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 二〇四六年十月七日、当初圧倒的支持を受けていたアメリカのバンダヴァ政権は窮地に追い込まれていた。度重なる戦争への介入による軍事費の増大化、借金の巨大化。国民の支持は既にバンダヴァから離れてしまっていた。そして予想外の、朝鮮から中国保守派への軍事侵攻。短距離ミサイルやピンポイント爆撃といった空中戦は対空兵器に抑えられ、地上戦を中心に展開させられた米海兵隊は、化け物じみた朝鮮軍兵士により撤退を重ねた。十月六日、ついには対朝鮮の重要拠点瀋陽まで制圧され、兵士の被害は瞬く間に十数万に上った。前代未聞の緊急事態に、すぐさま中国からの撤退を求めた野党に対してバンダヴァは断固としてこれを拒否。軍事的外交に疎い彼が追い込まれれば何をするか分からないと、与党内でもバンダヴァを大統領から引きずり下ろそうとする動きが強まっていた。


 全軍後退し瀋陽の朝鮮軍と交戦中の国営軍第三・第四方面軍は、粘りを見せ前線を維持。寄せ集めではあったが志願兵を多く含んだこの軍は士気も群を抜いて高く、朝鮮軍の猛攻にも数日間耐えていた。精鋭である岩波大将率いる第一第二方面軍も台湾空軍との連携でウラジオストク港から展開、極東連邦管区と互角に渡り合いをしていた。本州で放射能に汚染されていない地域からの物資的援助もあり、まだ戦争としては成り立っていた。



          *



 
 目ぇ赤いぞ、とふざけて言うと、扉が無い事務室での会話が丸聞こえだったことを知ってか知らずか、加奈は無言で睨んできた。先程まで泣いていた女だとは思えなかった。逃げたければさっさと準備しろと投げやりに続けた彼女に大人しく従い、移動を開始したのが二十分前。廃工場の階段を降りる途上で色々と加奈から聞き出すことに成功した。裏切ったのは間々田だったということ、仲沢はその部下だということ、南側の森林には変異型が配されているということ、そして森を抜けた先にはチョルミンと称した間々田がいるはずだということ。ただ、やはり南以外の街道は警備が厳重で抜けようが無い為に、変異型の目をどうにか眩まして先へ進むということになった。
 昨日から、自分の予想を超えた事態が続いている。作戦が成功したと思えば間々田、仲沢が裏切り別働隊は壊滅、安全に隠れる家屋を見つけたかと思えば前川が感情に流され進軍を早めざるを得なくなり、さすがに簡単には投降しないだろうと思っていた美月加奈があっさりと協力を承諾し、一か八かと考えていた街の脱出が現実的な色を帯びてきた。他人の恋愛を二度も間近で見るというのも、ある意味想像を超えてはいた。そんな二組を見て、早く帰って朱音に会いたいと思うようになってしまったのも予想外だった。隣を無愛想に走る加奈に性格は似た、凶暴な女。顔は圧倒的に負けているが、何故だか気が合い、何故だか結婚までしてしまった女。
 結婚したのは二十二のときだった。わかば園を周囲から警戒していた自分が、昼食や夕食や夜食を良く食べたのが、わかば園近くのデパート内に展開している全国チェーンの激安ラーメン店。初めて店に入った時、すいません、と呼んでからメニューを開いて選んでいると、上から降ってきたのは「呼ぶ前にしっかり選んでおいてくれませんか? こっちも忙しいので」と言う、不快を包み隠さない言葉だった。美人だったら素直に謝ろうとしたが、奴の顔は全く良くない。ネームプレートの「まつき あかね」という文字を確認した後に遠慮なく反論して、口論になった。しかし次に食べに来たときは、こちらに気付いた朱音が素直に謝りに来たので苦笑交じりに許し、それからは深夜で客が少なくなったころ、たまに話すようになった。話すことは特に決まっていなかったが、朱音を前にすると専衛軍での出来事や愚痴も、すっと抜けていくように話すことが出来た。何度かそうしているうち、気付けばあの無愛想な女を笑わせることが、何の楽しみもない警戒任務の、唯一の楽しみになっていた。話しているだけで楽しかった。
 警戒していたにもかかわらず、小山田千絵の存在を察知できずにわかば園の住民全てを殺されたときも、責任を感じてどん底まで落ち込んだときも、何故だかは分からないが、朱音の容赦ない直球の言葉たちが、逆に自分を奮い立たせてくれた。特別任務の報酬として休暇を貰った後は、朱音と色々と出掛け、三年前のちょうど今日、結婚を申し込んだ。あのときの顔は写真に残しておきたかった。赤くて、本当に驚いた顔。彼女は名字を合わせてくれるなら、と承諾した。

「おい、松木。聞いてんのか?」
「……何だよ? いきなり耳元できゃーきゃー喚くなうっせぇから」
「お前ぇ……。話聞いてねえのは誰だと思ってんだこの脳天気野郎」
「はいはい。で、何?」
 訊き返すと、加奈は舌打ちした。この女、よく舌打ちするなと思いながら、耳を傾ける。
「だーかーら。あと少しでS通りっていうでかい通りに差し掛かるって言ってんの。警戒している兵士も最低十人いる。ここが山場だから。分かった?」
「了解しました美月曹長ぉ」
「相手にしないで。この人をまともに相手すると疲れるだけだから」
 前川の声に加奈は大きくため息を吐いて、黙々と走る。



         *




 加奈は計画的に走るスピードを徐々に緩め、Y字路の入り口にたどり着いた時、四人は完全に歩いていた。孝徳と前川は、息切れしながら呼吸を整えている。
「道路と反対側に渡ってそのまま左に行けば森、右に行けばストレイジの研究施設だ」
「研究施設? 初耳だな」
「脱出がしたいんだろ? それなら森だ。……お喋りは終わり。ここからは絶対に無駄口叩くなよ。指示に従え」
 それから、通りの様子を窺った。兵士が等間隔に、複数警戒していた。見知った顔が何名か。兵士たちの顔は油断はしていないが落ち着き払い、異常事態と言う雰囲気ではない。まだ自分の裏切りは露見していないのだろう。顔見知りを辿っていけばどうにかなると考えてから、加奈は緊張で顔が引き攣らないように注意して三人を振り返った。
「孝徳、前川の手を後ろ手に押さえつけろ。捕虜の扱いは教えたな? 手加減しないでいい。乱暴に扱うくらいがちょうどだ。私は松木を使う」
 無言で頷いた彼を見てから加奈は松木の腕を取って強引に捻じり、背中を押して、歩き出した。彼らの小銃は孝徳と自分が、一時的に一丁ずつ所持した。



 ここを超えていけば、もう、準南に実験道具にされることも、任務失敗後に承晩に嬲られることもない。軍で配られる質素な食事に、何か薬が入っていないか不安に思うことも、眠っている間に研究施設に引き摺り込まれるのではないかと怯えることもない。……屍肉を啜る事もない。
 だが、超えられなければ。必ず殺される。加奈は顔を強張らせ、松木の腕を押さえつけたまま歩いていた。
 そうして歩いていると、一人目の兵士の姿が見えてきたところで、耳に優しく息が吹きかけられた。
「わ……! な……ばっ……」
 いきなりの行動に、やや前を歩いていた松木を慌てて見遣ると、彼は顔が固い、すぐにバレると口を動かした。顔が少し熱くなった加奈は息を軽く吐いてから、彼から視線を外し、こちらへ近づいてきた兵士に視線を移した。
「曹長。どうかしましたか?」
「ああ……。チョルミンのところまで捕虜を移送する途中なんだよ。直接来いと命令された」
「お疲れ様です。……あの……チョルミン少佐に指揮権剥奪されたと聞きましたが、……なんともないですか? 大丈夫ですか?」
 兵士が心配そうな顔を向けてくる。ごく普通の、人から人に向けられる顔。……自分はこの程度の気遣いに、今まで気付くことも、察してやることもできなかったのか。孝徳の言っていたことがあながち嘘ではないと分かり、その思いが口を硬く閉ざしてしまいそうになる。
「……何ともない。……暇なら、森まで先導してくれないか? そこの新米と一緒じゃ、不安だから」
「分かりました。でも孝徳も、最近頑張ってますよ。期待に応えようと必死で」
 にこやかに兵士が笑う。加奈も笑みを零そうとしたが、今までそのようなことをしたことがない自分がすれば不審に思われる。無表情のままで、顔をやや俯けた。彼は自分の前を歩き始め、森へと進む。このまま、気付かずに、通らせてくれ……。加奈は地面に張り付きそうになる足を一歩一歩踏み出し、歩き続けた。
「カナ曹長。また孝徳と任務ですか? 孝徳お前しっかり守れよー?」
「は、はい!」
 通り過ぎ様に警戒中の兵士が声を掛け、孝徳が背後で慌てたように返事をする。声がどこか震えていると感じるのは、気のせいではないだろう。彼も恐らく、自分と同じ気持ちだ。仲間を裏切って、自分だけ恐怖から逃れるつもりか。自問する。それでも足は止まらない。止めたくない。
「この間は、食料を分けてくれてありがとうございました」
 また通り過ぎ様。礼と一緒に、その言葉を掛けられる。
 どうしてこんなときに限って……と思うが、孝徳と目が会うと、彼は、いつものことじゃないですかと口を動かした。
 ……いつも、この声を、平然と無視をしてきたのだ。平然と無視をして、自分の殻に引き篭もって、朝鮮を嫌ってきたのだ。自分には認めてくれる人がいないと、勝手に勘違いをしてきたのだ。
 泣きそうになりながら歩く、歩く、歩き続ける。


 
 しかしそこで、感傷に浸る時間は終わった。
「あれぇ? ミヅキ曹長。アンタこんなところで何やってんですかぁ?」
 仲沢の声が聞こえた。朝鮮名はギルソン。チョルミンと共に国営軍に潜入していた、腹心の部下だった。



          *



 その声を聞いたとき、松木は銃を引き抜こうとした。腕が自由なら、確実に引き抜いていただろう。
「松木サン、捕まったんですか。くく……おっかしぃ。だから、投降しろって言ったのに。結局、捕虜じゃないすか」
 肩に包帯を巻いている彼は松木が睨むと、蔑む目で睨み返してくる。
「で、コイツら何なの、ジルミ。先導してんだから説明しろ」
「捕虜です。チョルミン少佐のところへ護送中だそうです」
「は? そんな話聞いてねえぞぉ?」
 加奈の代わりに、兵士が答えた。しまったと思うが既に遅かった。
「これ、どういうこと? ミヅキ曹長」
「……直接命令された。お前が知らないのも仕方ないことだ」
「オレが知らない? そんなわけないでしょアンタ。今指示の代理はオレがこなしてんだから」
 加奈が松木を抑え込む力が弱まる。
「まぁいいやぁ。今から確認すっから、ちょっと待っててくれるかなぁ?」
 彼が無線を取り出そうとした瞬間、加奈が松木から腕を離し、P92旧型の銃口を彼に定めた。殺した……と思ったが、加奈の右肩口で弾けた銃弾の方が早かった。P92旧型を取り落としてしまった加奈を見て仲沢の顔が愉悦に歪み、銃口の焦点が松木に移る。無線を取ろうとしていたのはフェイクで、逆の手には既に拳銃が握られていた。松木が仲沢の腕を蹴り飛ばすと、持っていた銃が転がった。松木は同時に「走れ」と叫んだ。前川と孝徳が先に走り出す。ジルミと呼ばれた兵士が茫然とした様子で見ている間に、銃弾を受けた加奈を立ち上がらせてすぐに走り始める。
 反逆者だ、追え、と仲沢が背後で怒鳴った声が聞こえたので、一度振り返って、加奈から今しがた返却された小銃をジルミに向かって連射した。彼が倒れこむのが見えた。
 三人が追ってくるのを視認してから顔を前に戻して、走る。森の輪郭が微かながら見えた。これなら振り切れる。

 ――そしてそれは、松木が前面に気を取られ足元を疎かにした時だった。街路に放置された小さなゴミ袋に蹴躓いて、体がバランスを崩し、倒れた。普通ならば倒れることはなかったが、一日中ほとんど全力で走っていたことが仇となり足がもつれ、顔から、地面に突っ込み、転げる。隙を逃さず発砲した追撃者に、足をやられた。
 それを見た三人の走る速度が弱まったので、あのままでは捕捉されると感じた松木は「先に行け!」と怒鳴り、すぐさま立ち上がって、近くの路地の壁に身を隠した。右足ふくらはぎを撃たれたために、そこへ行くのが精一杯だった。前川は、振り返りながら、まだ速度を緩めている。
「ここで援護しててやっから先に行け! 俺はまだ後から追いつける!」
 小銃の弾倉を入れ替えながら言った。もうすぐ彼らは捕捉されるが、追いかけてきている敵が三人なら足止め、上手くいけば殺してまだ森に行ける。希望を失ったわけじゃない。強がりで言った言葉ではなかった。
 弾倉を入れ替え終えると、怪我をしていない左足を軸にして壁から跳び出し、追撃者に向けて撃った。彼らの足が止まる。これであの三人は確実に逃げられる。また壁に隠れ、反撃の銃弾をやり過ごす。ふくらはぎの傷は当たり所が悪かったのか、大量の血液を流し始めていた。早くケリをつけないとマズいなと焦った松木は、もう一度壁際から飛び出し、三人のうちの一人に向けて撃った。しかし狙いを付けすぎて壁から出ている時間が長くなり、今度は左足にまで被弾した。ライフルだろうか。大きな銃弾に膝を砕かれ、立てなくなる。どうにか壁際に戻るが、立てない。どうする、どうする、どうする――? 考えている間にも、追撃者が距離を詰めようとする気配がする。これ以上近づかれたら駄目だと直感した松木は小銃の先端だけを壁際から出し、狙いをつけずに乱射した。また弾倉が空になった。右手で雑嚢に入っていた替えの弾倉を取り出しつつ、左手で拳銃を撃ち続ける。右手だけで弾倉の交換を終えると、左目だけを出して、狙いをつけ銃撃した。運よく二人の兵士に対する射界が重なって居たため、二人を仕留める事が出来た。標的に対する銃撃がこれまでにないくらい冴えている。行ける。これなら、これなら……! そして反撃の銃弾を同じようにやり過ごし、もう一度左目だけを出して最後の一人の兵士に狙いを定め、連射する。……今度は外した。しかしまだ弾はある、もう一度だ。
 そう思った瞬間だった。



 松木の頭は蹴り飛ばされ、地面にうつ伏せに倒れこんだ。体勢を立て直そうとすると、ふくらはぎの傷を靴で踏み込まれ、両腕に銃弾が打ち込まれた。
 痛みに絶叫を上げると首周りの襟元を引っ掴まれて起こされ、壁に叩きつけられた。
「松木サン……この間はどーも。アンタにやられた肩の傷、未だに痛んで痛んで仕方ないんですよねぇ。くっくっくく……おっかしいよホントに。いつも偉そうに命令ばっかしてたアンタがこんな無様な姿を晒してくれて。前から、イラついてしょうがなかったんだよなぁ、アンタのこと。オレに命令していいのはチョルミン様だけだってのに、お前みたいな無能の下で働いていた日々は地獄だった……。分かるか! このオレの気持ちがぁ!」
「……仲沢、お前、ホントに……」
 路地の背後への警戒を怠り、四肢を銃撃され自由の利かない松木は、顔を壁に叩き付けられ、呻いた。
「……そういえばアンタいっつもいっつも嬉しそうに言ってたっけなぁ。十月五日の話。今日は奥さんとの婚約記念日なんだって? くくくく……いいじゃねえかよアンタ、幸せだよ。どうだ、降伏するか? 降伏すれば、命だけは助けてやるぜぇ? 命さえあれば、奥さんにも会えるかもなぁ?」
 朦朧とした意識の中で、兄のこと、甥、姪のこと、前戦時のこと、ストレイジのこと、様々なことを考えたが、どれもこれも霞んで行ってしまう。最後に残ったのは、やはり朱音の顔だった。降伏すれば、彼女に会える……? 今の松木にとって、仲沢の言葉が、とても魅力的に聞こえた。
「こ……降伏する。だから、……助けてくれ、仲沢……」


「……アッハッハッハハハ……! ハハ、アンタ本気で言ってんの? どうした中隊長、いつもの強気なアンタはどこに行ったんだよ。くくく。日本人ってホント、愛だの何だのに弱ぇよな! 旧軍人様が聞いたら悲しむぜぇ、今の言葉ぁ。あー、楽しくてしょーがねぇ……! もう一回言え、松木!」
「降伏……するから、だから……」
 掠れた声で、もう一度言った。朱音に会いたい。もう一回だけでいい、会いたい。あの無愛想な顔が、自分の帰りを喜ぶところが見たい。死にたくない。まだ死にたくない。やれることはまだ幾らでもある。死にたくない。二十五でなんか、死にたくない……。
「くっくくく……ハハハハハ! 最高! アンタ最高だ!」
 仲沢の哄笑が響いた。耳障りな、哄笑。





 哄笑が止むと同時に、首を引っ掴んでいた手が離され、仰向けに放り出される。
「何寝惚けたコト言ってんだよテメエは。オレに重傷を負わせた罪をその程度で免れるとでも思ってんのか?」
 まだ微かに動く右腕を使って起き上がろうとすると、銃口を向けた仲沢と目が合った。
「じゃーな。無能な中隊長。命乞いだけは立派だったぜぇ」
 
 銃声が数発、路地に響く。
 同時に、松木の脳漿が辺りに散らばった。







 十月五日午後四時五分、国営軍第三・第四方面軍の中核を担った松木中隊は、他中隊の預かり兵を除き、全滅した。




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