終章序幕

 晴れ晴れとした陽気に身を任せるとそのまま眠ってしまいそうだった。
 どうにか気持ちを入れ直して、教師に視線を戻す。端正な顔立ちをした彼は、顔に似合わず薄らぎ始めた頭を使ってクラスメイトを笑わせていた。授業を再開して教え始めたのは、百年以上前の第二次世界大戦の話だった。この教師の教えは公平で、しっかりと筋が通っているので、聞いていて楽しい。受験問題を前提に無理矢理詰め込んできた中学の教師とは大きく違う。


「次は近代史、特に日朝戦争終結までだからな。吉川から再開するから、読めない漢字には読み仮名振っとけ。……あ、そうそう、負傷兵の写真とか色々持ってくるから、吐いてもいいようにビニール袋持って来いよ」
 号令の後、そう言った教師は、あながち冗談でも無い口調で語尾にそう付け足すと、教室をゆっくりと出て行った。
 ……日朝戦争、か。
「ねぇ、今日帰りどうする? 一緒に帰る?」
「ん……あ、ごめん、今からバイトだから」
 祥子の声を受けて、記憶を辿ろうとしていた自分からどうにか脱して、立ち上がった。
「そっか。なら、あたし、あゆと帰るね」
「うん。ばいばい」
 軽く手を振ってから、机の脇にかけていたカバンを持ち上げ、肩に掛ける。今日は十月七日。高校の二年目も、もう半分は終えた。

 歩いて昇降口を出ようとすると、馴染みの数学教諭に足止めされそうになった。
「スカートの丈もっと下げろ。髪も染め直して来い。スウェットも履くんじゃねえからな、山里先生が見てるから出来ないだろうけどよ」
 飛んでくる声を無視しどうにか抜け出してから、駐輪場に向かう途中で振り返って、バカ岡野、と吐き捨てた。口まで覆ったマフラーにその声は消され、数学教諭は軽く首を傾げただけで、次の生徒に目を移していた。
 目をつけられたのは去年の卒業式からだ。卒業式には出られず別室で説教されていた。ただ、化粧もしないし、別に素行や成績が悪いわけではないから、そんな理由で二、三時間怒られたって気に留めない。あたしに黒は似合わないんです、とふざけて反論したこともあったが、お前は何色も似合わないと一蹴されてからは、彼らの話は上の空で聞くようにしている。
 親呼ぶぞ、は岡野の常套句だが、自分は、彼に迷惑を掛けるのが好きだから、あまり効果は無い。戦争で死んだ両親の代わりに自分を引き取ってくれた彼は、仕事終わりの八時ごろに学校に来てくれて、そして疲れた彼の表情に遠慮した担任が、説明を早く切り上げる。結局、ほとんど説教を受けないで済む。それに帰るときも、同じ言葉を応酬しているだけなのに楽しい。
 ただ、さすがに今日呼ばれるのは良くない。自転車に乗り、正門ではなく裏門から出ようとした。

「またお前か」
 裏門を出たところで、声が聞こえた。走り去ればよかったのに律儀に足を止めてしまったところで、ハンドルを掴まれた。縦にも横にも大きな巨体が立ち塞がっていたのを見た少女は、うわ、山里、と心底嫌そうに呟いた。
「ったく、毎回毎回……いつになったら髪色戻してくんだ。今から職員室に来い。あんまり親御さんに迷惑をかけるな」
「あ、山里……先生、今日はまずいんです。あの、うちの親が、えっと、休みで、用事があって……」
「嘘をつくな。どうせバイトだろ。お前がそんな態度なのが悪いんだ。今日は休みますって自分で連絡入れとけよ」
「違うんですよ。本当に今日は」
「うるさい。さっさとしろ」



          *



 職員室に併設された待合室の椅子に座り、いつものように説教を受けている間に、もう時計は六時半を回ろうとしていた。
「ども、遅れてすいません。また髪の話ですか?」
 ひょこっと現れた彼は無遠慮にそう言うと、岡野と山里の険しい表情に気付いてへらっと笑い、
「そんな顔しないで下さい。お土産があるんです。ほら、虎屋の羊羹。先生達にもおすそ分けです。静岡から帰ってきたばっかりでね」
 と、丁寧に言い直した。
「静岡……? 放射能、大丈夫なんですか? あの辺りはまだ復興してないって聞きましたけど」
「ああ、あんなのただの噂です。どんどん店も復活してて。ま、以前の東京ほどじゃありませんが」
「東京、ですか。もうあの辺りは、駄目なんでしょうかねえ」
「いや、そんなことないと思いますよ。放射能に対抗する術だって、日本人ならきっと編み出します。たとえ何百年かかったとしてもね。三度もこの被害を受けた者として、むしろこれは義務でしょう」


 結局、世間話だけで今日も終わった。終始ペースに乗せられていた岡野と山里も、最近は諦めたようで、素直に彼の話を聞いて終わりにするだけになっている。ただ、時間はきっちりと経っていた。学校を出たのが午後七時。バイトには行かないつもりだ。どっちにしても、最近はシフトに間に合わずに周囲の反感を買っているし、居心地も良くない。今日電話して、辞めるつもりだった。
「放っとけ。あいつらは勝手に黒じゃなきゃならないって思い込んでるだけなんだから」
 二人だけで、夜の住宅街の十字路を歩く。とても嬉しくて、とても貴重な時間だ。いつもこの時間を大切にしたいから、バイトに遅れてしまう。ぽつぽつと外灯があり、時折、親代わりの彼の横顔を照らしていた。親代わりとはいっても、彼はまだ三十過ぎだ。照らされる顔は若作りで、少しどきどきする。
「いいよ、あたしのことは。それより、今日、本当にごめんね。友達の命日だったんでしょ? せっかく無理言って仕事早退してきたのに……お参りなんて少ししかできなかったよね」
「気にすんな」
 呟いてから空を見上げると、消え入りそうな声で続けた。
「それにあいつは、まだ生きてそうな気がする。なんたって、並のしぶとさじゃないんだ。あの戦争を戦って、生き残った仲間だ。なのに、最後の最後で……あんなの、酷すぎる。生きてるって思わなきゃやってらんねえ」
「……もう、諦めなよ。十二年……十二年だよ? ……死んだの。その人は。あたしも、溝口さんが死んだときは信じられなくて、まだどこかで生きてる気がして、何度も何度も幻聴聞いたりしたけど……結局、死んだのは本当だったんだから。死んだ人は甦ったりしない。それに、十二年前に死んだって言われてて、今も戻ってこないなら……」
 言いにくいことだったのでなるべく目を見ないように話すと、隣を歩く彼から押し黙る気配が伝わった。
 昔のことを全く語らない彼は、少し俯き加減に、こちらを見据えてきた。
「俺な……悔しいんだ。諦めきれないんだ。あの時、俺がもっとちゃんとしてれば絶対あいつの事、助けられたはずなのに、さ……。助けられなかった。今でも夢に見るんだ。笑ってるあいつが、日本に戻ってくる夢を……」
 今まで自分に見せたことのない顔で、苦しむように言葉を吐き出した。それを見た少女は、戸惑った声で謝るしかなかった。
「ごめん。あたし……」
「俺だって、頭では分かってる。まだ……まだ、受け入れられないだけなんだ」



          *



 家に帰ってくると、まず玄関で遺影に向かってただいま、と呟く。霊というものを信じているわけではないが、つい話しかけてしまう。それから、奥に進んだ。二階建てアパートの一室。部屋は狭いが周囲は見知った顔ばかりで、困ったときには助けてくれる。親子といっても信じてもらえない自分達でも気楽に住める場所だ。大体、自分が彼の本当の子供だとしたら、十三歳のときの子供ということになるし、この年で養子などと言うと必ず別の関係を訝る者が居て、どちらにせよ奇異の目で見られることが多く、近所から孤立してきたから、人と話すことが大好きな彼のストレスは、ここに引越してきた今では目に見えて減少している。
「メシは何がいい? 今日はまだ作ってないけどさ」
「いい。あたし作るから横になってて。顔が真っ青な人に包丁なんか持たせられない」
 知らぬ内に、言葉が刺々しくなっていた。先程零れかけた昔話は、十年一緒に暮らしてきて初めて聞いた、彼の心を捉えて離さず自責の念へ駆り立てる戦友の話。大きな傷跡を残して帰還したあの日、確かに彼の心は、あの場所に縛り付けられた。自分はその呪縛を、解いてあげることは出来ないのだ。固く閉ざされた記憶から、十年でたったひとかけらしか零れ落とさない状態では、どうすることもできない。
 もっと頼って欲しいのに……彼の中の私は、いつまでも子供のままだ。
「ごめんな、頼りない親で……俺さ、あの時のこと思い出すと、どうしようもなく気分が悪くなって……」
「無理に話さなくていいっていつも言ってるでしょ。あたし、気にしてないから」
 まな板を乱暴に置いた自分を見て、彼は何も反論せず背を向けたまま、ソファに腰を下ろした。


 豚肉とピーマンを軽く炒めて、大雑把に皿によそって出した。だし入り味噌を使って、味噌汁も作った。簡単即席料理。
「お、肉だ肉! 久しぶりだな、肉」
 思わずため息を吐いてしまった。どう聞いても、わざとらしく明るい声を出しているようにしか聞こえない。痛々しくて、どうにも居た堪れなくなり話を逸らそうと思って喋ろうとしたが、もう限界だった。
「あの、さ……あたし、十年以上一緒に居るのに……あなたのこと、何も知らない。ねえ、あたし、頼りない? あたしじゃ駄目? 支えにならない?」
 口をついて出たのは、自分の深いところに常に存在している疑問だった。言ったあとで、彼の虚ろな瞳と目を合わせた。驚いた表情を、責めるように見つめた。
「そんなことないって。ただ……」
「ただ……何?」
 テレビのリモコンに伸びようとした彼の手を掴み、思い切り握った。
「さっきは無理に話さなくていいって言ったけど、やっぱり、気になるよ。分かるよね? こんなに苦しそうにしているの、見てられないの。……辛いかもしれない。でも……あたし、怖いよ。何か、ふわふわしてて、溝口さんたちみたいに、今にもどこかに消えていきそう。そうなったら、あたし、どうすればいいの? ……そうなる前に、吐き出してよ、全部。あたしでも、話し相手くらいにはなれるよ」
 四角い小さなテーブルに向かって座る二人を、少しの間沈黙が覆った。
「……お前も大人になったんだなあ。そこまで考えてくれてたのか。大丈夫、俺はどこにも行ったりしねえから。前も、ちゃんと約束守っただろ?」
「それは、そうだけど……」
 突然褒められて口ごもったところで、ずっと彼の手を握り締めたままだったことに気付いた。少し赤くなりながら、少女は手を外した。
 同時に、彼が立ち上がった。見上げると、静かな声で言った。
「話すよ。……あの時あったこと、全部」




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