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 混迷を極める世界情勢のなか、先人が積み上げてきたこれまでの国家戦略に固執し柔軟性を欠如した現大統領バンダヴァは、自分と意見を同じくする国務長官らの極論に徐々に依存するようになりつつあった。その依存は、瀋陽からの撤退が決定された十月六日未明時点でさらに深まることになり、十月七日午前0時、彼が取り返しのつかない決断をするに至らせてしまった。国際的な非難はもちろん、世論の反発にも晒される事になるバンダヴァは、明確な戦略も持たぬまま、のちに米国大統領の中で最低の評価を獲得するに充分な暴挙をこの時、行った。



          *



 十月六日午前九時三十六分、一郎たちがストレイジの研究施設を視認できる位置に辿り着いたころ、先行したはずの前川らはまだ茂みの中に居た。武田と共に先頭に居た一郎は、屈んで孝徳に状況を訊いた。
「どうしてまだここに?」
「加奈さんの発作があって……私たちは、警備体制の監視を」
 流暢な日本語を操る孝徳が、小声でそう伝える。
「で?」
 武田が警備体制という言葉に反応し、訊いた。
「ああ……表の歩哨は先程交代しましたが人数は変わらず二人でした。……隙はあります。急造の部隊だからか士気も低そうですから」
「そうか。ありがとう」
「いえ」
 欠伸を零した歩哨を一瞥した武田は続けた。
「……これからどうしますか? 前川さん」
「ひとまず美月が目覚めるまでは警備の監視を続けるよ。ただ、武田君たちが合わせる必要はない。僕は、あくまで別部隊が共同して動くという認識でいるから。……君も、美月に指揮を取られるのは嫌だろ?」
「美月?」
「加奈の名字だよ。何故かは知らないけど、中隊長が言ってたんだ。……あまり喋ると気付かれるかもしれないから、話はここまでにしとこう。あとは美月次第……」

 円柱状の、巨大な研究施設。外壁は黒ずんだ白タイルに覆われ、見たところ窓はない。出入り口は視認出来る。一郎達がいる雑木林からは三十メートルほど離れていて、出入り口に立っているのは孝徳の言う通り二人。周囲に巡回する見張りはいない。
 一郎は前川らを待たずともどうにか出来ると感じ、武田に話しかけようとした。
「ごめん、迷惑かけて……」
 そこで、甘ったるい声が聞こえた。加奈が起き上がったらしい。発作の直後だからか、気を抜いている彼女は初めて見たときよりも幼く感じた。なるべく平常心で加奈から視線を外す。今は仲間だ。もう一度、自分に言い聞かせる。
「……今から、あの施設の内部を説明する。そのあと、入り口の二人は私が潰す」



          *



 鮮やか、としか言い様がなかった。悔しいが、あの兵士には敵う気がしない。歩哨二人を瞬時に抹消した彼女は、その辺の女よりはしっかりとした体つきでも男と比べれば華奢な千絵とは違い、がっしりとした筋肉があった。
 武田は部隊を三つに分けた。ひとつは安藤と夏樹、ひとつは一郎と千絵、最後のひとつは武田と宮沢。今は険悪な雰囲気だが、安藤を上手く抑えてくれるのは結局は夏樹しかいないだろう。そして千絵の発作が起きたとき対処できるのは一郎くらいだ。
「あーあ、夏樹ちゃんと一緒がよかったなぁ」
「まだそんなこと言ってんのか」
 呑気な呟き声に返してから、武田は前川、孝徳の後に続く。
 先程、加奈の情報に拠って、彼女と二人で作戦を組み立てた。
 分散して突入し一階の最奥にある手動式昇降機を目指した後は、それを使って地下一階に降り、防犯対策のため反対側に設置されたもう一台の昇降機を目指し、地下二階を経由し三階に下りる。階数自体は大したことがなくても深度や距離はなかなかのものになるらしい。そして地下三階全体が巨大な地下溝。中国国境に繋がっていて、あらゆる衝撃に耐えうる構造になっているようだ。
 銃声が施設内に響き、武田は戦闘に集中しようと頭を切り替えた。


 

          *



 おかしい。左右に分かれ、左側の通路を走り三人をあっさりと殺した加奈は、上手く行き過ぎている行動に心のどこかが警鐘を鳴らしたのを聞いた。十人程度だと踏んでいたのに、既に五人を殺した。一階だけにこんな人数を割くはずがない。しかも、こんな軽装のザコばかり。加奈は、体力を温存しながら戦闘をこなし、走った。
 巨大な円柱状に作られた施設内にはもうひとつの円柱が施設中心部に走っている。あれは生体認証が必要なタイプのエレベーターだ。実験のために用意された地階とは違い、上階には重要な研究資料が置かれていたと聞く。移動手段からして予算のかけ方も違う。
 しばらく巨大な廊下を走って、ようやく昇降機が見えたときにはまだ右側を進む部隊は到着していなかった。ストレイジが二人もいるなら問題はないだろう。ただ、あの民間人の女だけが懸念だった。
「孝徳、弾薬の整理しとけ。拾った奴、やるから」
 殺した敵兵士たちから抜き取ってきていた弾薬類を、孝徳に投げた。大した物の入っていない背嚢は戦闘の邪魔になるため、既に雑木林で廃棄してある。だから自分では持ちきれなかった。孝徳は弾薬が前川と武田と宮沢の規格に合わないことをわざわざ確かめてから、自分の装備にした。甘い。いざとなったら彼らを捨て置いてでも脱出する腹積もりでいるが、彼はそれを受け入れるだろうか。
 扉を開け昇降機に乗り込み、暗い内部を見渡してから、フェンスに寄りかかった。ある程度の広さはあるものの、昇降機と薄闇を隔てているのは、この簡易フェンスだけだ。手動の盤面に指を走らせ下降を選択し、確定ボタンを押さずに待った。

「遅い……」
「まだ一分も経ってませんよ。我慢してください」
 指で盤面を叩いている加奈を見咎め、孝徳が諭すように言った。
 舌打ちして、指を止めた。



          *



 左側の部隊にやや遅れて、右側を進んでいた部隊も合流した。殺したのは安藤が二人に、千絵が一人。照合すると計八人を殺したことになる。
「多すぎる。……警備が強化されたんだろう」
「どのくらいだ?」
「分からない。……けど。この街の守備隊の人員なら、限界まで引っ張れば四十にはなる」
「四十? そんな馬鹿な話があるか! どうやって突破するんだ」
「んなの知らねえよ。瀋陽を突破するより遥かに楽だ」
 昇降機は緩やかに下降を続けている。夏樹は加奈と武田のやり取りをじっと見つめていた。もうしばらく口を開いていなかったが、自分が口を挟む隙など、この場のどこにもありはしなかった。
「重装備する程物資に余裕はないし、実力も格下。死傷者はそれ程出ない」
 彼女は淡々と言葉を紡いで行く。耐え切れなくなって、俯いた。
 次郎。心の中で、呟いてみる。
「夏樹」
 隣に黙って突っ立っていた安藤が、声を掛けて来た。怒りは燻っていたため、まだ応えるつもりはなかったが、いつもの癖で振り向いてしまった。
「何睨んでんだよ。あいつ気付いてるって」
「……勝手に人の顔見ないで」
「いいだろ、顔くらい」
「……私が普通の子だったら、あれだけ言われたりしたら、もう口なんてきかないよ。安藤くんはついてるんだよ。忘れないでよね。許したわけじゃないから」
 なるべく感情を乗せないように言って視線を外すと、急に頬をつねり上げられた。
「もう散々謝っただろうが。いつまで拗ねてんだよ」
「痛い、離して、痛いってば……!」
 無理矢理安藤の手を振り解いたところで、昇降機が下降を止め停止する。空気が変わったのを感じ取り、黙った。
 加奈は舌打ちと共に夏樹を一睨みしてから、先頭を切って地下一階に足を踏み入れた。やはり、あの人とは合いそうにない。


 
 地下一階に入った瞬間、夏樹は悲鳴を出す寸前で、手を使い口を押さえた。この間の戦争で大抵のものには見慣れたと思っていた。しかし、目の前に広がった光景は許容しがたいものだった。辺りには鼻を潰す程の臭いが漂い、奥まで続く一本道の廊下の左右には牢が配され、その中では人らしきものが蠢いている。夏樹が見たのは一番手前で、ある肉を貪り食らう人々だった。彼らは視線に気付いてすぐ、鉄格子に手をかけ、隙間から極限まで痩せ細った手首を伸ばしてきた。悲鳴は堪えたが体は言うことを聞かず、へたり込んでしまった。陥没した目には眼球は入っておらず、鼻柱もなくなっていて鼻という器官は皮膚に直接穴となってついているだけ。そして貪り食っていたのは……同室にいたであろう、人間の肉だった。茫然として、爛れた皮膚を宿す顔に目を奪われていると、自分の髪に一本の腕が伸びてくることに気付いた。慌てて立ち上がろうとするが、力が入らない。足掻いているうち、伸びた手は思い切り夏樹の髪を掴み、引っ張った。激痛が走る。辛うじて動く首を動かして見れば、その手の主は、夏樹から毟り取った毛、十数本を、口に運んでいた。
 背筋が凍り、首も動かなくなった。悲鳴も出ない。
「馬鹿、何やってる……!」
 しばらく反対側の牢を見つめていた安藤が、ようやくへたり込んだ夏樹に襲い掛かる腕に気付き、続けざまに蹴りを見舞った。腕は簡単に反対方向に折れ、薄気味悪い音を洩らしながら牢内に引っ込んだ。
「……あ、……あ、あ、あり……がとう」
 助け起こされどうにか体勢を持ち直した夏樹は、一気に噴出した額の汗を袖で拭って、礼を言った。
「何だっつうんだよ、ここは」
 宮沢がかすれた声を出し、呟いた。
「最初に言っただろ?」
 先頭で辺りを探っていた彼女は顔を歪めた宮沢に向き直って、反応を楽しむように笑った。

「ストレイジの、研究施設だよ」




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