35

 朝起きると、まだ辺りは暗かった。
 宮沢は寒さで縮こまりそうになる体を律し、ベッドの脇に脱ぎ捨てられたスリッパを探し当て、ベッドから這い出た。雪は隣のベッドでまだ寝息を立てている。結局、夏樹に話を聞いてから眠るまで、ここに居座ってしまった。
 そのままの格好で待合室まで歩くと、やはりまだ誰も起き出してはいないようだった。仕方なしに外へ出ると、持ってきてそのまま放置していたバスケットボールが目に付いた。
 
 
 
 しばらくして、リングのない壁と戯れるのにも飽き、意外に多量にかいた汗を感じながら、宮沢は待合室に戻った。するとそこには夏樹がいて、窓口の出っ張りに座り、暇そうに足をぶらぶらとさせていた。
「どこ座ってんの……」
「あ、宮沢さん、おはようございます」
 スカートと形容することしか出来ないようなシンプルなスカートと、めちゃくちゃな英字がプリントされている灰色のトレーナーという服装の夏樹は、その場から飛び降りた。
「……それで行くつもりじゃないだろ?」
「まさか。ちゃんと着替えも用意してます」
 二人だけでまともに会話するのはこれが初めてだった。武田は成り行きで彼女らと行動を共にすることが多かったが、自分が最後に見たのは襲撃された後の白石陣でのことだったからだ。
 使わなくなった軍服をくれと頼み込む奇特な少女……という印象しか、宮沢はその時点では抱いていなかった。
「そういえば、あの軍服、どうした?」
「え? ああ、あれですか。昨日まで着てましたよ」
 どこで、と訊き返すと、街で、と、さも当然だと言うような声音に載せた言葉が返ってきた。だが、それが一般から見れば奇異な行動だとしても、死んでいった専衛軍兵士たちのことを考えてくれているのは伝わってきて、嬉しかった。
 ……守ってもらったことを、忘れたくないから。
 他にも方法はいくらでもあると思ったが、口には出さなかった。彼女の目は、有無を言わせぬほど真剣だった。
「別に、人の目なんて、気にしないんです。今までだって……。そう、今までも……そうやって生きてきたんです。閉鎖された空間で」
 宮沢の思考を先読みした言葉を言い切るまでは無表情を壁際に向けていたが、その後すぐに困ったように笑い、こんな話興味ないですよね、と夏樹は言った。ころころと表情が変わっていって、見ていて楽しい。
 
 だけど、こんな穏やかな時間も、今日で終わりだ。
 胎動する戦場が、大きな口を開け、日本と朝鮮を飲み込もうとしている。
 この場から逃げ出したい衝動を抑えながら、夏樹の話に耳を傾ける。
 ……誰かが、終わらせないといけないんだ。
 
 
 
 
 
 
 真際で弾けた反体制者の脳髄を浴びても、以前のように気分が高揚することはなくなっていた。全てあの狂気じみた男のせいだ。手の甲に付いた鮮血を舐め取り、脇で控えていた兵卒に向かって拳銃を放り投げると、淡々とした表情を浮かべて、牢を後にした。
 
 
 足を折られてから復帰するまで、二週間弱かかった。尋常でない速度で行われていく回復に伴う発作に悩まされ続けたが、その間は決して人前に出ることはせず、ひたすら耐えた。ただでさえ、女という理由で一般の兵士にとっては蔑視の対象になっているため、弱点を他人に晒すわけにはいかなかった。同じストレイジだった"あいつ"とは違って、自分には後ろ盾も何もない。
 ところが、ようやくその地獄から復帰してみると、今度は周囲の状況が一変していた。
 準南(ジュンナン)の指示で開発された新薬。発作に悩まされることがなくなった代わりに、その新薬を受け入れた数十名は、人間としての思考能力や自尊心を捨てることになり、ストレイジは完全な人間兵器として確立されてしまっていた。
 発作に四六時中苛まれ続け、命を懸けて祖国を守ろうとしていた気の良い仲間たちは、もういない。
 ……あのとき、承晩ではなく、あの男に助力していれば。
 そんな無意味なことを考えながら、加奈は支給される薬を片っ端から捨てていった。発作の間隔は短くなっていく一方だったが、そんなものに頼って理性を失うくらいだったら、このままの状態の方がいい。
 
 
 加奈は牢を出てすぐの壁に、もたれかかった。前の発作からの感覚は、六時間程度だった。
 胸の奥底の尋常ではない痛みを伴いながら心臓は締め付けられ、右半身は感覚がなくなっていく。最近では無秩序に襲い来る身体内部の崩壊に加え、幻影を見ることが多くなっていた。今まで殺してきた連中が自分を殺し返すという、くだらない幻影。
 この牢は、自分の管轄に置かれているので、滅多に人が通ることはない。呼吸が整い易いように軍服を胸元まで開け、目を思い切り閉じてそれらの事象に対する。どれほど追い込まれていようが、同胞を置いてひとり逃げたあいつ……小山田千絵に真意を問い質すまでは、絶対に諦めたりしない。
 
 人の気配を感じ目を開いていくと、先程拳銃を手渡した兵卒が突っ立ってこちらを見ている姿を、視界の隅に捉えることが出来た。割と最近、自分の配下に組み込まれた一般兵だった。
「何見てんの?」
「……いえ、何でもありません」
 今最も嫌悪する朝鮮語の代わりに、対日工作に対応するために学んだ日本語で話しかける。彼の華々しい遍歴を見れば、ある程度の訓練は受けている兵士だということくらいは分かる。
「だったらさっさと持ち場に戻れよ」
 さり気なく衣服の乱れを直しつつ、加奈は威圧的な口調で命令を飛ばした。
「了解しました」
「……孝徳。他の奴には絶対に言うなよ」
 遠ざかりかけた背中に、加奈はもう一度念を押した。
「……気管支の発作ではないのですか?」
 珍しく肯定以外の言葉を発した孝徳(こうとく)は、訝る様な視線をこちらに向けた。身長は三十センチ程度離れているので、見下ろされる形になっている。
「人体実験の……後遺症」
 様子見の間を開けた後、孝徳に視線を合わせた。
「……からかわないでくださいよ。そんな愚にもつかない噂、誰も信じてません。いくら新米だからって、その程度の区別はつきます」
 流暢な日本語から繰り出される言葉には、自分の知らない言葉も含まれていたが、人体実験なんてあるはずがないという認識ははっきりと感じ取れた。加奈は壁に寄りかかったまま苦々しい表情を浮かべ、その長身を見据えた。彼らには、これから使い潰されていくストレイジたちの姿が、"銃弾を恐れない勇猛果敢な兵士"に見えるのだろう。
「……理由なんか、どうだっていいだろ」
 これ以上話を大きく広げると、何も知らないこの兵士にまで危害が及びそうだと考えた加奈は、会話を断ち切るように、視線を反らした。
「……はい」
 
 
 
 加奈は痛みを表情に出す代わりに、肉に深く食い込むほど爪を立てていた。孝徳が遠ざかったことを確認して、右手を開くと、鮮血が溢れる手のひらを口へ近付け、血を啜る。傍ヶ岳の地図の裏に、千絵への挑発のつもりで残して置いた言葉。そして言葉どおり、あの時に得た血の感触と対比しながら、全然おいしくない、と一人でつぶやいた。
 
 ――屍体の血肉を分け合ってでも生き残ると、そう誓った仲間たちは、もういない。




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