44

 怒気を孕んだ朝鮮語に目を覚ますと、部屋を借り始めてから二日目の朝になっていた。
 松木は隣で焦げ後の目立つキッチンを見つめている。
 体育座りを崩したような姿勢で眠っていた前川が起きたことに気づいたのか、彼は前川の目の前に紙を差し出す。
 "厄介な客だ"と書いてあった。
 怒りの声が再び部屋に響く。朝鮮語の分からない自分だって分かる。罵声の類だ。何かを蹴る様な音が響いている。フローリングの床が激しく軋む。
 "聞きたくなきゃ耳塞いどけ"ともう一度紙を差し出された。言われたとおりに耳を塞いだ。それでもフローリングが軋む音と、床に何かがぶつかる音は聞こえてくる。
 ジンヒが客に暴行されている……? 考えたとき、鈍い音が響いた。彼女が咳き込む声も伝わる。
 この子は、あれだけ必死に生きているのに、なぜ見知らぬ客に暴行されているのだろう。昨日の日記を思い出す。胸の奥が酷く疼く。
 もう一度、鈍い音。喋れないはずのジンヒから、悲鳴のような声が漏れ聞こえた気がした。
 前川は知らず知らずのうちに腰を上げかけていた。松木が驚いたような顔をしてこちらを見ている。
 小声で「やめろ」と松木が言うが、胸の奥の疼きは取れそうになかった。
 さらにもう一度、鈍い音。今度は、完全に悲鳴となって言葉に表れた。
 同時に、前川は腰を完全に上げ、振り返りざまに引き抜いた拳銃でその客に狙いを定め……放っていた。



          *



 一発目が致命傷にならなかったので、仕切りを飛び越え、もう一度撃った。今度はこめかみの辺りに命中し、脳漿が飛んだ。崩れ落ちる男を見送っていると、床に裸で仰向けに倒れているジンヒと目が合った。表情を読み取る前に、松木の怒声が響いたので、顔をあげた。
「前川ァ! 何撃ってんだ! お前、感情で人を殺す奴だったのか!」
 仕切りから顔を覗かせた松木の言葉に、反論のしようもなく、黙って彼を見つめた。銃を持つ手が震える。崩れ落ちた男を見て、銃を取り落としてしまった。わずか一瞬の感情に振り回されて、人を殺した……。どうしていいのか分からない。頭が混乱した。茫然としていると、何かが自分の胸の辺りに当たり、しかしそのお陰ですぐに正気を取り戻すことができた。何かと思うと、立ち上がったジンヒが、返り血に染まった顔を押し付けてきていた。自分よりも少しだけ小さい体。それを見ると、松木は苦々しげな表情を浮かべて舌打ちした。
「……何か、俺が悪者みたいじゃねえか」
「……すいません」
「はァ……。もーいい。起こったことだ。……とにかく、荷物をまとめろ。銃声が近所に響いてると思うから、下手すりゃ兵士がなだれ込むぞ」
 声を聞いた前川は必要以上に頷き、裸のまま引っ付いているジンヒの体を無理に引き剥がした。顔に大きなあざ。右腕が折れているのか、ぷらぷらとさせている。顔は返り血と涙と鼻水ですごいことになっていた。でも何故か、彼女の口元は笑みで結ばれていた。またもや強さを感じさせたジンヒとは対照に、まだ震えの止まらない前川はどうしようもなくなって、彼女を強く抱きしめた後、体を離して荷物をまとめ始めた。
 松木がその間にジンヒに朝鮮語で話しかけていた。事情を説明しているのだろうか。そこで前川は、背嚢に全て荷物を詰め終えた。背嚢を背負い、小銃を二丁抱える。
「……出るぞ。こうなったら二日早いが南を目指す。疲労はないよな?」
「はい。……本当に、申し訳ないです」
「謝るならこの男に謝れ」
 松木が死体を抱えた。脳から中身が零れないよう、手で頭を押さえている。前川は深く、深く頭を下げた。
 先に松木が玄関へ歩いていった。前川も後に続こうとする。その際に、背嚢を軽く引っ張られた。ジンヒだろう。振り向いて何か声を掛けようとすると、唇に、彼女の唇が押し付けられた。突然の行動に、年甲斐も無くうわっと焦り声を出すと、攻撃的なキスが襲ってきた。今まで大人しい女としか付き合ったことのなかった前川は、初めて体験する勢いを受け、壁際に追い込まれた。十歳も年下のジンヒに、あっさりと。伊達に性経験が豊富なわけじゃないなとどこかで考えながら、軽く応戦した後はされるがままになってしまった。
 
 数十秒続いた激しいキスに息がさすがに苦しくなってきたところで、ようやくジンヒが唇を離す。軽く息切れしている彼女の顔は真っ赤だった。
「……ノムノム……チョアヘヨ」
 キスされた後に、目をじっと見られて、顔を真っ赤にされて言われた。言語は分からなくとも、想像はついた。ジンヒから言葉が出た驚きよりも、そちらの驚きの方が勝っていた。この一日の間にそこまで好かれるようなことをしたかどうか考えている間に、
「ま、え、か、わ! 早くしろって言ってんだろうがっ!」
 玄関から顔を覗かせた松木に急かされ、慌てて玄関に向かった。
 

 玄関に着くと、松木がやっと来たかと零し、靴を履き始めた。前川もそれに倣う。
 その間もずっと、ジンヒに右手を握られていた。強く握り返してから、手を離す。
 松木が玄関の戸を開ける。前川は最後に振り返って、笑いながら、泣き止んだのに再び泣き出しそうになっているジンヒの頭を撫でる。
「……戦争が終わっても生きてたら、また会いに来るよ」
 後ろから松木の朝鮮語が聞こえる。通訳でもしてくれたのだろうか、松木は自分の声を真似ていた。



          *



「対象は移動を開始、進行方向は南」
 チョルミンの声ではなく、あの老兵の声が耳元に状況を伝える。チョルミンは融通の利かない変異型の逃した敵を追いに自ら出た。日本軍にとっては残念だが、チョルミンがいなくても、ここの守備隊は十分に機能する。発信機と"間々田"のせいで作戦が全て筒抜けになっているとも知らず、何度も部隊を壊滅させた士官が中隊長などを務める彼らがこの局地戦に勝つ可能性は万が一にもない。こちらが殺害したのは四十名以上にものぼり、破壊された対空兵器も、老朽化が進んで既に一線から退いたものだった。それに加え、殺害されたのは戦闘に使えない新米の二名だけ。
 そして加奈は今、孝徳とともにその士官を追っていた。無能を狩るにも全力を尽くすのが自分の流儀だ。脳内では既に気付かれないように近づいて射撃するためのシュミレーションをしつつ、辺りにも気を配る。一キロを走ったところで孝徳は息を切らせ始めたが、ペースは落とさない。
「標的まだ確認できず。距離は」
「二百」
「方角」
「南西二百メートル」
 路地を左に曲がり右に曲がりで距離を詰め、さらに走るペースを上げた。孝徳の足音が遠ざかるが、実験、発作の代償に得た能力は、こういう場面では使える。
「距離」
「南西五十」
「目標視認」
 見えた。
「孝徳はS通りへ向かえ。待ち伏せしろ」
 回線を切り替えて指示し、また指示待機に戻す。
 さすがに、走りながら逃走中の敵に対する射撃には自信がないが、再び見失う前にどうにか叩きたい。あの家でじっとしているならばすぐに殺傷できたのだが……。運の良い奴らだ、こういった者たちは早めに叩いておいたほうが良い。サブマシンガン系統に属するP92旧型を構えると、トリガーに手を掛け、対象に連射した。全弾が空を切る。走っていた内の一人がこちらに気付いた。加奈はマガジンを交換して再び射撃の体勢に入る。すると、今度は相手が撃ったであろう牽制の射撃が足元に着弾する。脅しに引っ掛かるとでも思ったかとさらに速度を上げると、もう一度射程範囲内に入りかけた彼らは急に方向を転換し、路地に入った。
「孝徳、S通りに着いたらそのまま真っ直ぐ三十メートル走って、お前から見て右の路地に進め。私はそこの反対側の壁際にいる。急げ」
 回線を孝徳に繋がるものに戻し、言った。
 路地の曲がり角に入ったところで追おうとすると、今度は牽制ではなく、加奈本人を直接狙ったと思しき弾丸が襲ってきたので、すぐに壁に身を隠す。
 射撃が止んだところで、飛び出し、正面に向けて銃を撃った。全て奥めいた路地に着弾した音が聞こえた。路地は暗く、正確に視認できない。このまま進むのは危険だと本能的に察知した加奈は、また壁際に隠れ、孝徳が反対側の路地に回りこむのを待った。



          *



 黒髪。女。ストレイジでなければ成し得ない走り。家を出た瞬間から敵に追われる足音を感じ始めて数十秒、ようやく敵が視認出来た。"奴"だ。ストレイジの資料にあった、あの黒髪だった。必ず殺すと呟いた時には、ストレイジだとは思わなかった。自分の立案した作戦を悉く看破した頭の切れる女。無能とでも思われているのだろう。第三・第四方面軍の中では戦術に定評があったという自負は、完全に打ち砕かれていた。発信機でも仕掛けられているのだろうかと思う程、先手先手を打たれてしまう。今回だってそうだ。普通ならば、たとえ銃声が響いていたとしても、家を出てすぐ、前川が発砲してから僅か数分の間に見つかるはずはない。前川が殺した死体はジンヒの家から少し離れたところにしか置く事ができなかった。
 一度目の射撃は全て外れたようだったが、すぐに追いつかれそうだったために牽制に適当な射撃をしていると、前川が突然右に曲がり、路地に入り込んだ。慌てて方向転換し、松木も前川に続く。路地はビルの陰になり日が当たっていないためか昼間だというのに薄暗く、奥までしっかりと見えない。もう一度後ろに射撃しておき、それから、前川の様子を確認する。彼は左にある鉄板の階段を静かに駆け上がっていた。ジンヒの書いてくれた地図を思い出す。確かこの先は、廃工場だったはずだ。


 息を切らせて階段を上り切っても、追跡の足音は聞こえなかった。
 映画でこのような場所を見たことがある。様々な配管が剥き出しで入り組んでいて、網状の鉄板が敷設されている通路がその中を縦横無尽に突っ切り、隙間のない鉄柵のようなものが壁代わりに三メートル程度の高さを有し、配管と通路の差別化を図っていた。階段を随分と上がってきたせいか、下を見ると薄暗く、暗闇の底は視認出来なかった。電気はもちろん通っておらず、暗い。前川はすぐ右隣で膝に手をつき息を整えている。
「この事務室で応戦すっか」
 ストレイジに追い回されて、足は既に悲鳴をあげていた。軽く右足を引き摺りながら、ノブを回し朝鮮語で事務室と書かれたプレートが貼ってある扉を押し開く。はじめに対空兵器を潰した拠点の近くにあった廃ビルと同じような机が、そのまま放置されていた。ある程度の銃弾なら防いでくれそうだと考えてから、そこへ背を預け身を隠した。扉以外の入り口は、やや高い位置にあるガラス窓が一つ。それ以外は出口が見当たらない。
「前川ぁ、足の調子はどうだ?」
「左膝が笑ってます……。追ってきてたのは結局なんだったんですか? ここに入ったってことは振り切ったんですか?」
「……まだ振り切ったわけじゃない」
「……それならここ、手榴弾投げ込まれたら終わりじゃないですか。逃げ場がない」
「扉へ向かって投げ返せ。上手くいけば扉ごと敵を潰せる。その代わり、もたつけば死ぬ。でも、消耗戦は無理だろ、この弾数じゃ」
 無茶言いますねと前川が言葉を返したのを潮に、松木は黙り込んだ。
 外から、鉄板の階段を踏み込む音が聞こえた。
 
 
 
          *




 加奈は廃工場の階段を、なるべく音を立てないよう、姿勢を低くして一歩一歩上った。孝徳を待ちきれなかった加奈は、別方面から進入を試みるように指示して、先に一人で探索を始めた。ただ、それ程時間はかからず、孝徳も到着するだろう。このような場所に逃げ込んだところで、今更どうするというのだ。一つ一つの部屋を潰していけば、いずれ追い込むことができる。突然の反撃に気をつけてさえいれば、有利なのは断然自分だ。老兵に拠れば目の前にある事務室から、発信音が聞こえるらしい。加奈は微細ながら場に響く音とともに手榴弾のストッパーを抜くと、素直にドアは開けず、窓ガラスを銃で撃ち破ってから中に投げ込んだ。急いでそこから身を離す。
 しかし期待した爆発は予期せぬところで起きた。退避した場所が悪かった。目の前の扉が爆風で吹き飛ぶ。加奈は咄嗟に顔を腕で庇ったが、扉の破片が無数に体に突き刺さり、爆風に体を持っていかれてしまう。舌打ちした所で浮いた体はどうにもならず、勢い良く飛ばされた加奈は、壁代わりに広がる鉄柵に背中からぶつかった。
 強打した全身が激しく揺れ、二秒か三秒、視界が真っ白になってしまう。
 視界が回復したときには、顔に銃を突きつけられていた。
 久しぶりにナイフホルダーからナイフを左手で引き抜き、左からの薙ぎ払いで銃を右へ押し退け、銃ごと巻き込んだ右足の蹴りで敵の左腕をさらに右へと押す。そしてがら空きになった左胸へ、ナイフを突き立てる――。数秒の間の攻撃に失敗はないはずだったが、しかし左腕はあっさりと動きを止められた。相手は二人がかりだということをすっかり失念していた加奈は、今度は右腕の拳を振りぬく。相手の顔面を捉えたが、鼻柱を砕いた感覚が残っただけで、直後に肩に襲い掛かってきた蹴り下ろしに、そのまま金網で出来た床に叩きつけられてしまった。腹部に複数刺さっていた扉の破片が、さらに奥へと侵食する。血はどのくらい出ているのだろうか……と考えたところで、すぐさま起き上がる。すると相手は二人とも銃を構えていた。最後の足掻きで軟弱な顔立ちをした兵士を相手取りナイフを振り回すが、背後に回ったもう一人の鋭い蹴りを受けて、今度は横腹から鉄柵に叩きつけられ、うつ伏せになって床に落ちたところで、手を後ろに引かれ、膝で腰の辺りを押さえつけられた。



 ……孝徳はまだ見つかっていないのだろうか。
 死ぬかもしれないという状況で、最初に思い浮かんだのは孝徳の見せていた哀しげな目だった。同情されているような劣等感を抱いてしまう、あの目。この追跡を始める前も、冷たくあしらっていたはずの、あの目。
「逃げ……て……」
 おかしい。好きだといわれたときから、何かがおかしい。ただの部下として見ようとしても、孝徳を意識してしまう。孝徳が死ぬところを見たくないと感じてしまう。
 それは、自分にしか聞こえない程度の声量だった。
 しかし加奈の希望に反して、孝徳は姿を見せてしまった。指示がないことを不審に思ったのだろう、持ち場の壁際から少しだけ顔を覗かせてしまっていた。上官である自分が人質という、最悪の状況で。
「そこのお前。銃を下ろせ。こいつが殺されたくなければな。銃を下ろせば、手荒なマネはしない」
 銃を孝徳に向けた男が言った。嘘だ。嘘に決まってる。二人揃って殺されるぞ。敵の言うことを簡単に信用するな、早く逃げろ! 声を出そうとするが、出ない。予想以上に、腹に刺さった破片が発する痛みは、全身を苛んでいた。
「……分かりました。その代わり、曹長には手出ししないでください」
 馬鹿言うな。カッコつけてる場合じゃないだろ。どうして逃げない!
「そうだ。手は挙げたまま、こっちに来て投降の姿勢になれ」
 やめてくれ。こいつにはまだ、未来がある。自分が到底出来ないような、すごい仕事をやるかもしれない男だ。純粋さが仇になるかもしれないけど、他の大人が助けてやれば、すぐに成長できる素質がある。私とは違う。私の惨めで下らない人生とは比較にならない程の人生が待ってる。どうにか口を動かそうとするが、できない。あと少し、あと少しで声が出るのに。
「……前川、やれ」
 少しの沈黙の後、日本語が場に響いた。
 その声を聞いた加奈は、全身の力を振り絞って、声を出そうと努力した。今まで生きてきた中で一番強い願望を込めて叫んだ。
「やめて!」
 そこで、ようやく声が出た。
「孝徳を、そこにいるバカを、殺さないで……。私はどうなってもいいから。私は殺してもいいから。そいつは……本当に大事な、大事な部下なんだよ。だから……だからさあ……!」
 かすれた声だが、言いたいことがようやく言葉になった。


 そこで加奈は顔を顰めた。
 必死に言葉を発した後、どういうわけか、場には忍び笑いをする声がひとつあったからだ。
 馬鹿にしやがってと思い見上げようとするが、押さえつけられているので動きようがない。破片による血はまだ流れ続けている。
「鼻血止んねえ……。あー、悪い。ちょっと待て。美月 加奈(みづき かな)。……悪いな、必死なところ。言っとくけど、俺、あんたら殺す気なんてさらさらないんだわ。そりゃ部下を大量に殺されてるからお前を絞め殺してやりたいのは山々なんだけど、このままだと俺ら敵に包囲されて死んじゃうんだよね。だからさあ……あ、やれって言ったのは捕縛しろって意味だから」
 忍び笑いをやめ、感情のなくなった顔で、彼は鼻を押さえながら淡々と言った。
「は……お前、何で私の本名を……?」
「中隊長、そこに転がってる指示用マイクを取っておいて下さい。……二人とも、武器が他にないかを確かめるから。抵抗しないで、撃ち殺さなくちゃならなくなるから。あ、日本語分かる?」
 加奈が右手で鼻柱を砕いたのとは違う兵士が言ったので、頷く。それから金属探知機により発見された武器を没収され、加奈を床に押さえつけていた膝が緩み、立たされる。発作までにはいかないにしても、全力での追跡と戦闘が尾を引き、体中に力が入らなくなってきていた。この状態で反抗してもどうにもならない。その上、敵軍の士官のはずの彼は、鼻の折れた方と違い敵意を少しも感じさせずに、こちらもその毒気にあてられ、敵意が急激に萎んでいってしまっている。彼が淡々としたボディーチェックを終えると、事務室に押し込まれ、孝徳と二人きりで少しだけ話していいと言われた。叫んでしまった言葉が恥ずかしくて話す気になれずに仏頂面で突っ立っていると、孝徳の方から近づいてきた。
 その目と視線を合わせたところで、加奈は、またもや孝徳に対して苛立ちを感じてしまっていた。哀しげな目。自分に対しているときの孝徳の目を見ると、どうしても不満をぶつけてしまいたくなる。目を合わせることが恥ずかしくて、目を合わせると苛々する。なぜここまで相反する感情が入り乱れているのかは分からなかったが、加奈は、入らない力を無理に振り絞ってまで、彼の頬に平手打ちをしてしまっていた。
「お前、あれでも軍人か。あの場面で、どうして投降した。人のいる気配を感じたらすぐに撃てと言ってただろうが。私が巻き込まれて死んだとしてもあの二人は殺せたはずだろ。違うか? 甘ったれてんじゃねえよ、いつまでも。そんなに人を撃てないってんなら農村に行って農業でもやってろ。エリートだかなんだか知らないけど。今ので分かった。ここはお前の居場所じゃない」
 彼は叩かれたところを摩りながら、突然頬を叩かれたことに怒りも何も表さずに、ごめんなさい、とだけ呟いた。
 最後に言おうとした、お前が死ぬところなんて見たくないという言葉は、どうしても言えなかった。
 




 扉が吹き飛んだ事務室の中に彼らも入り、話を聞いた。手は後ろ手に縛られ、右足は紐のようなものでオフィスデスクにくくりつけられていた。自由が利くのは左足だけだ。
「お前ね、有名なんだよ。異端ってことで。こっちのストレイジの資料の中でも。協力を仰げるかもしれない奴のリストでトップ」
「は?」
 協力を仰げるという言葉よりも、ストレイジという言葉をどうして知っている、ということの方に疑問があった。目の前にいる松木という男はただの三流指揮官ではないのか? と考えていると、彼は言葉を続けた。
「何度か脱走しようとしたことがあるらしいな。軍から」
「……昔のことだ。お前、どうして、そんなことまで知ってる」
「どうだ? 協力するなら、生かしてやる。ただし、俺らが生き延びるための道具として、だけどな」
「……それよりいいのか。そんなもんいつまでも付けてて。外さなくても」
 松木は言い方が憎たらしい。完全に下手に見られている自分を感じた加奈は、腹立ち紛れに言った。
「は? いきなりなんだよ? 話の腰を折んな」
「軍服のズボンの前、ウエスト部分を裏返してみろ。シール型の発信機が付いてる」
 加奈の言葉に、松木は言われた場所を確認し、驚いた表情を向けてくる。
「まだ気付いていなかったのか」
「これ……どうやって発信を止めればいい?」
「言い方を考えろよ。今ので分かったろ? お前は情報でも私に勝てない。協力してやるのはこっちだ。情報の質も指揮も、お前程度とはレベルが違う。この街を脱出したいなら従え」
 高圧的に言い切り、相手の反応を窺おうと松木を見ようとした所で、額を指で弾かれた。
「お前さぁ、ホントに女か? いや、男だとしても変なヤツ……。お前がすげぇのは俺も知ってるって。従うとか従わないとかじゃない、協力を頼みたいんだよ」
 加奈は意外と強い額の痛みに顔を顰めた後、目の前にいるの松木から逃げるように視線を外して舌打ちしていた。捕虜として"普通の扱い"をする奴らならば、絶対に屈したり、協力したりはしないのに。チョルミンへの憎悪や準南への反発が強く存在している上に、反抗する力も残っていない今は、彼らに協力する、つまり日本軍に屈する事も仕方ないと思っている自分がいる。物理的な問題もある。自分ひとりならまだしも、孝徳を連れて逃げるのは無理だし、武器もなしでは事務室の入り口に立つ前川を抜くことはできそうにない。いくらふざけた雰囲気を漂わせていても、相手も軍人だ、協力を断れば即、殺されるだろう。それに……と、前川に治療してもらった腹部を見てから、加奈は前川に視線を移した。
「発信機は……剥がして、踏みつければいい。簡単に壊れる」
「あ、そうなんですか。教えてくれてありがとうございます」
「……別に。ねえ、前川……って何歳? 何で急に敬語?」
「よく見ると自分より何歳か年上に見えたので、普通に話したら失礼かなって……。あ、僕は今二十四です」
 "よく見ると"二十四よりも何歳か年上? 頬が引きつったのが分かった。
「おい、お前今地雷踏んだぞ」
「へ?」
 松木の声が聞こえたが、加奈は気にせず、松木を振り返って隙の出来た前川の膝裏に、自由の利く左足で蹴りを入れてやった。続けて、言葉を発した。
「松木。指示用マイクを貸せ」
「あ? 別にいいけど。救助を求めるようなこと言おうとすればその場で殺すからな」
「違ぇ。手伝ってやるって言ってんだよ。……人を軍の実験に使うような国に、忠義を尽くして死ぬ価値なんてない」



          *



 指示用マイクを使った加奈は、殺害は成功して発信機は処分しておいたと伝え、指示用マイクが戦闘で損壊し壊れかけていると説明した。その後で、本体自体からも特殊電波を発し場所を知らせるそのマイクを踏み潰した。
 縛られていた両手首を軽く回す。異常はなかった。松木と前川は先に部屋を出ていた。
 P92旧型は返して貰うことができた。ここで背後から襲えば任務完了で晴れ晴れと朝鮮に戻れるが、もうあの場所に戻る気はしなかった。虚偽の報告をした時点で、後戻りをするつもりはない。

 それでも、ただ一つだけ、心残りがある。加奈はポケットから取り出した写真を見つめた。北海道に行く前に撮った、ストレイジの仲間たちが写ってる写真。自分は無愛想で、小山田千絵だけ無表情だったが、他はみんな笑顔だった。……この仲間たちを、助けられなかったことが、胸を締め付ける。
 準南から助けられず、元に戻す方法も見つけられず、置き去りにして、日本軍に屈して、千絵と同じく朝鮮軍を裏切って、最終的には、どうすることもできなかった。
 ……本当にごめん。本当にごめんね。
 写真から視線を外し、楽しげに笑い合っていたストレイジの仲間たちを事務室の壁に幻視し、心の中で、彼らに謝る。
 変異型としても、彼らとは会えない。今度こそ本当に、彼らとはもう会えない。
 忠義を尽くして死ぬ価値なんてない国であるはずの、朝鮮。それなのに……。
 何度も助け合ってきた朝鮮の仲間を想うと、涙が零れてしまっていた。まだ自分にもこんな感情はあったのかと、淡々と涙を流した。



「本当に、いいんですか?」
 孝徳が言ったとき、加奈は驚いてびくりと肩を震わせてしまった。声を出して泣いていなくて良かったと考えてから、背中に感じる視線を受けて、無理に涙を止めようとせず、なるべく平静を装って言葉を返す。
「……お前こそいいのか。寝返れば、もう、エリートコースなんて無理だろ?」
「……いえ、私は、最後まで曹長の傍に居られれば、それだけで……」
「……うるさいんだよ、お前……。本当にしつこい奴だな。こんな私のどこが、……どこがそんなにいいんだよ」
「……部下とか同じ小隊になった人とか、みんな言っていました。あなたは、ぶつぶつ文句言いながらも、失敗したときにはしっかり庇ってくれて、前線にいても、自分の食料を分けてくれたりして、すごく良くしてくれるって。私も曹長の部下になってからずっと、心からそう思ってきました。それから、憧れて、好きになって……」
「そんな慰め今更いらねえんだよ……! 私なんか、誰にも認められてない。ただの軍の奴隷だ。ストレイジの仲間がいないときは、ずっとそうだった」
「違います。それは曹長の思い込みです。みんな、曹長のことを、信頼して、認めていました。だからいつも、部隊の展開が早く、上手くいったんです。そうじゃなければ、部隊はもっと士気が低くて、上手く勝てなかったはずです。チョルミンが靴を舐めさせた時も、発信機を分析するオペレーターの人たち、曹長のこと、すごく心配して……」
「だから、今更遅いんだって、そんなの! 何で降伏を決めてからそんなこと教えるの? ……私は、ずっと、ずっと、周りが認めてくれないって、そう思ってやってきたのに! 誰かに認めて欲しくて、一生懸命やってきたのに! ……だからこそこの世界を、朝鮮を嫌えたのに。それなのに、周りに認めてくれてる人たちがいた? 何で! 何で、そんなこと……」
 袖で乱暴に涙を拭ってから、振り返って、孝徳を睨みつける。
「もう朝鮮には戻れない! 分かってんの? 今頃、そんな、戻りたくなるようなことを言われたって、私……!」
「あの……」
「何だよ。もう、何なんだよ……!」
「か、加奈さん……あの。私じゃ、駄目ですか? 私があなたのことを認めているだけじゃ、足りませんか? 私が好きっていうだけでは……やっぱり駄目ですか?」
 ここに来る前にも聞いた言葉だったため、今回は戸惑いも少なく、言葉の意味が自分の歪んだ性格に歪曲されず、しっかりと伝わってきた。加奈は赤くなった顔を見せないようにもう一度背を向ける。
「……卑怯なんだよ、お前。そんな風に言われたら、どうしようもなくなるだろ。どうして私をかき乱すような真似をするの? 放っておいてくれれば、こんな気持ちにならないですむのに。人が死んだとき、悲しまないですむのに……。本当は、好きだよ。発作の話を真剣に聞いてくれたりして、発作の後わざわざ医務室に運んでくれたりして、私の意味分かんない感情も言葉も説明できないものもみんな純粋に受け止めてくれるお前が大好きだよ。不満も、苛立つこともいっぱいあるけど。今まで見てきた人の中で、一番好きだよ? 孝徳のこと。……でも、お前は死なないっていうの? 私の周りの人間はみんな、死んだり実験体にされたりしたのに。お前は死なないっていうの? さっきだって、松木と前川じゃなければ殺されてた。 分かる? 親しい人が死んでいくときの、私の気持ち。辛くて、死にたくなるの。実験で産み落とされた化け物だとしても、私だって、一応人間なんだよ? そういう感情だってあるのに、みんな死んでく。今、お前と親しくなって、お前が死んだりしたら、私、絶対自殺する。……だから、どうせ死ぬなら止めてよ。近寄らないで」
「……約束しますから。寿命まで絶対死にません。絶対に。約束しますから。……戦争が終わるまで何が何でも生き延びて、戦争が終わった瞬間に加奈さんと結婚して、子供作って、老後に加奈さんと散歩でもしながら、他の人たちに孫自慢したいです。今の戦争が、遠い昔の出来事に、酒のつまみ程度の話になる朝鮮を、一緒に見てみたいです」
 孝徳が言い終えた後、一度拭った涙が、どうしてかまた溢れて来る。何てことのない想像上の未来。何てことのない想像上の未来なのに、それを"馬鹿馬鹿しい"と思うようないつもの自分は存在せず、どうしようもなく憧れてしまう自分がいた。
「やめて……もう。分かったから」
「……え? あ、あの……」
「…………ぅぅ……っぁぐ……お前、嫌いだ……。どうしてそんなに……私なんかの話を、どうしてそんな……ぅっぐ……」
 これ以上、いくら言い合いしても、勝てる気がしない。いくら怒りをぶつけて遠ざけようとしても、この男は、私を、ただの戦争の道具として扱ってくれない。
 ……好きだ。そんな孝徳が、どうしようもなく好きだ。


 孝徳の手が肩を掴み、振り向かされ、涙が彼の手によって拭われる。彼はそのまま右手で頬を包み込んでいた。振り払おうとしたが、もう抵抗するのは止めようと思い、上げかけた手を下げた。苦難を味わっていないと、綺麗だと思っていた手は、内側はごつごつとしていた。間近で並ぶと身長差が際立ち、自分が子供のように感じられる。顔がとても熱くなる。孝徳は愛おしそうに涙を拭くだけで、抱きしめようとも、キスをしようとも、それ以上の何かをしようともしなかった。チョルミンに甚振られ、発作が起こった後に孝徳へ言っていたことを思い出し、酷く恥ずかしくなる。
 そろそろ松木と前川が様子を見に戻ってくるかもしれないという考えが頭をよぎるが、涙が止まらない。それでも、自分を見るときにいつも哀しげだった孝徳の目が笑ったような気がして、釣られて、笑顔になった。北海道に出兵する直前から、ずっと形作ることのなかった本当の笑顔を、二ヶ月ぶりに零すことができた。




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