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 一郎に見せるつもりはなかった。
 小野はあの本を不用意に机の上に置いておいたことを、今更ながら反省した。
 三年前、一郎は両親を失った。自分の目の前で殺される瞬間を見た。
 突然刺された挙句、まだ意識がある中で火をつけられた両親の姿は、やはり一郎にとってはトラウマになっていたのだろう。本の一ページ目に印刷されていた親子の焼死体の写真を見てしまったことで、その記憶が鮮明に蘇ったのかもしれない。
 けれど自分はこれから、もっと辛い現実をあの二人に伝えなくてはならない。もちろんそんなことは認めたくはないが、あの雨が降るとしたら、それ以外に説明のしようがないからだ。
「夏樹、一郎を呼んできてくれないか」
 最悪の事態。だが、この歳若い二人が生き残ることが出来るならば、自分はどんな犠牲も厭わない。
 ……宗一、お前だったらそうするだろうから。

 
 
          ◆

 
 
 兄は自分たちが庭で遊んでいるときに、父と母が殺された現場に居合わせた。

 夏樹は突然家から飛び出した彼に引っ張られ、無理矢理走らされたこと程度しか、覚えていない。
 そして、現場に居合わせなかったことが、いまだに父と母の死を実感できない理由かもしれない。
 だが、例えそうだとしても、夏樹は一郎のような体験をしたいとは思わなかった。私だったら二人を連れ出して逃げるなんて、とても出来はしなかっただろう。それどころか自分の命すら失っていたはずだ。
 もしかすると、先程の写真であのときのことを思い出してしまったのかもしれない。そうだとしたら、自分はその思いを共有してあげることは出来ない。
  ……あの現場を見たのは彼だけなのだから。
 しばらく歩いているうち、夏樹は玄関から外を眺めている一郎を見つけた。体は外を向いているが、目の焦点はどこにも固定されずにあたりを彷徨っている。やはり心の傷というものはそう簡単には直らないものなのだろうか。
 

 
          ◆

 
 
 あの時、自分は父が突然の攻撃に倒れこんで嬲(なぶ)り殺しにされるのを、ただ見ていることしか出来なかった。
 倒れこんだ父と目が合っても、恐怖で体が動かなかった。
 いつまでも自分が突っ立っているせいで、今度は母が身代わりになって刺された。母は腹部を刺されても、一郎へ向かおうとした男の足を捕らえて離さなかった。
 そして男は、笑いながら、生きたままの母にガソリンをかけた。ライターの光が瞬く間に母を包み込む。涙が頬を伝わる感覚は分かっていたが、動けない。父のときと同じように、男と一緒に母が悶え死ぬところを見ているしかなかった。全身が燃え尽きるまで、ずっと。
 
 細かい状況は今となっては断片的に思い出すことしか出来ないが、あのときほど自分の無力を感じたことはなかった。
 専衛軍の誰かに助けてもらって気を失った後、目を覚ましたのは小野医院のベッドの上だった。
 自分が無傷なのを確認してからすぐに家に戻ったが、そこにはもう、家の中央にある梁と、コンクリートで覆われていた鉄筋がむき出しになった土台しか残っていなかった。その黒ずんで痛々しい姿をさらしている家を見ていた妹が、涙を見せなくなったのはあの日からだったか。
 その後の自分は、ただ強くなることしか考えていなかった。
 次の日からは、小野先生の家に同居することになった。小野医院はお世辞にも患者数が多いとは言えず、自分たちを食べさせてくれるので精一杯だったのは知っていた。"ストレイジ"のことも含め、どうして他人のためにそこまでするのか不思議だったが、そのときは深く考えなかった。
 二年間無事に通い続けて高校受験を目前に控えた時は、中学を卒業したらすぐ就職して、小野医院を出ようと決めていた。
 助けてくれた人の面影が頭から離れず、専衛軍に入ろうかとも思ったが、夏樹たちに猛反対されたので思い留まった。殺された父も専衛軍の一員だったからだ。
 専衛軍を諦めた一郎は、実技で受かれば学歴は関係ないという実力主義の警備会社への就職に焦点を絞った。他のクラスメイトが私立受験に必死になっているのを尻目に、空手の稽古や銃の扱い方の勉強、実際に銃を使ったトレーニングを毎日続けた。これは凶悪な犯人に対抗する為、民間の警備会社にも銃の携帯が許可されたから故の行動だった。
 この時も夏樹だけは反対したが、小野は承諾した。
 そして実技の試験で認められ、文句なしで就職が決まった後も、毎日が忙しかった。
 小野医院から自立する為、格安の賃貸マンションを探し出したり、仕事が終わったらすぐ家に帰って、夏樹の家事を手伝ったりした。残業をろくにせず、同僚たちからは白い目で見られていたが、家に帰るとそんなことはすぐに忘れられた。夏樹も人並みにおしゃれがしたい年頃だというのは分かっていたが、そこまで補える給料ではなかった。彼女はこの時も何も言わずにただ家事をこなしてくれていた。
 今、一郎は仕事で同僚たちよりも二階級上に昇進して、公私共に充実した日々を過ごしていた。少なくともこの日までは。
 
 
 
「ねえ……」
 一郎は、肩を叩かれてから呼ばれていることにようやく気付いて、顔を上げた。流れ出そうになる涙を急いで拭いて、すぐ後ろにいた夏樹に視線を合わせた。
「あの……あの時のことを思い出してるなら、あんまり自分を責めないで。私、だったら二人を連れて逃げるなんて出来なかったし……」
 そこまで言われてから、一郎は目を逸らした。
 諭すような目で話しかけてくる彼女の言葉は、今は聞きたくなかった。
「……でも、過去のことから必死に逃げ回っていても、何の解決にもならないよ。こんな困難、確かに今までにいくらでもあったわけじゃないけど、これからまだまだあると思う。その度に逃げ出してたんじゃ、いつまで経っても進歩出来ないと思わない? それなら、逃げる分のエネルギーを立ち向かうことに回した方がいい……気がする」
 無言を通す一郎に、夏樹は溜息を付いて、背を向けた。
「……ごめん、だから何だって話だよね。……そういえば、先生が話があるんだって」
 
 
 
          ◆
 
 
 
「発端は約百二十年前。そのとき日本は日独伊三国軍事同盟を結び、世界を敵に回していた。しかし、日本国が信頼していた当時無敵と称されたドイツは初めこそ優勢だったものの、連合軍を相手に徐々に押されていった。日本も破竹の勢いで戦線を広げていたが、自国の経済力を省みない作戦の連続に、次第に国内での制空権すら維持できなくなっていき、そして、一九四五年三月十日の東京大空襲、五月七日のドイツの降伏などが重なり、もはや戦争の継続は不可能となっていた」
 一郎たちに背を向けながら、彼は話を続けた。
「そしてここまで痛めつけられたにも関わらず、本土決戦などと馬鹿なことを考えていた軍部は、降伏勧告を受け入れずこの悲劇を招いた」
 先程まで一郎が見ていた冊子中のあるページを開いた小野は、一郎と夏樹に見えるようにそのページを折りたたんで差し出した。一郎はそれを手に取り、そのページに印刷してある写真を見た。
「雲が……」
「それが今日の現代の核の前身ともいえる原子爆弾の爆撃後の写真だ」
「……これが?」
「そして、それが巻き上げた大量の砂塵や煙が原因で、粘り気のある黒い雨が発生し、その雨に触れたものは……被爆した」
 夏樹はようやくさきほど止められた理由を理解した。同時に、ある疑問が沸きあがってくる。
「それが原因なら、なぜ今……黒い雨が降っているんですか?」
 あくまで予測の粋に過ぎないが、と切り出した小野は落ち着かない様子で院長室の出窓から外を見ながらこう言った。
「日本のどこかに核が落とされたということだ。それも、北海道にまで汚染が広がるような、大規模な核。……あくまで仮説に過ぎないが、そうでないと言い切る証拠がない」
 黒い雨を見ていた彼はゆっくりと電話の方へと向かい、どこかへと電話を始めた。
「つながらない」
 受話器を置いた彼は、電話の隣に置いてあるテレビのリモコンを手に取り、本棚に隠れるように設置された十六型液晶テレビに向けた。朝の一郎宅のテレビのように、ストーム画面が幅を利かせ、復旧する気配は全くない。
「これも、つながらない」
 この一連の動作は、一郎を不安に駆り立てるには十分だった。今すぐにでも否定したい衝動は強くなる一方だったが、残念ながら反論することはできない。そうでないと言い切る証拠がないのだ。
「……確率は?」
「ほぼ間違いないだろう。さっきも言ったが、反証が何一つないんだ。希望的観測に身をゆだねるのもいいが、最悪の事態を考慮して行動したほうが賢明だとは思わないか? 」
「俺たちは何をすれば……」
 小野はその言葉を待っていたかのように机の一番上の引き出しを開け、少し黄ばんだ書類を取り出した。
「二十年前に、一般市民向けに発行されたハザード・マップだ」
 中を覗かせてもらうと、有事の場合にどこへ避難すればいいのか、公衆電話のある場所はどこか、水飲み場があるところはどこか、トイレのある場所はどこかが一目瞭然に分かる詳細なマップが記されていた。
「この中で一番安全な場所……分かるか?」
 一瞬の間を空け、小野が続ける。
「時間切れ。ここだよ。専衛軍岩見沢駐屯地」
「専衛軍……?」
「……まあ、理由は後で説明する。今は聞け」 
 一郎は短く頷き、話の続きを待った。
「まず、駐屯地に着いたらここにいる……」


 彼が説明の続きを始めようとしたその時、病院内に悲痛な叫び声が響き渡った。




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