5章終幕

 話の途中から聞こえていた加奈の笑い声が徐々に大きくなり耳につくようになったので、言葉を切って睨んだ。
「茶番だな。感情むき出しにしやがって。だらしねぇ隊長」
 厭味を満面に表して笑うと、そのまま机まで歩き、武田の正面に立った。
「お前はまだ未熟だ。自分の働きで全員の命を助けられるなんて思うなよ? 身体能力がないなら周りを上手く使え」
「……何でお前にそんなことを指図されなきゃならないんだ」
「だから言ったろ? 使うんだよ、周りを」
 懐から地図を取り出した彼女に、全員が視線を集めていた。仕方なく、黙って耳を傾ける。
「丸で囲まれているところを見ろ。ここには、今はもう使われていない、ストレイジの研究施設がある。ストレイジの研究施設には、いざというときのための地下溝が敷設されていて、地下溝は中国国境の辺りまでなら分散して掘り進めてあるし、敵の攻撃に対してのシェルターもある。私はそこへ行く。重要な研究資料は前に開城(ケソン)に移送されているから、警備は元々薄いし、今は各方面に部隊が分散していてさらに手薄になっているはずだ。今お前が言った方法以外に脱出するとしたら、そこしかない」
 言い終えた加奈は孝徳が持っている荷物から小銃一丁と雑嚢をひったくって孝徳と前川を見て出口を顎で示し、歩き始めた。
「地図はお前にやるよ。頭が冷えたらそいつらを連れて研究施設に来い。三人じゃ流石に分が悪いから」



「あの人、美人なのに怖えな。勿体ない。どうしよ、今度あったら話しかけっかな……」
 先刻の余裕の出所を理解し彼女の背中を見送って、宮沢の声に振り向いた。
「お前は美人だったら何でもいいのかよ。あんなのに関わってる暇なんかない。さっさと情報確かめに行くぞ」
「……待てよ。夏樹ちゃんはどうする? さっきからずっと塞ぎこみっぱなしだ……無理に引っ張ってく訳にも」
「一郎と千絵に任せよう。とにかく俺らは一旦外に出て……」
 ドアノブに手を掛けて回そうとすると、外からの圧力がかかり、扉が押し開かれた。入って来ようとする相手とぶつからないように避ける。
 その相手は安藤だった。



          *



「一郎。少し外に出てくれないか。夏樹とは、僕が話す」
 夏樹を囲んでいる千絵と一郎に聞こえるように言った。武田と宮沢は入れ違いに出て行った。木造の家屋にはベッドが四台あって、左端の先生の遺体に、夏樹が張り付いている。安藤の声を聞き顔を上げた彼女は怯えの表情と共に千絵の後ろに回って、背中に頭を押し付けた。
「無理だ。こんな状態の夏樹を、お前と二人になんかできない」
 答えたのは一郎で、無表情の千絵も、目で威圧していた。
「酷いことしたんだよ。分かってるの」
「……分かってる。だから……謝りに」
「散々責めて殴っておいて……勝手だと思わない? 相手の気持ちも考えないで……」
「うるせえんだよ。承晩の部下に夏樹を殺させようとした奴なんかに何が分かる。そこ、どけよ」
 お前とじゃない。夏樹と話しに来たんだ。
 睨むが、退かない。少しの間睨みあったあと、肩を掴んで無理矢理退かせようとすると、一郎が手を掴む。
「何で殴った? いくら先生が死んだからって……あれはやりすぎだろ」
「お前も小山田と同じこと言う気か? 謝りに来たって言ってんだろうが」
「……もういい。話さないと分かんないんだな。自分が、したこと」
 あからさまな溜息を吐いた彼はそう言うと、脇を通り抜けた。
「あ、一郎……」
「千絵。いいよ。反省してないみたいだから」
「でも……」
 こちらと夏樹を見比べた千絵は、玄関の扉が閉まる音がしたのを契機に、最後にもう一度睨んでから離れていく。


 謝れば解決すると、どこかで甘く構えていた安藤は、一郎たちの言っていた言葉の意味をようやく理解した。それは勝手な思い込みだった。
 彼女は二人になった瞬間、ベッドの下へ潜って自分から逃げ、部屋の隅から震える瞳を寄越した。近くに寄ろうとすると、今度は先程と反対の行動をして、また左端のベッドへ戻った。それを数度繰り返され、いい加減にしろと自分が怒鳴ると、何も言わずに涙を零し始めた。またやってしまった。自業自得の状況だとしても、つい短気を起こしてしまう。
 何でお前がそんなところに隠れてる、恩を忘れたのか。
 言った自分も知っていた。銃を使った戦闘というものは、いつでも突発的に起こり、劇的な速さで幕が下りる。素人が周りの人間を守れる隙なんか、ありはしないんだ。知っていたのに、彼女を責めた。そうすることでしか現実を受け止められそうに無かった、というのは都合のいい言い訳だ。自分が守ると決めた夏樹を、傍ヶ岳で、命懸けで自分を救ってくれた夏樹を、自らで傷つけた。
「あの場では、そう思った。思ったままを口にした。夏樹を傷つけると分かっていて口にした。それは違わない。でも……」
 続く言葉が見当たらずに夏樹を見るが、目も合わせてくれない。口も開いてくれない。
 恩を忘れるはずなどないのに。先生先生と後を追い掛け回していた夏樹が。
「悪かった。本当にごめん。なぁ、夏樹……どうしたらいい?」
「う……るさい」
 少しの沈黙の後夏樹が顔を上げて、真正面から声を当ててきた。話せる距離にまで近寄ると、今度は逃げなかった。
 不思議に思うと、突然掴みかかってきた彼女に、突き飛ばされた。力自体は弱々しかったが、不意だったので安藤はベッドに転がった。
「わ……私がっ、どんな思いしたか分かってる? 悪かった? だから何? 勝手すぎるよ。先生の……先生のこと、わ、私が、見捨てたなんて言っておいて……! あんたなんかに、何でそんなこと言われなきゃならないの。私は軍医に呼ばれたとき反対したじゃない。この病院が、復興の拠点になるんだって。岩見沢の人たちを助けることができる拠点になるんだって。それなのに、安藤くんが、賛成なんてして、勝手に患者の転院手続きなんてするから、こんなことになったんじゃないっ!」
 言葉が終わるころ、夏樹はもう一度泣いていた。自分に向けられた感情が大きすぎることに気付いて、何も言い返せなかった。体が動かなかった。


 
 喉が痛い。それでもこのくらいでは、まだ発散しきれていなかった。
 逃げ回っているのが、突然馬鹿らしくなったと思うと、ぶつけられた言葉の一つ一つが脳裏に浮かんで、どうしようもないくらいの悔しさが湧き上がってきていた。
「……しばらく話しかけないで」
 茫然としている安藤に吐き捨て、夏樹は涙を拭いて外へ出た。



          *



 涙のあとに気付いて、口を開こうとして閉じた千絵は、夏樹を遠慮がちに見た。
「兄さんたちは?」
 喉の調子がおかしいのか、言い終えた後に軽く咳払いした。
「……加奈さんの持っていた地図が本当かどうか確かめてくるって。近いからすぐ戻ると思う」
「なんで千絵さんが泣きそうな顔してるんですか。私、そんなに気にしてないですから」
 気にしていない顔ではなかった。それに、目が酷く充血していた。信頼している人に、あれだけの言葉を投げかけられれば、普通の人間なら耐えることはできない。それでも昔の自分ならなんとも思わない。しかし今の自分に降りかかったとしたら、と考えると、いくら人の感情の所作に疎くても夏樹の気持ちは察することができる。
 この場合には、どういった言葉を掛ければいいのだろう。自分より少しだけ低い位置にある夏樹の顔を黙って見つめ考え込んでいると、視線に気付いた夏樹が笑い出した。
「ホントに大丈夫です。心配かけてごめんなさい」

 
「この地図は本物だった。……時間がない。すぐ出る。ただ、村を出るまではゆっくり行くから。無駄に体力を使わないようにしたい」
 武田が小さな声で、しかしはっきりとした決意を含んだ声で、全員に伝えた。
 揃って研究施設へ先行した加奈と前川、孝徳を追う様だった。前川とは別行動を取るかもしれない。そう考えたとき、千絵は人知れず安堵していた。
 だが、結局は同じ道を通らなければならなくなったようだ。悄然としたところで日記の存在を思い出して、歩いている今しか見る機会は無いと感じ、手に取った。
 内容は、主に千絵への中傷と呪詛の言葉の数々だった。最後まで読んでから、黙って本を閉じた。
「……あのとき言ってた母親の、娘の日記? 武田から聞いたよ」
 声を掛けられ、隣を歩いていた一郎に初めて気付いた。全く気付かなかったために本当に驚いたが、顔には出さないようにして、視線を日記に戻した。
「ねえ……、分かる? これだけ恨まれても仕方のないことを、私、今までやってきて……。実際に見て、まだ、あのときみたいなこと、言える……?」
「ごめん、見てただけで中身は読めないから。でも、実際に見たって、前に言ったことは何も変わらないよ。半端な気持ちで言ったわけじゃないし」
 一郎は迷いもなく答えた。溜飲が下がった思いで、日記を背嚢へ入れた。
 それにしても、朝鮮からの養子だというのに、朝鮮語を読めないというのも妙な話だ。
「一郎って、朝鮮語、読めないんだ」
 少しおかしくなった千絵は、小さな声で笑った。



          *



 孝徳は、発作で意識が朦朧として咳を繰り返す加奈の背中をさすりながら、周囲に目を走らせていた。
 ここにはもう変異型は居ないようだが、油断はできない。前川に言われて、少し緩んでいた心を引き締めなおした。
「あの人たち、来るんですか?」
「たぶん来るよ。逃げる方法はあそこからしかないし」
 加奈がこの国から解放されるには、この脱出を成功させなければならない。だが、約六時間おきに発作があると言っていた彼女は、今も苦しめられている。それを解く鍵が、あの軍事施設には隠されているのではないか。一級資料はケソンに移送されたというのは嘘で、未だにあの場所には資料が眠っているのではないか。承晩以外が出入りする姿を一度も見たことがなく、警備しているのはいつもギルソンだということを思い出していた孝徳は、ただ逃げるだけではなく、それらを捜すことも目的のひとつに見据えていた。
 


          *



 街の守備隊は、帰還したチョルミンの指示で旧軍事研究施設に重点的に部隊を展開させた。寝返った美月曹長が、数人と共に軍事施設周辺に敷設された地下道を目指している可能性があるからだと説明された。数人による奇襲を警戒するには重点的過ぎると思ったが、チョルミンは彼女をどうあっても逃がすつもりはないらしい。松木の銃弾によって負傷した腕に巻かれた包帯を触りつつ、出入り口の歩哨であるジルミは微かに朝日が差し込み無気味な威容を放つ施設の内部を盗み見た。天井は高く遠く廊下は広く、一部しか見渡せなかった。
 わざと前線行きを志願し戦闘を行いながら脱走計画を練り上げたが、結局懸賞金つきの密告システムにより仲間に売られた彼女は、以降もひとりで数度脱走を試み、その度にチョルミンや承晩に連れ戻されてきた。ただ、あの化け物が警備にあてられるようになった最近は諦めた素振りを見せ、チョルミンも油断していたことだろう。彼女は脱走ごとに厳罰は当然受けたが、強制収監所送りになることはなかった。危険因子を何故前線に置いていたのか。答えは簡単、階級を低レベルに保ち小隊長程度の扱いにして、承晩が手綱をしっかりと握っていたからだった。だがその承晩は今、準南に呼び戻されて釜山だ。彼女にとって、絶好の機会だったのだろう。
 

 彼女には、幾度も助けられた。他の者達は自分が逃げたい衝動を堪えて必死に戦っているところをあっさりと放り出され憤激しているようだが、自分は違う。
 視線を施設の外に戻した。
 日差しが徐々に強まる十月六日午前七時四十二分。ジルミは銃を握る手を強めた。




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