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 間々田の潜入を許した国営軍も、小隊長クラスまでならば徹底した身辺洗い出しを施す余裕があり、それをクリアした者にはいざというときの為に、指示ネットワークに対する各種ID、パスワードが給付され、各戦地に伝達される低レベル情報の閲覧を許可されている。
 その情報に、十月六日午前五時、瀋陽付近の部隊向けに、ある指示が書き加えられた。瀋陽付近の部隊は直ちに撤退し、国連軍に収容されるようにとの指示だった。
 理由も何も知らされずの、突然の命令だった。

 瀋陽より先に取り残された約三百余りの兵士を助け出すか、見捨てるか。
 小隊長クラスよりも先行して直接伝達を受けた第三方面軍の司令部は、反発する者、指示に従おうとする者が対立し、紛糾した。

 だが、圧倒的敗勢の中、自陣に危機が迫る中、当初反発していた士官も時間を経るごとに、考えを変えていった。
 そして二時間後。司令部は、救出が困難な部隊は置き去りにし、瀋陽付近から全面撤退することを決定した。



          *



 夏樹を殴った右手に、まだ感触が残っている。自分では制御できない感情の波と言うのは今までもあったが、当事者以外に怒りをぶつけることはなかった。しかし今回は違う。あの先生が、死んだのだ。そして、死んだ先生を見ても、うろたえすらしない一郎を見て、ただ謝る夏樹を見て、何もかもが憎らしく思えた。
 彼と住むようになったのは、一郎よりも随分と先だった。確か自分の実母の兄が彼だったと幼心に記憶している。引き取られた理由は知らない。不妊治療をしたものの結局子供が出来なかった先生と奥さんの下に来てから、実の息子のように可愛がられたから、知る必要もなかった。そこで生活していてよく先生と話し込んでいたのが、多々良宗一だった。彼に連れられた息子の一郎とは馬が合い、すぐに仲良くなった。それから、小野医院が世界の全てだった自分は少しずつ、社交的になっていった。
 中学を卒業して、就職して、戦争が始まっても。それでも、一度だって忘れたことはない。先生に抱き上げられたときの感触、先生と宗一が談笑している様子、部屋にこもってペンを走らせている先生の姿、それを脇でずっと見ていた自分、旧式ストーブの点いている暖かい部屋……。何もかもを、憶えている。憶えてしまっている。忘れることなんてできない。先生との関わりが閉ざされていた可能性を広げ、自分の周囲を形作ってきた。自分を成長させてきた。

 徐々にではあるが、頭が冷えてくる。心の一部が欠落したような虚脱感は一層増していたが、今度は怒りの変わりに、悲しみが幅を利かせてきていた。怒りに任せてあの場を離れてから十数分。悲しみと並存して、自分の行動に対する後悔も立ち上ってきて、ようやく歩みを止めた。
 守れなかった。先生を。一番大切な家族を。
 考えてから浮かんだのは、夏樹の顔。
 夏樹は、まだ、泣いているのだろうか。
 父すら守れない自分の放った言葉のせいで、泣いているのだろうか。



          *



 俯く一郎の隣でいつまでも顔を上げない夏樹の髪をもう一度撫で付けてから、声を掛けられた千絵は、加奈に相対した。
 ベッドに座ったままの加奈は変わらずの無愛想でこちらを見上げた。
「……どうしてここに?」
「投降した。それだけ」
 ベッド近くの椅子に座る孝徳も、興味ありげな視線を送ってくる。加奈の部下である彼を最後に見たのは、開戦前だった。場数を踏んだのか、いくらか"こちら側"に近い顔つきになっている。
「……会ったら、確かめたいことがあった。なんで仲間を見捨てて逃げた、なんで一人だけ楽な方へ逃げた、って。……結局、私も逃げたから、お前のことは悪く言えないけど。ただ、興味はある。あの小山田千絵が、どうして寝返るなんて人間くさい真似ができたのか」
 "あの小山田千絵"というのは、ただ機械的に過ごしてきた、三年前からの一連の自分を指しているのだろう。
 説明しても加奈にはわからないだろう。現に自分でも、感情の変化に上手くついていけていないのだから。
「強制してるわけじゃないから、話したくないならいい」
 どう説明しようか迷っていると、加奈は微かに口元を緩め、言った。
 初めて見る彼女の笑顔を見て驚いてしまった千絵は、慌てて表情を消したが、見逃さずに加奈は言葉を繋いだ。
「自分でもびっくりしたけどな。目の前にいるのが、あれ程気に入らなかったお前でも……。自分の名前を知ってる奴がいるってだけで、すごく安心する」
 言葉を聞いて何か言おうとしたとき、預かっていたPDAが雑嚢の中でデータの受信音を発した。
「……失礼します」
 軽く加奈に頭を下げてそれを取り出し受信したデータを開こうとするが、データにロックがかかっていて出来なかった。受信音に気付いたのか近くに寄ってくる武田に、PDAを手渡す。
 小ぶりのキーボードを叩き始めた後姿を見つめる。

「小山田。そこにいる奴らは、もう、一緒に行動すると思っていいのか?」
 ディスプレイから視線を外した武田が、焦りを隠しもせずに言った。
 いいと思う、と返すと、彼は千絵の前を通り過ぎて外に出た。
 



          *



 部屋に居るのは八人。一郎、宮沢、千絵、孝徳、加奈、前川、夏樹、武田。
 安藤はどこに行っているのか分からないが、今は居ない。
 今はそれぞれが部屋の中で、座ったり立ったりしている。視線は、武田に向けられている。
「この包囲の中を、単独で撤退しろと言う命令が出た。このPDAではデータを受信はできても発信はできないから、状況がわからなくても、しなければならない。朝鮮と協定が結ばれたという記載はないから、恐らく朝鮮に対して、何かが行われるのだろうとは思う。脱出する方法は……このまま瀋陽付近を目指して膨大な変異型たちを突破するか、海岸を目指して艦隊に収容される僥倖を待つか。どちらにしろ、生きて帰れる保証は……ゼロに近い」
 状況を調べ考え抜いた結果を、なるべく感情を消して言った。
 対朝鮮の主要都市瀋陽は、信じられないことにたった一日の攻撃で陥落した。第一第二方面軍に加え、アジアの国連軍がウラジオストク周辺に釘付けになっているために、残存戦力の集中を図り戦線を広げた朝鮮に、退路は完全に絶たれた。それは絶望的な状況を示していた。この村で粘っていたとしても、相手は松木中隊を壊滅させた精鋭だ。支援も何もない状況ではいずれ弾薬が尽き、全員が殺害される。
 口を開こうと何度か努力するが、声にはならなかった。それはないだろう。そう思った。こっちはいつだって命懸けだ。必死に戦っている。何が撤退しろ、だ? それなら瀋陽を何とかするのが先だろう? 何を考えてる? 心の中では、国営軍上層部の意識の甘さに反発する言葉しか浮かんでこない。
「もっと情報を集めろ。せっかくの端末だろ?」
 ガムを噛みながら横柄な口調で思考を遮った加奈が、武田の持っているPDAを顎で示した。
 今は帽子を外しているから、顔がよく見えた。あの時と、同じ顔だ。間違いない。室崎伍長を殺して、次郎を連れ去って、次郎が拷問されるのを黙って見ていた、あの女だ。
「これ以外の脱出方法だってとっくに調べてる! 師団レベルがどの街道にも布陣されてるところを、九人で突破できると思うか? 横から口を挟まないでくれ」
 銃を向けようとする考えを遮ってどうにか声を荒げるだけに留めると、彼女は薄ら寒い笑みを浮かべ、黙った。生きて帰れる可能性はゼロに近いと言っているのに、なぜそんな余裕があるのか理由を問い詰めたかったが、傍に居た孝徳に睨まれ、これ以上空気を悪くする前に追求を取りやめた。それに、投降したばかりの兵士の言うことなど信用できない。前川の話ではあの間々田副長ですら国営軍を裏切ったのだ。部外者は誰も信用できない。
「いや。……武田君。彼女の言うことも、一応聞いて見た方がいい。嫌な奴だけどかなり頭は切れるから」
 思わず不機嫌な目で見返してしまう。
 間々田副長の裏切りを先程伝えてきたはずの彼の言葉に、理由を問い詰めようかと考えていた自分は棚に上げ、また苛立った。
 何故この女を信用しなければならない。朝鮮軍にいた、この女を。室崎伍長を殺した、この女を。
「投降兵の言葉など聞く必要ありません。もうこれは動かしようのないことなんです。瀋陽を突破するか、新義州の南岸を目指すか、ここで死ぬか。それしかないんです」
 感情を抑えたつもりだったが前川は苦笑いをして、少し顔を俯けた。
「武田君……少し、落ち着いて」
「そうだよ、お前らしくない」
「小山田。宮沢。俺、おかしいこと言ってるか? 落ち着け? お前らしくない? 俺はいつだって落ち着いてる! こいつは、次郎を承晩の元に連れ去った奴だ。室崎さんを殺した奴だ! そんな奴の話を聞く必要がどこにある。それとも、まだ恨みに思ってるのは俺だけなのか? 投降しましたっていったからってあっさり許せないのは、俺がおかしいからなのか?」
 軽く手を置くつもりが、机に置いた手が、存外大きな音を立てる。正面で武田の言葉を聞いていた千絵が、少し下がった。
「大体、お前らは何でそんなに落ち着いていられるんだよ。死ぬかもしれないってレベルの話じゃない。十中八九死ぬって言ってんだよ。言葉の意味がわからないのか? 俺は、この左目をやられたんだ。あの化け物に。それが何千っているようなところを突破して撤退? 冗談じゃない。お前らは戦闘が得意だから、冷静で居られるのかもしれない。だけど、俺はただの兵士だ。別に身体能力がいいってわけでもない、ただの兵士なんだ。白石で生き残ったのも小樽港で生き残ったのも傍ヶ岳で生き残ったのも、ここまで来れたのも、全部、運が良かっただけなんだ! お前らを死なせたくないし、自分でも死にたくなんかない。でも、もう、無理だ。運だけじゃ、どうにもならないくらい、朝鮮軍は強い」
 今まで感じ続けてきたコンプレックスと状況が相まって、感情の制御が上手くいかない。抑えていたものが、溢れてくる。
 さらに続きそうになる言葉を無理矢理飲み込んで、両手を机について下を向き、大きく息を吐いた。

「……小隊長は、最後までやるよ。こんな奴でも、いいなら」




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