47

 気付いた時には、返り血を浴びていた。振り返る間もなく家の中に押し込まれ、追い立てられるままに家の奥へと入っていった。隠れろという声が聞こえた気がしたので目の前にあったベッドの下に隠れると、今度はしっかりと銃声が聞こえた。あっという間だった。何が起こったのか理解できなかった。



          *



 武田、宮沢と合流することができたので一旦宿に戻り、兵士の証言を頭に入れながら宿の主人の地図を基に進退を協議しているとき、銃声が近くの家から聞こえた。一応は日本軍の支配下となっているこの村で銃声が聞こえたのは敵との交戦の証明になる。とにかく出ようということになり、五人で外へと出ると、そこかしこで銃声がしていた。そして武田の提案により、二手に分かれて街の様子を探ることになった。
 安藤と行動することになった一郎は、最も近くで銃声が聞こえた家屋へ走り、辿り着くと同時に屋内に突入した。入り口には三人の兵士が倒れていたが、まずは制圧が先だと言った安藤に従った。家屋内にも数人の兵士が倒れていて、奥では朝鮮語で捲し立てる声が聞こえていた。そして血痕を追った先には、白衣の老人に銃口を向けた朝鮮軍人がいた。一郎がすかさず足を止めて銃口を向けると、その兵士は銃を撃ってから反転し、一郎に嘲りのような笑みを浮かべた後、一瞬にして窓ガラスを蹴り破って家屋を飛び出した。
 追おうとして、安藤の声に足を止める。振り返ると、倒れていたのは軍に随従して軍医を務めているはずの……自分と彼が、先生と慕う老人だった。血が吹き出ているのは胸の辺りからだった。

 体を揺すって離れようとしない安藤を突き飛ばして、抱き起こして手近なベッドに載せた。配属先というのがここだったのか? という考えは浮かんだが、何も出来ない。自分には医術の心得など欠片もないし、安藤だって似たようなものだ。すると小野が何かを言った。指はベッドの下を差していた。頷いてシーツを捲ると、下には瞳を大きく広がらせた少女が、震えながらこちらを見つめていた。引き寄せようと手を出すと、指先に鋭い痛みが走った。恐らくは噛み付かれた痛み。
「夏樹。落ち着いて。……分かる? 俺。一郎だよ」
 声を出すと、痛みが弱まった。
「そこから出してあげるから、手に掴まって」
 ゆっくりと彼女の口が手から離れ、代わりに震える手が一郎の手を強く掴んだ。腕を引き寄せると、瞳孔が散大し続けている彼女と、視線が合った。
 顔中に黒い血液がこびり付いた夏樹は震えた状態で立ち上がると、か細い声で先生はどこ、と訊いた。
 ベッドに寝ている小野を見た後、またか細い声で言う。
「奈良原さんと桂木さんは……?」
 夏樹の呟きに、倒れていた兵士を思い出した一郎は、慌てて玄関に向かった。


 
 二人は死んでいた。銃で頭を撃たれている。
 ただ、一人、背の高い中年の優男は生きていた。それでも、傷は深い。急いで体を支え戻る。
「ご……ごめんなさい……!」
「お前、先生を守りもしないで何で隠れてた? いくら元気だって六十過ぎた老人だぞ? お前の方がまだ対抗できる可能性はあっただろうが!」
「あ………何が……なんだか、分からなくて……」
「信じられねえ……。育ててもらった恩を忘れたとしか思えねえよ。お前はそういう奴なんだな。目の前の老人なんかより、自分の命のほうが大事だったんだ……!」
 戻ると、安藤が夏樹のことを責め立てていた。今までに見たことのない剣幕だった。戦闘中ですら見せた事のないような顔。
「止めろ安藤。夏樹のせいじゃないのは安藤だって……」
「うるせえ! お前、先生がこのままだと死ぬんだからな? 分かってんのか! 何でそんな冷静でいられる! お前ら兄妹は……これを見てもなんとも思わないのか!?」
「軍医になると決めてから先生だって、こうなることは……」
「夏樹、早く銃弾を摘出しろ」
 一郎の言葉を無視して、安藤は再度夏樹を睨んだ。
「え………そんな……私…」
「早く」
「い、嫌……でき、できないよ……」
「早ぁく!」
 安藤が怒鳴ると、震えながら答えていた夏樹が、逃げるように、玄関へ走り出した。
 それを安藤が追うのを見て、一郎も怪我した兵士をベッドに寝かせ、また玄関へ戻る。
 
 
 扉が開いた音がしたと思うと、突き飛ばされた夏樹が地面を転がっていた。夏樹は立ち上がり、安藤のほうを見た。一郎は安藤が頑として玄関を譲らないので割り込むことが出来ず、後ろでその様子を見ているしかなかった。夏樹の顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「……そんなこと、できない……」
「お前、今まで何やってきたんだ? こういうときの為に勉強してきたんじゃねえのか。どうしてできねえんだよ!」
「き……器具があっても、わた、私、じゃどうしようもない……」
「……は? 本当に、そんな簡単に諦める気なのかよ? 元はといえばお前が……!」
「これ以上どうしようもない……。もう手遅れだよ……。絶対に助……」
 夏樹が泣きながら言うと、安藤が玄関から飛び出し、彼女を殴った。手加減をした様子はない。再度地面に倒れた夏樹が体を震わせると、安藤はそのまま足を反対へ向け、どこかへ歩いていく。ゆっくりとした歩調。一郎は、慌てて安藤を呼び止めた。
「安藤! ……どこに行く気だよ」
 一郎の言葉を再び無視した彼は、近寄るなと背中で語り、歩き去っていった。



          *



 ノックの音が聞こえたので、夏樹は冷たくなっていく奈良原の手を握ったまま、どうぞ、と声を出した。まだ体は震えていた。
「あ、あの。ここが、医療拠点だと聞いたんですが」
「ごめんなさい……いま、軍医がいなくて、どうすることもできないんです……」
 先生は、もう息をしなくなった。桂木さんも、死んだ。河野と言う士官を助けなければ、二人とも、死なずに、済んだのだろうか。
「そんな……! このままだと、滝君が!」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! 全部、私のせいなんです……。私が、私がしっかりしていれば……!」
「……ベッドを、貸してくれませんか」
 滝と呼ばれた青年が、小さな声で言った。
「もう、いいです、前川さん。どうせ、血を分けてもらえなければ出血多量で死にます。あの化け物にやられた時から、覚悟してました。河野さんも、死んでしまったみたいですし……」
「でも……!」
「ありがとうございました。俺みたいなのを、北海道で生き残らせてもらって。あの後家族と会えただけでも、嬉しかったです……」


 
 安藤に殴られた頬が、じりじりと痛む。



          *



 しばらく茫然と突っ立っていた後で我に返り、部屋に戻った。人の数が増え、五台あったベッドは全て埋まっている。確認すると、女以外の四人が死んでいた。
「……夏樹」
 立ったままの二人に椅子に座るよう勧めてから、俯く夏樹を見つめた。彼女の右目の下あたりに濃い痣が出来ていた。
「……私のせいで……先生も、奈良原さんも、桂木さんも、死んじゃった……。私のせいで……!」
「落ち着けって……。……夏樹のせいじゃない。どうしようもなかった」
「う、嘘! 違う! 私のせいだって言ってた。安藤くんは、私のせいだって! 私が、隠れて、守らなかったから、みんな、死んだってっ……!」
 取り乱した様子で、夏樹が言う。今度ばかりは、安藤を非難したい気持ちがどうすることもなく沸き上がってきた。お前と夏樹を、一緒にするな。心の中で毒づくと、夏樹が奈良原のお腹の辺りに顔をうずめた。彼女の肩が上下している。それきり、会話は止まった。話しかけても、反応がない。
 父代わりの、小野をこのような形で喪ったのは、今はまだ実感できない。実感すれば、自分も夏樹のことを責めたくなるのだろうか。
 ……けれど今は思う。夏樹に当たり散らすなんて、最低だ、安藤。
「あの」
 一郎がため息を吐いた後、自分より年上と思しき兵士が口を開いた。
「……前川って言います。で、こっちが孝徳君。寝ている女性が美月加奈」
「あ……よ、よろしくお願いします。俺は多々良一郎です。……今、取り乱してるのが……夏樹っていって、妹です」
「ここを襲ったのは、もしかして、二十代前半くらいの男じゃありませんか」
 朝鮮軍の軍服を着た、長身の孝徳が間隙を挟まず言った。
「そうだとしたら、彼はストレイジ……という人みたいです。加奈さんの話では。あ、加奈さんも、そうなんですけど! さっきから、なんだか脈が凄い早いスピードで推移してて、どうしたらいいか、分からないんです。このまま、死んじゃうんじゃないかって……。でも、医師じゃないと、やっぱり分からないですよね……」
「……それなら……」
 ストレイジだというなら、あの動きは理解できる。安藤ですら対応の出来なかった、あの異常な身のこなし。
 加奈に対しては、薬があると思い出して動こうとするが、今更のように小野が撃たれた瞬間がフラッシュバックしてきて、動かしかけた体が止まってしまった。
「俺の背嚢に、薬が入ってる。そこの、死んだ………軍医が作ってくれたものが。……俺も、同じだから」
「……同じ?」
 一郎は肩口の実験番号を、孝徳に見せた。
「……たぶん、その薬を、飲ませてやれば、大丈夫」
「あ……ありがとうございます!」


 

 この村で今起こっている出来事と、自分達がここへ来ることになった簡単な経緯を話し、前川達も同様に、ここに来るまでの経緯を説明した。
 前川は隣町の制圧の為に松木中隊と行動をし、孝徳と加奈の二人を投降させ、森を抜けてきたようだ。後から追いつくと言った松木はまだ来ないという。
「チョルミンって奴が、先生たちを殺したのか……」
「……ええ。恐らく。加奈さんの方が詳しいとは思いますが……」
 孝徳は喉奥に錠剤を放り水を流し込んで薬を飲ませ、それからずっと加奈を見ていた。彼は眉根を寄せうなされている加奈の額の汗を拭いてやってから、一郎の問いに答えた。
「表で死んでいた河野という兵士を追跡したのがチョルミンです。それだけなのに……あの男は、この村の住民も巻き込んだ様子で……」
「……どういう、奴なんだ?」
「最低な奴です。出自の低い者を、平気で甚振る。朝鮮軍にあんなのがいるから、きっと加奈さんは、今まで、ずっと……」
 後半を呟くように言った孝徳の隣で、加奈が一際大きく呻いた後、突然飛び起きた。加奈の顔が間近に迫った孝徳が驚くと、彼女はもっと驚き、顔をすぐに離して、後ろの壁に頭をぶつけた。前川が、顔を歪めた彼女を見て笑ってしまった後、思い切り睨まれすぐに笑みを消した。
「……孝徳。状況を報告して」
 加奈が孝徳に視線を移したところで、一郎は席を外した。



 前川も一郎と同じく席を立つと外に出て松木を待ち、夏樹は部屋の一番端のベッドで、とうに動かなくなった小野の手を握っている。
 隣に座り、一郎も彼の手を握った。
 まだ温かみを持つ"先生"の手だった。信じられないという思いで、もう一度、脈を取る。反応は無い。
 彼の手を介し感じられる夏樹の手が動いたので彼女を見遣ると、夏樹は泣き腫らしてもまだ枯れない涙の流れている顔を、こちらへ向けた。
 それが、事実を静思していられる限界だった。
 彼の死が急激に現実感を帯びてきて、一郎は、その手を握ったまま俯き、流れ始めた涙を、夏樹から隠した。 



          *



 村を一通り回ったが、既に敵は撤退したようだった。小さな村ではあるが、それでも二十数軒の家があり、全ての家に突入の形跡があった。この短時間の間に制圧された家々では、住民も例外なく殺害されていた。自分たちがいた宿の主人は、村を回っている間に殺害されていた。千絵は、日本軍の支配下に入ったにもかかわらず協力的だった住民への報復と推測しているらしい。一郎たちはどこに行ったのだろうと思い、周辺を捜索すると、すぐに見つかった。小奇麗な家屋の軒先で、以前札幌で一緒の部隊になったことのある前川が黙って一点を見つめていた。
「前川さん! どうしたんですか? この周辺に部隊が?」
 宮沢が声を出すと、前川は驚いたように顔をこちらへ向け、次に笑顔になった。
「あ、宮沢君じゃないか。……この間、同じ輸送車に乗っていたのに声掛けてくれないから忘れられてるのかと思ったよ」
「前川さん、一緒の車に乗っていたんですか? 暗くて気付かなかったのかなぁ」
「俺も気付きませんでした」
 横から言った。輸送車の中では、ほとんど眠っていたから、気付かなかったのだろうか。
「そちらの女の人は?」
「小山田千絵って言って……俺の部隊の一人で、朝鮮からの投降兵です」
 千絵という言葉に何故だか反応した前川が一瞬顔を顰めたが、すぐに気を取り直したように千絵に笑顔を向け、よろしくと言った。彼女も前川の表情の翳りを捉えたのか、躊躇った様子を見せた。
「あの……?」
 なんでもない、気のせいだったみたいだから気にしないで、と前川が顔の前で手を振ると、千絵はほっとしたように緊張した表情を消した。

「……そういえば、小山田、何で髪上げてるんだ?」
 宮沢は前川と軽く話した後で中に入り、前川は誰かを待つように壁に寄りかかったままだ。会話の流れが途絶えたので今更のように訊いた。個人的には前の方が良かったと思っていたからだったが、口には出さない。
「え? あ……ちょっと理由があって、この村の人たちには良く思われてないから、髪でわからない様に、していたんだけど……。もう必要ないか……」
 最後はいつもの様にひとりごとの声量で言った千絵が、帽子を取り、ピン留めを外して髪を下ろした。
 白い髪が露出されると、途端に、武田と千絵を漠然と眺めていた前川の表情が変わった。驚きの後に、取って代わって憎悪の表情を千絵へ向けた。温厚な印象を受けていた前川からは、想像もできない表情だった。



          *



 
「お前、憶えてるか。国境で、十歳くらいの娘と、母親を、追ったときのこと……」
「……何で……そのこと」
 何の前触れも無く、前川という兵士が近づきながら言葉を発した。
 突然自分の過去を言い当てられたことに戸惑い、思わず口を開いてしまい、取り繕う暇もなく、静かな怒りを湛えた瞳を見返した。
「……お前が殺したんだろう。そのときの母親を」
 殺した、母親。
 肉の削ぎ落ちた頬、窪んだ眼窩から転がった眼球、ナイフで滅多刺しにしたあとの体。一郎に受け止めて貰ってどうにか押し留めたものが、再び思い出され、千絵は武田に助けを求める視線を送ることすらできず、自分でも動揺し始めたと分かる表情を、前川に向けたままどうすることもできなくなってしまった。動揺を肯定と取ったのか、前川は歩みを止めずに目の前まで来た。
「何も殺さなくても良かったはずだ。違うか。それは、脱北者を取り締まるのも仕事のうちだろう。でも。殺された母親の体重は三十八キロしかなかった。しっかり取り押さえていれば、母親はどうにもならない。それなら、強制収監所に送るだけでも済んだはずだ。規制が緩まっているから、上手くいけば生き延びる可能性もあった。なのにお前は。十歳にしかならない子供がいる母親を……。惨殺した。最初にミスしたのは……逃げる隙を与えたのはお前なんだろう? それを隠すために殺した……違うか?」
 静かな口調だったが、言い終えると、前川は千絵を突き飛ばした。
 動揺した千絵はあっさりと地面に尻をつき、前川をそのまま見上げた。
「分かってるか? 朝鮮で、十歳の子供が、生きていくってことの意味。知らないはずは無い。お前は朝鮮軍にいたんだから。そうだ。知らないはずは無い。お前はただ単に、人を殺したとしか思ってなかったんだろう。その後に残されたやつのことなんて、全然考えてない……」
 反撃しようとすると、前川に腕を押さえつけられ、身動きが取れなくなった。全力を出せばどうにか打開できるが、殺した母親の残像が、未だにまとわりつき、反抗する気力を奪っていた。
「十歳の子供が残されて、どんなに惨めに生きてきたのか、分かるか? あの部屋のあのにおい、日記を見せるときの彼女の顔、日記の中に書き連ねてあるお前への憎悪、自分への……生きることへの嫌悪、客の相手をした後の死にたいと顔に書いてあるような彼女の表情! 全部。全部、お前が原因だ……! あの子は、たったの十歳で、誕生日に、娼婦の仕事を始めた。何度も何度もセックスして、一日働いて得られる食べ物は毎日お前ら軍人の一食分だけ。家があるだけ良い? 娼婦としてやっていけるだけ良い? 俺は絶対、そんなのは認めない。お前がいなければ、あの時お前が母親を殺さなければ……ミスを隠すためだけに、人を殺すなんて真似をしなければ……!」
 腕が自由になったと思ったら今度は胸倉を掴まれながら起こされ、地面に放られた。後頭部がコンクリートに当たり呻くと、一冊のノートが宙を舞い、顔の横に落ちた。
「……その子の日記だ」
 怒りを抑えた声を出した彼はそれだけ言うと、千絵から離れていった。


 しばらく前川を見つめていたが、やがて武田に差し出された手を無言で掴み、立ち上がった。自分で立ち上がる自信はなかったから、その気遣いは有り難かった。
「……事情は分からない。でも……俺、前川さんが、あれ程激昂することをしたんだとしても……今のお前が、それを受け止めようとしてるなら、手伝う。できることがあれば言ってくれ」
 再び壁に寄りかかった前川に聞こえない程度の声量で言うと、それから少し後悔した様な表情をした武田は軽く頭を掻いた。
「あー……。寒いから、そろそろ中に入らないか。一郎の方が、事情も分かるんだろうし、俺なんかが言うより……」
「……武田君、もしかして、慰めてくれてるの?」
「いや、何て言うか……」
「ありがとう。だけど、大丈夫だから。自分がしてきたことは受け止めなければいけないっていうのは、わかってる」
「……無理するなよ。俺はもう、過去のことで責めたりしないから」
 苦々しげな表情の武田の右目を観察するように見てから、千絵は黙って日記を拾い上げた。
「……うん」
 武田と話すときにいつも感じる悲しさをこのときも味わいながら、顔を俯けた。今まで自分が壊してきたものは、あの母親と、娘の人生だけではない。

 三年前、自分が壊した、大好きな場所があった。




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