33

 トレーナーを抱えて、千絵は立ち上がる。
「宮沢君も来ない? 小野医院」
 一郎と喋らずに済む方法を考え始めていた千絵は、雪と宮沢がいてくれればどうにかなりそうな気がしたので、なるべく自然を装って言った。
 バスケをしている最中や、その後の疲れが意識を支配している間は、何も考えずに済んだのに、こうして帰るときが近付くとどうしても考え込んでしまう。
「あー……。うん、迷惑じゃなければ」
 千絵の表情を一瞬窺った宮沢は、少し言葉を濁した。
「どこ行くの?」
 宮沢は不思議そうに自分を見上げた雪を抱き上げた。
 
 
 
 
 
 
 どこ行くんだ、あいつ……。
 病院の二階にある院長室で椅子に座り、小野が今までに診たストレイジの資料を読み込んでいた安藤は、ガラス越しに見えた千絵を注視する。彼女が去った後も、しばらくその場を見つめていたが、あいつの奇怪な行動は今に始まったことじゃないなと思い直し、資料に目を戻そうとすると、今度は帰ってきたばかりのはずの一郎の姿まで、病院の玄関に確認できた。そこから動くつもりは無い様子だったが。
 その挙動を確認した安藤は、ストレイジの資料を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
 
 
 短い螺旋階段を降りて階下に着くと、刺すような太陽の光が両目を射った。
 少し苛立って目を背けると、その先にある待合室は、薬品の匂いで満たされていた。薄いマットの敷かれた歩き心地の良い床に、夏樹が抱えた消毒液の瓶から、液体が滴り落ちている。
 ため息を吐いて、それらを一つ一つ拾い始めた安藤は、流れ続ける消毒液の先に、一枚の紙を見つけた。拾い上げると、それは医療用のカルテだった。
 そこに書かれた文字を順に追い、読み進めていく。
 最後まで読み終えた安藤は、その紙を握りつぶしたい衝動に駆られた。
 
 
 
 
 
 
 目が合った。
 すると千絵はすぐに視線を逸らし、そのまま正面玄関に入ろうとした。
 一郎は、なぜか彼女の後ろにいる宮沢に、目配せする。彼もどこか雰囲気を察したようで、自分が千絵の腕を掴むあいだに、早々と病院の中に引き上げた。同時に玄関をロックする音が響く。
「……宮沢君」
 厚いガラス戸越しに軽く宮沢の方を睨んだ千絵は、溜息を吐(つ)くと、彼女の腕を掴んだままの一郎に向き直った。
「……何の用?」
 ひどく冷たい物言いだった。
 感情のかけらも感じられないような……そんな物言い。
 とりあえず謝ろうと思っていた一郎だったが、その言い方で苛立ちが再び膨れ上がってくるのを感じた。
「別に。千絵こそ何の用、ここに。もう戻ってくるなって言ったはずだけど」
 少し言い過ぎたという後悔はあったものの、未だに千絵が一方的に突っ掛かって来た理由は分からない。理由も分からず感情をぶつけられ、素直にはいそうですかと言えるほど、一郎は精神的な寛容さを持ち合わせてはいなかった。やや感情を抑えた自分の返答に、彼女は少しだけ表情と呼べる物を、その小さな顔に灯し、静かに言った。
「一郎に用があるわけじゃない。私は安藤君に自分のカルテを見てもらいたいだけだから」
「そうか。じゃあそのカルテは誰が持ってきたんだよ?」
「……別に持ってきてなんて頼んだ覚えはない。恩を売りたいだけなら最初から持ってこないで」
「何だよその言い方……。大体、千絵が初めに吹っ掛けて来たのが悪いんじゃないのか? 俺、何か気に障るようなこと言ったか?」
 語尾に怒りが滲むのを少しだけ抑えて、言った。理由が分かることを期待したからだ。しかし、いくら言葉が分かるとは言っても、幼い頃から朝鮮に馴染んだ千絵が、日本人の機微を汲み取る謂れはなく、帰ってきたのは先程よりも大きい怒りだった。
「あれだけ無神経に言葉を返されたら、誰だって……。みんなに迷惑かけて、なのに帰ってきて当然みたいな態度で……。そういうのが、すごく嫌だった……!」
「だから、どうしろって言うんだよ! 次郎は俺のせいで死んだ。戻ってくるのに迷惑も掛けた。だからもう人と普通に話せない、自分の命は発作のご機嫌を伺います。そんな態度で生きていけっていうのか?」
 無神経な言葉……?
 少しの間考え込みそうになったが、記憶に蓄積された言葉は、脈絡なく次々に思い浮かんでは、消えていった。今考えることじゃない、とその思考を素早く中断した一郎は、自分が次郎のことを少しも気に病んでいなかったような彼女の口ぶりに、思わず声を荒げた。
「そんなこと誰も言ってない!」
 
 自分が声を荒げたことに千絵が怯んだかと思うと、今度は千絵が出した怒声に一郎が怯んだ。彼女はその隙に一郎に掴まれたままの右腕を大きく振り払い、小さな声で言葉を繋いだ。
「あなたが一人で突っ込んで人質になって、私は次郎君を助けることが出来なかった。でも、あなたを見殺しにすれば、次郎君は助けられた。この意味が分かる?」
 責めるような口調ではなかったが、責められるよりも嫌な言い回しだった。おまえのせいで次郎が死んだ。そう言わんばかりの言い回しに、一郎は千絵のTシャツの首周りを掴んで、正面玄関のガラス戸に、その華奢な体を勢いよく押し付けた。
「……俺が……俺が全部悪いって言うのか……?」
 激情に駆られた行動の割に、普段よりも落ち着いた声が発せられた。
 ガラス戸に頭を打ち付けたはずの少女は、そんな自分の顔を正面から見据えたまま、言葉を繋いだ。
「……それなのに、一郎は、そのことを少しも口に出す様子が無いから、苛々したの。一人で考えないで、吐き出して、共有させて欲しいって思ったから。……でも、あなたのことでそこまで悩んでも、私はあなたにとって、仇敵の娘でしかないんだよね」
 千絵が見せたのは、一郎に対する怒りではなく、寂寥の表情だった。その表情に面食らった一郎は、同時に、正面玄関に押し付けた彼女の体が支えを失い、後ろへ傾き始めるのを感じた。
 
 
 
 一郎の手が外れ、後頭部に衝撃が走ると、今度は別の衝撃が顔面に叩きつけられる。
「頭冷やせ、馬鹿が……」
 安藤の呆れ返った声と重なるように、千絵は軽く咳き込んだ。
 覆い被さるようにして倒れていた一郎はすぐに立ち上がったが、安藤に足の傷を蹴り飛ばされ、床に再び倒れこんでいた。
「……二人とも、こんなだったっけか?」
 その様子を見ていた宮沢が、小さな声で安藤に囁く。
「いや……何かあったんだろ」
 一郎の後頭部、千絵の顔面を捉えた水を吐き出したバケツを置き、いつの間にか持っていた注射器をくるくると回した安藤は、足の傷を抑える一郎の腕を取ると、手早く針を突き刺し、その中の薬品を注入した。
「こうでもしないと寝ないからな、今のコイツは」
 訝しげな視線を送る宮沢にそう答えると、安藤は一郎を担ぎ上げ、待合室の奥へと消えていった。
「……なんかあいつの治療は受けたくないな」
 彼を見送った宮沢は、安藤に一瞥されただけで足に引っ付いた雪を引き離しながらそう呟くと、千絵に視線を移した。
「ほら」
 待合室の床に落ちていたタオルを投げ渡す。
 千絵はそれを受け取ると、濡れた髪を拭き始めた。
「……言い過ぎた」
 倒れた際に切ったのか、ほんのり赤に染まった唇をタオルで拭きながら、少し考え込むような顔付きで零す。薄い唇から発せられるのは、酷く小さく、掠れたような言葉。宮沢はその言葉をどうにか聞き取り、訊き返した。
「……何があって、あんなことに?」
「えっと……。戻ってきて、その態度が嫌だった……というか」
「それだけじゃ分かんないって……」
 苦笑顔の宮沢を確認した千絵は、朝にあった出来事からの流れをそのまま話した。
 
 
「それは……どっちにも原因があると思う」
「うん……分かってる」
「……みんな、こんな状況でストレス溜まってるんだ、きっと。千絵も子供じゃないんだから、多少のものは我慢しないと……まあ、怒ってストレスを発散させるのも悪いことじゃないけど」
 宮沢がそう言うと、うっすらと表情が消えた千絵は、微かに視線を逸らした。
「……私、何か、おかしいかも。昔はもっと上手く感情をコントロール出来たのに……」
「それは千絵が変わっただけだと思う。上手く言えないけど……そう。やっぱり、その、昔が異常だったんだよ。戦闘の道具だった期間が長すぎたって言うか……。感情に流される……それが普通じゃないのか?」
 少しの沈黙が場を支配する。
「私はそうは……思えない」
 反応が一拍遅れた宮沢が次の言葉を紡ぐ前に、千絵は続けざまに会話を断ち切った。
「……ごめん、少し、ひとりで考えたい」
 
 
 
 
 
 
 千絵は何の考えも無いまましばらく院内を歩き回り、いつの間にか中庭の扉の前に立っていた。窓越しに少し陰りを見せ始めた空を見上げたが、構わず扉を押し開いた。やっぱり空の下が一番落ち着く、と感じながら、石造りの段差の上に座る。ここにいれば、誰かが扉を押し開かない限り、誰にも見つかることはない。
 誰とも話したくない気分だった。自分の頭で考えて、行動して、その結果がこれなら、指示に従っていただけの日々の方がまだ良かった。
 いまだじんとした痛みを発し続ける首を触ると、一郎の言葉たちが思い返され、"悲しさ"という感情がどのようなものなのか、改めて実感できた気がした。すると何だか目の辺りが熱くなってきたので、慌てて首筋から手を離す。
「馬鹿みたい……」
 そう、馬鹿みたいだ。何でこんなに必死になって馴れ合わないといけないんだろう……。今まで感じていた温かみも、優しさも、たった一言の言葉で、心から信じることができなくなってしまった。"父さんの仇の娘"? 自分の立場を見てはいても、本当の自分を見てくれてはいない、その言葉。それならそう思ってくれて構わない。
 あの夜に得た信用なんて、その程度のものでしかなかった。それだけの話。……そんな風に思っているなら、それで構わないはずだ。自分は朝鮮を裏切ったふりをして一郎たちの状況を報告していた裏切り者、そして最後に朝鮮まで裏切った、二度と誰の信用も得ることの出来ない人間だから。今更どうあがいったって、状況が改善されることなんか……。
 
 
 そのとき、後ろで遠慮がちに扉を開ける音が聞こえた。
「あ、いた……」
 夏樹の声だった。
「千……」
「……話し掛けないで」
 抑揚無く言い切ったつもりだった。今は本当に誰とも話したくない。
 千絵に近づく足音を発していた夏樹の足音は止まる。
 しばらくの沈黙の後も、彼女はその状態のまま動こうとしない。
 ……人となんて関わりたくないのに。
 次に話しかけられたら無視しよう、と空を見ながらぼんやり考えていると、夏樹が歩き出した。近付いてくる。
 無視という言葉だけを考えていた千絵は、直後の夏樹の行動に完全に翻弄されていた。
 脇腹の辺りを掴まれ、持ち上げられたのだ。
「わ、千絵さん軽い!」
 底抜けに明るい声がその言葉を伝えると同時に、地面に足が戻る。
 正面に回った笑顔の夏樹と視線を合わせ、何がしたいの? と不機嫌な声を出そうとすると、今度は正面からもさっきの動作を繰り返された。
「な、夏樹……!」
 どこか間の抜けた形で夏樹に抱きかかえられた千絵は、抵抗しようとして、華奢に過ぎる自分の体に改めて気づく。能力を使えばどうにかなりそうだったが、この程度のことに使うにはリスクが大きすぎるので諦めた。
 夏樹は少し足早に階段を上ると、そのすぐ近くにある部屋に入ったようだった。
 千絵は夏樹に軽く放られ、ソファーに体を沈み込ませる。
「ふう……寒い寒い」
 夏樹が部屋の中央に位置する古い電気ストーブのスイッチを入れたらしく、部屋に暖気が流れ始めた。
「千絵さん大丈夫ですか、はい、毛布」
 部屋の照明を付け、鍵を閉め、部屋と一体化した給湯室でお湯を沸かし……夏樹は、とにかく元気だった。
 
 
「……何か用?」
 一郎のときと同じ声音で言ったつもりだったが、ソファーの上で毛布に包まり、夏樹から差し出された昆布茶を啜っている中で言ってしまったので、夏樹に笑われてしまった。
「とりあえず、首の治療を。狂……じゃなくて、兄さんにやられたままでしたよね……?」
 上を向いていてください、と言われたので、その傷の痛みに多少の不安を感じていた千絵は、昆布茶をテーブルの上に置き、素直に上を向いた。消毒液を含んだ綿がピンセットを介して首を真横に伝い、痺れる様な痛みを残す。夏樹はその上に慣れた手つきで包帯を巻いていく。
「兄さんの言ったことは気にしないでくださいね。あの人、普段は優しいんだけど、結構短気なところあるから……」
「……今は止めて、一郎の話」
 自分でも驚くほど、硬質な声が発せられた。
「えっと……今から話すことは、そのこと、なんですよね」
 包帯の最後をはさみで切り落とした彼女は、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「あの、落ちていたカルテを安藤くんが勝手に持ち出して、小野先生と電話で話したりして調べていたんみたいなんですけど、実験に使われる薬品に、国際的に禁止されている朝鮮発祥の薬物とか、朝鮮に関連する独自の薬品が多く使われていたんです。予想通りというか。だから……やっぱり解決する方法は向こうにしか存在し得ないということでした」
「……それで?」
「ここからが千絵さんと兄さんに関連する話なんですけど……。このまま行くと、二人は数年以内に死亡する可能性が高い……らしいんです。薬物が余りにも複雑に合成されていて、人体への影響などを初めから度外視しているみたいで……。予測が出来ない、と言っていました。十年経っても死なないかもしれないし、明日死ぬかもしれない」
「………」
「私は兄さんを死なせたくありません。安藤くんも同じ考えです。だから……、志願兵の纏め役というか、そんな立場の宮沢さんに頼んで、それで、朝鮮行きの船に乗り込むつもりらしいです。うまくいくかは分かりませんけど……」
 夏樹は立ち上がって一つ息を吐くと、改めて千絵の真向かいのソファに座り直した。
「でも私は、小野先生の活動を手助けしなければならないので、一緒には行けないんです」
「……だから何?」
「……兄さんと、一緒に行って欲しい。あの国に」
「………」
「確かに、千絵さんは兄さんのためにそこまでする必要なんかありません。結局は他人……だと思うから。それに、もし私たちが情報を持って帰ることができれば、すぐに千絵さんにも抗体のようなものを作って差し上げることもできます」
 でも、と夏樹は言葉を区切る。
「……私の兄は、私が兄と認める人は、戦争に耐え切れる精神なんて、持ち合わせていないんです。それは、何があろうとそれだけは断言できること。情報を手に入れたとしても、それまでには完全に人格が破綻していると思う。今だって、十分に不安定です。見ていて分かりますよね?
 ……だから、兄さんを支えることが出来る人が、何があっても傍に居てあげられる人が、絶対に必要なんですよ」
 いくら夏樹が必要だと思っていたって、本人がそう思っていないなら仕方が無い。あの言葉がただの短気から出た言葉なんて、信じられるわけがない……。それに、彼の傍には"安藤君が居る"。迷いを断つかのように、口から飛び出したのは、そんな言葉だった。
「安藤くんは、そんなに気の回る人じゃない。……千絵さん、私が聞きたいのは、あなたの気持ちです。行ってからどうこうの話じゃなくて、あなたがどうしたいのか、っていうことです」
 言い訳がましい返答への、はっきりとした拒絶だった。
 千絵はもう、夏樹が年下の少女などとは思えなかった。完全に威圧されている。任務失敗の報告をした後の承晩の詰問などより、よっぽど返答に詰まる問いかけを、彼女は平然と放つ。
「夏樹……ひとつ、聞いてもいい?」
 何とか搾り出せたのは、その言葉だった。
「はい」
「……自分と近しい人を殺した人に対して、好感を抱いたことがある?」
「……絶対に無いです」
「でも私は……武田君の大切な人たちを殺した。何の考えもなしに、ただの道具として。そんな奴が、また誰かの親しい人を殺さない……なんて言い切れるの? 育った国を前にしたら、また裏切るかもしれないよ? 一郎の言う通り、あなたの両親や弟を殺したのは私の父親なんだから……」
「でも、私は、決めましたから。千絵さんを信用することを。あの夜に、全部話してくれたと信じてます。千絵さんはもう、自分が大切だと思える人のことを、傷つけたりはしない……。それで、敵からも守ってくれるんですよね、皆を」
 適当な言い方だと思った。だけど、そう思っても口には出さなかった。夏樹はそんなことを軽々しく口にする人ではないと、これまでの言動で十分に思い知らされていたから。だが、幾度か夏樹に感化されたからといって、一郎に対する気持ちが片付いた訳ではない。未だ燻る自嘲と憤りが、千絵に迷いを生じさせていた。そして何より、能力が無ければ、同年代の女子に簡単に押さえつけられてしまうような、そんな自分の弱さが……戦闘への恐怖が、判断に踏ん切りを付けさせてくれない。
 ここにいれば、少なくとも傍ヶ岳のときのように……性の道具にされかかることはないし、発作に苦しむことも無い。確かにそうだ。でも、ここに居るとしても何をしていけばいいのかが分からない。戦後から少し経っただけの民心が荒むこの街で、ひとり生きていく自信は無かった。
 ……やはり、自分に残されているのは、戦闘の中で生きる道だけではないのか。今更その戦闘を恐れてどうする? それに、自分が生きたいと思った理由は……。
「……はっきりしてください」
 夏樹の言葉に、逡巡を繰り返していた思考を、止める。
 
 
「どうしたいの? 千絵さんは」




inserted by FC2 system