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「君の……名前、は?」
 朝鮮語のハンドブックを片手にたどたどしい言葉を繋ぎながら訊くと、その少女はペンを使ってノートの切れ端に小さな文字を書いた。松木は先程少女の書いた街の地図と睨み合いをしていて、その間暇になった前川が少女の不安を少しでも取り除こうと行動した結果だった。
「イ……ジンヒ?」
 ジンヒと名乗った少女は小さく頷き、笑顔を零す。自分たちが利用しているにもかかわらず純真な笑顔を見せたジンヒにどきりとさせられてから、前川は視線を外した。
「えええ、えっと、しゃべれ……ないのは、生まれつき?」
 単語単語を組み合わせてしゃべると、彼女は途端に笑みを消し首を振った。
「前川……俺らは、何日かこの家を借りて過ごさなければならなくなるかもしれない」
「……何故です」
 唐突に話しかけられた前川は松木の方へ振り返った。松木が隣に座ると、ジンヒは立ち上がって、逃げるように布団に入ってしまった。
「突入前に集まってた情報で敵の人数は確認したけど、俺らより多かっただろう? 俺が持ってる周辺の地図と出発前確認した情報を照らし合わせると……救援に来てくれる部隊がいないんだ。移動手段にヘリが使えれば数時間で展開可能だが、そんな余裕はウチにも台湾にもない。第一、連絡が取れないしな。さっきから電波の送受信が妨害されてる。……あと方法があるとすれば、この街を自力で脱出することだ」
 小銃の弾薬は二人合わせて残り五回分、あとは拳銃一丁に交換弾倉が少しと、手榴弾二個、スタングレネードが一個。食料は切り詰めればどうにか五日持つ程度で、他に役に立ちそうなのはサバイバルナイフと消毒薬に包帯、ガーゼだけ。この装備で、朝鮮軍数十名相手に生きて街を出られるのかは甚だ疑問だった。
「奇跡を信じて待つつもりですか? 救援部隊がこの街を制圧することを信じて……」
「そうだ。……でもな、ここで隠れていてもいつかは見つかる。食料が無くなったらここを出よう。その時は一か八かで南から脱出する。それまでは、どっちかが見張りの為に起きて、交代で睡眠をとる」
「ベターな作戦ですね。中隊長らしくない」
「らしくないって……まだ二回くらいしか前川の前では指示してないだろ。……もう決めたんだよ。救援は河野とか滝とかに任せて、俺らはただ寝てればいいだけ」
 松木はそれきり目を閉じて、眠りに入る体制になった。最初に寝るのは俺だから見張っとけよ、という事らしい。軽く息を吐いて、前川は立ち上がった。
 居間の床で、ジンヒは布団を敷いて気持ちよさそうに寝ている。娼婦をしているという彼女は器量良しとは言えど、寝顔はただの子供だった。両親を失い家から出て、この借家で生活していくにはそうするしかなかったと言う。兵士と町人がよく来るというので、その時は台所の出っ張りに隠れさせてもらうことになっている。トイレはシャワーが併設されていて、二人が入れる広さは十分にあるものの、入り口に近く、客がたまに利用するらしいので、縮こまっていないとすぐに見つかる心細い場所に隠れることとなってしまった。娼婦として働いている"おかげ"、金払いのいい客の"おかげ"で金は問題ないと言っていたが、その金を出す兵士に対しては、嫌悪を感じざるを得ない。
 こんな子供を、よく平気で……。
 考えていたことが言葉になると、ジンヒが唸って寝返りを打った。



          *



 裏路地を走りその場にたどり着いた滝は、その光景を見て呆然とした。
 松木中隊長に選抜された十九名を除く、間々田隊全ての人員が殺害されていたからだった。そして例外が二人。間々田副長と、仲沢。どの遺体も銃撃による損傷が酷かったが、顔の輪郭や体格で、おぼろげながら判別できた。配属されたときに全員の名前を覚えたし、自分の他に、ここには建物の制圧をしていた同中隊の五人もいる。間違えるはずはない。間々田と仲沢。二人だけがいないのだ。戦闘時にはなるべく表情を出さないほうがいいと前戦時に前川に教えられた滝は戦闘が始まれば無表情を貫いたが、この時はさすがに驚きを隠せなかった。口を半開きにして、死体を見つめ、ここにいない二人の顔を思い浮かべていた。死体の中には驚愕の表情を浮かべたまま硬くなってしまっているものもいて、顔をタオルで覆い隠してやりたいと思ったが、その暇は今はない。
 ……撤退。
 誰が言うともなしに場に伝播していたのは、撤退しなければ、全滅は疑う余地もないという考えだった。
「中……中隊長はどうするつもりですか……? あれから無線も繋がらなくなってしまったし、まだこの街に残っているかも……」
「落ち着け。六人で何が出来ると思ってる。ここは撤退して体勢を立て直すべきだ」
 滝よりも若い最年少の士官の言葉に反応したのは、河野という頼りになる士官だった。この中では最高位だ。建物を制圧していた河野が、敵の異変を察知して、敵の掃射が始まる前に窓のすぐ近くにいた自分を引っ張りあげてくれなければ、死んでいただろう。他の四人も河野の声を聞きそれぞれ走ったが、間に合わずに全員命を落とした。
「南から抜ければ、近くに村がある。妨害電波もそこなら適応範囲外だろう。そこで増員を要請して立て直してから、この街を潰す」
 そんな河野の冷静な声が耳に入れば、反発する心も生まれなかった。手短に言った河野は、まずここを安全に撤退するぞ、と南進を開始した。滝も、その後に続いた。



          *



 一郎と千絵は歩いて村に戻った。宿まで歩いていく中で会話はなく、一郎は宿の軒先が見えてきたところで、小さく安堵の息を零した。
「昨日はあそこに泊まったんだけど……見覚えは?」
「ある。でも、あそこの主人は、殺した母親の親族じゃない、と思う」
 辺りは真昼間らしく、太陽が照りつけてはいたが、既に秋の気候に入っているので真夏のような暑さは感じられない。
 千絵の言葉を聞いてから宿の中に入ると、主人が笑顔で挨拶をしてくれた。一郎は挨拶を返し、ベッドへと視線を移した。しかしそこには安藤しか居らず、他の二人の姿は見当たらない。
「あの二人、兵士に情報を訊きに行ったらしい。テーブルにメモが置いてあった。……昨日の様子を見る限りじゃショックで閉口してるみたいだし、昨日のやり方で、口を開くとは思えないけどな」
 立ち上がった安藤は一郎の背嚢を掴んで投げ、自身の背嚢を背負い、小銃を手に持った。行くか、と言った安藤は一郎が頷いたのを確認すると、通り過ぎ様に千絵を横目で見てから、あからさまなため息をつき、先に部屋を出た。

 
 三人で並ぶと、間に挟まれた一郎は二人で無言の時よりも、更に気を使うことになった。武田や宮沢、夏樹がいなければ、この二人が同じ部隊にいる状態は厳しいと再認識してから、一郎はいくらか話しかけ易い安藤と話をしていた。
 そうしてしばらく歩いていると、隣で沈黙を守っていた千絵が声を微かに洩らした。
「……何か言った?」
「あれ……」 
 千絵の視線の先を追うと、国営軍の軍服を着た兵士がいた。昨日、自分と武田が話を聞こうとして、果たせなかった兵士だった。一郎は先に行こうとする安藤を呼び止め、兵士を見るように顎で促した。ひとりで座り込む兵士は、何かを呟くように口を動かし、虚ろな目は雑草の生えた地面を見据えたままだった。雰囲気に気圧され一郎と千絵が話しかけられずに居ると、黙って様子を見ていた安藤が脇から出て、兵士に近づいていった。
「兵士さん」
 敬称をおざなりに言った安藤に反応し、兵士が顔を上げる。まだ何かを話すように口を動かし続けていた。
「何があった? ちゃんと言葉を使って話してくれなけりゃ、わかんねえんだよこっちは」
「……こ」
 もごもごさせていた口から、言葉が出る。兵士は目を零れ落ちそうなくらい見開いて、ようやくその言葉を発せられる有様だった。
「は? 何だよ、聞こえねえ」
 ちゃんと話せ、とでも言うように安藤が兵士の胸元を掴んで、一度揺すった。
「れない……あの街からは、も……」
「もう少しだ。もう一回言葉に出して言え!」
「あの街からは、誰も出られない……! さ、さいしょから! 決まってた。あんなの、から、にげ、にげられるわけが……」
 見たところ三十は超える兵士が、安藤に促されて、初めて言葉らしい言葉を発した。血が付いた頬を巻き込み、顔全体、体全体が激しく震える。
「落ち着け。その街はどこにある?」
「ここから、北の森を抜けて……。あ、抜けて……抜け……抜けようとして……!」
 そこまで言うと、兵士は突然悲鳴をあげて、安藤の掴んでいた腕を払い飛ばした。そのまま立ち上がって、走り去る。
 命惜しさに気狂いする歳でもないだろうがと吐き捨てた安藤は、冷然と兵士の背中を睨みつけていた。



          *



「あれが目的地ですか?」
 眼前の村を指差した夏樹は、隣を歩く奈良原を見上げた。
「そうだと思うよ」
 敵とは一度も交戦する事はなかったが、どこで何が起こるか分からない状況で護衛が二人、というのは不安で仕方がなかった。千絵や安藤くらいの動きができるならば話は別だが、実際にある程度の年齢を超えれば肉体は衰えを見せ始めるわけで、良く見ても三十半ばの奈良原は、本来なら後方で指揮を取っていてもおかしくはない年齢だろう。本人もそういった不安はあるはずで、それなのに、奈良原はただの返答にでも笑顔を零す。今回も例外ではなく、言った後に笑窪を深くした。何がそんなに可笑しいのだろうかと思いながらも、夏樹は、その笑顔で安心することができていた。
「先生、治療の道具はもうあっちに?」
「先行した部隊が既に運んでいるらしい。何でも最新の機器が揃っているとか……。これから先はその部隊と一緒に進むことになるかもしれないな」
 桂木と並んで歩いていた小野は歩みを止めずに答えた。
「……だから安全に通れたんですね。その部隊に、兄さんたち、いるかな……」
「それは分からない。松木の部隊は近いみたいだが」
「あ、松木さんですか。会いましたよ、この間。父さんの弟ですよね」
「ああ。結婚して苗字は変わったけど」
「え! 結婚してるんですか?」
 途中、声を裏返して訊いてしまった。裏返った声を聞いて、隣で奈良原が笑った。
「二十五だから、別におかしくはないよ。あいつ、面白くて顔もそこそこだから、女性士官にも人気あったし」
 少し顔の赤くなった夏樹は、説明をした後もまだ笑ってる奈良原に「いつまで笑ってるんですか」と言うと、彼の腕を軽く叩いた。



 適当に話をしながら村の奥へ進んでいくと、奈良原と桂木の表情が途端に険しくなり、微かにではあるが、前に嗅いだことのあるにおいが辺りを覆っていた。歩みを進めれば、その度に深くなるにおい。三井グリーンランドで嗅いだ死臭と似通った、におい……。

「河野……」
 桂木に河野と呼ばれた士官は、道端に仰向けになって転がっていた。
 彼は近づくと苦笑いを洩らしながら、血に染まった喉元を指差し、止血してくれ、と唇の動きで伝えた。
「出血の割に、意識はしっかりしてる。動かしても大丈夫そうだな。……すぐ、運ぶ。君、ここの拠点はどこだ?」
 小野のよく通る声に応じると、彼は近くの小奇麗な家屋を指差した。
「大丈夫ですよ。命に別状はないですから。治療すれば助かりますからね」
 夏樹が落ち着いた声を出す。河野は笑って、それから笑みを消した。続けて、彼は唇をゆっくり動かした。何か言いたいのかと思い、もう一度お願いしますと促すと、彼は再度唇を動かした。あの化物から、仲間を助けて欲しい、と。




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