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 耳障りな哄笑が耳朶を打つ。
 舌打ちをして不快感を表すと、加奈は未だ哄笑するチョルミンを睨み付けた。
「お前、煩い」
 装着したマイクを口元から遠ざけてから、吐き捨てるように言った。工作員として活動していたチョルミンが、完全な寝返り劇を演じたのがつい十分前。日本に潜伏し、在日朝鮮人の立場を利用し日本名を間々田と称していた彼は、加奈の同僚の一人だった。普通の同僚相手ならば、帰還を素直に喜べただろう。しかしこの精神が破綻している狂人に対しては、懐かしい気持ちなど微塵も持ち合わせていなかった。
「嬉しくないのか。これだけ綺麗に寝返りを決めてやったのに」
 急に冷めた表情を取り戻したチョルミンは、不服そうに言う。
 加奈は、チョルミンが寝返る直前から、せわしなく発信音を拾うこの班を監督していたが、部隊員全員に仕掛けた極小の発信機が伝える熱源を個々に分析する班員の邪魔になっているのは、紛れもなく仕掛けた張本人であるはずのチョルミンだった。加奈は指示用のマイクを装着し、班員からの情報を元に部隊を展開させていたので、それを妨害するチョルミンの哄笑は厄介以外の何者でもなかった。
「分かったから。少し黙れ」
 本心が口をついて出てしまうと、急に表情を消したチョルミンが、加奈の首を引っ掴んだ。
「その言い方はないんじゃないのかな」
 にやついた顔が、眼前に広がる。……だからコイツは、嫌なんだ。
 衝撃で帽子が落ちたのを脇目に、加奈は彼の手を振りほどこうとするが、勿論敵わずに、首を圧迫する力が強まった。苦しさが顔に出ないようにしようとして、しかし殺すための的確な絞め方に、つい顔を歪めてしまう。
「さっきの言葉、撤回するなら許してやるけど?」
 殺意のこもった瞳が自分を射る。負けずに睨み返してやると、絞める力はより強まる。
 自分の心境とは裏腹に、涙が溢れて、時折零れる。こんな奴の前で泣くなんて嫌だ……と思ったとき、その力が緩む。
「曹長に何してる……!」
 チョルミンの性格からすれば失禁などの反応を起こした後で、本当に死ぬ直前で止めるはずだ。おかしいと思えば、孝徳の腕が、加奈の首からチョルミンの腕を引き離したらしく、彼が、加奈とチョルミンとの間に立っていた。
「やめろ、孝徳! チョルミンに刃向かうな……」
 ひとしきりむせた後、まだ冷めた表情を浮かべているチョルミンに気付いた加奈は、孝徳を制止した。
「……私が悪かった。謝る。前言も撤回する。部下の非礼も謝る。……何でもするから、だから……」
 相も変わらず発信音を拾って分析している部下が、様子を窺う気配がする。チョルミンの狂人ぶりは、ある程度朝鮮軍にいるものならば誰でも知っている。だから、どんなに理不尽な言動をしていても誰も刃向かおうとはしない。しかし孝徳は新入りだった。何の後ろ盾もなく刃向かった奴がどうなるのかも、知らない。
「そうだなァ……。んじゃ、靴でも舐めて綺麗にするってのは? 昔もいろいろやってたけど、久しぶりにやって欲しくなっちゃったなぁ」
 沸点が低く、趣味の悪い奴だった。自分も、なるべくなら関わりたくないと思っていたが、どうしようもなかった。つい言葉が出てしまったのだ。
「表面だけじゃダメだからな。裏側も。……そうだ。外で履いてた靴を持ってくるから、それにしよう。舐めたあと、汚いからちゃんと洗い治せよ?」
 嬉しそうに言う。冗談ではない。本気でやらされる。
「………分かった。やるから、コイツは許して。まだ新米だから、分かってない」
「曹長! なぜこんな奴に……!」
「……お前には関係ない」
 だから、何も分かってないって言われるんだよ。お前は。

 親の身勝手で六歳で軍に売られ、人体実験に晒され、いくつもの屈辱に耐えて、ようやくこの立場になった。
 もう、立場を苦しくしたくない。
 もう、嫌なんだ。これ以上苦しくなるのは。苦しい思いをするのは。部下を、知人を失って、ひとりで悲しい気持ちになるのは。
「指揮はこれから俺が執る。いいな?」
 指揮権の剥奪を宣言したチョルミン少佐が、加奈からマイクを奪った。承晩の部下程度では、準南のお気に入りに対抗する権限はなかった。





 
 傍ヶ岳で自分を襲った狂気じみた男は、普段は性質を押さえ込むので精一杯の精神型だったが、チョルミンの場合は違う。実験の後遺症である狂気を押さえ込むどころか、取り込んでしまった、元々の狂人だ。強靭な精神を気に入られて、準南が絶対の信用を置くひとりにまでなった。
 その男が、戻ってきた。そして自分はかつての同僚のような接し方をして不興を買った。今回の指揮剥奪の措置は、仕方がない。諦めは付く。しかし、敵兵士にとっては最悪の事態となったわけだ。極力武力衝突を抑え、泳がせ、情報を得て殺害するという自分の戦法とは違い、チョルミンは最初から敵兵を殺すことに重点を置く戦いに長けている。巻き添えにされる市民の死に対しても、何の感情も持たない。"変異型"が動員されることになるだろう。本人の能力も二十三、男、ストレイジという武人の完成形として、全盛時代の承晩をも凌駕するはずだ。発信機で場所が特定できる以上、松木という中隊長と部下たちは、一人残らず惨殺される。
 無理に別のことを考えながら抱えている靴を舐めると、土の味がした。当たり前だ。外で履いているものなのだから。チョルミンは指示をしながら、時折にやついた視線を送ってくる。悔しさも虚しさも全て考えないようにして、ひたすらに舐めた。早く終わらせて、早くこの場から去りたい。それだけだった。チョルミンが履いたままの靴を地面に這いつくばって舐めろといわれ、拒否して戦争の最前線に投入され間接的に殺された兵士の気持ちも、今なら少しだけ分かる。これ程までに苦痛だとは、考えなかった。
「水、飲みたいんだけど」
 渇ききった喉のせいで、少量の土すら飲み込めない。
「駄目に決まってるだろう。それが終わるまで、お前には何の役割も与えない」
 マイクを遠ざけて言い切った彼からすぐに視線を外し、靴底の辺りを舐める。土はチョルミンが見ていない間に手の中に吐き出した。ようやく、裏側が綺麗になった。
 この様子を見ているのは、チョルミンだけではない。孝徳も見ているように言われていた。承晩と同じやり方だった。彼が目を逸らすと、途端にチョルミンの怒鳴り声が響く。軍における、自分の立場と、孝徳の立場の違いを、彼は今、少しは理解しただろうか。軍人一家の将校候補を甚振るほど、チョルミンは莫迦ではない。吹けば飛ぶ立場の自分に対するからこそできる行動だということを知っている。

 表側は割と早く、舐め終えた。舌がざらつく。土を一部飲み込んだりしたせいで、喉が痛い。
「……終わった」
「ご苦労さん。下がって良いぞ。それ、そこの新米と一緒にちゃんと洗っておけよ。傷でも付けたら、殺すからな」
 嘲笑を伴った言葉に、軽く頭を下げ、靴を掴んで部屋を出た。慌てて孝徳が付いて来る足音がした。
 


 部屋を出てすぐ、加奈は後ろを歩く孝徳の襟元を掴んで、壁に叩きつけた。
 無言で、水道を探して歩き始める。
 孝徳がついて来る気配がまだ続き、加奈は振り返って、顔に感情を込めるのをやめた。
「ついて来ないでくれない? 邪魔だから」
 孝徳と目を合わせるのが、今までにないくらい、恥ずかしかった。悔しくて、悔しくて、泣きたい程に悔しい。
「私がどれだけ恥ずかしかったか、分かる? 私は、ああいうことをしなければならないときが、一番恥ずかしくて悔しい。靴が汚いとか、そんなのはどうでもいい。他人に屈することが、何より悔しい……! 確かに、私はあいつの気に入らない言葉を言ったかもしれないけど、お前が中途半端な助け方をしなければ、私はあんなことにはなってない……」
「……本当にすいませんでした」
 その声を聞いて、加奈はくつくつと喉を鳴らした。
「今更、何だよ。それなら、最初からあの場でチョルミンに謝ればよかったんだ」
 孝徳が、ひどく空虚な目を向けた。哀しげな目。それを見て、加奈は何故だか可笑しくなって来た。
「あははっ。そうだよ……その目だよ。忘れるなよ。あれだけ偉そうにしてた私が、卑屈になって、保身に走るのを見て、どう思った? 目を見れば分かるけどな。そっか、お前も、そう思ったのか」
「……どう思ったと思いますか? 言葉にしてください」
「汚い奴だと、臆病な奴だと、下らない人間だと、関わりたくない人間だと思った。そうだろ? もういいから。私に無理に関わろうとしなくていいから」
 それきり、孝徳から目を切った。
 そのまま歩き去ろうとすると、腕を掴まれた。

「全然、違います。……すごく、好きだと思いました。あなたの、そういうところ」

 思わぬ言葉が返ってきて、孝徳の方を振り返った加奈は一瞬呆気に取られた。
 瞬時に顔が紅潮するのが分かったが、どうにか表情だけは消す。
「触んな!」
 掴まれた腕を振りほどき、彼を思い切り睨んだ。
「私なんか、生きてても、あんな扱いしか受けない。あんなの見て、好きだ? お前、おかしい。どっかおかしい!」
「そういう、所も、好きです」
 孝徳が真面目な顔で言うと、加奈は言葉に詰まってしまった。何だ、どう反応すればいい? 生まれて初めて言われた言葉に思考回路が混乱を来たすのを感じながら、孝徳を見上げる。彼は自分に、何を望んでいる? 私も好きだとか言って、抱き寄せられろとでも言うのか?
 ……馬鹿言うな。

 加奈は無言を返事として今度こそ孝徳から離れ、歩き出した。



          *



 渇いた喉を潤すため、水道の水を大量に飲んで、ついでに顔も洗った。
 結局、孝徳は隣で靴を洗っている。顔を洗う際に横目で窺うと、自分よりも綺麗な手が映った。まだ何も、苦難を味わっていないであろう、綺麗な手……。大きな裂傷の残る自身の右手の甲を右目に当てると、急に心臓が激しく脈打ち始めたのを感じて少しの間同じ体勢で固まった。思わず左手を洗面台につく。直後に発作が起こった。
 足の筋肉が弛緩してその場に崩れ落ちると、加奈は洗面台に寄り掛かった。孝徳が動く気配がしたので、手で制す。息をするのが苦しくて仕方がないが、程度は軽い。意識を失うほどではない。
「あー……うざったい」
 頭を乱暴に掻いて、顔を上げた。
「孝徳。靴返してこい」
「分かりました」
 大人しく返事をした孝徳は靴を持って足早に戻っていった。
 行ったことを確認して、息を吐き出す。それから、激しい呼吸を繰り返した。意識を失わないときは、大抵気管支に来る。加奈は苦しさに堪えるように目を閉じた。
 普通の人なら、ここまでは耐えられない。準南に媚びるか、自殺するか、変異型への道を選ぶ。しかし、自分は違う。そこだけは、自分が好きだ。何度でも褒めてやりたい部分だった。そして、一番、他人に認めて欲しい部分でもあった。だが、秦愈も、他の兵士も、このことは知らない。認められようがない。
 恐らく自分は、他人に認められたがっている。今までも、今も、これからも、ずっと。でも生まれてから誰も認めてなんてくれない。かすかに残る、赤い屋根の家での生活を、幼いころの記憶を思い出しても、誰も認めてなんてくれていなかった。
 だから、どうせ誰にも認められないなら、と考えて、意地になって周りに弱点を見せないように、ストレイジの仲間以外は寄せ付けないようにしてきたのかもしれない。人との付き合い方が分からないなんて理由ではないのかもしれない。本当は、他人と、「自分」という存在を共有して、皆のように、自然に仲間と会話がしたかったのかもしれない。
 一言、たった一言。頑張ってるね。すごいね。誰でもいい。それだけ言ってくれれば、自分はどんなに、どんなにこの世界に存在し易くなるだろうか。そしてそれとは反対に、一度すらも認められなければ、願いや希望などといったものは、生まれてこないのだと、今更のように思った。自分は今、願いや希望もなく、耐えている自分が好きという理由、ただそれだけの理由で存在している。



「あの……もう、大丈夫ですか?」
 まただ。またコイツだ。
 遊離しかけていた意識を現実に無理に引き戻し、加奈は孝徳を見上げた。
 発作の中での軟弱な思考を思い出した加奈は、それを打ち消すかのように、くく、と変な笑い声を洩らした。同時に、先程の言い合いの様子がぶり返してきて、孝徳に対して底意地の悪い感情が沸き起こる。辛くなると下らない考えが幅を利かせるのは、孝徳が、そんな力もないのに、いつもいつも、こんな自分を変えてくれるのではないかと、期待させるよう言動を、行動を、するから悪い。そんな考えが脳内を支配する。
「別に。慣れてるから」
 発作が終わったことを確認して、ゆっくり立ち上がった。
「……お前、さっき、私のこと好きって言ったよな」
 孝徳が驚いた顔を見せる。彼の耳があっという間に真っ赤になった。
 その様子を見て、馬鹿馬鹿しさがこみ上げてきた加奈は、感情のこもっていない顔で、薄く嗤った。
「は……はい」
「私に好きだって言って、どうしたいわけ? 好きだから抱きしめたい? キスがしたい? それともセックスがしたいのか? ハッ、何だよ、好きって。好きって何なんだよ。何が楽しいんだよ。別に、お前が楽しいなら幾らでも付き合ってやるよ。私にだって少しくらいは性欲あるし。でも、だから何? 好きだからって何? 何なの? 私を幸せにしてくれんの? それが。 本当は私が好きなんじゃなくて、女っていう生き物が好きなだけだろ。言えよ。女が好きだって言えばしてやるから。フェラでも何でも。言えよ。性欲の処理してくださいって。馬鹿じゃねえの。だから? 女が好きだから何だよ? 女が好きなのを私に置き換えて無責任に好きなんて言って、結局は自分が満足すればそれでいいんだろ? 私が考えてることなんて分かろうとすらしないくせに。女のことなんて、性欲の捌け口としてしか捉えられない歳のくせに」
 好きだと言われた直後の戸惑いも関係なく、すらすらと言葉が出た。突然責め始めたこちらに驚き顔を歪めた孝徳を見て、加奈は無表情に言葉を繋いでいった。
 言い終えると孝徳は黙り込んだが、加奈は気にせず、目の前の孝徳から視線を外し、歩き始めた。


「……加奈さん」
 間隔を空けて後ろを歩いていた孝徳が、口を開いた。
「あ? 何だよ。曹長って呼べって言ったろうが」
「……あ、あの……先程、チョルミン少佐から指示を受けました。私と曹長は松木中隊長の殺害に向え、ということらしいです」
「そういうことは早く言え。バカが。ならさっさと済ませるぞ。資料寄越せ」
「……はい」



          *



 午前に部屋を借り始めて、午後二時、既に三人目の客が来た。
 前川は図太く寝ている松木の腹を叩き、体を縮こまらせるように促した。何か朝鮮語で喋っている男の声が聞こえる。ジンヒは声は出るが喋れないらしいから、筆談で応じているのだろう。その後で、ベルトがかちゃかちゃ鳴る音が聞こえる。嫌悪を顔に出しながらも、前川は耳を塞いだ。それでも、喘ぎ声や肌が擦れる音、ジンヒと男が交わる音は聞こえて来る。なぜこんなことをしていなければならないのだろう。前川は、早く終われと祈りながら、見つからないよう身を縮こまらせていた。


 二時間ほどすると、三人目の男が帰っていった。終わった後も、しばらくはジンヒの息切れする声が聞こえた。
 何度もやったのだろう。精液のにおいが部屋中に漂っていた。前川は、もう一度嫌悪を顔に表してから、立ち上がった。ジンヒはシャワーを浴びに行ったらしく、部屋にはいなかった。タンスの上には、客からのものだろう一万ウォン札が五枚置いてあった。当然ながら、朝鮮は現在、日本との取引をしていないため、日本円での価値は分からない。
「うあー……くっせえ。このにおい……」
「……やっと起きたんですか?」
「それにしても頑張るねえジンヒちゃん。どうしてあんなにやってるのかしらねえ。実はセックスが好きなのかしら」
「あの子を見て……どうしてそんなことが言えるんですか? 冗談だとしてもタチ悪いです」
 松木の言葉に呆れ返りながら、ため息を交えて返事をした。
 すると、ドアが開く音がして、ジンヒが部屋に戻ってきた。濡れて艶々している黒髪を撫で付けている。彼女の様子を見ている前川に気付くと薄く笑って、カーテンを閉め切ったまま、窓を開けた。新鮮な空気が流れ込んでくる。振り返った彼女は、手に持っていた紙を松木に渡した。無言で紙を受け取った彼は、朝鮮語を読み上げ前川にも教えてくれる。
「今日はもう、客はとらないから、前川さんご一緒に寝ませんか? だって」
「中隊長……」
「いやいや前川君、分からないよ? だって彼女が君を見るときの顔は乙女だもん。いつも顔が真っ赤だもん。最近の十代をナメてはいけないよ」
「僕と、ここに来る奴らを一緒にしないでください」
「分かってるって。悪い悪い」
 自分の顔があからさまな嫌悪を表したのを察したのだろうか。松木がようやく普通の表情を取り戻した。常にこうしていれば、頼りになる指揮官と思えるのだが。前川は、もう一度ため息をついて、その場に座り直した。客が来ないのなら、警戒は松木に任せて、このまま仮眠を取ろうか。考えていたとき、隣にジンヒが座った。風に揺れる髪からふわりといい香りが漂ってくる。鈴蘭の香り。胸元は大きく開いている。確かに、十三歳とは思えないほどの色香を漂わせているのは認める。しかし娼婦であるということが、健全な状態のはずはない。
「……ジンヒはいつまでこんな仕事を続けていくつもり?」
 訊くと、松木がほとんど同時進行で訳してくれた。前川を真似しているのだろうという声で。
 ジンヒは悲しそうに前川を見て、筆記して、紙を松木に渡す。
「私だって好きでこうしているわけじゃない」
「どう……どうして、こんなことになったの? 朝鮮だって、最近は格差がなくなって普通になってきているのに」
 口をぎゅっと結んだジンヒが、前川を見上げた。
 嫌なことを訊いているという自覚はあったが、娼婦としての行為を何度か聞いていただけで嫌悪が募っていた前川は、少し語調が強くなった。
 前川の言葉を松木が訳すと、彼女はいきなり立ち上がって、タンスの方に歩いていった。
 そこからノートを取ると、こちらへ投げ付けた。その流れで、布団に入って横になってしまう。
「あーあ。怒らせちゃった」
 松木が横柄に言いつつも、真面目な表情で、床に落ちたノートを広げる。



          *



 四日
 今日から、日記を付ける。二日前の出来事を二度と忘れない為に。
 あの女は絶対に許さない。絶対に見つけ出して殺してやる。殺してやる。殺してやる。
 
 五日
 周りの人間が、隣町でなら娼婦の引き手がいるといって、移住を勧めた。
 誰も助けてなんてくれない。でも、みんなが自分達だけで精一杯なのは分かっている。仕方がない。

 六日
 十一歳になった。誕生日を祝ってくれる人なんていない。同時に、借家で商売をすることが決まった。
 私は成長が他の子よりすごく早いから大丈夫だといわれたけど、やっぱりそんなの……怖い。



 十九日
 嫌だ。もう死にたい。痛い。体中が痛い。喘ぎ声を上げろといわれたけど、気持ちよくなんかない。

 二十五日
 気持ち悪い客に、体中を舐められた。シャワーで洗ったのに、においが落ちない。吐き気がする。

 三十日
 こんなことになったのは、今月の初めの事件のせいだ。あの女への憎しみは募り続けている。
 自分で確認してから放置していた遺体が見つかったらしい。私の名前は挙がっていない。


 十一月一日
 言葉が出なくなった。
 事件時と、事後の、精神的ストレスの影響だろうと医者に言われた。
 その医者にも、高い診療代をタダにしてやるからといってセックスさせられた。
 提案をした医者も、受け入れた私も狂っている。私はもうただの道具だ。

 十日
 セックスを気持ちいいと感じるようになってしまった。言葉は出ないのに喘ぎ声が出てしまう。仕事がない日に自慰もしてしまう。嫌だ。こんな自分が嫌だ。
 気持ちよすぎて一瞬意識が飛んだ後に、自己嫌悪が襲ってくる。死にたくて死にたくて仕方がなくなる。
 でも、あいつを殺せる可能性がある限り、生き続けてやる。絶対に殺す。


 十七日
 脱北しようとして、隣町の人が捕まったらしい。強制収監所行きだそうだ。
 この機会にあの事件を軽く書き留めようと思う。思い出したくもないが、忘れたくもない。
 先月二日、私と母親は渡河をした。
 しかし岸辺には、前もって賄賂を渡しておいた沿岸警備の男ではなく、あの女がいた。必死に頼み込んだのに、莫大なお金を払ったのに。私と母は騙された。
 私たちを捕まえたあの女は、暴れれば強制収監所にも入れなくなると言った。
 私は母が作ってくれた僅かな隙を突いて逃げ出した。
 必死に走っている途中で、銃声が聞こえた。百六十センチあるのに、三十二キロしかなかった母は、恐らく必死に私を守ろうと抵抗して、殺されたのだ。
 中国国境にいる親戚に食料を貰って戻ってきたら、母の死体にはハエやウジがたかっていた。原形をとどめないくらい、ぐちゃぐちゃにされていた。
 あの女に。白髪で、怜悧な目をした、あの女に。死体を見たときの気持ちは今でも甦ってくる。その度に、憎悪より激しい感情が自分をかき立てる。
 あいつは人間じゃない。あいつは人間の皮をかぶった化け物だ。母の為にも、必ず見つけ出して殺して、全身の皮を剥いでやる。
 千絵という、村の人に聞いた名前は今でも憶えている。名前をここに書くのも嫌だ。



          *



 口に出して読み終えると、松木は急に押し黙ってしまった。後半、読むペースも落ちていた。
「白い髪……怜悧な目をした女。名前は千絵か。……朝鮮軍にいたら、必ず殺してやる……」
 前川は、松木にも聞こえない声で、ぼそりと呟いた。



 その後しばらく沈黙が部屋に降りていたが、問い質したことを謝りたいから、と松木からそのための朝鮮語を聞き出した。
 謝るだけにしては長いとも思ったが、朝鮮語は分からないのでカタカナでメモを取り、布団で空寝をしているのだろうジンヒに、メモを取った長い文を口に出して言った。
 ジンヒは前川の話が始まり少し経ってから顔を上げると、中盤辺りで顔を赤くして、最後には笑顔を見せた。再び見せられた純真さに、前川もつられて照れ笑いを浮かべてしまっていた。
「前川、そろそろ仮眠すれば? 見ててやるから。お前、まだ一回も仮眠してないだろ?」
 あまりにあっさりと機嫌を直したジンヒを見た前川が、何を言わせたんですか、と訊く前にその声が飛んできた。仕方なく松木の声に頷くと、ジンヒの頭を一撫でして、前川はキッチンへ向かった。




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