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 二〇四六年、世界情勢は混乱の極みにあった。どの国とどの国が戦争状態にあるのか、大抵の民衆には把握できていない程の混乱。口火を切ったのはアメリカだったが、過去二度の世界大戦では考えられない規模の火力と兵力のぶつかり合いは、彼らに想像もしない結果をもたらし続けている。
 乱戦に次ぐ乱戦。そして、その戦渦に新たな国々が加わる。
 
 同年九月十九日、黒煙がウラジオストク港を包み込んでいた。
 ウラジオストク港に接岸しようとした国営軍の輸送艦、十五艇をロシア軍が先制し撃沈。だが、第一方面軍、第二方面軍と区分された国営軍先鋒とオーストラリア軍は必死の抵抗を試み、多大な被害を出しながらも、台湾軍の援護を受けウラジオストクに上陸することに成功した。
 そして――翌二十日、ロシアは日本・オーストラリア・台湾それぞれに宣戦布告。
 
 
 


36 戦線拡大

 
 
 
 ベッドに背を預けて浅い眠りに入っていると、部屋をノックする音が聞こえた。一人で過ごせる時間を阻害され、面倒だなと思いながら体を起こす。扉を開くと、そこには見知った顔の男が立っていた。
「よぉ」
 宮沢は軽く手を挙げ、武田の無愛想な顔に対した。
「お前も同じ艦だったのか」
「まぁな……今、空いてるか?」
「何でだ?」
「いや、別に用はないけど」
 どっちにしても、今は眠るか、ただ起きているか、それ以外にすることがなかった。宮沢も同じなんだろうと思った武田は、立ち話も面倒だったので、暇なら入れよ、と声をかけた。宮沢は靴のまま部屋に入り、二個あるベッドのうちベッドメイキングが為されたままのベッドに腰を下ろした。
「小山田って、案外普通なんだな」
 扉を閉め、適当な場所に座り込んだところで宮沢が口を開いた。
「何だよ、いきなり」
「いや、お前の話聞いてて、すっごく人間味がない奴なのかと思ってたからさ」
「……もしかして、この船にあいつらも乗ってるのか?」
「ああ。来てる。一郎と夏樹ちゃんと、あと……安藤って言ったっけ? そいつも。今いるのは倉庫だけど」
 よく一般人が入艦を許されたなと思ったが、深く考えるのも面倒だったので、いろいろあったんだろうなと、自分の中で適当な理由を付けて納得しておいた。
「……お前、小山田のことはもう吹っ切れたのか?」
「たぶんな」
 見ていて苛々はすることはあるけどな、と心の中で付け足した。
「あのな、これからは一緒に戦うんだかんな……。仲間だぞ仲間」
「……仲間、ね。なんだか妙に好意的だな。何かあったのか、小山田と」
「気になるのか?」
「気にならない」
 続けて何か言おうとした宮沢が口を開こうとしたと同時に、艦内に小隊長の召集を求める指令が響き渡った。よほど大きなことがあったのか、どこか焦った様子の中隊長……松木の声。
「……ちょっと行ってくる」
「あれ、お前、小隊長なの?」
 切れ長の瞳をぱちぱちとさせた宮沢を見て溜息を吐いた武田は、その声を無視するように部屋のドアへ歩き始めた。
 
 
 
 
 
 
 ロシアが日本に対して宣戦布告――。
 その連絡が札幌の外交筋よりもたらされたらしい。
 小隊長たちが召集を受けたのはその対応の為の協議ではなく、最終的な部下の組み込みの決定と、いつ命令を転換させても混乱をきたさないように、隊員との意思の疎通を図っておけとの話だった。指導がある、と最後まで残された最年少の武田は、その内容を反芻しながら、簡易テーブルを間に挟んで座る松木を見た。
「あいつらの上に付けという話ですか?」
「……察しがいい」
 わかば園で助けてもらったとき以来、松木のことは幾度となく見てきたつもりだったが、いつもは捉えどころのない表情をしている彼が、憔悴しきった顔をこちらへ向けていた。中隊長と言う立場は、これほどまでに重いのだろうか。確かに、自分より数年長く生きただけの彼が、あれだけ多くの兵士の命を預かるというのだから、分からないではない。
「まあ、壕の設置とかじゃ邪魔になるだけだ。素人だし。でもな、それを差し引いても奴らは十分な戦力に成り得る。お前も気づいてると思うけど、第一・第二と違って、こっちはただの寄せ集めなんだよ。……正直、他の小隊長では物足りない。お前に、やって欲しいんだ、この仕事は」
 語尾の声を潜めて、彼は言った。
「……軍の訓練を受けていない者を従軍させると言うのですか」
「どっちにしたって……結局は一郎たちが選んだ道だろう? 死んだら死んだで戦死者としてすら扱われない、そんな道を奴らは望んだんだ」
「随分と自分勝手な解釈ですね」
「俺じゃない。幹部の判断だ」
「……で、その幹部たちは問題が起きたらどうするつもりなんですか」
「たとえ何か問題が起きたとしても、全ては戦争の中で起きたこととして処理されるだろうな」
 ……これは初めから予定されていた問答でしかないのか? 余りに淡々と話す松木に質問を繰り返すうち、そう感じた武田は、テーブルに手をついて立ち上がった。
 もう何を言っても無駄なのだろう。今までの経験がそう感じさせていた。全ては連絡事項でしかなく、下士官に決定権はない。一ヶ月前、そういった束縛に反発して専衛軍から離れようとしたこともあったが、結局は何も変わらなかった。現に、自分はここに戻ってきている。
「やります」
 束縛から逃れられないなら、せめてその中で足掻いてやる。椅子に座ったままの松木を見ながら言った。
「……あんまり睨むなよ。俺だって出来たら、お前や一郎たちを戦争になんか巻き込みたくないんだ」
「別に睨んでなんかいません。それより、松木さんこそ大丈夫なんですか? 中隊長のプレッシャーに押し潰されそうになっているようにしか見えないんですけど」
「そんなの大したことじゃない。俺の人生とは本質的に何の関係もないからな、中隊長なんて肩書きは」
「じゃあ……どこか体調でも悪いとか?」
「大したことじゃないって……」
「それにしては顔が白……」
「船酔いだよ!」
 松木の声が小さめの会議室に、驚くほど響いた。自棄気味のその声に武田は押し殺した笑いを零したが、睨まれてすぐに笑いを止めた。
「上官への尊敬が足りねえよ、お前は」
「だったら尊敬されるような行いをすればいいじゃないですか」
「……相変わらず生意気な野郎だ」
 武田の腹を軽く握った拳で小突いた松木は、ゆっくりと立ち上がった。
「挨拶は済ませておけよ」
 伸びをしながら言った彼に無雑作に頭を下げ、部屋を出た。
 
 
 
 この輸送艦がどういった原理で航行しているのかはよく知らない。だが、廊下を行き交う見知らぬ兵士たちを見ていれば、大した人的操作は必要ないことが分かる。どの顔も緊張感に包まれてはいるが、何か指示があって動いていると言う様子ではない。
 そのうちの一人を捕まえて倉庫の場所を訊いた武田は、兵士の不審顔を浴びてから、割合ゆったりとした調子で倉庫へと向かった。
 
 倉庫の場所は予想外に遠く、歩いていくうちに段々と人の足並みが途絶えていった。そうしてようやくたどり着いた扉の前には、立入禁止区域と貼り紙がしてあった。民間人の待遇にひとりで納得してから扉を開く。
「あ、武田さんだー」
 どんな薄暗いところだろうと想像していた武田は、倉庫に電気が通っている様子を見てどこか安堵し、明るい声を弾けさせた夏樹に視線を向けた。
 だが、突然武田さんだー、などと言われてもどう返せばいいのか分からない。せめて挨拶に留めてくれればよかったのにと思いながら夏樹の顔を数瞬の間見詰めたが、自分がなにか返さなければならないような雰囲気だったので、とりあえず口を開いておいた。
「……久しぶり」
「武田もこの艦だったのか」
 自分でも良く分からない返答が倉庫内に響いて間も無く、一郎の言葉がその返答を上書きした。
「どうしてここに?」
「一郎と、安藤と、小山田……あと宮沢もか。全員、俺の小隊の一員になったから、その連絡」
「は?」
 横から安藤が調子はずれな声を浴びせかけてきたので、俺じゃ役不足か? と皮肉を投げかけると、安藤は、少し口ごもった様子でそういうことじゃない、と返事をした。
「軍のことなんかよく知らないけどな、そんなに簡単に民間人を抱き込んでも大丈夫なのかって話だよ」
「宗一さんの遺志が生きてる、ただそれだけの話だ」
 現役時代に多々良宗一が築きあげたストレイジ関連の人脈は、ストレイジに関わった技術者を朝鮮から受け入れるまでに発展した。最後にはその発展が自分の首を絞めてしまったわけだが、その残り火が今もなお、息子である一郎を助けていることには違いない。岩波も小野も松木も……宗一との関係が、すべて一郎に関わる起点となっている。
「……それほど、信頼の厚い人だったんだろうな」
 何かを思い出したかのような渋面で、一郎は呟いた。
 
 
 
 
 
 
 倉庫のコンテナの一角に隠れて、千絵はうずくまるようにして座り込んでいた。咳が思うように止まってくれない。傍ヶ岳の時に比べて体調が安定しているとはいえ、まだ楽観視できるような体調ではなかった。乗船前にくだらない遊びの相手をした後でさえ、発作とまではいかないがしばらく気分が悪く、LAVの荷台では片隅でひたすら眠った振りを続けていた。今にも震えだしそうな……いや、実際には震えていたのかもしれない。それほどの悪寒が全身を包み込んでいたが、幸い誰にも気づかれることなく、今に至っている。
 少し寝させてと言った後に移ってきたこの場所で、口元を手で覆い、咳の音を皆に気づかれない程度に留めていると、遠くで扉の開く音がした。
 何を言ったのかは分からないが夏樹の元気な声が聞こえ、続けて聞こえてきたのは、武田の声。同じ艦だったのかと茫漠とした意識の中で考えた千絵は、うずくまった体勢からどうにか顔を上げた。同時に何気なく額に手を伸ばすと、尋常ではない量の汗が手のひらに付いた。続いて首筋にも手をかけると、汗が、全身を覆っていることにも気づいた。
 千絵はわずかばかりの間、袖で汗を拭っていたが、次第に汗を拭うのも面倒になり結局は冷たい壁に身を預けた。同時に、一郎たちへの言い訳を考え始める。どうして言い訳ばかり考えなければならないのだろうと幾度となく自問してはいるが、答えは同じだった。一郎たちに、余計な気を遣わせないため。
 誰かを気遣いながら戦闘をすれば、そこに待つのは死……。
 ――私は、容赦のない戦場の怖さを、日本に住む誰よりも知っている。
 重度の負傷兵などあっさりと見捨てられていく、あの戦場。最初はその異常さに戸惑いもしたが、二ヶ月も経てば、追い立てる銃弾の音や敵の気配に、全ての神経が注ぎ込まれるようになっていた。死というものに直面した動物の本能……ただ、生き延びたいと言う本能に従った自分。
 そうしていた十三歳の自分が正しかったのか、正しくなかったのかどうかは今でもよく分からない。だが、そうして戦場に身を置いていくうち、何も感じなくなっていった頭が、自分の……そして自分が犯した罪の被害にあった人々が送るはずだった人生を、大きく狂わせていったことは確かだった。
 敵味方も関係ない。ただ争いをするためだけに存在している場。そこに人間の力で干渉できるものと言えば、武力、ただそれだけ。それ以外のものは、邪魔にはなりえても、決して事態を好転に導くことなど出来ない……。今この船が向かおうとしているのは、そんな場所だ。
 戦場で戦う兵士としてなら、感情を失いかけていた、以前の自分の方が強かったかもしれない。だが、そんな場所だということは分かっていても、今更、元通りに手にしてしまった感情は、どうすることもできないだろう。千絵が心配していたのは、こんなにも不安定な自分に気を遣わせた結果、誰かが傷付き、死に絶えてしまうことだった。
 
 
「千絵、大丈夫か? 汗が……」
 逡巡する思考に入り込む癖は、未だに抜け切っていなかった。
「え、あ……なんでもない」
 一郎の気配に全く気づかず、突然浴びせられた声に驚いた千絵は、考えていた言い訳ではなく、咄嗟にそう言ってしまっていた。彼は不自然な千絵の動きに軽く息を吐くと、落ち着いた様子で問いかけた。
「発作じゃないのか」
「違う」
「……あの大男と戦ってから、か?」
 発した声色に動揺の色が出ていたのか、一郎は千絵の返事を気にせず、話を進めた。……どうしても、彼の前では物事を隠しきれない。彼と話をするときは毎回のように、後手後手に回らされている様な気がする。
「体調が悪いとか、発作が進行しているとかなら、隠さなくたっていいだろ。何があったんだよ」
「……隠してるわけじゃない」
 隠しているわけではないが、どう説明すれば分かってもらえるのかが分からないのだ。説明して昨日のような経過を辿るのは嫌だったが、かといって説明しないで過ごしてみても、昨日と同じような経過を辿ることになってしまうかもしれない。
「……話したくないなら別にいいけど」
 考える時間がうまく取れないから、会話というものはいつまで経っても苦手だ。
 
 
 
「……言葉に他意はないから、嫌な言葉があっても、誤解しないで」
 最終的に前者を選んでしまった千絵は、前置きをしてから、自分の考えていたことを出来る限り簡潔に話した。一郎は彼女が言葉に詰まってしまっても、焦らせるような行動はとらず、左肘に右手を添えたりしながら、ただ続く言葉を待っていた。
 
「言ってることは……大体分かった」
「本当に?」
「たぶん、ね」
 一郎はそう言うと少しだけ笑顔を見せた。
「……発作が酷くなっても、余計な気遣いはしないから、安心して」
「……うん」
「でも、助けられる範囲でなら、助けるから」
 
 
 
 
 
 
 武田と入れ違いに訪れた宮沢が置いていった国営軍の装備品を渡すために千絵を探していたのだが、見つけた彼女はどこか体調を崩しているらしかった。彼女の紅く上気した横顔――恐らく発作の影響だろう――をなるべく見ないようにして、理由を聞いた。
 助けられる範囲でなら、助けるから。理由を聞き終わって言った一郎に、彼女は静かに礼を返した。
 
「……そういえば、渡すものがある」
 一郎はコンテナに立てかけて置いた装備一式を引っ張り出した。
「国営軍の装備。俺たちは正式に国営軍に入ることになったから」
「国営軍に?」
「武田の部下として小隊に組み込まれるらしいんだ」
「そう……。分かった」
 国営軍の軍服と大きめの小銃、それに手榴弾などの各種装備品を眺め回して、最後に伏目がちな一郎に瞳を向け、言葉少なに了承の意思を伝えた。
 
「えっと……タオルか何かない?」
 着替えや装備の着用もあるだろうとその場を後にしようとした一郎を、千絵の声が引きとめた。少し恥ずかしそうに言った千絵に、一郎は小ぶりの白いタオルを取り出し、差し出した。それを見て、汗をだらだらと流す千絵はほっとしたように息を吐き、タオルを受け取った。
「ありがとう」
 
 
 
「千絵さんはどうだった? やっぱり発作?」
「……しっかり寝てたよ。特に体調も悪そうじゃなかった」
「本当に?」
 夏樹は少し訝るようにこちらを一瞥した後、寝てたならいいんだけど、と零した。
「お前らは千絵千絵騒ぎすぎなんだよ」
 いつものように険しい目つきの安藤は、面倒そうに言った。
 戦場では頼もしい彼だったが、その険しい目つきを四六時中向けられていては、気疲れして仕方がない。こういう空いた時間の安藤の相手は夏樹がしてくれるため、一郎は何も言わずその場に腰を下ろした。
「安藤くんは黙ってて」
 案の定、苛立ちを語気に含ませた声を、夏樹が発した。だが、彼女が怒ったとしても安藤は軽く流すので、言い合いにはならない。その点は安心して聞いていられる。
 それに安藤は、あれでいて意外と夏樹を気遣っているのだと思う。普段しっかりしすぎていて、何の不満も、不安も漏らさない彼女の心に積もった何かを、思い切り発散させてあげているような、そんな気遣いをいつも彼からは感じることができる。もちろん本人は、そのようなことは全く意識などしていないのだろうが。
「なら聞くけどな、千絵の心配ばっかりしてるお前はどうなんだよ。朝鮮に行くのがが怖くて仕方ないんじゃないのか?」
「別に怖くなんか……!」
 喚く夏樹と受け流す安藤の声を耳に入れながら、一郎は意識を睡眠へと向けた。これからしばらく、まともな睡眠はできないだろう。戦闘とは何ら関わりのない今、少しでも睡眠をとっておかなければならない。
 狂気と同化しかけていた自分は、たった二日前の自分なのだから。




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