4章終幕

「午前中に準備をして、夕方までにはあっちに着くようにする」
 国営軍の軍服に着替え、その上からコートを羽織った宮沢。彼の一言で、病院にいる全員は各々の荷物を抱え、病院を後にした。入院患者の他病院への転院作業を徹夜で終えた安藤は虚ろな目をこちらへ向け、すぐに逸らした。
 
 まず、宮沢の親戚の家に雪を預けたあと、一行は町外れにある商店街へと向かっていた。大規模なショッピングモールはその周辺を走る大規模な道路と共に破壊されてしまっていたが、ある町の商店街は無事だったらしい。破壊しつくされた市街を抜け、郊外へ近付くと、だんだんと人の足並みも増えてきていた。
 
 
 商店街は、異常なまでの混み様だった。特に、衣服や保存食を売る店には、まさに長蛇の列と形容するにふさわしいほどの人たちで形成されていた。千絵は人の群れを前にして少々尻込みをしたが、急に止まらないでください、と夏樹に押され、ゆっくりとその人込みにのまれていった。
 人込みの中で、これだけの大荷物を持った集団は、周囲の人間の迷惑になるらしい。近くに居たおばさんの迷惑そうな表情を感じ取った夏樹が、自分たちを呼び止めた。夏樹に言われた通り、荷物を建物と建物の隙間に押し込んだ宮沢たちが歩き始めたのを確認すると、千絵はその近くの壁に寄りかかった。
「表で待ってる」
 荷物が盗まれたら困るという口実の元、さらなる人込みへの介入を避けた。
 最後までこちらを見ていた夏樹が店内に消えたのを確認すると、そう言えばまだ朝食を摂っていなかったなと思い付き、入院中に縫い直してもらった背嚢の中から乾パンを取り出した。別段おいしくはないが、元々軍食などに大した期待は寄せてない。そのクッキー程度の大きさの乾パンを何度かに分けて食べ終えた千絵は、昇り始めた太陽が照らすはずの頭上が、急に陰りを帯びたように感じて、顔を上げた。
 自分より二周りは大きいだろう大男がそこにはいた。口を開こうとした千絵は、突然降ってきた拳を、完治したばかりの右腕で受け止めた。
 
 
「いきなり何……?」
 一撃目は、想像以上に軽かった。体重が乗せられていない。ただの一般人か、と早々に見切りをつけた千絵は、その男を見上げて、吐き捨てるように言った。その腕を余裕を持って振り払うと、男の目は丸く見開かれていた。
 彼が次の動作に入る直前、軽く体をいなすと、流麗な回し蹴りをがら空きの胴へと叩き込んだ。唾を大量に垂らした男の巨体があっという間に地に伏すと、相手が複数であることに、千絵はようやく気づいた。
 残った五人の視線を柳に風と流すと、周囲の客がその場所を避けるように自然と円状に広がったのも気にすることなく、一番手前に居た男の首元を引っ掴み、その場に引き倒した。そして、起き上がろうとした男に蹴りを入れる。
 なおも足を掴んで抵抗の意思を示した男に対し、千絵は殺気のこもった視線を送った。彼はそれだけで首をすくめ、抵抗を諦めた。
 その後の三人も簡単に片付けると、最後の男はナイフを取り出した。
「素直に荷物を寄越せばいいんだよ……!」
 鼻息の荒い最後の男は、軌道が見え見えの刺突を繰り出し、千絵はそれを避けたついでに壁際から男の背後へ回り込む。
「……覚悟はできてるの?」
「は?」
 男は見る見る青くなっていく顔を千絵の正面に据え、くぐもった声を返事にした。
「それを持ったからには、死ぬ覚悟は出来てるってことだよね……」
 いい加減"子供の遊び"に付き合うことにうんざりしていた千絵は、そう言った。素直に内奥から滲んだ、本心だった。男はそうとは解釈しなかったらしく、雄叫びを上げながら千絵に突っ込んできた。
 承晩や狂気に比べれば、それは酷く緩慢な動作だった。男の腕を掴んでナイフをあっさりと取り上げると、逆に男の喉下にそれを押し当てた。動脈を断つような回りくどいことはせず、首ごと掻っ攫うつもりで力を込めると、腕を誰かに掴まれた。
 
「何があった?」
 一郎の声が耳に届くと、千絵は徐々に周囲の景色が色付いていく様な感覚を味わった。戦闘が終わったときの、あの感覚。
「……荷物を、盗られそうになって」
 小さな声で零した千絵は、男をその場に寝かせ、一郎の視線を受け止めた。
「……殺そうとしなくても」
「私も殺すつもりはなかった。……でも、お遊びみたいにナイフを使って、命を奪おうとしてるこいつが、許せ……なくて」
 宮沢が男たちに立ち去るよう促してるところを視界に入れながら、千絵は言った。
 一郎がもういい、とでも言うように千絵の肩を軽く叩き、のびている大男を引きずると、逃げようとしている他の五人に向かって、放り投げる様な動作をし、男は地面を横滑りした。相変わらず、どこにそんな力があるのかと思わせるような転がり方だった。
「ほら、次は食料品買わないと」
 何事もなかったかのように荷物を持った夏樹が歩き出すと、すねに付いた砂埃を払い、後に続いた。好都合なことに、千絵にとって畏怖の対象ですらある"群集"は、歩き始めた自分たちを避けてくれた。
 
 
 
 
 
 
 宮沢は小さく溜息を吐くと、会計で一万円札を二枚取り出し、お釣りを受け取った。
 意外と、千絵が一番のトラブルメーカーなのかもしれない。先程千絵を取り巻いていた群衆の動きが伝播(でんぱ)したのか、奇異なものを窺う視線がどこからともなく感じられる。宮沢はそれを甘受し、夏樹と二人で、両手に抱えきれないほどの荷物を店外へと運び出した。
「お待たせー……」
 せの字を言い終える前に安藤に荷物を押し付けた夏樹は、鞄をもう一度持ち直した。
 安藤が反抗する間も無く、彼女は歩き出していた。
「次は小樽に行くんですよね!」
 無駄に元気だと感じたのは自分だけだろうか。だが、元気ではあるけれど……決して楽しそうではない。こういうのを空元気って言うんだっけ、と考えながら、宮沢は目的地への方向が合っていることを確認すると、最後尾を歩く千絵の後ろに付いた。
 
「……なにか持つ?」
 千絵の顔がこちらを向いていなければ、聞き流してしまっていただろう。そんな声量だった。
「じゃあ、これお願い」
 缶詰が大量に入った袋を数袋持っていた宮沢は、そのうちの二つを遠慮なく渡すと、千絵はそれを受け取った。ほっそい腕だな……と声に出して言いそうになるほど華奢な腕は、その二袋をしっかりと支えている。
「……前は、ありがとう」
「前?」
「……前」
「ああ、最初に会った時か」
 後から千絵が工作員だったという話を聞いて、後悔していた、そして責任を感じてすらいた、あのときの軽挙。そのせいで夏樹や一郎、安藤などが危険な目にあった。
 本当は、敵がその辺で死んでいたって構わなかった。どうなろうが関係ない。それでも助けたくなったのは……何でだろうな。自分でも分からない。
「あれは……ただの気まぐれ」
「……そう」
 不機嫌な声が出た。軽挙を恥じる心と、助けた後の千絵の行動に対する憤りを感じる心。まだそれは釈然とせずに宮沢の中でくすぶっていたらしい。自分にしてはやけにしつこい感情だった。
 ただ、少し寂しそうに言った千絵に、自分と変わらない感情の存在を確認してしまうと……あまり強くは言えなかった。
「まあ、助けた分はしっかり働いてもらうけど」
「うん」
 少しだけ声が大きく感じられた。顔からは感情を読み取りにくいが、声の変化から読み取ればどうにか会話は成立しそうだった。
「……あのとき助けて貰えなかったら、たぶん、生きていることに、何の面白みも見出せないで、終わっていたかもしれない。そういう意味でも、感謝、してるから」
 こんな長文も話せるのか、などと考えながら千絵と話していると、先頭の夏樹と結構な勢いで離されてしまったので、慌てて歩く速度を上げた。千絵も小走りに彼らとの距離を詰めた。
 ――意外と、面白い奴なのかも。
 恐らく客観性を欠いていただろう武田の話を聞いていたときより、千絵への印象は、少なくとも"無感情で無慈悲"という印象からは格上げされていた。いちいち生真面目に考えることしかできないだけ……。そんな印象を、宮沢は感じずにはいられなかった。
 
 
 
 
 
 
 郊外から歩くこと数分。生々しい弾痕を刻む装甲を、軽く叩いてみる。恐らく、先月移動に使っていた車と同じ型のものだ。そのくらいは、素人の自分でも覚えていられる。
「走れるんですか、これ?」
「……たぶんな」
「ふうん……」
 宮沢が広い荷台に荷物を置くように言っているところを見ながら、夏樹は荷台に上った。少しでも不安が脳裡に宿ると、押しつぶされてしまいそうな閉塞感。その存在を確認しながら、一番運転席に近い場所に陣取る一郎の隣に座った。千絵は荷台の最後尾で片膝を立て、先程奪ったナイフをいじっていた。
「おはよ」
 そういえば今日は一度も彼と話してなかったなと思い、言った。おはよう、と言葉が返ってきたことに安堵して、正面に視線を戻す。正面に座る安藤は既に眠っていた。
 
 
 停車中は、信号の代わりに旗を振る警備員の姿が近くに見える。暇潰しにじっとその様子を眺めていると、その年配の警備員と視線が合った。そのまま目を逸らしても良かったが、毛玉の目立つマフラーを口元からどけて、お疲れ様です、と何となく声をかけてみた。彼は少し驚いた様子でこちらを見つめ、数秒後、彼が発したありがとう、という言葉が耳に届いた。こうしたときに他人との微かな繋がりを感じると、凄く心が温まる。
「……そういえば、どうやったら俺たちが輸送艦に? 宮沢の知り合いってだけじゃ絶対……」
 そんなやり取りをしていると、唐突に話しかけられた。夏樹は警備員に軽く頭を下げ、視線を一郎へ戻した。
「んーと……。船に入るときは、小野さんと私の助手ってことになってるの、兄さんたちは」
「助手?」
「これ、見て」
 夏樹はかばんから取り出したカードをひらひらと揺らして見せた。小野が軍医、夏樹が看護師で、以下、準看護師その一、その二、その三。
「岩波さんの認可らしいの。でも、待遇がいいとは思えないけどね。……倉庫とかかも」
「乗せてくれるだけで、いい」
「利用されてるだけかもしれないよ? 岩波さんはともかく、周りの幹部は……」
「……分かってる。でも、ここまで来たからには、知りたい。ストレイジがどういう末路を辿るのかを」
 どれだけ考えを変えさせようとしても駄目なのは、目を見れば分かった。
 そんな目標を捉えることの出来た一郎とは対照的に、夏樹は、全てを投げ出して、先程の警備員が見せてくれた、あの暖かい世界に戻ってもいい、いや、戻りたいと思い始めていた。貧しくても、辛くても、あの平穏は忘れられない。
 今更と思われるかもしれないけれど、こんな車に乗せられてしまうと、嫌でもこれから戦地に赴くという事実が、不安や疑問に変わり、自分の心を侵食し始める。なぜ自分たちが、戦地に赴かなければならないのだろう、なぜ人体実験の被害者であるはずの兄が命の危険に晒されなければならないのだろう、と。理由は分かっている。だが、理屈ではない。理解しがたい程、自分たちに対して暴力的な、現実への恐れ。そういったものが広がる。
 三人も家族を失って、まだ失わなければいけないの? 誰に対して問いかけるでもなく、自然と湧き上がる、この世界への不信感。
 
「それに、自分の為にじゃない、戦う理由を、見つけることができたから」
 軋轢の渦中にある心境を言葉にするタイミングを失って、一郎が言葉を続けた。夏樹は内奥に危うい考えを押し込み、無理に平静を保ち続けた。
「千絵さんのこと?」
「……そうかもしれない」
 二人を説き伏せた自分としては、それはそれで苦労が報われたはずだったが、同時に、自分のここにいる意味も、良く分からなくなったような気がした。自分の行動と自分の気持ちが、段々と矛盾していっている。
 千絵が支えとなりつつあると言うなら、自分は兄に何をしてあげられるんだろう。……発作の辛さも分け合ってあげられない、そんな自分が。
 ……それとも、もう私は、必要ない?
 今までになく悲観的な考えが、夏樹の中に鬱積しつつあった。
 
 
 
「……夏樹?」
 夏樹の表情に違和感を覚えた一郎が問うと同時に、車がゆっくりと停まった。
 周囲に視線を配っていなかった一郎は、車の進行方向を見据え、繋留されているイージス艦を遠くに見つけ、検問が行われているこの場の状況を把握した。
「夏樹、大丈夫か?」
「あ……うん。大丈夫。ちょっと車に酔っただけ。……ほら、早く降りよう?」
 いつもと変わらない声音と、許可証の提出を求める検問の兵士の大きな声に、一郎の発した言葉の余韻は吹き払われてしまった。仕方なしに、眠りについている安藤と千絵を起こし、自身は荷台から降りた。
 降りたとき、盛り下がった不安定な足場に気付いた一郎は、後に続いて降りようとする夏樹に手を差し出した。どこか複雑な表情で一郎の手を見つめた彼女は、少し迷った後にその手を掴み、ゆっくりと地面に足を下ろした。
「ありがとう」
 目を合わせずに、どこかぎこちなく彼女は言った。言った後すぐに許可証を取り出し、検問の兵士に渡したため、周囲から見ればそれほどの違和ではない。だが、一郎は少なからず奇妙な感覚に捉われ、彼女の横顔を見つめた。
 だが、一郎はそれ以上深く考えず、夏樹には安藤が付いているから大丈夫だろうと軽く考え、許可証を彼女に返した兵士に一礼すると、艦へ向かって歩き始めていた。




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