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 しばらく黙って歩いていると、割と平和な様子を保っている町並みが姿を見せた。倒壊したビルや店舗も目立つが、人の姿も幾らかは見受けられるし、歩くのに支障がない程度には道路が整理されていた。
「そういえば、今何時?」
「えっと……二時くらい。午前の」
「二時?」
「うん。私、帰ったらすぐ寝るからね」
 抱えた薬品類を落としそうになっている夏樹を一瞥してから、正面に視線を移すと、もう小野医院が視線の先にあった。そういえば中央公園は町の中央にあったんだっけか、と当たり前のようなことを考えながら、電灯の点いていない小野医院の正面扉を開ける。相変わらず千絵が起きる気配はない。
 慣れ親しんだ病院でも、ここまで暗いとどこがどうなっているのか分からない。電力供給が出来ていないのか、と夏樹に確認しようとすると、彼女は既に、待合室の長椅子で眠ってしまっていた。うっすらとだが、足元の薬品類は酷く散乱している様に見える。
 夏樹の疲労具合は確かめる必要すらないと考えた一郎は、仕方がなく手探りで進み、空いている長椅子に千絵を横たえると、自分もその隣に座る。
 千絵の規則的な寝息と、待合室に響く時計の音を聞きながらただぼうっと座っていると、徐々に視界が開けてきた。開けてきた視界がまず捉えたのは、正面にある鏡。そして、一郎はすぐにそこから視線を逸らした。着ている専衛軍の服の、あまりに赤黒い色。
 心底で何かが疼く感覚がして、再び暗い思考に囚われそうになった一郎は、立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。
 小さいころの夏樹が、怖がって通りたがらなかった趣味の悪い絵の前を過ぎ、割と広く設計されたトイレの扉を開ける。暗いのは相変わらずだったが、目が慣れてしまえば問題はなかった。十年近く暮らしていた場所を、そう簡単に忘れることなど、できはしない。
 血や汗を吸ってごわごわになった上着を脱ぎ、気を紛らわすために何度か顔を洗う。血の気のない顔と水分が入り混じり、どこか強張っていた表情は、徐々に元の様子を取り戻していく。
「狂気はいつも表情の使い方が荒いんだよな……」
 ひとりごとを呟きながら、皺が寄り、緊張と疲労に圧迫され続けた眉間を揉み解す。その際に目を閉じてしまい、即座に浮かんだのは、助けを懇願していたあの瞳。目元に溜まりかけた涙を、欠伸で誤魔化す。
 もう一度顔を洗い、シャツの裾で顔全体を拭いた。
 そして顔を上げると、鏡に映った男を睥睨(へいげい)する。
 同時に、その顔面を、思い切り殴りつけた。
 派手な音を立てた鏡が、全面に亀裂を走らせる。
 今、現実を見つめることはできそうになかった。
 
 
 拳に刺さったガラスを引き抜くために、待合室に戻る道筋を歩いていく。砕けたガラスの量とは対照的に、一郎の拳に留まっていた破片の数は、小さなものが数枚、といった所だった。
 病院の床に血液が垂れないように、脱いだ上着に丸めた腕は、冷静になって先ほどの行為への後悔が立ち上りつつある頭とは対照的に、出血という主張を続けている。
 待合室に達すると、退院した患者の写真が張ってあるクリップボードを、その手前の出っ張りに肩肘をついた千絵が見つめていた。
 自己嫌悪と負い目を抱きながら歩く、夏樹が床に置いた治療道具までの十数秒は、十数分のような重みを持っていた。黙って必要な道具を探し出した一郎は、千絵の後ろに位置する長椅子に腰掛けた。
 抜いたガラスを、椅子の上にひとつふたつと並べながら、その背中に声を掛けあぐねていると、突然千絵が振り向いた。
 視線が合い、薄闇の中でも分かるほど、動揺が空気を揺るがせたことを感じた一郎は、千絵が発する言葉を待った。だが、彼女は言葉を発さず視線を外し、ゆっくりと歩き始める。
 その様子を確認した一郎は、再びピンセットに視線を落とそうとした。だが、同じ椅子にふわりとした重みが加われば、そちらへ視線を遣らない訳にはいかなかった。
 椅子の端に座った千絵は、やはり言葉は発さず、正面に体を向けたままだ。
 何か言おうと口を開くが、言葉が喉に引っかかって出ず、結局何も言えずに、ガーゼに含ませた消毒液を右手の甲に付け始めた。
 
 
 消毒も終わり、特にすることもなくなった一郎は、重苦しい空気に耐えかねて、上着の皺を伸ばすために、それを一度だけ前後に大きく揺らすと、合わせて内ポケットから何かの紙が落ちた。
 一郎は目で追い、床に落ちた紙を取ろうと立ち上がった。
 しかしそれより先に、しゃがんだ千絵の手がその紙を捉えた。
 彼女は立ち上がると、一郎に紙を手渡した。
 久しぶりに聞いた彼女の声は、相変わらず聞き取りにくい声量だったが、その変わらぬ声に安心を覚えた一郎は、礼を言って受け取った。
 
 
「……傷は?」
 少しの沈黙の後、一郎は訊いた。
「平気だと思う」
「……それなら、良かった」
「……一郎は、大丈夫なの?」
「たぶん大丈夫」
「そう……」
 ぽつりと呟いた千絵を視界に入れ、一郎は再度長椅子の上に座った。
 どうやら、話す内容に困っているのは同じらしい。
「そろそろ寝たいんだけど……」
 話の流れを断ち切るように言った。
 このまま不毛な会話を続けていても何も変わる気はしなかったし、踏み込んだ会話をする……そのような面倒なことをする気力は、今の自分には無かった。この重苦しい空気を、千絵の肯定と解釈し、その言葉を発した。
「あ、待って……」
 体勢を崩しかけた一郎は、その声に動きを止める。
「何? もう話すことなんて無いと思うけど……」
 
 
 
 
 
 
 その態度に、千絵は苛立ちを感じた。
 無表情。感情を読み取らせない声音。
「そんな言い方……しなくても」
「……ん? 別に今すぐ話すことなんて……」
 一郎はそう言い、欠伸を噛み殺したような顔をこちらに向けてきた。
 この人は、義弟が死んでも、朝鮮の兵士を殺しても、安藤を殺そうとしても、何にも感じてはいないのだろうか。あの時ひとりで突っ込んで捕まったこの人を助けるために、自分は次郎を見殺しにして……。
「何、その態度……」
 自分のやったことが正しいのか、全く確信が持てずにいた千絵は、先ほどからそのことを言い出す機会を待っていた。話すことが無かったわけではない。ただ、会話に慣れていないからきっかけが掴めなかっただけだった。確かに寝ようとしたところに話しかけた自分も悪いが、この態度は酷すぎるのではないか。千絵はそう思った。
「何って……別に普通だろう? これから寝ようってところなのに……」
 なんだか肩の刺青が熱くなっていくような感覚がした。
 まるで空襲の中にぽつんと取り残された木造家屋のような、脆くて陰りを帯びたものが、徐々に心に染み渡っていく。最近もこんなことがあったか、と自問する前に、一郎を睨みつけていた。
「次郎が死ぬ前まであなたに助けを求めていたことも、あなたがいなくなったあと夏樹がたったひとりで生活していたことも、武田君と安藤君がどうにかあなたを助けようと話し合っていたことも、あなたにとっては眠気にも負けるような、そんな程度のことでしかないの?」
 一息にここまでの言葉が出てくるとは想定していなかった。言ってから後悔するような言葉を吐いたのは、いつが最後だっただろう……? 一度口を開くと、どうも止めることが出来なくなってしまうらしい。
 少し驚いたような表情をした彼の顔が強張っていくのを感じながら、千絵はいつもならすぐに逸らしてしまう視線を、彼に投げかけ続けた。
「そんなわけないだろ。……何だよ、いきなり」
「だったらどうしてそんなに平然としていられるの? あなたにとっては弟の死なんかどうでもいいことなの……?」
「……逆に聞くけど、何でそんなことを千絵に言われなきゃならないんだ? 大体、いつまでここに残ってる気?」
 冷静な口調で、表情を崩さずに、一郎が言った。
 口で敵うはずが無いのは分かっていたが、言わずにはいられなかった。
 あのときの次郎の顔が、目に焼きついて離れなかったから、言わずにいられなかった。
「……怪我が治るまで」
「もう直ったようだけど?」
 あっさりと返され、それは……と、反論しようとして口内に反響した言葉は、消え入ってしまっていた。
「……勘違いしてるんじゃないか? そういうことは、もう少し立場を考えてから言ってくれよ」
 それ以上先は言わないで。そう思っても、声が出ない。
 
 
 一郎がどこかへ歩き去ったあと、千絵はしばらくその場に佇み、しばらくして、血に濡れたトレーナーの袖で目尻をごしごしと拭くと、その体を正面玄関の扉へと向けていた。




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