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 先に行けって言われたって。言われても諦めきれず、未練がましく松木の姿を見ながら速度を緩めていると、頭を引っ叩かれた。
「死ぬぞ」
 それだけ言って、加奈は自分を追い越して行った。前川はもう一度だけ松木を見てから、その後に続く。散発的な銃声が背後で鳴り響いていた。




 森に入ってしばらく走り、振り返る。自分達の走ってきた道がある。それだけだ。松木の姿はない。二日、共に行動しただけの中隊長に、どうしてここまで肩入れするのか。分からなかった。しかし、早く追いついて欲しいと願う自分の気持ちは、走るたびに強まっていった。草木を踏み締めるたび、振り返りたくなる。あの戦闘力だ、追いすがる敵兵を一蹴してもおかしくはない。まだ可能性はある。……言ったじゃないか。追いつくから先へ行け、と。
 そこで、尋常ではない叫び声が轟いた。人外の叫び声に、思考も一時的に霧散する。
「変異型だ。対処は教えたな? 逃げるだけだ。奴はこの火力で勝てる相手じゃない」
 変異型。ストレイジと言う人的兵器が、さらに人間離れを重ねたもので、自我をほとんど失った、化け物。廃工場の階段を降りる途上で受けた加奈の説明は的を得ていて、ストレイジと言う言葉さえ知らなかった自分にも理解できた。要は朝鮮軍の人体実験の被害にあった人々が、完全に兵器として確立されたという話だった。松木への心配は杞憂になると信じてどうにか奥に押し込み、前川は戦闘用の集中力を引っ張り出した。
「どこから音が?」
「近い。いいか。図体に惑わされて距離を測り間違えるなよ」
 加奈が言うと、すぐ右で草葉をかき分ける音が聞こえた。並の銃弾は効かないらしい。逃げに徹しようと思った前川は、走る速度を速めた。



          *



 木々の間から飛び出した太い腕は、最低限度敵と味方を間違わない程度の自我を持つ平常状態と違い、興奮状態になると現れる紫の痣と通常の肌とで、まだら模様を作っていた。前を走る孝徳はそれ程早くない。簡単に腕の直撃を喰らって、地面に倒れこんだ。舌打ちしてから、変異型の腕に銃弾を撃ち込み、腕が引っ込んだ隙に孝徳を抱き起こして立ち上がらせる。
「早く走れ。前川について行けば助かる。私はこれを片付ける」
 声を掛けた後で、彼の背中を強く押すと、草木の隙間から、顔が覗いた。孝徳を守るように体を反転させると、加奈は十六発装填タイプのオートマチック拳銃をそれへ連射した。皮が剥がれるだけで、たいした打撃にはならない。しかし着弾の衝撃で体が仰け反るのは確かで、孝徳が逃げる隙は作ることが出来た。彼の離脱を確認した後で、ストレイジである利点を生かして普通の人間ならば渡り合えない変異型の超人的な拳打をかわしていく。この兵士は確か蹴りも使うはずだと思い警戒を緩めず、P92旧型を構えようとするが、手を入れ探った雑嚢に入っているのは、その弾倉だけで本体はなかった。
 P92旧型をギルソンに落とされたと思い出している間に、警戒していた蹴りが飛ぶ。加奈は一瞬途切れかけた集中力を手繰り寄せてから全身の力を抜いて地面に素早く体を伏せ、次に背筋を使って瞬時に起き上がり、伏せていた位置に降って来た振り降ろしも避けた。避け続けたとしても、強力な特殊弾薬を使用するP92が無い。どうやって変異型を倒す……? 考えている間にも、かつての同僚、キョンリムが思考を停止した白目を剥いて、連続した攻撃を繰り返す。発作がない分、長引けばこちらが不利だ。弱点は目。目を潰せば何も出来なくなる。拳銃で目を狙って潰そうとするが、尋常ではない速さに、狙いを絞っている暇は無く、ずるずると体力を削られていく。
 それでも……思考を停止した彼に、負けたくなんてない。諦めずに目を目掛けて連射を繰り返し、拳打を避ける。右耳を掠っただけで、皮が破れ血が噴出す感覚がした。確かに、朝鮮軍が地上戦で押し勝っているということも分かる。この化け物の大群と戦えば、精強で鳴らす米軍もただでは済まないだろう。自分の周りのストレイジは多く数えても百名に満たないが、実験番号がアルファベットに加えて四桁もあることから鑑みてもあと数千人、下手すれば数万人、変異型がいてもおかしくは無い。数万人も、この男と同じように、人間としての意識を、尊厳を、奪われた奴らがいる……。そこで、上段に蹴りが入ろうとしたので、素早く身をかがめて、そのままキョンリムの足元に突っ込み、股下から見上げて銃弾を撃ち込んだ。効いている様子は無い。股間以外の急所ならば全て以前に試したことがあったが、これも、他と同じように効かなかった。もう少し承晩に変異型の構造を聞き出しておくんだったと後悔して、むずがる払いの腕を避ける。加奈の僅か数センチ上の、細い木がなぎ倒される。……化け物だ。しかし、自分もこの化け物と、似たようなものなのだ。実験で、人格形成も、人体の形成も行われた。そして、後ろから倒れてくる木を避けた時、キョンリムへの警戒を薄めてしまった。すかさず蹴りが入る。
 片腕で、小さいながらも木をなぎ倒す力に腹を蹴り飛ばされ、加奈は軽く宙に浮いた後、草むらを転がった。
「っ……ぁ……」
 今までに摂った食事が戻りそうに成るのを堪え、顔を上げると拳が胸を襲い、仰向けに引っくり返る。今度こそ摂った食事を吐き出してしまい、反対の手が自分を押しつぶそうとするのをどうにか両手で掴んで押し留めてから、腕に直接銃口をつけて連射する。すぐさま体勢を立て直し、弾切れの感覚とともに拳銃を仕舞ってナイフを取り出した。


 次の動作に移ろうとすると、ナイフを持つ手が震え、手からそれが離れる。いつもの発作の時間が、周って来た。まずいと思うと同時に、心臓が大きく弾んで、全身から力が抜けていく。ここで気絶なんかしたら、どうなる? 考えるが、力の抜けが止まらない。足の筋肉が弛緩して行く。キョンリムの拳は眼前に迫り、その状態の加奈を容赦なく襲った。右肩口に直撃した拳は、走りながらどうにか止血した銃創を、再度活性化させて血を流させ始め、加奈は近くにあった木に後頭部から突っ込んだ。脳が揺れ、朦朧とした視界で、見上げる。しわだらけで髪も一本すら生えていない頭、全裸だというのにそれを感じさせないほど爛れた皮膚、自我の無い瞳。
 今日二度目の、死の覚悟をしたとき、その爛れた皮膚を遮る影が一つ伸びた。夕焼けの光が影を長く伸ばし、加奈を覆い、キョンリムの攻撃から救い出す。彼の打撃は木を直撃し、大きく揺らす。 
 孝徳だった。思わず、彼の胸の辺りの軍服を掴む。
「前川についてけって、言った、のに……」
「……前川さんの後に、ついて来たんです」
「投降した兵を捨てて逃げるって言うのも……松木中隊の人たちはたぶん、女性を大切にすると思うし」
 遠くで言った前川がキョンリムを引きつけている間に、孝徳の腕に抱えられた身を起こし、地面に飛び降りた。心臓は爆発するように脈打っているが、息を断続的に吐き出して耐えた。目の前で孝徳たちを殺されるくらいなら、この程度、幾らでも耐えられる……。両足で思い切り地面を踏み付け、足の筋肉の弛緩をどうにか押し留めようと踏ん張った。今までは発作が起きても最初から諦めていたので、初めての抵抗だった。思ったより、動ける。ただ、全身を包む気だるさと、呼吸の困難さだけが酷い。
「下がってろ」
 前川もお前もあいつの動きには対応できない。続けて言おうとしたが、呼吸がついていかないので黙って両腕で拳銃の弾を替えて、爛れた背中へ撃ち込んだ。小銃でどうにか攻撃を受け止めていた前川から、こちらへと視線を移す。
「曹長! 近くに崖がありましたよね! 確か! 利用できないでしょうか!」
 散開してかなり距離の開いた孝徳の声が耳に入る。そうだ、どうして忘れていたんだ、崖を利用すれば……と考え方向転換をしようとすると、右足から力が抜けかけた。少しでも油断すると倒れこむ状況に変わりはない。
「援護」
 をお願い。また言おうとして、言えなかった。降って来た拳のせいで、伝わったと判断する間もなく、走り始めた。本当に呼吸以外の余裕は無くなっていた。変異型の体が大きいことを利用して、枝などが邪魔をする細い道を選び、進んでいく。時折射撃の音が聞こえ、援護してくれているということが分かったが、この速度で走っていれば、いずれその援護も無くなるだろう。しかし発作中だとはいえ、まだ自分にもストレイジとしての意地がある。援護に頼らずとも、どうにでもしてやる。弛緩を進めていく筋肉を奮い立たせて走り続けた。




 崖と、崖下の存在を確認した瞬間、このままでは追い込まれると感じた加奈は急停止し、なかなか勢いを止められなかったキョンリムの足元を潜って立場を逆転させた。キョンリムの懐に入ったまま腹の辺りに蹴りを入れ、拳銃を残弾十五発全て撃ち尽くし、また渾身の蹴りを入れ続ける。押し蹴り上段、膝蹴り、横蹴り中段、後ろ回し蹴り、自分よりも一メートルは大きい巨体を崖下へ押し込むための、自分が考えうる最大の攻撃を仕掛ける。突然の攻勢に怯んでいる彼は、徐々に落下への距離を詰めていく。加奈は満身創痍の体にさらに鞭を打って、これで最後だ、と、全身全霊の力を込めて二段蹴りを放った。
 落とした、と思うと、キョンリムが、加奈の蹴りに、最後の最後で反応する。二段蹴りの二段目で、加奈の足を掴んでいた。
 骨ごと砕かれるかのような強力な掴みに悲鳴をあげてしまうと、破裂しそうな心臓の鼓動がさらに早鐘を打つ。
 意識を手放したいという精神的、肉体的欲求が最大に高まったとき、銃声が間近で爆発した。小銃の弾の一つが足に当たりまたもや激痛を感じるものの、腕の掴みが緩まったのでどうにか振り解いて雑草だらけの地面に前のめりに倒れ、腹這いになってキョンリムから必死で離れた。小銃の射撃音は激しさを増して途切れることはなく、数十秒後、着弾の音が聞こえなくなったと思ってどうにか見上げると、火炎手榴弾らしき物の爆発が起きた後で、キョンリムが十数メートル下の低地へ、体を落としていった。
 ……やったのか?
 加奈は心臓が機能不全を起こすのではないかと心配をした直後、突っ伏し雑草に顔を埋もれさせていた。



      *



 ついさっきまで千切れそうだった気管支が徐々に元の呼吸を取り戻していく。前川は変異型が落ちたことを崖まで行って確認して、近くで倒れている加奈の背を軽く揺すった。反応はない。手首から脈を取ると、尋常ではない速度で血液が循環していた。命の危険はないと思うが、このままでいいのかは分からない。
 対応を迷っていると、背後からようやく孝徳の追いつく気配がした。運動能力が高い方でないのか、あるいはただ単に筋力が発達途中だからなのか、それ程走るのは早くない。汗を拭って振り返り、彼と視線を合わせ、前川は目を瞠った。
 視線の先には、孝徳に支えられた滝がいた。

 呼び止められ、朝鮮軍の服装をしている自分を攻撃しない兵士に首をかしげて近づくと、先に走っていった前川を見たが声を掛けられなかったので案内して欲しいと言われたらしい。孝徳が「投降兵です」というと安堵したという。それが滝だった。
 出血が酷かった。特に変異型に食い破られたという肘から先の無くなった右腕からの出血が酷い。ナイフで滝の軍服を切り、傷口のやや上できつく縛ったあと、背嚢から消毒薬と包帯を取り出し処置をし、手で抑えた。彼は血の気の失せた顔を前川に向けていた。
「南の村には日本軍の医療拠点ができる予定と聞きました。もう出来ているかもしれません。崖に沿っていけば村に出るのはすぐです」
「……孝徳君は美月を連れてきて」
 止血が完全ではない状態で動かすことは危険だと思ったが、このまま縫合せず放置しては命に関わる可能性が高い。
 自分で傷口を圧迫するように言って、前川は滝に手を貸しながら崖沿いに歩き始めた。




 そこに広がっていたのは惨状と云うべき光景だった。
 村中に硝煙と死臭が漂い、前川は隣で加奈を抱きかかえる孝徳と目を合わせると、彼は目を伏せ、
「チョルミンという前線士官が数名を連れて逃げた兵士を追って……掃討後帰還する予定になっていたはずなのですが」
 と、呟く様に言った。奥に歩みを進めていけば、いくつかの日本軍兵士と一般市民の死体が点在していて、家の壁にも銃弾着弾の跡が幾つか残っている。チョルミンの部隊と、日本軍との市街戦があったのだろうか。生きている人間はいないのかと思わせる雰囲気に気圧されながらも医療設備を探し、簡易手術のための用具を積み込んだ車が裏手に停めてある家屋を見つけることができた。滝を助けることができるかもしれないとにわかに沸き立った心で近づくと、その家屋の扉が突然開き、そこから突き飛ばされた女が地面を転がった。女は腕を突いてゆっくり立ち上がり、扉の方を見た。
「……そんなこと、できない……」
「お前、今まで何やってきたんだ? こういうときの為に勉強してきたんじゃねえのか。どうしてできねえんだよ!」
「き……器具があっても、わた、私、じゃどうしようもない……」
「……は? 本当に、そんな簡単に諦める気なのかよ? 元はといえばお前が……!」
「これ以上どうしようもない……。もう手遅れだよ……。絶対に助……」
 女の方が泣きながら言うと、男の方が扉から離れて近づき、女を殴った。手加減をした風体ではなかった。再度地面に倒れた女の方が体を震わせると、目付きの険しい男はそのまま足を反対へ向け、どこかへ歩いていく。ゆっくりとした歩調。女は、様子を見ていたこちらに気付くと、真っ赤に充血した目を逸らし、屋内へと入っていった。代わりに、屋内から飛び出した男が、目付きの険しい男を追っていく。輸送トラックの中で見た顔だった。
 前川は医療設備前での口論に嫌な予感を携えながら、家屋の扉をノックした。


 反応があるまでの数秒の間に、松木はまだ追いつかないのだろうかと、後ろを振り返った。
 松木はまだ来ない。




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