38

 もう何度目か分からない移動に時間の感覚がなくなってきた頃、一郎の体はトラックに乗せられ、米軍が先行して制圧した対朝鮮の本拠地、瀋陽に運ばれていた。同乗しているのは自分たちの他に、もう一隊の小隊。どこか頼りない体つきの隊長に、眼鏡をかけて黙り込む無表情な隊員、それ以外には特徴のない顔が数人。その中に、先程から武田の左目をちらちら見ている奴がいた。遠慮や限度と言うものを知らないのかと思ったが、視線に気付いているはずの武田は夜空を見上げているだけで、意に介す様子はない。千絵は目深に被った帽子で目鼻を隠し、俯いて黙り込んでいる。
「着いたぞ。合流先は適当に歩いてりゃ分かる。俺も暇じゃないんでな、さっさと降りろ」
 トラックを運転していたアメリカ兵が、大連港から乗り継ぐこと数回、全員が押し黙った時間の終わりを告げた。彼の不精な物言いは、数時間の移動を交代要員なしで行わされたことに対する怒りなのか、若造たちの使い走りをさせられている己が身の不幸を嘆くものか。いずれにせよ快い見送りとは程遠いものだった。
「何て言ったか分かる?」
 英語が全く分からない一郎は、剣呑な雰囲気を感じ取りもせずに、隣に座っていた千絵に訊いた。彼女は小さな声でトラックから降りるように言うと、トラックの後尾に向かった。
 面倒だったのでその場から直接地面に飛び降りた一郎は、着地した際に感じた骨がじんとする感覚を眠気覚ましにして、伸びをする。辺りはすっかり暗くなっていて、周りの建物の構造がよく掴めない。
 見慣れない景色に気を取られ、周囲を見回していると、帽子を取って首を軽く振り、髪を靡かせた千絵が一郎の隣に並んだ。少しだけ開放感を滲ませた顔は、帽子を被り直した後には表情と呼べるものが確認できなくなり、いつの間にか手にしていた軍用PDAへ視線を落としていた。その面持ちにどこか嫌な感触を覚えた一郎は、特に気になってもいない質問をしていた。
「ずっと顔を隠してたみたいだけど……何かまずかったとか?」
「顔を知られない方が、これから動き易いから」
「動き易いって……?」
「……少し黙ってて」
 超小型のキーボードに滑らかな指の動きで文字列を打ち込みながら、淡々と無視をした千絵は、更に深まった能面を携え、ディスプレイに表示されている英語に注視していた。悪化した無表情に、溜息を押し殺した一郎は、武田の背に目のやり場を求めた。恐らく隊を率いる武田が支給を受けていたPDAだが、自分が持っていても意味がないと判断したか何かして、千絵に預けたのだろう。重要な情報端末を彼女に預けているのは、何だかんだ言って信頼している証拠だ。私的な感情の面ではもう整理がついたのか? と要らぬ心配をした一郎は、自分も他人の心配ばかりしている場合ではないなと思い当たった。殺人の快楽に手を染め兼ねない自分、対してフル稼働を続ける自制心。その二つから自分の精神が均衡をとっているという事実がある限り、戦闘においてはいつ均衡が崩れるか分からない。
 表情を暗くしてグロックの弾倉を確かめていると、袖口を引っ張られた。
「見て」
 グロックから視線を外して振り返ると、自分といくらも身長の変わらない千絵の姿がそこにあった。彼女がPDAのディスプレイをこちらに向けたので、一郎は画面を覗き込んだ。画面には、日本を中心としたアジア地図に、いくつかのラインやポインタが点在している。千絵はその内の、"Vladivostok"と記された場所を指差した。そこには赤いポインタが付いていた。
「……これがどうかした?」
「赤いポインタのところが交戦地域の場所なんだけど……おかしいと思わない? ウラジオストク港は経由するだけのはずだったのに、交戦地域になってる」
「……朝鮮軍の奇襲、とか」
 可能性はなくもないが、考えたくない事実から目を逸らして発した言葉だった。
 そして、今回の戦争を朝鮮の物資と状況を基に、軽微ながらも楽観的に考えていた一郎の思いは、首を小さく横に振った千絵によって覆された。
「調べてみたら、この戦いの開戦直後に、ロシアからの布告があったらしいの。情報がアップロードできるのは軍上層部だけのはずだから……偽情報なんてことはないと思う」
 しっかりと希望的観測の噴出を未然に防いだ千絵の言葉に、一郎は半ば呆然とした。いくら遠い場所で起きた事象とはいえ、今まで戦力を温存してきた超大国が日本に牙を剥いたということは、事実らしい。経済が貧窮の極みにあっても、軍事技術は健在である。中東への介入に失敗したが未だ強大な国力を持つアメリカと、単独で渡り合えるのはロシアくらいのもの。なぜ、という疑問が幾重にも重なるが、自分にその答えが導き出せるとは思えなかった。
「……でも、仕掛けてきたのは極東連邦管区だけだから……勝つ可能性は、ゼロではない」
「……今の日本で、か?」
 領土が広大ながら、地方と中央それぞれに政権が分裂してしまっている現在のロシアには、付け入る隙は少なからずある――。千絵の意見は正しいものではあったが、あくまで薄い希望でしかなかった。極東連邦管区。四州独立という類を見ない体制のうち、最も武力推進著しい州で、背後のシベリア連邦管区とは領土不可侵の条約を結んでいる。
 核を撃ち込まれ、復興より報復を優先し――報復と言う建前以外にも算盤勘定を働かせていることが明白な、朝鮮出兵を決断した者たちの言い分は知らない。知らないが、滅亡へ一歩踏み出したこの国の状況は、いま確かに存在している。そのことをどうこう言える立場でない一郎には、グロックを握る力を強めることで歯がゆさを表現することしかできなかった。
 
「でも……ここで考えることじゃないか」
 今の日本で勝てるのか、という質問の返答に窮した千絵が、胸元の辺りで、珊瑚を象ったペンダントを意味なく弄っていた。一郎はグロックを握る力を弱め、自らの前言を打ち消す言葉を発した。
「ごめん……私も、そこまで政治に詳しいって訳じゃないから」
 少し安心したような顔になった千絵が、ペンダント弄りを止めた手で頬を掻いてから、薄い笑いを作ってすぐに消した。わずかな表情の変化だった。それでも一郎は、移動開始後初めての笑顔を見て、どこかほっとすることができた。
 そして自分たちを呼ぶ声が聞こえたところで、一郎と千絵は話を止め、声が聞こえた方へと目を向けた。
 
「……ひとまず合流先を探そうか。PDAで何とかならない?」
「分からないけど……やってみる」
 二人は歩き出して、同時に、戦争に呑み込まれる一歩を踏み出した。
 
 
 
 
 
 
 加奈、と呼ばれた気がして、目を開けようとする。だが上手くいかず、もう一度瞼を下ろすと、どこかの家がふと頭に浮かんだ。赤い屋根が見える。
 ……懐かしい。
 その玄関には、四人の人影があった。
 そして四人の顔をよく見ようと考えたところで、景色は急激に収縮を始めた。
 
 
 
 もう一度目を開けようとすると、今度は簡単に目が開いた。眼前に広がったのは赤い屋根の家ではなく、白い布団。加奈は正面を見据えたまま何度かまばたきをした後、横向きに眠っていた自分の体を確認した。布団を押しのけ、枕に手を付いて起き上がり、脇腹に手を触れる。脇腹は未だに鈍い痛みを訴えていた。触れる限りでは、包帯が新しくなっているようだった。吐息を小さく零してから、わけもなく孝徳の姿を探してみるが、この部屋にはその姿はない。
「……今、何時?」
 加奈の脇で薬棚に向かい、何か作業をしている顔見知りの衛生兵に話しかけると、午前二時という答えが返ってきた。彼は秦愈(しんゆ)と言う名前で、この軍で加奈がまともに話をすることのできる、数少ない顔見知りの一人だった。
「ずいぶん眠ってたなあ。傷は大丈夫か?」
「……私、いつからここに?」
「あ? 確か深夜になってからだよ。今も深夜だけどな。落ち着いたみたいだから寝かせていて欲しいとか言ってた。知らない男だ。加奈より幼い感じの。だけど力はあるな、眠っているお前を抱えてここに来れるんだから」
 無精髭を軽く触りながら、秦愈が彼の来たときの様子を語った。恐らく孝徳だろう。
「そっか。……じゃあ、私は部屋に戻るから。秦愈、寝かせてくれてありがとう」
 加奈はベッドの下に入り込んでいた靴を引っ張り出しながら言った。
「……いつもそんな殊勝な顔付きに話し方してりゃあ、美人なのにな」
「黙ってろ」
「またその言葉遣いを……」
 自分が今浮かべている表情を特に意識をしていなかった加奈は、途端に不機嫌な顔付きになった。立場上、他の兵士の前では表情を崩さないように努めてはいるが、発作の直後はつい気を抜いてしまう。
「みんな、もうお前のことは認めてると思うけどな。それほど人を寄せ付けなくすることはないんじゃないか? そんなんじゃ気管支の発作が起きたとき、誰も助けてくれないぞ」
 ストレイジのことに関しては、秦愈にも言っていない。自分と彼がこうして普通に話せているのは、彼が深くまで事情を聞き出そうとしないからだ。……友人がほとんどいないということは既に知られているが。
「……気を抜いてたら下士官になめられるんだよ、女だから」
「まあ、理由なんか何でもいいんだけど。気張り過ぎてると、ふとしたときに脆いから気をつけろってこと。二十三過ぎてそれじゃあ、婚期も逃……」
 無精ひげが目立つ顔が言い終わる前に、その両頬を片手で思い切り掴むと、彼を突き飛ばし、加奈は医務室を出た。
 本当に女か、という声が背中に浴びせられた。
 
 
 
 
 
 
 ――人を寄せ付けなくすることはない、か。
 昔だったら一人で過ごすことも苦ではなかったが、それはストレイジの連中と、どこかで繋がっている感覚があったことが大きい。でも今は、誰も言葉を発しない。
 他人との関わりもなく、ただ発作に耐える毎日は、とても辛い。そのことに、一人で放り出されてようやく気が付いた。
 
 それなのに何故未だ、人を寄せ付けないのか。それは意地の様なものも含まれているのかもしれないが、人との付き合い方を上手く思い出せないから、というのが一番大きいのだと思う。六歳以前の記憶は実験の影響で存在せず、それ以後も、誰かと深く付き合った記憶がない。
 ストレイジとならただ一緒に生活しているだけで連帯感を感じることがあった。同じ苦境に立たされた奴らということで、悩みも共有できた。しかし普通の兵士とは、言葉を使って、何かほかの方法でコミュニケーションを取らなければならない。何を話せば自分に興味を持ってくれるのか、何を行えば自分に好感を抱いてくれるのか。それが思い出せない。分からない。
 全てが秦愈のように鷹揚な性格だったら、狭量な自分とも付き合っていけるのだろうけど。
 
 加奈は自室の前で歩みを止めた。宿舎の最上階の最奥、ストレイジであることを一応は考えの中に入れてくれている場所だった。ドアノブに手をかけながら、今日何度目かの溜息を吐いた。こんなことを考えてしまっているのは全部あの新米のせいだ。あの野郎、馴れ馴れしく話しかけてきやがって……と内心に毒づきながら、部屋に入った。ドアからベッドまでの距離が異様に短い、格安ビジネスホテルのような容貌をしたその部屋は、普段から日当たりの悪さのせいで薄暗く、全体的にくすんでいる。紫地に趣味の悪いレースの模様の描かれた壁紙が、より一層、安っぽさを引き立たせていた。
 そんな部屋でも電気を付けると、どうにか人心地つける程度の明るさが確保できる。
 硬いベッドにうつぶせに倒れこんだ加奈は、いつの間にか着ていた上着を脱いでから目を閉じた。
 
 
 それほど間を置かず、ノック音が響く。
 もう少しで眠れそうだった加奈は、不機嫌な表情で立ち上がり、ドアを開いた。
 そこに立っていたのはまたあの新兵だった。
「……んだよ。今日はもうお前と顔つき合わせるのも嫌なんだけど。何か用?」
「落し物です」
 身長が百九十を超える彼が懐から取り出したのは、自分がいつも戦場で愛用している銃だった。加奈はありがとう、と棒読みしてからその銃を奪い取った。手の馴染み方からして、間違いなく自分のものだ。
 他のストレイジと違い、加奈はあまり、戦闘でナイフを使わない。リスクの大きい接近戦よりも、戦術で相手を潰すことに長けていた。戦術が裏目に出たとしても、この愛銃と、鍛えた射撃技術、そしてストレイジの能力を持ってすれば、自分ひとりが生き残ることくらいは容易だった。
「加奈さんのもので間違いないですか?」
「曹長だ。馴れ馴れしく名前で呼ぶな」
 加奈は孝徳を追い立てるようにして、扉を閉めた。




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