間幕

 一人で泣くより、幾分も気が楽だった。受け入れてくれる人が居るのは、とても幸せなことだ。千絵はそのときにほんの僅かに混じっていた性的な欲求を心底に追いやり、川辺で顔を洗った。清流が与えてくれる冷水にタオルを浸し、腫れぼったい目を覆う。明瞭でなかった意識がはっきりしていく感覚に軽く息を吐いた。
「帽子、目深に被っておけば?」
「あ……うん」
 目を覆っていたタオルを外し、血痕から甦っただけの記憶に今までに無いほど動揺した自分、意味の通らない行動、含意の全く無い言葉たちを発した自分を丁寧に扱ってくれた彼に、視線を合わせた。
「……今日は、村に入って欲しい。本隊に何かあれば、対応を変化させていかないとならないから。昨日、村の中に入れないみたいだったけど、今日は大丈夫なの?」
「前に、脱北しようとして殺した母親の親族が、あの村に……たくさん居る」
「どうする?」
「……行く」
 弱気な自分の声がいつもより更に声量を小さくし、それが川の流れる音に負けてしまったような気がしてもう一度口を開こうとすると、一郎は軽く頷いていた。
「そっか……でも、白い髪を隠せれば、そう簡単には千絵だって気付かないはず……どうにかならないかな?」
「あ、それなら……まとめる道具は、いくつか持ってる」
 戦地で気付かれないようにするための装飾は得意だったが、自分を変えて見せるための装飾に関しては全く興味が無いために、デザインは単純なものばかりだった。背嚢からその内の灰色のゴムとU字型のヘアピンを取り出し、後ろ髪をたくし上げ、小さな団子のような形を作ってゴムで縛った。そしてそこから溢れた髪はUピンで留める。留めている最中に一郎がこちらを見ていることに気付いた千絵は、急いで帽子を被りなおして、その髪を隠した。
「へ……下手だから、あんまり見ないで。……でも、一応、分からないようにした……」
 元々帽子が大きかったことも手伝い、この髪型でも外からは違和感が無いはずだ。そろそろ戻ろう、という声を続けて出そうとすると、彼の背後に在る大木の血痕と目が合った。

 ――あなたたちのことは、ずっと背負っていく。自分の犯した罪とも一生向き合っていく……。もう、二度と逃げたりしない。
 だから……。
「そろそろ、行く?」
「うん」
 千絵は、今までに誰にも見せたことの無い心からの笑顔を、一郎に向け、いつもより大きい声で返事をした。

 
 だから、戦う道具とされてきた自分が、唯一で会うことの出来た光を感じていられる間くらいは……一郎や夏樹や武田君と一緒に過ごしている間くらいは、生きていることを嬉しく思わせて欲しい。好きな人と居られることを、しあわせだと感じさせて欲しい。
 自分勝手な望みだというのは分かっている。
 それでも、潰してきた人生の数を踏み越えてでも、私は生きていたい。
 たとえ始まった戦争の中であっても、その願いが通るのなら。私は、いくらでも日本の人々の盾になる。自分の命を削ってでも、戦争が終わる日まで、戦い続ける。そしてできることなら、生きて帰って、日本の土を……平和になった日本の土を、もう一度踏みしめたい。



          *



 日本が『ホーク』を含む優秀な対空兵器を開発したのと同様に、各国でも空軍による被害を最小限に留める為に様々な対策が採られていた。その中でも既に日本へ核を射出した朝鮮は、対空への防備が厳重で、更にはロシアという大国の後ろ盾を明瞭にし、自国への核爆撃阻止には特に慎重だった。それに、『agnea』の残弾数は限られているとはいえ、他国との核戦争を引き起こせるだけの可能性の広がりは保っている。加えて、中東の情勢もイスラエルの第五次レバノン侵攻、ベイルート占拠と再び悪化の一途を辿り始めた。実質的な米中戦争という最悪の展開の中、こうした要員は国際的な不安を増大させていた。
 キム・ヨンジェの猟奇的な性質を利用した男は、この状況を見ても、ただ冷徹な無表情を浮べるだけだった。
「開戦しましたね、ヨンジェ様。……ストレイジの指揮は私に全権を与えてくださるというのは、本当ですか?」
「ああ。……お前以外に、あの化物集団の指揮を執りたがる奴などいないからな」



          *



「完全に囲まれて……! 新木は恐らく既に……」
 無線に吹き込む兵士の胸部を狙い、放つ。その言葉を最後に派手な血飛沫をあげた兵士を確認すると、加奈は木の上から飛び降りた。汗一つ掻いていない加奈は横たわる兵士へ一瞥をくれた後、軽く咳き込んだ。
「ここも、たいしたことはなかったですね、曹長」
「……そうだな」
 一応の敬語といった形で無愛想に言った老兵に、適当に相槌を打つ。もう三度目になる自分の立案した作戦通りに事は進み、町を包囲していた敵軍はほぼ殲滅した。しかし、嬉しさなど微塵も沸き起こらなかった。もう自分は、戦闘に喜びを見出すことは無いのだろうか。
「……帰投する」
「了解」
 横柄に言ったもう一人の部下がゆったりとした調子で帰路を歩み出した。その様子に加奈は舌打ちし、彼の背中へと続いた。今まで行動してきて分かったことだが、この部下達は自分を完全に見下している。リスクを避けて自分では大して動かない為、未だ外見で判断を下されているようだった。
 ふと腕時計に目を遣ると、発作の時間まであと少しだった。老兵が後ろを歩いていたので道を譲り、加奈は先程兵士を殺した場所へと引き返した。ここまで規則的に発作が起きるのなら、戦闘中に発作時間まで時間が進行してしまった場合、どうすればいいのだろう。我慢してどうにかなるものでもない……と考えていると、どこからか話し声のようなものが聞こえ始めた。
 この辺りの敵は一掃したはずだ、と周りを良く見渡すと、致命傷を僅かに回避したのか、木の上から銃撃して仕留めたはずの兵士が血まみれになりながらも無線に取り付いているのが見えた。致命傷は回避していたのか? 気配を消して近づいた加奈は、そのすぐそばにしゃがみ込み、無線を奪った。
「何話してたの?」
 形骸化した笑顔を伴って話しかける。兵士の顔は少しの間強張ったが、次の瞬きの間には加奈に飛び付いていた。首を絞めようとする手の感触はあったが、その手が異様に冷たく握力も感じられないことも相まって、加奈は無表情のまま兵士を見ていた。いつまでもそうしているわけには行かないので面倒そうにその手を振り解こうとすると、彼の最後の抵抗が痛みを残した。彼の爪が、喉仏の辺りを抉り、斜めの線を浮かび上がらせた。
「……満足か?」
 加奈がそう訊くと、兵士は意味あり気な冷笑を遺し、腕を離した。その冷笑の意味を考える前に、加奈は発作を起こし意識を失った。



          *



「何話してたの?」
 無線の向こうから聞こえたのは、女の声だった。無線を扱う兵士に通信の断絶を指示した後、拳を握り締めた松木は目の前の机を思い切り叩いた。これでこの中隊の被害人数は三十名へ到達した。いくら付け焼刃の戦闘技術しか持たない兵士達を率いているとしても、この人数は自分の無力でしかない。それでも指示に従って必死に戦ってくれた兵士達――。申し訳ないという気持ちと、これ以上犠牲は出さないという気持ちが拮抗し、松木は椅子から立ち上がっていた。
「あの街を落とさないと、物資の搬入が……。早いところ対空能力を無力化するように、もう一度要請が来ています。……我々はどう動けば?」
「……俺が出る。何かあればこの場の指揮は間々田、お前が執れ」
「……はい」
 この周辺に空軍の拠点が存在しないため、辺りでは地上戦が主だった。その状況でこれだけの人的損失を発生させるには、それなりの理由があった。兵士が最後に遺した敵の特徴は、ストレイジの……傍ヶ岳で次郎を攫ったと言うストレイジの特徴と似通っていた。前の戦いで相手にしたストレイジたちを想起した松木は、既に作戦の展開を脳内でまとめつつあった。彼ら彼女らにとっての弱点は、連続した攻撃状況にさらされること……。発作の間隔を統制させずに部隊戦術を駆使すればどうにでも崩しようはある。そのためには自分が直に、おこなった方が早い。
 これまで、ストレイジから救えなかった人々を思い浮かべた松木は、私憤の感情に囚われる前に、指揮所の扉を押しのけていた。
「黒髪の女は必ず殺す……」
 そう洩らした松木は、投降前まで、専衛軍側に甚大な被害を齎し続けた小山田千絵を殺せない苦しみを目前の敵で消化すべく、移動用のオートバイに跨った。




 戦略上、歴史上から見れば、小さなたったひとつの街。歴史にも、文章にも、報道にも、映像にも、人々の記憶にも残らない。だが、ここには確かに戦闘が在った。国と国の諍いを決する為に犠牲になった国営軍兵士や朝鮮軍兵士や住民たちが、そこには居た。
 一度深みに嵌った後は、どこまでも広がっていく。日朝どちらかに対して、決定的な破壊が、敗北が、訪れるときまで。
 それは、十月二日の肌寒い夜だった。




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