41

 安藤も宮沢も眠りについた後、武田は一人で机に向かっていた。蝋燭の明かりに映えて照らし出される厚いノートには、いろいろなことが書き込まれている。毎日走った距離、軍用書から書き出した戦術、武器の扱いの類、そして書き出しは日記のようなものだった。自分が専衛軍に入ったころからわかば園での記憶を思い出すまでは、不要物として、だが捨ててはいけないと言う直感の基に部屋に山積みになっていたダンボールの箱の中から、見つけたものだ。ここに来る前部屋にあるものを処分していたら、偶然見つけることができた。日記と言うものは世間一般からすれば他人に見られたくないものだろうが、この日記代わりのノートには報告書のように硬い言葉が並べられていたため、別段恥ずかしくもなかった。それも、今日は遠山さんが欲しいと言っていた雑誌を買ってきただの、文化祭は面倒だから行かなかっただのくだらない事ばかりだ。ただ、そこから変化を始めるのが小山田が来たころで、日本に来たばかりの外国人のように、一々文化的なことを聞いてきて鬱陶しいだとか、物を知らなすぎて気持ち悪いだとか、愚痴ばかりになっている。それでもたまにはまともな文章もあって、先入観なしで物を考えられる頭があって羨ましい、あいつは絶対に彼女にしたくないけど学校で喋る友達としてなら面白そうだ、などいった文章も見受けられた。そしてそれ以降、日記は途絶えてしまっている。
 ページを捲った。日記のページの裏からは、先月行われた士官指導の際に覚える必要があった軍事関係のものが書き始められている。自分が専衛軍に入ろうとしていたあの頃は米中が緊迫状態にある世の中で、でも日本は平和で。軍に入るといっても、それは戦場で戦うために選んだものではなかった。運動は好きだが頭も良くなければ将来に希望もなく、とりあえず、で決めていた進路だった。地獄のような訓練も本格的な軍事演習も、それを訓練としか考えない心理が働いて、国を守ると言ったお題目ではなく、訓練のための訓練としてしか認識できずにいた。だが実際に戦争が始まってしまえば、自分の"とりあえず"希望した場所を再確認させられることになった。死の重圧だけが肩に圧し掛かり、戦場はただただ嫌悪する場所として存在した。宮沢の正義感に連れられて本隊を離脱した後に始まった一郎たちとの関わりは、そんな中での出来事だった。仲間のために戦ったなどと言うつもりはないが、あの時本隊を離れて自分が得ることができたのは、とても大切な何かだった。
 今回はそんな一郎たちが部下として存在している。嬉しくもあったが、反面、その何かをくれた彼らを喪うことは最大限の努力をもって排除したいことでもあった。それが自分の責任として課せられるものであれば、尚更のこと。
 考えている間も、辛うじて感じることができた眠気を頼りに眠ろうと何度か挑戦してみたが、結局眠れず、こうして机に向かって戦術でも吸収していないと居た堪れない状態になってしまった。腕時計は午前五時過ぎを示していた。好意で貸して貰った蝋燭をこれ以上無駄にするわけにはいかないと吹き消すと、少しばかり明るんできた空を窓越しに見て、武田は外に出ることにした。

 
 朝の空気は日本ともそれ程変わらない。むしろ澄んでいる。ノートも持って出てきていたのでその続きを開きつつ、武田は清潔感のある白タイル張りの軒先に腰を下ろした。数十年を超える長い緊迫が続いていたせいで、他国の介入すら許さず電撃的に半島を一統した直後の朝鮮国はテロや他国への政治的亡命が横行する国になっていたものの、旧韓国の各技術を徐々に吸収していき、生活レベルの向上が各所で見られた。住宅もその内のひとつで、日本と見比べてもそれ程みすぼらしい住宅は存在しなくなっていた。アパート様式が圧倒的に多いのも、旧韓国の影響のせいだ。その中でこの農村では前時代の旧態依然とした建物が多いが、自分たちが泊まったこの宿は、環境が整えられている方へ分類されるだろう。ガス等しっかりと整えられているし、トイレもシャワーもベッドもある。要するに当たりだった。しかしこれからもこのような場所に泊まることができるとは限らない。このまま進んでいけば、旧韓国軍の拠点だったとして徹底的に廃墟とされたいくつかの街に差し掛かる可能性もある。それは現行のキム・ヨンジェの父親、キム・ジョンチョルによって齎されたものらしく、武田が生まれる前の話でもあった。朝鮮の内情に関しては、まだ不透明なことが多いのだ。
「まーた難しく考え込んでんのか?」
 後ろから掛けられた声に反応し、ノートを閉じる。
「何だか寝れないんだよな……」
「そういや一郎まだ帰ってきてないのか。小山田ん所に行ったっきり? まあ……連れ戻して来てくれればいいんだけど」
 言った後で欠伸をした宮沢がだるそうに歩き始めたのを見て、「どこ行くんだよ?」と声を掛けた。
「兵士に事情を訊きに。折角早く起きたんだし、そのくらいしとかねえと」
「……それもそうか。じゃあ俺も行く。……安藤はどうする?」
「寝てんならそっとしとこうこうぜ、訊きに行くのにそんなに人数要らないだろ?」



          *



 銃声が鳴り止んだのは突然だった。今しかないと思いガラスの割れた窓から顔を出すと、予想通りというべきか、銃撃のあとには死体が転がっているだけだった。同時に反対側の建物にいる兵士たちと分断されてしまったのは確かで、数分後、自分たちがああなってもおかしくはない。自分のせいで彼らがあのような状態になってしまったことに対する感情は、まだうまく働かなかった。
「……とにかく無線の通じるところへ出よう」
 前川に視線を戻し小さな声で囁く。
 彼は頷く代わりについて来て下さいと言い、松木の先に立って走り始めた。いまの彼は予想以上に頼りになった。
 この隊に配属される前に滝と前川が遭遇したのは、森林での包囲戦術。多数のトラップで絶好のキルゾーンに誘き寄せられた彼らは、配属予定の中隊が襲われたように殺害されるはずだったが、小隊長の前川がよく統率し、滝だけが生還することができたらしい。彼の口ぶりでは、他の隊員は全て殺害されたようだった。どう統率してキルゾーンから生還できたのか、それ以上詳しくは喋りたがらなかった。

「先に出ます」
 先程前川が銃撃したオフィスデスクの横に、扉があった。勝手口と言えばしっくりくるその扉を開けて、前川が先に出る。
 その後を追って松木が出たところは、特に特徴もない民家の裏手だった。民家は、人ひとりが通れる程度の小さな路地を挟んで点在していて、松木はその内の適当な路地を選択し、進んだ。
「前川、この場の地理は頭に入ってるか?」
 首を振った前川に頷くと、松木は思案顔を前へ向けた。
「……正直言うと、俺にも分からない」
 本当は、分からないのではなく、しっかりとした下調べをしていないだけだった。間々田隊と挟撃して、対空兵器全てを確実に破壊できるだけの自信があった。だから敗れた場合の想定に時間をかけている暇などなく、上部から出ていた性急な攻略指示を真に受けて、街全体の把握もおぼつかない状況で戦いを挑んでしまったのだ。完全に自分の失策だった。
「でも、このまま東へ向かえば、元来た森林に抜けられるかもしれ……」
「ひとまず落ち着いてください。既にあの森から抜ける道は敵に割れているはずです。まだ時間はあります、考えてからでも……」
「なら、ここで考えるだけ考えて、死ぬのを待ってればいいのか?」
 少し硬質な声が喉元から飛び出し、前川が言い澱む。
 全力行動で疲れきった体、仲沢の裏切り、防戦していた兵士たちの死。
 一息にこれだけの事象が駆け込んできて苛立つ松木は、ため息を吐いた。
「悪ぃ。少しイラついてて……」
 松木は歩みを止めて雑嚢に手を入れ煙草とライターを探し出し、箱から一本取り出して火をつけ、口元に運ぶ。煙が先端から立ち上ると、苛立ちは微かに和らぎ、冷静になる時間を与えてくれた。煙草も害悪ばかりじゃない、と煙草嫌いの姪を思い出しながら前川にも勧め、彼は軽く頭を下げて受け取った。前川にライターを渡して煙を吐き出すと、背中の無線から声が漏れ聞こえた。慌てて煙草を左手に持ち替え、無線を引っ張り出した松木はそれを耳にあてる。
「滝! 無事なのか?」
「……い……」
 まだ繋がりが悪いらしい。それでも滝の声はしっかりと確認できた。
 先程死亡を確認したはずの兵士たちの遺体を想起して口を開いた松木は、返ってきた声に何故という疑問が広がるのを感じた。
「今、松木………対の建物にい……と合……間々田隊の作戦領域に……しているんですが」
「何? よく聞こえない……」
「……から……います。……危険が高いので切ります。では」
「おい! 待て……!」
 松木が止める前に、通信は途絶した。
「これだけじゃ意味が分からないだろうが……!」
 松木が無線を戻しながら呻くと、間髪入れずに前川が手を差し出した。その手の先には、メモ帳がぶらさがっていた。滝からの断片的な無線内容を聞き取ったのだろう、そこには走り書きではあるが判読できる文字があった。まるで自分の方が下士官みたいだな。そう感じた松木は受け取ると、幾分かは精彩を取り戻した頭で、僅かな休憩を終えて走り始めた後、内容の整理を始めた。

 

 前川と相談した結果、"滝は掃射前に何らかの形で反対側の建物制圧組と合流することができ、現在は間々田隊の作戦領域に向かっている"ということで落ち着いた。最後の危険が高いので切ります、は恐らく敵方の傍受の危険を指している。二分程度で考えたものにしては、上々の推理だろう。
「……間々田隊がおかしくなっているのか仲沢一人がおかしくなったのかは、まだ分からない。それなら、滝たちに好きにさせて情勢を探るのも手じゃないか?」
「それよりも先に、まず安全なところを確保してはどうでしょうか。このままではいつ狙撃されるか分からないですから……」
「そうだな……。なるべく平和的に……適当な民家を奪いたい。方法はないか」
「突入して無力化。それしかないと思いますが。家の主が民兵である可能性もありますし」
 路地を走りながら会話をしていた松木が、前川の声に眉をひそめた。
「バカ、上手くいけば味方に引き込めるかもしれないんだからな。それに俺らが無駄に殺人を起こせば後に制圧できたとしても印象が……」
「………」
「……そーだ。良いもんが配られてたのを忘れてた」
 走る速度を緩めずに、雑嚢から出す際にふざけた効果音をつけた松木は、取り出したスタングレネードを前川に見せた。
「中隊長」
「わーかーってるって。まだ気は抜いてない。効果音くらいでそんな怒るなよ。……でも、小さい家ならこれを使えば最小限のリスクに抑えられるよな。外してもお前のがあるし」
 さすがに息が苦しくなってきたので黙ると、またしばらく走った。街の景色が視界を流れる中で、自分が発した言葉と合致した家を見つけたのはその時だった。
 立ち止まった前川も同意したらしく、彼と目を合わせた松木は考える前に玄関のドアを開き、スタングレネードを放った。いつ撃たれるか分からない状況で、鍵がかかっていたらどうしようだとか、そういったことは考えていなかった。靴が二足置いてある玄関のたたきを土足で踏み越えると、入ってすぐに居間と思しき場があり、人の姿を見つけた松木は、前川をその人物の制圧に向かわせた。自身はそのまま奥の部屋に向かおうとして、止まる。見立てどおり奥行きは大したこともなく、居間と台所が併設された部屋と玄関のすぐ左にあったトイレらしき存在だけが、この家の全てだった。凸という漢字を逆さまにしたような、奇妙な家屋。
「汚ねえ家……」
 台所は縦一メートル横二メートル程の、居間と台所の仕切りのような出っ張りの上に水道が敷設され、隣のスペースにはまな板が置かれていた。だが奥には錆びついた料理道具が見え、全体的に黒ずんでいて汚い。剥がれ落ちた壁紙が存在する居間が、まだ良い方だと言えるほどだった。そして松木が端的な感想を零している間にスタングレネードの余韻は消え、前川が制圧した人物の姿が見えるようになった。
「何か縛るものを」
 対象はまだ子供だった。それも女。
 説得して戦力にするという考えが無駄になったと理解した松木は、ため息を吐いた。
「おい、ここに住んでるのはお前だけか?」
 背嚢を置いてしゃがみ込み、タオルを取り出しつつ、朝鮮語で訊いた。多々良師団長の計画に関わるようになってから学んだ朝鮮語は、素人の域よりは上だと自認している。だが、松木の声を聞いた少女は口を動かしてはいるものの、肝心の声が出ていなかった。
「前川、退いてやれ」
 声が出ないことを恐怖に拠るものだと考えた松木は、頭の中ではこれからの展開を考えながらも、見たところ十二、三歳の少女を気遣って指示した。後ろ手に縛られた彼女は、前川が背中から離れると急に駆け出し、玄関の方へと脱出しようとした。しかし駆け出したと同時に彼女の腕を捕まえていた松木は、少女を床に叩き伏せる。塗料が剥がれ掛けているフローリングの床が、激しく軋む音がした。
「危ね……逃がしてたら俺ら死んでたな……。こいつ、どっかに突っ込んどくか?」
「いくらなんでもこんな子供を乱暴に扱うのは……。その辺の軍人と一緒にされるみたいで私は嫌です」
 前川の言葉に投げやりに頷くと、松木は玄関に行って鍵を閉め、玄関から居間に至る扉も閉め、倒れて肩を震わせている少女を引っ張り起こした。
「泣くな、うるせーか……」
 慰めようとすると、少女は声もなく暴れ松木は顎を蹴り上げられた。
「この……!」
「中隊長、その調子でしばらく相手をしていてください」
  

 部屋全体を見渡すと、小さな冷蔵庫と三段のタンスが部屋の隅に置かれている以外は、家具らしき家具は置かれていなかった。前川がタンスの引き出しを下から開けていくと、三段目には使い古されたズボン等の洋服、二段目には下着や生理用品、一番上には筆記用具とノート数冊が仕舞ってあった。妙にざらつくノートを開くと、朝鮮語で文字が書いてあった。日記か? という考えが頭を掠めた前川は元に戻そうとしたが、朝鮮語の読めない自分で判断するのも問題があると思い直して、松木にノートを掲げ示してから軽く投げた。他のノートも念のため開いていくが、同じように朝鮮語が詰まったものだった。
「あー、日記だな。何かこの街について分かるかもしれない。……これ、読むぞ。いいか?」
 語尾を朝鮮語にした松木に訊かれ、未だ声の出ない少女は首を激しく横に振った。すると松木は、何かを思いついたような顔で、言葉を繋いだ。
「そんなら、あんたが街について教えてくんない?」




inserted by FC2 system