言うと、孝徳が力を抜いた。一気にドアノブが重たくなる。それでも我慢して、対抗を続ける。
「夏樹さん」
「ん? 夏樹でいいよ。見たとこ同い年くらいだよね」
「えっとあの……な、夏樹さ……夏樹、あの、さっきは、どういう話を?」
 孝徳が少し顔を赤くしながら呼び捨てにした。かわいい、からかいたいと思いながら夏樹は孝徳の問いに答えた。
「……いろいろあって、殺そうかと思うほど憎んでるの。あいつのこと。だから、それを吐き出しただけ」
「……あ、のさ……悪い人じゃないんだよ。いや、根はすごくいい人。でも、表現できないだけなんだ。敵とか、味方とか。誰にでも辛く当たるから……」
「ふうん。じゃあなんで孝徳には優しいの?」
 薄々感づいていることを確かめようと口にすると、孝徳は顔を赤くし、眼を泳がせた。
 分かりやすい。笑って力が抜けそうになり、慌てて力を入れ直した。
「……なんていうか、好かれてるらしいです」
「孝徳から告白したの? やるなぁ」
「いや、その、勢いで、言っちゃって……」
「……おい、さっきから聞こえてんだよ。何遊ばれてる」
 いつの間にか後ろに立っていた加奈が夏樹の手の上から右手でドアノブを握った。負担が急激に軽くなる。どんな力してるんだろう、この人は。
 彼女は両肩にテーピングをしていた。テープを渡した覚えはないが、雑嚢に入っていたのだろう。
 大丈夫かどうか孝徳に聞かれた彼女はその言葉を無視して、彼の肩に掛かる軽機関銃を左手で奪い取った。
「銃が効くなら問題ない。今すぐ開けてぶっ潰してやる」
 止める前に、孝徳と夏樹は扉の前から体を引きはがされ、後ろに突き飛ばされた。
 扉が開くと同時に、部屋の中に銃声が響いた。
 床に頭をぶつけ、軽く揺れた視界を律しどうにか立ち上がると、加奈の首元に爪が突き立てられていた。
「か……加奈!」
 思わず叫ぶが、それは大袈裟だった。爪は皮膚の表面までしか刺さって居らず、爛れた腕を左手で掴んで、右手では逆に銃を突き付けていた。
 生物の顔面が弾け飛んだ。一体は扉を開けた瞬間に仕留め、今のが二体目だったらしい。
 彼女の喉仏付近に走る一本の裂傷の上に、小さな傷がぽつりと出来ただけ。
「……もしかして、心配してくれた?」
 叫んだことを後悔するまでの間に血まみれの顔に目の前で悪戯っぽく囁かれて、顔が赤くなったと自覚してから、目を逸らした。
「……あのまま、刺されればよかったのに」
 腹立ち紛れに言うと、彼女は勝ち誇ったように笑った。



          *



 思わず大きなため息をついて、部屋にあったベッドに腰を下ろした。分断されたとわかった時は背筋が冷えたが、冷静に対処すればなんということもない、今までと同じく軽装備の兵士だった。並の銃弾なら簡単に貫通されてしまう防弾ベストも、あの銃から吐き出される弾丸なら当たっても防いでくれるだろう。とはいえ、大口を叩ける立場ではないのは確かだった。この部屋から銃撃を仕掛けようとした二人を最後に仕留めたのは宮沢だ。自分は何もしていない。
「なぁ、このままいけば案外あっさりと突破できるんじゃないか? 俺らが敵を過大評価しすぎてたのかもしれねーよ?」
「まだ分からない。チョルミンって奴が直接出てきたら……」
「出てきたって、こっちは九人。一人くらい訳ないって。小山田や加奈さんに一郎も、安藤だっているしな。負ける要素なんてどこにもない」
「あいつらには能力は使わせない。だから、油断するな」
 これ以上能力を使い体に負担がかかったら、恐らく、命を落とす結果になる。小山田は、この間の戦争で死にかけていた。
 悲観的だなあ、と宮沢が呟いたのを潮に、武田は立ち上がった。脱出口は既に見つけてある。ダクトだ。
「行こう。時間がかかりすぎた」
 午後三時。突入してから五時間以上が経っている。苛烈な抵抗に無傷で済んだのは幸いだが、この部屋を攻略するのに随分かかってしまった。
「そうだな」
 返事を聞く前に背嚢を奥に押し込み、懸垂の要領でダクトに入って行った。

 しばらく無言で、暗く狭苦しいダクトを匍匐し進んでいると、光が見えた。出口かと思い下を覗き込んで、慌てて首を戻した。
「起きる前に、早く行こう。殺さないんでしょ、あの兵士」
 気付かれていなかったようだ。一郎に抱きついているとは思えないほど淡々と言った彼女の声が聞こえる。宮沢が突然止まった自分の足に頭をぶつけ文句を言ったが、気にしてはいられなかった。何故だか、胸の奥がずきずきと痛む。痛みの原因を考えないように、武田は声をかけた。
「小山田、一郎。いるのか?」
 訊くと、武田か? と声が返ってきた。
「今からダクトに入ろうと思ってたんだ。そっちは怪我ない?」
「ああ」
 正方形の穴から手が伸び、武田の前に半袖シャツ姿の一郎が現れ、奥へと進んでいく。
「悪いけど、千絵からダクトを塞いでた鉄格子を受け取ってくれるか? 嵌めないと武田たちは通れないだろ?」
「じゃあ、俺が後ろから抑えててやるよ」
 宮沢が足首を掴んだので、下を覗き込み、手を下ろした。椅子に乗った千絵が鉄格子を渡してくる。
「無事でよかった」
 小さな声に軽く頷いてから、受け取った鉄格子をゆっくり持って、穴の手前に置いた。
 続いて千絵が手を伸ばし、どうにかこうにか這い上がろうとしていたが、彼女の筋力では厳しかったらしくなかなか上れなかったので、脇腹を支えてやって引き上げた。ようやく膝がダクト上に乗り、そこからは手を貸さずとも自力で上がった。
「……ありがとう」
 鉄格子を嵌めているとき視界で珊瑚のペンダントが揺れ顔を上げると、振り向いて恥ずかしそうに言う千絵が居た。武田はすぐに目を伏せ、早く進め、と顎を使って促した。好きな奴がいるのにそんな顔を向けるなと心中で呟き、少し赤くなった顔のまま後を追った。思えば、彼女は随分と人間らしい表情をするようになった。それは一郎だけのお陰ではないと前に彼女は言った。何が違うのか。分かっていた。今と、昔の話だ。取り戻せないものがある。今でこそ許したが、あのときの憎悪は未だ影を落としている。好きか、と聞かれれば、好きだった。三年前は。どこか謎めいた雰囲気が、普通の行動を特別なものに見せていた彼女。彼女自身が、というよりは、荒んだ状態が生んだ雰囲気に惹かれていたのかもしれない。だが今は違う。あいつは、寮長たちを殺して、消えた。
 ……それなら、先程感じた痛みは、何だ? 変わりつつある彼女を見て、自分は何を思っているのか。答えを無理に出さないようにして、黙って進み続けた。

 ダクトの終着点まで着くと、一郎は安全を確かめてから飛び降り、三人も後に続いた。 
 長時間の匍匐で凝り固まった肩を解してから、周囲を改めて見渡した。部屋の中は先程制圧した部屋と同様、ベッドとテーブルとタンスが置いてあるだけの部屋だった。違いは、下半身が弾け飛んだ遺体と、両足の膝から下を失ってもがき苦しんでいる兵士、人間と判別できない兵士が一人倒れこんでいること。武田はそれを無視して慎重に扉を開ける。
 銃を向けた先に敵の姿はなく、側面に赤十字が描かれたヘルメットを深めに被り、床に座り込んでいる夏樹の姿があった。全身血まみれだが、出血している様子はない。
「あ、武田さん! みんなも!」
 夏樹がヘルメットを取って嬉しそうに笑った。だが、立ち上がろうとして膝が抜けてしまった彼女は、再び床に座り直すことになった。体力的に限界のようだ。彼女は苦笑いして、再び壁に寄り掛かった。向かいには見るからに消耗しながらも銃口を向ける加奈がいて、孝徳が介抱している。彼は何事か加奈に囁き、銃を下ろさせた。

 その後、安藤と前川も合流した。
 結局、全員が無事に揃ったらしい。この状況をチョルミンは歯噛みしているのだろうか。それとも……。
 孝徳から状況の報告を受け、武田は、三人の兵士が倒れこんでる右側の部屋ではなく左側の部屋に全員を連れ、休憩を提案した。加奈は発作中で満身創痍、夏樹もとても歩ける状態ではなく、五時間進み続けて誰の体にも疲労が蓄積している。気になることもあった。変異型でも人型でもない何かと交戦した、という話。地下二階のエレベーター手前の研究室での資料に拠れば、朝鮮が相当の費用を注ぎ込み人体実験をしているのは明らかで、何が出てきても冷静に対処できなければならない。疲労困憊の状態では、それも敵わないだろう。ここから先は、今までのような単純な気配りだけでは済まない。
 だが、武田自身は疲労ではなく、別のことで気が散っていた。
「……小山田。あのさ、さっき……」
「ん……何?」
「……いや。体調は大丈夫か?」
「だいぶいい。発作も起きていないから」
 そうか、と呟いてから目を逸らした。切り替えろ。自分に言い聞かせてから、壁に寄り掛かった。


 半分眠りに入った状態で俯いていると、ごつい手が頭を小突いた。
「そろそろ起きろよ」
「寝てねえ」
 言いながら目をこすると、宮沢が笑い出した。
「……お前も変わったよな。昔はそんな面してなかったのに。覚えてるか? お前と会ったときのこと。前の小山田みたいな面してた」
「そんなもんとっくに忘れた」
「俺は覚えてる。お前に歯折られたから」
 宮沢とは、岩波や松木に拾われた頃に会った。ストレイジのことなんて知らない、同小隊の一般隊員として。その頃は千絵に裏切られたばかりで、拾われた恩など関係なく、どうしようもない奴だった。訓練はまともに受けない、指示は無視する、他の隊員と一切関わりを持とうとしない。松木でなければ叩き出されていただろう。そんな自分を見兼ねて世話を焼いていたのが宮沢だった。その優しさがどうしようもなく煩わしく、一度だけ本気の喧嘩をした。凶器はなかったが、相手を殺すつもりで殴っては蹴られ、殴られては蹴り返しを繰り返した。訓練を真面目に取り組んでいた宮沢に敵うはずもなかったが、結果は大差なかった。武田が右足の捻挫、宮沢が奥歯を欠いたところで、隊の仲間が止めに入った。
「あの時は……悪かった」
「もう気にしてねーけどさ。なんか境遇似てて、ほっとけなかっただけだし」
 一緒の部屋で治療を受け、二人きりになった際に宮沢の家庭事情を聞いた。それから少しずつ、距離が縮まっていったように思う。
 彼は、当時起きたJRを標的にしたテロ行為に巻き込まれ、一家を失ったのだという。彼の父親は正確には養父で、身寄りのない子供を引き取っていたそうだ。宮沢以外にも子供が五人いて、小さな孤児院のような状態だったらしい。電車に乗り合わせたのは少し遠出をして遊園地に行く途中で、彼の養父母、義弟三人に義姉一人が巻き込まれた。その時、雪という小さな義妹だけはどうしても行きたくないと駄々をこねて、仕方がないから宮沢だけが面倒を見るために残った。そして助かった。
「……雪ちゃん、元気か? 三年前からずっと塞ぎ込みっぱなしだったって聞いたけど……」
「まあ、元気だよ。ちょっと人見知りしてっけどなぁ。治るだろ。そのうち」
「でも、もしお前がいなくなったら……」
「伯父に預けてるんだ。それに、絶対に一人にはしない。約束したんだ。帰るって」
 宮沢は強い決意を秘めた眼差しで、入口を見た。
「行こうぜ。随分休んだだろ?」
 彼の声に頷いた武田は、落ち着いた面持で全体を見渡した。
 一郎は床の上で右腕で顔を覆い仰向けに寝ていて、夏樹は一郎の腹に頭を乗せ丸まり猫のように寝ている。後は孝徳が加奈のベッドに突っ伏して寝ているだけで、他は全員起きている。千絵は黙々とナイフを研いでいて、胸部に突っ込まれた加奈は孝徳の頭をどうにかどかそうと必死だ。安藤はいつも通り目つき鋭く中空を睨みつけていた。

 寝ている者を起こして回り、武田は改めて、準備を終えた八人の前に立った。
 どの顔にも油断はない。ここを生きて脱出できるという、確信に満ちている。
 武田の胸の内からは、既に不安や気負いは消えていた。

 ……負ける気が、しない。
 こいつらとなら、一人も欠けずに生きて脱出できる。
 チョルミンを過大評価していると言い切った強気な宮沢の言葉を思い出し、武田は微かに笑った。
「……行こう。俺たちなら、何が来たって、生き残れる」




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