心当たりのあるところ全てに行ってみたが、狂気を纏う一郎を見つけることは出来なかった。
安藤はその場に腰掛けた。焼き尽くされた中央公園の芝生の、僅かな焼け残りに仰向けになり、空を見上げる。空は曇っていて星一つ見えない。感傷も何もあったもんじゃないな、と悪態を吐いた安藤は、目を閉じた。
*
「いない……」
歩き回っている間に、辺りはすっかり暗くなっていた。電球の切れかかった外灯に蛾が群がるのを眺めながら、夏樹はため息を吐いた。
中央公園。あれだけの場所をテレビ画面に列挙されてしまえば、もう、ここしか思い浮かぶ場所はなかった。
狂気が生まれた場所。その要因となった場所。
「どうして……狂気が?」
ここ数時間、ずっと黙っていた千絵が、慮るような口調で夏樹に、問う。
「私も詳しくは……。ただ、兄さんが、初めて人を殺した場所ということは……確か、です」
兄さんが、人を、殺した。口にすると、何て重いんだろう。
職業上のこととは言え、人を殺した。
兄との間に、隔てられた壁のようなものを時折感じるようになっていったのはその時からだった。バイクに乗らせて貰っているときも、そこにいるのに、そこにいない。矛盾した感覚に戸惑いながら、過ごしていた日々を思い出す。
……人を殺すのって、どういうこと? 殺す人たちは、何を考えて殺しているの……?
意識してしまうと、千絵の視線にすら、嫌悪を感じそうになってしまう。
千絵さんは違うと分かってはいるけど……。心の中で謝りながら、夏樹は電球の切れた外灯に目の遣り場を求めた。
家族を失って以来芽生えていた、殺人と言う行為に加担する人々への無条件で冷たい、生理的嫌悪。あるいは兄は、潜在的な根底にやはり自分と同じような意識があって、その意識の中、他人を殺してしまったせいで精神のバランスを崩したのではないか……。
そこまで考えた所で、研ぎ澄まされた視線に射られたような感覚に襲われた夏樹は、瞬間的に背後を振り返った。
千絵も何かを感じたようで、夏樹に目で促すと、自らはナイフを逆手に持ち、周囲の警戒を始めた。
……この目。この目だ。
安藤や武田たち、自分と同じと思っている人たちが、相手を傷つけ、殺そうとするときに見せる、この目。
どうしたらそんな目が――。
夏樹は我知らず、千絵を見据えて後ずさりをしていた。
衝動的に。それ以外説明のしようがない。
千絵が何かを言ったようだったが、頭の中では、何度も想像し夢に見た、父と母が生きたまま焼かれる映像、さらには次郎が拷問を受け死んでいく様が再生され、視界は歪み、聴覚は何も捉えなくなっていた。そして体が平衡感覚を失い、何が何だか分からなくなる。いや、最後の平衡感覚を失ったと感じたのは、間違いだった。狂気に……兄に引き倒されたのだ。コンクリートの瓦礫に思い切り頭を打ちつけ、夏樹は世界が暗転していく様を、どうにか押し留めようとする。
*
「はぁっ、はぁ……」
ベンチの陰に腰を下ろしながら、安藤は必死に息を整えていた。強盗を追ってここまで来ていたものの、完全に立場は逆転していた。相手の運動量は半端ではなく、おまけにある程度の武装をしていた。
AKを白昼堂々掲げる馬鹿にしては、やりやがる……。
精一杯の強がりで動きの鈍りつつある足を叱咤し、その先にある噴水の陰に、手だけを出して威嚇射撃をする。追い込まれてもまだ直接狙えない自分を情けなく思いながら、安藤は間隔の空けられた場所にもう一つ設置されたベンチに同じく隠れながら、息一つ切らしていない一郎を捉えて目配せすると、瞬時に立ち上がり、全力でそのベンチを持ち上げた。
わざと大声を上げて、間を与えずそれを投げ飛ばしてから、二人組がこちらに気を取られている隙に、一郎が側面に突っ込む。今までの相手ならば充分に無傷で確保できたが、その内の一人は、一郎に銃を向けてしまっていた。
生命の危機、生への執着を強く感じたとき、一郎から、もう一つの性質を持つ人格が現れたのは、そのときだ。
安藤は、間近で何かが爆ぜた様な空気を感じ、目を見開いた。
こっちには気付いてないのか……。
仰向けに眠っていた身を起こした安藤は、腰にかけたグロックを取り、近くの木の幹に背中を預け、一呼吸置いてから、その場を覗き込み、状況を把握しようとする。
生命の危機でもないのに狂気に囚われてしまっている一郎を目の当たりにし、さらに、機械的な目をした千絵がそれをなんとか弾き返す様子を、半ば呆然と見つめた。足元にも何かあるようだが、暗くてよく見えない。
がら……。その際に踏んだ瓦礫の一部が、大きな音を立てた。
同時に飛んできた弾が肩をかすめる。千絵の攻撃を片手で捌き、グロックをこちらへ向けた狂気は、嗤う。安藤は、何かが弾けたようにあふれ出す記憶を押し込みながら、完全にあのときを再現している狂気に、自分への憎悪は少しも失われていない事を再認識した。
犯人二人を殺害してもなお暴走を続ける一郎に、もう一人の警備員と共に押さえにかかった、あのとき。相当な熟練者である先輩の鋭い蹴りをかわし、懐に潜り込んだ一郎は、発砲しようとした安藤にグロック17を向け、放つ。肩をかすめた弾丸に気をとられ、少しの間、本当に少しの間、銃を構え直す速度が遅くなり、同時にその目が捉えたのは、その左胸に赤黒い染みを携えた、先輩警備員の姿だった。
同じ手は喰わない……。そう思ってすぐさま銃を構え直した安藤は、千絵を置いて急速に距離を縮めた狂気に、完全に翻弄されていた。今自分が思っていたことは、相手も同じだった。先輩が死んだあの時のように、狂気の神経が多少なりとも殺人の愉悦へ向いていればどうにかなったかもしれないが、今度は全くといっていいほど、隙を見せてはくれなかった。
次に期待したのは千絵に対することで生じる隙。しかし、その千絵は狂気にやられたのか、首筋を抑えながら、倒れこみそうになる体を片手でなんとか支えている。間に合わない。舌打ちをした安藤は瞬時にナイフホルダーに手を伸ばす。しかし、ナイフの攻撃に対応しようとしたこちらとは対照的に、狂気は握り締められ、ぎしぎしと音を立てるグロックを安藤の顎に押し付けていた。
「オレの勝ちだな……?」
銃把を握るその手に、三年分の怨嗟を滲ませた"狂気"が、口元をにやと歪めた。
随分と、呆気なくないか……? すう、と顔から血の気の失せていく感覚を味わいながら、安藤は微かに怯えの宿った目を、狂気に据えた。