「お前は父さんの仇の娘なんだ。信用なんて一生できるわけ無いだろ……! ……さっさとどっかに消えてくれよ」
初めて千絵が感情をぶつけてきて、驚きと過剰な自己防衛が相まって発した言葉がこれだった。他にも幾つか頭に浮かんだ言葉もあったが、その言葉を言った後は千絵の顔を見ることすら困難になって、その場から逃げた。
これだ。結局のところ、自分は何も考えてなんかいない。ただ自分がストレイジだということにかまけて、中にいる奴らのせいにして……。
もう、眠気なんか沸かなかった。
階段に座っていた身を起こし、意を決して玄関に戻った。
だが、そこにいたのは相変わらず眠っている夏樹だけだった。
先程吐いたばかりの自分の言葉に舌打ちをしてから、玄関の扉を押し開けた。
*
冷え冷えとした朝の北海道を、灰色に無地のトレーナーとハーフパンツで、グロックを弄りながら歩く。
――大切なときなのに、何やってるんだろう。安藤君にも、夏樹にも迷惑がかかる。
一郎はどうでもいいけど……とそこまで考えたところで、ふと空が明るんでいるのに気付いた。
いつにも増して綺麗な日の出だった。
哀しさに次いで現れた、怒りのようなものを帯びていた足取りを止め、ビルなどに邪魔されること無く現れた太陽を、真っ直ぐと見つめた。
そうしてしばらくのあいだ目を奪われていると、足にボールのようなものが当たった。
「ごめんなさい」
そう言って近寄ってきた少女に、拾ったボールを返す。
彼女は血のついた千絵の上着と、手に持つグロックを見て少し目を見開いたが、それについては何も言わずに、無邪気な笑顔で礼を言った。
「待って……」
そのまま走り去ろうとした少女を呼び止め、千絵は訊いた。
「怖く……ないの?」
千絵の問いかけに少女は振り返り、やはり笑みを零しながら言った。
「だってお姉ちゃん、優しそうな顔してるもん」
彼女の言葉に、千絵も笑みを零した。
「……一人で遊んでいるの?」
他意のない笑みというのは、今の千絵にとって心地の良いものだった。
思わず、自分から一歩近づいた言葉を掛けてしまっていた。
「ううん。さっきお兄ちゃんが買い物に行ったの」
「そう……」
「ねえ、戻って来るまでの間、お姉ちゃんが遊んでくれるっ?」
「え……あ、うん」
ボールを持った少女があまりにも楽しそうに言うので、千絵は思わず頷いた。
千絵がグロックを腰に掛けると、彼女はボールをつき始め、走り出した。どうやらこのボールを取れ、ということらしい。
ボールを取る。わざとらしく取り返される。その繰り返し。何が面白いのか分からないのが正直な気持ちだったが、少女の笑顔を見ているだけで千絵は楽しい気分になれた。
少女の息が上がってきたのを見計らって、千絵はボールを取った。
「少し休む?」
「うん!」
息の弾み具合とは裏腹に、大きく澄み切った返事だった。
適当な瓦礫を見つけて腰を降ろした少女の隣に、千絵も座る。取ったボールを弾ませながら、千絵は再び空を見上げた。
――千絵は、本当に空が好きなのね。
そんな声を想い出した。
自分にも、こんな無邪気な時期が、あったのだろうか。
ことん、と寄りかかってきた体に、千絵は視線を移す。
「可愛い……」
少女のさらさらとした髪を撫でる。
名前も知らない少女に、ここまで穏やかな気持ちにさせられる自分が単純なのだろうか。
……今は、そんなことは、どうでもいいか。
そんな自分がいることが不思議だった。
なんだか自分まで……。そう思ったときには、千絵は眠りへと引き込まれていた。
*
宮沢は、空が見えるほど崩落の酷いスーパーで、消費期限がとうに切れた食品の買い物を済ませた後、帰りの道を歩いていた。
日本海が荒れに荒れて、出航が伸びた……というのが表向きの連絡ではあったが、岩見沢のこの天候では裏を考えずにはいられなかった。ただ、日本海側の天気を知る術はないし、裏などを考えても自分に分かるとは思えない。結局のところ、指示には従うだけだった。
溝口さんにそのことを伝えたときはかなり恥ずかしい思いをしたが、雪の顔を見ていたら、延びるのも悪くないと思えるようになっていた。
「あれ……?」
思わず口に出していた。雪の隣に、誰かがいる。
専衛軍の中では余り視力のいい方ではなかったので、はっきりとは確認できない。少し心配になって、小走りで近寄った。
雪と寄り添いながら眠っていたのは、千絵だった。
声を掛けあぐね、千絵の足元に転がっているバスケットボールを手に取ると、先に千絵が目を覚ました。
瞼を擦りながら小さく声を漏らした彼女は、ボールを弄りながら視線を送る宮沢に気付くと、少し驚いたように目を開いた。……本当に少し。
「……何でここに?」
「その辺歩いてたら、この子が一人で暇そうにしてたから……」
千絵ってこんな奴だったっけ……。一目見て、そう思った。確かに夏樹の話では、自分がいない間に色々あったようだが、それにしてもこの変わり様は驚愕に値するものだった。戦闘が終わった翌日に武田を見舞いに行ったときには、昏睡状態だったから分からなかったが、どこか人を寄せ付けない雰囲気はすっかり抜け切っている。だが、相変わらず声は小さい。
「そっか……ありがとな」
「……この子、妹?」
千絵が雪に視線を移した。
宮沢はそんな千絵を横目に入れながら、宮沢は近くの壁から迫り出したリングへ向かって、シュートを決めた。
「そ、まあ妹って言っても、一郎と夏樹みたいな関係なんだけどな」
「ふうん……。宮沢君も、色々あるんだ……」
「……悩みなんてない風に見えた?」
「いや、そういう訳じゃなくて……。ごめん、私って言い方が強いから」
「あー…、別に気にしてないよ」
どこか人の反応を窺っているような、慎重な話し方だった。
一字一句に自信の無さが垣間見えて、宮沢は何かあったのだろうか、と感じた。
なるべく話し易いよう、大して聞きたいわけじゃないということを印象付けるために、先程壁に当たって跳ね返ったボールをシュートをしながら、軽い口調で理由を訊いた。今度も入った。今日は調子がいい。
「……何かあったのか?」
「……ううん、別に。……そのボールをリングに入れるのって、何か意味があるの?」
話を逸らされた。
だが、ここで問い詰めたら逆効果だろうな、と思い、千絵の振った話に返事をする。
「ああ、これ? バスケットボールっていって、スポーツのひとつ。……朝鮮にもあると思うけどなあ、バスケくらいは」
「……バスケ」
語感を確かめるように、千絵が繰り返した。
「知らないと思う」
「やると結構楽しいぜ。ほら、やってみろよ」
ボールを千絵に向かって投げる。
「利き腕は?」
「右……かな」
「じゃあまず、ボールを右手に乗せて、額の上あたりまで持ってきて」
「こう?」
「そう。で、左手を添えるようにして」
「こ、こう……?」
少し不恰好だったが、大体は出来ていた。
「そ……うだな。まあ、そんな感じで、あとは膝を使ってあのリングにボールを入れるだけ」
構えとは対照的に、綺麗なフォームで放たれたボールは、スパッという小気味の良い音と共に、リングの中に吸い込まれた。
「入った……ね」
「センスあるなあ……。この戦争終わったら、バスケやってみれば?」
「……宮沢君は、昔やってたの?」
「そう。昔はバスケばっかりやってた。専衛軍の大会でも、結構活躍してたんだ……いや、本当に」
「あはは、別に疑ってなんか無いよ。それより、もっと詳しく教えてくれない、このバスケっていうの」
……笑ってる。
宮沢は、やや戸惑いながら、再びシュートを放った彼女を見据える。
何がこの子の人生を、この子の狂った人生を修正しつつあるのだろうか。まあ、大体の見当は付いているが。自分も雪にとってそんな存在になっていければいいと思いながら、宮沢は、バスケットゴールを濡らす朝露、その朝露を照射した太陽光の眩しさに目を細めた。
バスケのルールなどを千絵に教えていると、自然と楽しくなってきた。勝負しよう、と言ってみると、意外なことに千絵が興味を示した。今は、実践的なルールに聞き入っている。
「三歩以上歩くのは禁止で、相手を押したり蹴ったり殴ったりするのもだめ。千絵が蹴ったりしたら俺もう歩けなくなりそうだから、それだけは辞めてください、お願いします」
「そんなことしないよ」
「分かってる。でも一応、一応ね……」
「……他に注意するルールは?」
「まあ、遊びだからこんなもんかな」
ボールを持ったまま、ゴールから離れる。
「ハーフコートはこのくらいか……この位置からやろう」
千絵は頷く。
「じゃあ、スタート」
掛け声と同時に飛び、シュートを決める。
「俺、外からの方が得意なんだよね」
千絵にそう言うと、彼女は薄く笑った。だが、目は笑っていなかった。
ドリブルをしながら、じりじりとゴールに近づいていく。千絵は初心者と思えないディフェンスだったが、今の自分には及ばないだろうと思った。右からの突破と見せかけて体を回転させ、左側から突破し同時にシュート。
だが、その動作は、千絵には通じなかった。宮沢のフェイントに屈さず反転した彼女の手に、ボールは弾かれる。すぐさまバウンドするボールに追いついた千絵は少しだけ得意げな顔をして、シュートを放った。ボールはリングにすら触れず、ゴールに吸い込まれた。
フェイントを見抜く目の速さは戦闘のときのそれだったが、その体の動きは、初めに会ったときに彼女が見せたものとは違っていた。
宮沢は久々にする本格的なバスケの興奮に、身を委ねる。
*
太陽が真上に昇っていた。
一ヶ月もの休息で、元のレベルには到底達し切れていなかった体は悲鳴を上げていた。いつの間にか脱ぎ捨てていたトレーナーに顔をうずめながら、千絵は倒れこむようにして休息を取っている。宮沢は寝転がった状態で雪と遊んでいた。
道行く人々は生気のない瞳で"それ"を見つめて、足早に各々の路を歩いていく。
宮沢と千絵と雪がいる、そこだけが異質な空間だった。
「どう、バスケは」
宮沢は相変わらずトレーナーに向かって突っ伏している千絵の隣に座り、話しかけた。
「疲れたけど、楽しい」
千絵はトレーナーから顔を上げて宮沢と視線を合わせると、端的に感想を述べた。
「それに、なんだか、どうでもよくなっちゃった」
「……何が?」
「ううん、なんでもない」
澄み切った、穏やかな表情だった。
本当に、なんでもない顔だ。
「もう……大丈夫なんだな?」
「何のこと?」
惚(とぼ)けたような口調で言い、彼女は笑った。