30

 引き金を絞る音が嫌に大きく響いた。
 弾道は大きく逸れ、中空に放たれる。
 漆黒から狂気の右手を掴んだ夏樹を視界に入れながら、安藤は胸ポケットに入れていたスタン・グレネードをその場に転がした。敵の一人から奪っていたそれは、閉じた瞼の上からでも分かる強烈な閃光を放ち、一時的に狂気の視界を奪う。
 
 
 
 
 目を開いた狂気は、咄嗟に距離を置いて攻撃をかわした安藤の姿を探していた。
 だが周囲にその姿はなく、電球の切れた外灯が虚しく佇むだけだった。
「まだ認めようとしないのか?」
 残弾に余裕のあるグロックを声のした方向へと向け、放つ。
 続いて瓦礫の音がしたほうに視線を巡らせ、構える。
「お前、馬鹿だよ、本当に……」
 呆れ返った声に、狂気は苛立ち、もう一度撃つ。
「僕はずっと考えてた。お前の生まれた理由」
 三弾目、四弾目は鋭い火線を暗闇に描き、コンクリートに着弾した。
「自分はまだ死にたくない。人を殺したくない。でも、生きるため、守るためには人を殺さないといけない。"自分のため"に人を殺さなきゃいけない。
 でもお前は、嫌悪していた。自分から両親を奪った奴が犯した行為を、自分が行う事を、嫌悪していた。それじゃあ奴らと同じになると、考えていた」
「そんな話、誰が聞くか……!」
 深くなっていく闇に、安藤の位置が正確に掴めない。余裕を見せすぎたか、と舌打ちした狂気は、五弾目を牽制の弾幕として出鱈目に放つ。
「だがあのときは、殺すしかなかった。自分が銃を向けられて、それに対応する為には、手にしていたグロックを、使うしかなかったから。
 その矛盾を取り繕う為に、撃つ直前のお前は、新しい人格を作り出すなんて、馬鹿な真似をした……」
 声音がはっきりと聞き取れる距離になると、咄嗟に出したナイフが音を響かせた。
「狂気はお前なんだよ一郎……! いい加減に、認めろよ!」
 息の吹きかかるような距離で、安藤が言う。
 その言葉をきっかけに、狂気は内奥から膨れ上がる一郎の意識に押され始めた。
 
 
 
 
 あれほど殺傷への異常な執着を見せ、狂気という呼び名以外に考えられなかったその人格は、ほとばしらせていた威圧感を急速に失いながら、大きな隙を見せた。この傷に懸けるしかない。
 安藤は、包帯の取れていた左手に、容赦なくグロックを連射した。
 刺さっていたナイフを大腿から引き抜き、傷口が開いた感触をなるべく意識の外に追いやり、安藤は言った。
「本当は、お前も助けたいんだ、狂気……」
 一郎があの時人格を生み出してまで守ろうとしていたものは、紛れもなく、自分。
 そして自分に人を殺すことの醜さ、それを遂行する覚悟を教えてくれたのは、お前だった。
 手を打たれる痛みを味合わせている間に近づいた安藤は、一郎のこめかみを押さえてそのまま地面に叩き付けた。
 突然灯った外灯に、気絶した一郎が映し出される。
 
 
 これは根本的な解決ではない。
 これから先一郎が、再び自分の精神を制御できなくなる可能性も、充分にある。いつまでもこの馬鹿げた行為を繰り返さなければならない可能性も、充分にある。
 だとしたら、ストレイジに根源的な安寧をもたらすにはどうすればいいのか。
 
 風に煽られ、延焼を免れた草木が揺れる。
 自分の考えている方法しかないなら、非日常が再び始まろうとしている。
 安藤はその目に、最後になるかもしれない日常を刻み込んだ。
 
 
 
 
 一郎は、何気なく左手に視線を移した。……移すことが出来た。
 だが、その様子を見ても、いまいち状況が掴めない。
 どことなく浮遊感のある体を戒めるように足に力を込めてみる。
 そしてゆっくりと立ち上がり、視線を正面へ戻すと、小気味のいい音と共に、強烈な痛みが右頬に弾けた。
「……今ので許してあげる」
 夏樹が言った。
 公園に吹いた冷風に晒され、じんと痛む頬を擦(さす)った一郎は、どう答えていいか分からず、目を逸らそうとした。だが、夏樹の手に、視線を正面へと引き戻される。
「……精神の混同は? 狂気は消えたの?」
「……まだ違和感はあるけど、大丈夫だ」
「ならいいけど……」
 何気なく左手の傷を触った一郎を見て、ようやく異常に気付いたのか、突然話を中断した彼女は、その左手を取った。
「……動かせる?」
「全然」
「痛い?」
「かなり」
 一郎は淡々と答える。
「それなら、少しは痛がる表情を見せればいいのに……。なんでそう無表情でいられるのかなあ……」
「夏樹のビンタのほうが、痛かった」
「ふざけたこと言ってないでよ。待ってて、千絵さんのところから薬持ってくるから……」
 千絵さんのところから……と言う夏樹の言葉を聞いて、一郎はあの感触を思い出した。彼女の首筋を切る感覚。そしてその瞬間、大した感情の動きもなく、淡々と動きをこなした自分。
 そう。朝鮮軍とはいえ、数十人も殺した。もう人を殺すことに対する抵抗が、完全に失われかけている。
 一郎は、その感触を再確認した。
 
「痛っ……!」
 いきなりかけられた消毒液に、左手を思わず引く。
「また考え事してたの? ちゃんと消毒する前に声かけたのに」
「ごめ……」
 服装が暗闇でも分かる程夏樹の距離が近づき、謝った一郎は、彼女の迷彩服姿を見て、呟いた。
「何だその変な格好……」
 瞬間、左手を強引に引っ張られた。消毒液を拭き取る彼女の手に、力が込められる。
「っ……」
「別にこの格好が気に入ってるわけじゃない。……私を守ってくれた人たちを、忘れないようにしたいだけ」
 夏樹は正面から目を見て言う。
 一郎が伏目がちにその顔を見返すと、彼女は軽く溜め息を吐いた。
「ごめん、ちょっと疲れてて……」
「……いいよ、別に」
 彼女は外灯に照らされた頬を緩めると、自分で巻けると言った一郎の言葉を無視し、左手に包帯を巻きつけ始めた。
「……そういえば、安藤は?」
 呆れられていることは分かっていたが、安藤に傷を負わせそうになった後のことを聞き出したいという思いもあったので、訊く。
「帰った」
 夏樹は短く言葉を止めると、包帯の先端をはさみで切った。
「怒ってた……よな」
「ううん。怒っているっていうよりは……無口になったっていうか。真剣て言うのかな……」
「……真剣、か」
「それより、さっさと帰らない? ……寒いし、疲れた」
 左手の包帯をテープで止めた夏樹は、冷たくなった手をゆっくりと一郎の手から離して言った。
「……夏樹は、どのくらい待ってたんだ俺のこと」
 鼻水をすする彼女の頬は、よく見ると真赤に染まっていた。
「別に大した時間じゃない」
「鼻水垂らしながら言っても説得力ないよ。早く家に帰ろう」
「ごめん……家、もうない。帰るのは小野医院」
「え……」
「家賃払えなかった。だから、今は小野先生にお世話になってるの」
「そうか……ごめん」
「なんか私たちって、さっきから謝ってばっかりだよね」
 夏樹は笑いながら言った。
「……あんなアパートがなくなったって別に平気。そんなことはいいから、千絵さん背負って。さっき寝かし付けたところだから。たぶん貧血だと思うけど、体調悪いみたい」
「寝かし付けた?」
「傍にいただけだけどね」
 木陰で上着を掛けられて眠っている千絵を視界に入れた夏樹は、一郎にそう言った。
 一郎は千絵が目を覚ますのではないかと少し躊躇いながら近づくと、千絵は以前見たような規則的な呼吸を繰り返すだけだった。
 黙って夏樹から視線を外した一郎は、千絵を木に寄り掛けさせてからしゃがみ、背負った。それを見た夏樹は地面に置いてあった薬類を抱えあげると、出口に向かって歩き始める。一郎も、淡々と進んだ事象に違和感を感じながら、彼女のあとを追った。




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