34

 狂気は封じ込めていても、自分の中での怒りの感情は制御しきれない。自分は元々、そういう性質の人間だ。
 だが、千絵に対してまで手を出すとは自分でも驚いた。さらに予想外だったのは、実像以上に華奢な彼女の首周りが、あっさりと捉えられてしまったことだった。避けられるはずなのに。あのときの千絵がどういう表情をしていたかは……思い出せない。
 
 一郎は院長室の前に立っていた。
 安藤の話を聞いていた限りでは、この辺りに夏樹と千絵がいるはず……だった。
 状況が泥沼に入ってしまったような気がして、ドアノブに手を掛けようか迷っていると、眼前で扉が勢いよく開こうとした。扉が顔にぶつかる直前に手を挟み込み、その位置に留める。
「あれ……何してるの?」
「……千絵に、謝りに、来たと言うか」
 間近で弾けた声に驚き、準備段階だった頭が言葉を表現するまでに、数秒の時間を要した。
「遅いよ。今何時だと思ってるの? ……ま、いっか。私もやれるだけのことはしたから……頑張ってね」
 まっすぐこちらを見つめて言った夏樹は、五センチほど背の高い一郎の頭をくしゃっと撫で付けると、後ろ手に扉を閉めた。
 一郎は夏樹が伸びをしてから歩き出したのを一瞥して、溜息をつき、扉に向き直った。
「……入っても、いい?」
「……うん」
 部屋に入るとすぐ、暖房特有の空気が鼻腔を刺激した。
 中央に佇むストーブに、テーブル上で湯気を立てるお茶。そんな冬を感じさせる光景の中で場違いなTシャツに半ズボン姿の千絵は、毛布を肩に掛けて座ったまま、ソファーの左端に寄った。ここに座れということか……? 一郎は真ん中よりやや右の辺りに座った。
 
「ごめん」
 口を開くと同時に、どうにかその三文字を搾り出すと、その三文字は千絵の声と重なった。思わず左を向いて視線を合わせた一郎は、絡んだ視線に耐え切れず、すぐに視線を逸らした。
「千絵が謝ること……ないと思う」
「……そう?」
「うん」
「……そう」
 
 
 千絵が言葉を返したきり、何も言葉が思い浮かばなくなった。時計が妙に気になる。彼女の言葉には午前中のような棘が感じられなかったので、その間が痛くはないのだが、それでも十五分沈黙が場を包めば、気も滅入る。
 時計の針が午後十時を告げると、一郎は我慢の限界といった風体で立ち上がり、よく考えもしないまま声を出した。
「……ちょっと、付いて来て」
「……いきなりどうしたの?」
「いいから」
 一郎はそう言って、部屋を出た。
 
 
 屋上に行けば、少しは考えもまとまるかな、と思った。特に根拠は無かったが。
 戦争が終わってからは一度も足を踏み入れていないが、人と関わるのが大嫌いだった一郎は、小さい頃から、屋上が見せてくれる景色が好きだった。中学校の部活の様子や、駅前での署名活動など、自分が関わらずに人々の営みが見渡せるその場所が好きだった。そして、その景色を見ながらなら、どうにか考えをまとめられそうな気がしたのだ。
 一郎は閉ざされた屋上の扉に掛けられた南京錠を、足元に隠してあった鍵を差し込んで外し、手に取った。
「……いいの?」
「うん、俺はここが一番落ち着くから……。この南京錠を使えば、外からも鍵を掛けられるし」
 階段の二段か三段くらい下の所から訊いた千絵にそう答えると、一郎は扉を押し開いた。
 千絵を通してから、南京錠を扉とサッシの間に差込み、外側から鍵を掛ける。
 
「寒くない?」
 振り返ると、鍵を掛ける動作の間に、千絵は腰の辺りまでの高さしかない鉄柵に手を掛け、眼下の街並みを見渡し始めていた。煌々と辺りを照らす電波塔の光に染められた横顔が赤く影を落とし、その表情は読み取れない。
「大丈夫」
 歪に切り揃えられた後ろ髪を風で靡かせながら、相変わらず寒そうな服装の彼女は答えた。朝鮮で年中戦っていれば、ある程度の寒さなど、意に介すことはないのだろうか。
「夏樹から聞いた? カルテの話」
「……うん」
「あの、さ……。夏樹に何言われたか分からないけど、千絵は……別に自由にしてもいいから。いつ死ぬか分からないんだから、無理に俺なんかに付き合わなくても。俺、人と話すことが苦手で、どうしても伝えられなくて、今日みたいに、千絵に嫌な思いをさせることもあると思うし……」
「……ねえ。一郎は。私のことを仇敵の娘だと、信用なんか出来ない奴だって、そう思っているのに。なのに、どうしてそんな心配をするの?」
「それは……。本当に、ごめん。あの時は……ようやく自分に精神を取り戻せたばかりで、早く、休ませて欲しかったんだ」
「……だから、その態度が嫌だったって言ってるの」
 ……あれが原因か。
 あのときの自分の態度を思い出し、ようやく合点のいった一郎を他所に、千絵は容易に目を合わせようとはしない。仕方なく彼女と少し距離を空けて、自分も柵に手を掛けた。
 そこから見渡す景色は、やはり以前のように、とはいかなかった。半壊したビル、全壊した家屋、家を失いテントや屋外で生活する人々……。中学などは、避難場所として指定されてしまっているため、子供たちが走り回っていたグラウンドは見る影もない。
「……この景色、どう思う?」
 一郎は自然とその言葉を千絵に投げかけていた。
 あまりに一方的な破壊。今回の戦争は、本当に一方的過ぎる。
 日本が何をやった? この光景の先に、朝鮮と日本の両国に、何が残るって言うんだ?
 だが、その一郎の思いも、彼女の経験からしてみれば、常識以前の問題だった。
「……別に。これより酷い光景、朝鮮で見慣れてるから」
 淡々と言った声に、一郎は再び黙り込もうとする。
 しかしそれでは院長室にいたときと状況が変わらない気がしたので、とりあえず千絵が視線を合わせてくれるまで、彼女をまっすぐ見つめ、話しかけていることにした。
「これより酷い光景なんて想像できないけど……。村とか集落とかは、どういう状態だった?」
「……まともな家がなかった。どこの家も何かしらの欠陥はあって、水も、食料も、服も、靴も、全然足りなくて。それを、軍が弾圧して、更に搾り取っていたから……」
 声が湿り気を帯びている気がしたが、依然として視線は合わせようとしない。
「それは……確かに、ここよりは酷いかもしれない。けど……。そこには弾圧という理由が在る。でも、この景色には、決定的に、理由が足りない。……朝鮮が一方的に打ち込んできただけじゃないか」
 陰りを帯びた表情が一瞬だけ電波塔の赤色灯から開放され、雲に隠れた薄い月明かりが彼女を照らす。そんな千絵に少しの間見惚れていると、彼女は突拍子もなく視線をこちらに合わせた。
 驚いた一郎が赤くなっていく顔を隠そうと視線を逸らすと、今度は千絵が視線を外さなかった。
「……そんな理不尽な世界で、一郎はこれからも、生きていくの?」
「……まだ生きがいは見つからないけど、とりあえず生きてくよ」
「……そうだよね。一郎には、住む場所も、国も、ある。希望もそのうち見出せるかもしれない。……私とは違う」
 いつもはどこか遠くに存在している彼女が、珍しく同年代を思わせる表情をしていた。そんな彼女を一瞥する。
 夜なんだからばれやしない、と顔の熱さを気にしないようにしながら、一郎は彼女の正面に視線を戻した。
「……希望が見出せないって、今から決め付ける気?」
「分からない。でも今は、死にたくないけど……生きていることも、楽しくないのは確か」
 生きているのが楽しくない。すっかり自分たちとの生活に馴染んだと思っていた彼女の言葉に一郎は少なからず息が詰まる思いを味わった。一郎はその言葉にひるまず黙って千絵を見返すと、声が聞き取りやすいよう、少し歩み寄って距離を縮めた。
「この戦争が終わっても、私たちは生きていかなきゃならない。でも、私の中では、この戦争を終えた後に……発作とか、人の死とか、辛いことを乗り越えた後にある未来が……どうしても、具体的な色を帯びてこない」
「それは俺も同……」
「違う! 一郎には夏樹や安藤君が傍に居る。でも、私にはもう、何もない……! この戦争が終わったとして、発作が直ったとして……私は、何をするために生きていけばいいの……?」
 彼女は非常に感情的になっているようだった。自分が言ってしまった言葉たちが、彼女の心の中の何かを、突いてしまったのかも知れない。いつもはつっかえながら紡ぐ言葉も、今夜は嫌に饒舌で、はっきりと聞き取れた。
「でも、それは自分で探していくしか……」
 特に上手い慰め方も思いつかなかった一郎は、簡単な言葉を千絵に投げ掛けようとしたが、柵に掛けた左手を、軍服の袖越しに掴まれ、その言葉を途中で止めた。
「私には、本当に、本当に何も残ってない……」
 千絵は今までにない表情をしていた。
 左手を掴むその右手を振り払うことも出来ずにただ立ち尽くしていると、彼女は続けて言葉を発しようとしたのか口を開きかけたが、すぐに閉じた。
 
 今までの千絵だったら、夏樹の話を聞いても、別にいつ死んだって構わない、くらいは言い切ったかもしれない。しかし今は、人体実験がもたらす死への恐怖を感じていたり、生きていく理由を見つけられないことに焦っていたりする。
 それは、彼女が少しずつ人間らしさを取り戻していることの、何よりの証明だった。その変化に、一郎の胸中で千絵に対する好意と強く併存していた哀れみの思いは、消散しつつあった。
 
 
 
 
 
 
 自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
 生きていることがとにかく怖くて、辛くて、不安で……。今までに経験したことのない気持ちが混在していることが、自分の感情を再度戸惑わせていた。
「ごめん、変なことばっかり言って……」
 自らが発した言葉で増幅された不安に、思わず掴んでしまった一郎の左手から手を離す。この表情をこれ以上晒したくないと思った千絵は一郎に背を向け、見渡す景色を変えた。
「……そこまで無理に、考え込むことはないと思う」
 彼はその場から動かず、言った。
 そう言われても、悪い方向へ考えてしまうことは止めようがない……と思考回路に閉じこもりそうになる自分を許さずに、彼は言葉を繋げた。
「生きている意味が見つからないのは、俺も同じだから」
「……さっきも言った。一郎には帰る場所も、国もあるじゃない……」
「そうじゃない。……生きている意味っていうのは、たぶん、そういう事じゃ、ない。……帰る場所があるのは確かに心のよりどころになるよ。けど、そこには責任もあるし、しなければならないこともあるだろ? そこに属すれば必ずしも生きていく意味が見つかるってわけではないと、俺は思う。帰る場所があってもなくても、体の栄養を満たすものさえ、吸える酸素さえあれば、人間は生きていける。そして、生きているなら、そこから何をするかは、自分で決められる。千絵が考えているほど、未来は閉ざされてないと思う。
 でも、それはストレイジの治療法を見つけてからの話。この戦争が終わったら、なんて、今から考えたって仕方ないと思わない? 心配するとしたら、ストレイジの治療法は見つかるのか、この戦争が終わることなんてあるのか……だよ」
 所々言葉を考える間を取りながらも、彼は最後までしっかりと自分の意見を言い切った。彼に背を向け、逃げるようにその言葉のひとつひとつを聴いていた自分に対して。
 一郎は、基本的には誠実な性格なのだろう。常に精神が不安定だとしても、他人に対する思いやりや気遣いが、言葉の端々に滲んでいる。不安が少しばかり融解していったような感覚が心に沁み込んで行く。
「……その言葉、信じてもいいの?」
 素直にすべてを認めるのには抵抗があったので、少し嫌味な言い方で零した。自分たちの声が支配する空間で、遠くに虫の鳴き声が響く。
「どの部分を?」
「私たちの未来は……閉ざされていない」
 自分に言い聞かせるように、一字一句を噛みしめるように、ゆっくりと言った。
「……信じていいよ。それだけは、はっきりと言える気がする」
「分かった。信じる。絶対に、何があっても」
「そこまで言われるとなんだか自信なくなりそう……」
 少し小さくなった一郎の声を受けて、千絵は振り返り、彼に向き直った。
「……今日は迷惑掛けて、本当にごめん。でも、いろいろ吐き出せて、楽になった」
「……えっと。もう、怒ってない?」
「怒ってないよ」
 少し伏目がちに視線を合わせた彼に、千絵は自然と笑いかけることができた。
 
 
 
 
 
 
 屋上から続く階段を下りると、夏樹は正面の壁に寄りかかって少し顔を俯けていた。
「……別に待ってなくていいのに」
 声を掛けると、夏樹は驚いたように顔を上げた。
「あ、ううん。ついさっき来たところだし……」
 夏樹は眠そうに目を擦りながら、言った。自分を待っているときに眠るのは夏樹が普段からよくやっていることだった。彼女はどんなに仕事で遅くなっても、先に布団に入って寝たいたりはしない。……その代わりに、壁に寄りかかって寝たり、床に座ったまま眠っていたりする。
「千絵さん。上手く話せた?」
 夏樹の視線が自分の後ろにいる千絵を捉えていたので、一郎は夏樹の脇を通るときにどこで寝ればいい? と訊くと、いつもの部屋、という言葉が返ってきた。そして自分に言葉を返すと、すぐに千絵と話し始めた夏樹。
 そういえば、夏樹が同姓とまともに話しているところを見たのは、中学以来では千絵が初めてだった。楽しそうな彼女の笑顔が、一郎にはとても新鮮に感じられた。
 
 
 あの部屋、とは小野先生が自分たちのために空けてくれている部屋のことで、他の入院客はその部屋の存在自体を知らない。居候していたときは、いつもその部屋で寝起きをしていた。
 スライドドアを開くと、以前と変わらない位置に、ベッドとテレビがあった。先程安藤に連れて行かれた部屋は一階の入り口に近い部屋だったが、やはりここが一番馴染み深く、落ち着いて眠れそうだ。
 適当なベッドに入って、布団を被る。
 一時的に取り戻すことはあっても、睡眠時すら自分の意識が保てなかった一郎にとって、一ヶ月ぶりの睡眠だった。
 すると、洗濯したてのシーツとは別の、どこか甘い香りが鼻先をくすぐった。誰か寝てたのか、と思って首を巡らせると、表札には小山田千絵の文字が差し込まれていた。
 ……千絵の匂い、か。
 一郎はそれを意識してしまい、少しの間浮ついた心地を味わったが、それはしばらくすると安心感へと変わり、一郎を睡眠へと誘って行った。




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